mardi 31 mai 2011

曖昧さに耐えること、そして理解することと判断することの峻別



昨日の朝、久しぶりに机の上の本をひっくり返してみた。そうすると、まだ手の付いていない小さな本が現れた。タイムリーなタイトルで中身も面白そうなので、ビブリオテークへの道すがらに読むことにした。この時期に顔を出すために隠れていたかのようだ。

『危機の時代にいかに生きるか?』

この7月で90歳になるお馴染のエドガール・モランさん (1921- ) が理解することについて書けば、パトリック・ヴィヴレさん (1948- ) は理解したことをいかに行動に翻訳するのかについて書いている。ここではモランさんの 「来るべき世界を理解する」 と題する文に触れた時に起こった化学反応を記録しておきたい。


危機になると不確実なことが増え、その解決のために尋問が横行し、最悪の場合には生贄を探すことになる。答えが出ないことに耐えられず、あたかも解決策が出たかのように振る舞い、自らをも安心させるためである。現在この世界で進行中のこと、そしてこれから起こることを理解するには、曖昧さや両義性がそこに付き纏うことに敏感でなければならない。二つの異なる、時に相反する真実があり、どちらが本当なのかわからないことがあるからだ。

アメリカは独裁者を放逐する民主主義国家のイメージとともに、人間の殺戮をも厭わない帝国主義国家の側面を持っている。16世紀以降のヨーロッパもアフリカやアメリカ大陸を侵略し、植民地にし、奴隷労働を強いた。しかしまた、ヨーロッパは人権や友愛という概念を生み出した唯一の場所でもある。残忍なヨーロッパと文化的に洗練されたヨーロッパのどちらが真実の姿なのか。残忍な側面があるからそれを全否定するだけでよいのか。それで国や人間を理解したことになるのか。歴史の過程でこの両極を揺れ動いている可能性もある。その両極を理解した上で、そこを突き抜けた理解に向かわなければなければならないのではないか。モランさんは、この曖昧さ、両義性を認めるという意味で、デカルトであるより、パスカルでなければならないと言う。



Bartolomé de Las Casas
(Séville, 14741– Madrid, 1566)


残忍なヨーロッパの時代にも偉大な精神は存在した。その一人はカトリック司祭で、侵略・残虐行為が横行していたアメリカ大陸のインディアンにも魂があることを教会に認めさせた行動の人バルトロメ・デ・ラス・カサス (1484-1566)。もう一人は自らの思索を仔細に記録したモンテーニュ (1533-1592) だ。モンテーニュはこう言っている。

「他の文明の人間を野蛮人という。そしてわれわれは人食い人種よりさらに残忍なのだ。彼らが敵の死骸を食べるのに対して、われわれは生きた人間を殺すのである」

グローバリゼーションにもこの両極が表れている。コミュニケーションの発達などにより、外国の文化にも以前とは比較にならないほどの量的、質的豊かさで接触が可能になり、多くの利益を得ている。一方、経済、利益、アメリカというヘゲモニーの下に繁栄と貧困ではなく悲惨(貧困には耐えられても悲惨に耐えることは難しい)という両極を生み出している。グローバリゼーションには最良のものと最悪のものが綯い交ぜになっていると言えるだろう。

世界の政治状況においては、例えばイスラエルとパレスチナ、アメリカとイランというような二項対立が見られる。善悪の対立で世界を見て、正しい理解に辿り着くだろうか。しばしば一方の立場から発せられる情報だけに基づいて考えることで事を理解できるだろうか。同じ人間でも状況の違いにより異なる行動に出ることがある。われわれの体も条件が変われば同じ物質に対して異なる反応を示す。つまり、理解のためには状況を掴むことが決定的に重要な要素となる。そこまで注意しなければ、ものの理解に達しないことを意味している。

モランさんは言う。理解について話す時、理解しえないものについての理解であることを前提にしなければならない。なぜなら、間違い、他者に対する無関心、文化の無理解、神・神話・思想への囚われ、自己中心主義、無知などが常に付き纏うからである。そして、理解することへの恐怖、そんなことは知りたくないという感情もある。しかし、人殺しがどういうことかを理解することとそれを認めることとは別のことである。認めたくないので知る必要がないと考えるのではなく、判断する前に理解することがどうしても必要になる。

換言すれば、理解と判断の峻別とその順序を常に意識していなければならない。同時に記憶に留めなければならないのは、知にはそもそも限界があること、つまり不確実性こそこの世の摂理であることだろう。それこそ20世紀の知が明らかにした最も大きなことでもある。



Galet
de Jean-Louis Raina


改めて自問する。

事に当たって先ず理解しようとしているだろうか。物事の両面から見た情報を元に理解しようとしているだろうか。特に危機の時に起こりやすいネーム・コーリングに堕し、あるいはそれに影響された一方的な情報を元に判断していないだろうか。哲学的態度とは意見を言うことではなく、フィリップ・ブルギニョン (Philippe Bourguignon, 1948- ) の言葉を借りれば、この世界に当たり前のものはないという立場から意見を戦わせることであったはずだ。

