lundi 26 octobre 2015

一学徒として ---- 再び

7 fevrier 2008



少々古い言葉が出てしまった。自分の中では全く古くはないのだが、、。この言葉が出てくるのは、学生時代に「きけ わだつみのこえ」を自らに引き付けるようにして読んだ印象が残っているためかもしれない。昨日、後期最初のクールにENSまで出かけた。こちらに来てから若い学生さんに混 じって行動しているが、全く違和感を感じない。そのことに驚き、ずーっと不思議に思っていた。環境は大学や研究所なので日本にいた時とは変わりないが、その環境に全く別の立場で入った時にはそれを受け取る精神状態に大きな変化が生れるのが普通ではないだろうか。しかし、そうはなっていないのだ。

そこで思い当たった理由は、今の精神状態は実は昔と何も変わらないためではないか、というものだ。つまり、これまでの研究生活を通して、いつも学生のつもり でやっていたのではないか、ということである。専門家になるのではなく、あるいはその道を無意識のうちに拒否し、いつもアマチュアでいることを欲し学ぼう としていたのではないか、ということに気付いたのだ。そう考えると、違和感など感じようがないのである。そのことは、学問の世界から何かを学び、そこで一 家言持とうとするよりは、大きく言えばこの世界から何かを学ぼうとして歩んできたということに繋がるのかもしれない。そしてその世界がほとんど無限に拡がっていることを意識する時、一学徒として生きるのは至極自然な行いである。

ただ、ひとつ忘れてはならない重要な点は、そういう人間を受け入れる側のソフトだろう。彼らの態度を見ていると自らがどのような格好をしているのかを全く感じさせないのだ。先日のMarek Halter さんの怒りの源泉にもなっている異物として対処されるのではなく、認知されているという印象が強いためかもしれない。そうでなければ、いくら一学徒としてなどと言ってみても違和感で溢れかえることになるのは眼に見えている。まだ半年も経ってはいないが、今のところ私の生き方に合う環境にいることだけは言えそうである。



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lundi 26 octobre 2015

7年後、この観察は実に正確なものであったことが分かる

この精神状態は学ぶ上で非常に貴重で有効であった

そのことをはっきり意識することが、学びをさらに進める力にもなっていたのではないか

それはこれからも有効なはずである

いつまでも忘れないでいたいものである

そんな感慨が湧いてきた冬時間が始まったばかりのパリである







dimanche 25 octobre 2015

アンリ・ベルクソンの鬱に抗する哲学 ---- 再び

26 janvier 2008


Henri Bergson
(1859-1941)

昨年9月にパリに来て以来、書店の哲学コーナーが生き生きしているのに驚くと同時に、非常に嬉しくなっている。自らを鼓舞するために、毎日であったり、ある間隔を置いて出かける。精神がしっかりしていない時であったりすると霊感を得ることはできないからである。女子学生が何人かで語り 合いながら、何冊もの哲学書を抱えて買い物をしている姿を見るだけで元気になる。もちろん、年配の方が眼鏡をずらしながら求める書を探している姿も味はあるのだが、、。

数週間前のLe Pointにベルクソンの特集が出ていた。彼の作品はまだ読んだことはないが、当然のことながら大学の話の中にはよく出てくる。今回PUFから彼の全作品が新たに出ることになったのを機に、その編集に関わったリール第三大学、ENSで教えている哲学者のフレデリック・ウォルム(Frédéric Worms)さんがインタビューに答えている。

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ベルクソンは初期にはスターのような扱いであったにもかかわらず、その後完全に忘れ去られる存在になった。彼のコレージュ・ド・フランスの講義は社会的な出来事であったし、レジオンドヌール勲章は最高位の大十字(grand-croix)を受け、ノーベル賞も受賞している。また、バカロレアで最も取り上げられている哲学者である。

彼の哲学の中にchoquantな(不快さを呼ぶ?)要素がある。一つは、確立された科学が現実を覆い隠しているという考え、それからその現実には神秘主義の形而上学ではなく、われわれの経験によって辿り着くことができるという考えである。1907年の「創造的進化」 (L'évolution créatrice) でも同様の考えを展開する。進化の科学を予測不能で創造性に溢れた生命で補完しなければならないとした。それを一つのイメージ「生命の飛躍」 (l'élan vital)で説明しようとしたため、論争の種となる。

それから政治的な批判も彼が忘れられる要因となっている。第一世界大戦における彼のナショナリズムを人は許すことがなかった。そこで彼は自らの哲学に妥協を加えたのだ。すなわち、「生命の飛躍」はフランスに、「物質」はレジスタンスに、「悪」はプロシアになった。戦後著作をし、国際連盟に関連した仕事もしたが、その時には彼の声は掻き消されていたのである。第二次大戦後は、最早彼の形而上学に興味を持つ人はいなくなっていた。

今回の全作品が再編されて出版されることになったのは、例えば戦後メルロ・ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908-1961)が彼の作品について書き、ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925-1995)が1966年に「ベルクソンの哲学」(Le bergsonisme)を発表したことなどが大きい。さらに80年代に入って脳科学や生命科学が進歩し、宗教についても研究が進むにつれ、ベルグソンへ の回帰が始った。

彼の哲学がわれわれにとって意味があるとするば、それはわれわれが生けるものであることを理解することだろう。人間のパラドックスは知性にあり、生命の最も素晴らしい成功なのだが、同時にそれは生命を遠ざけることになっている。知性は危険、死、、、を思い描くもので、本質的に抑鬱的なものである。人間は鬱なる動物なのである。十全なる生命に戻るためには、自らの制約や不確実さのみならず、斬新さ、創造性、悦びを取り戻さなければならない。われわれの生命や思想に内在するこの極性こそ現代的な 問題である。

ベルクソンの哲学は終着駅なのではなく、自らを発見するために進むことのできる一つの道なのである。




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dimanche 25 octobre 2015


この記事にあるように、パリに来て哲学が日常のレベルでも近いものに感じるようになった

この感覚は日本ではなかった

また、最初の記事にベルクソンを選んでいたことには示唆的なものを感じる

その後、科学から批判されるような彼のやり方や見方にある種の共感を感じるようになった

今の哲学は科学的であろうとするあまり、形而上学の要素を排除しているように見える

しかし、哲学の本道として形而上学を軽視してはならないと考えるようになった

ただ、彼の哲学を論じるほどには作品をしっかり読んだとは言えない

これからの仕事にしたいものである





samedi 24 octobre 2015

「フランス語、そして科学から哲学へ」 ---- 再び

8 novembre 2007
 


私は運命論者らしい。ある事に至った時、その元にあるものを探る癖がある。今回の元はおそらく2001年春ではないかと疑っている。その日私は花粉症に悩まされ、自宅のソファで横になっていた。朦朧とした意識の中で、20年以上前に滞在していたニューヨークで買ったフランス語のカセットのことをなぜか思い出 したのだ。それは雑誌 New Yorker の縦長の広告を見て注文したものだが、当時は英語に忙しくほとんど触れることもなく忘れ去られていたのである。早速探してみると出てきたので横になりなが ら、あるいは通勤時に20個ほどあるカセットをその音を楽しみながら聞き始めた。ただ聞いている、それだけであった。これが今回の事の発端になったフランス語との出会いである。

それからフランス文化との付き合いが始まった。その昔アメリカに渡り4年が経過したある夏の日の午後、英語が右から左に抜けるようにわかるようになる(私の中では)という経験をした。フランス語ではそれは無理だろうから、少なくとも4年間という 時間を自由に使ってフランス