"Il ne faut rien accepter comme acquis." (Philippe Bourguignon)
「既定のものとして何ものをも受け入れるべきではない」

すべては知り得ないことを前提に理解しようとするところからすべてが始める。その姿勢が徹底しないところでは何も解決されないし、同じことを何度でも繰り返すだろう。


dimanche 22 mai 2011

新しい世界への道、あるいは Habits of thought との闘い



先週、パスツール研究所でフランソワ・ジャコブFrançois Jacob, 1920- )とジャック・モノー (Jacques Monod, 1910-1976)によるオペロン・モデルの発表から50年を記念した下記のシンポジウムがあり、参加した。考えておくべきことがあったので、書き留めておきたい。

EMBO Workshop on
the Operon Model and Its Impact on Modern Molecular Biology
(May 17-20, 2011; Institut Pasteur)

The review article entitled “Genetic Regulatory Mechanisms in the Synthesis of Proteins“ or in brief the “Operon model” by François Jacob and Jacques Monod was published in the Journal of Molecular Biology on June 1961 (J.Mol.Biol. 3, 318-356, 1961).


シンポジウム最終日最初のセッションにはポール・ナースさん(1949- )とリズ・ブラックバーンさんという2人のノーベル賞受賞者が登場し、濃密な時間が流れた。ブラックバーンさんは冒頭カバンの中から取り出したフランソワ・ジャコブさんの La Statue intérieure (1987) の英訳本 The Statue Within: An Autobiography (1995年版) の一節を読み上げ、今日のテーマはこれですと言ってから話し始めた。それは研究をする時にしばしば戦わなければならない "habits of thought" (ジャコブさんの言葉では、les habitudes de pensée)。ある枠に嵌った考え方の癖のようなものだろうか。一つの事実が明らかになった時、それまでの固定化された見方・考え方でその事実を説明しようとすると、本当のことを見逃すことがある。その固定観念から自由になることによって初めて発見に繋がるということを言いたかったのではないだろうか。彼女の主張は自分の研究室から出てきたデータを元にして話を進め、しかもそれがいくつも出てくるので説得力がある。2009年に賞を貰ってから時間が経っていないせいだろうか。研究に向けての集中力が一番高い印象を持った。

同じセッションでオックスフォード大学のキム・ナスミスさん (Kim Nasmyth, 1952- ) が話した中にも類似の現象があった。1900年にメンデルの法則が再発見され、1902年にはメンデルが示した遺伝を支配するものは染色体にあるとする染色体説ウォルター・サットン (Walter Sutton、1877-1916) とテオドール・ボヴェリ (Theodor Boveri、1862–1915) により提唱された。しかし、この考え方がすぐに受け入れられることにはならなかった。その説明としていろいろあり得るだろうが、こういう説明をしている人がいる。細胞が違うとその機能も変わってくる。しかし、どんな細胞を見ても染色体は同じ姿をしている。同じ姿をしているものが違うことをやっているはずがない、と考えたのではないかというもの。観察されたものがすべてで観察されていないものが存在する可能性はその精神活動の中にないということだろうか。キムさんはもう一つ興味深いことを言っていた。それは、オペロンの研究はフランスのデカルト的論理とイギリスの経験主義的なやり方 (wet experiment) がうまく調和した極めて稀な例であるというもの。英仏の長い歴史が醸し出すものをそこに感じていた。

この日のトップバッターは細胞周期の専門家ナースさんだった。研究の内容を評価することはできないので何とも言えないが、こんなことを話していた。このデータはわたしが人生を掛けて細胞周期の調節に大切だと言ってきた分子が実は必須ではないことを示すものである。これを2度ほど言っていたのではないだろうか。そして、別のプロジェクトでは調節に必須である可能性のある新しい分子が出てきているというお話も出ていた。

上の御三方のお話を聞いて印象に残った一つは、発せられる言葉が精神活動の状態を示し、しかもそれが体と一体になって活動しているように見えたことだろうか。ブラックバーンさんは強調したい時には爪先立つようにリズムを取りながら体を上下に動かして話していた。また、ナスミスさんが強調する時は、細身の体を折り曲げるようにしながらお腹から大きな声を出していた。それぞれのプレゼンテーションには集中力と緊張感が溢れていて、質疑応答もリズム感があり、聞いていて気持ちがよい。こういうやり取りを見ていると、科学とは単に事実を見つけるだけではなく、その後の処理の仕方が重要になることに気付かせてくれる。そこではここで言うところの 「科学精神」 を十全に発揮しなければならないだろうし、デモクラティックな姿勢も求められるだろう。これらの精神的な側面がわれわれの中に根付くようになるまでには一体どれくらいの時間がかかるのだろうか。




Habits of thought は学問の世界だけの問題ではなく、われわれの営みすべてに当て嵌まるだろう。目の前に現れたことをそれまでの囚われの心から離れて見直すこと、それが新し い未来を生み出す原動力になるはずである。それを可能にするためには、われわれの考え方は最初からある枠に嵌った癖があることを意識していなければなら ず、その上でその考え方と戦わなければならない。そんなに易しいことではないことは、現実をみればよくわかる。Habits of thought からの脱却、あるいはその必要性を多くの人が共有することが閉塞感を解くひとつの有効な方法にならないだろうか。

ところで、日本の書架には The Statue Within 1989年版があるはずだが、じっくり読んだ記憶がない。ビブリオテークの方に聞いたところ、非常に感動的な本だったと言っていた。昨日原著にざっと目を通してみたが、ジャコブさんを取り巻く環境が見え始めたこともあるのか、非常に興味深いお話が次々出てくる。いずれその美しいフランス語の中に身を委ねてみたいものである。

The Statue Withinグーグル・ブックスでも読むことができる。
日本語訳は 「内なる肖像―一生物学者のオデュッセイア」 (1989、みすず書房)。


samedi 21 mai 2011

ヴァレリー・ペクレスさんの挨拶 - 最後は哲学と文化の問題か



先週、パスツール研究所でフランソワ・ジャコブFrançois Jacob, né le 17 juin 1920 à Nancy)とジャック・モノー (1910-1976)によるオペロン・モデルの発表から50年を記念した下記のシンポジウムがあった。

EMBO Workshop on
the Operon Model and Its Impact on Modern Molecular Biology
(May 17-20, 2011; Institut Pasteur)

The review article entitled “Genetic Regulatory Mechanisms in the Synthesis of Proteins“ or in brief the “Operon model” by François Jacob and Jacques Monod was published in the Journal of Molecular Biology on June 1961 (J.Mol.Biol. 3, 318-356, 1961).


2日目の夕方。公務の都合になるのだろうか、予期せぬ時間に高等教育・研究大臣のヴァレリー・ペクレスさんの挨拶が入った。挨拶の前にフランソワ・ジャコブさんがゆっくりとした足取りで会場に入ってきた。フランスの大臣の話を聞くのは今回で三度目になる。最初は、生命倫理の会での保健省大臣のロズリン・バシュロー・ナルカンさん。それから世界哲学デーで聞いた国民教育相のリュック・シャテルさん。いずれのお話も感心して聞いていたが、今回も例外ではなかった。

生命倫理とフランス語で暮れる (2010-03-29)
「世界哲学デー」 を発見 (2010-11-18)

ペクレスさんはこちらに来た当時、アメリカ化とも言えるような大学改革を推し進めていて、テレビで見かけたことがある。弁が立ち、押し出しもよく、大学にとっても手強い相手だろうという印象を持った記憶があるが、それ以来だ。4年前の印象では小柄な方かと思っていたが、長身で颯爽としているのに驚く。本当に押し出しがよい。会場の空気が引き締まる。

フランス語で話し始めた冒頭からフランスの医学・生物学の哲学者ジョルジュ・カンギレム(1904-1995)の引用が入り、暫くの間彼の生物学の哲学について語っていた。そして、オペロン・モデルの発表は単に分子生物学の幕を開けただけではなく、われわれの生命に対する考え方を変えた哲学的な革命であり、人類の思想史に深い刻印を残すものでもあったと続けた。さらにジャコブさんに向かい、あなたは自らの発見について深く明晰な省察をし、そこから哲学的、倫理的、政治的な意味を見出し指摘した真の哲学者であると称賛の言葉を贈っていた。政治家がこのような称賛の仕方をする国であることに驚いていた。

途中、フランスの大臣はフランス語で通すことになっているのですが、とほんの少しだけ冗談めかして語った後、英語でも続けていた。これからの課題として、遺伝、遺伝子を超えた機構(エピジェネティックス)、脳すなわち思考、幹細胞、老化、統合生物学などを挙げ、同時に明晰な精神による幅広い思索が人類のために求められることを指摘していた。科学のリズムが変わってきている中、フランスの活力や世界における指導的立場を維持するために研究面での充実を図る決断を数ヶ月前にしたことなどを話してお話は終わった。

今回も日本の政治家からはなかなか出てこないようなお話を聞くことができた。これをどう見ればよいのだろうか。ペクレスさんも忙しい政治家なので、こなしている側面もあるだろう。そうだとしてもそれを支える人の教養の違いになるだけである。思索を刺激することのない当たり障りのない言葉が並べられるだけでは、それでなくても閉塞感が溢れていると言われる国内の空気は淀む一方だろう。正確な言葉、核心を刺激する言葉は世界を拓く力を持っているはずである。言葉ではないと言ってやり過ごす道もある。しかし、結局のところ、まず言葉を磨くところから始めなければ未来は開けないのではないだろうか。幅広く論理的に考え、正確な言葉を使うことは哲学の領域で重要になることである。この点は、昨年の 「世界哲学デー」 においてリュック・シャテル大臣がこれからのリセ教育において強調すべきだとして話していた。科学においても、われわれの日常においても哲学がその根を支えているのでなければ、われわれの文化は底の浅いものにしかならないのではないか。そんな想いとともにペクレスさんの挨拶を聞いていた。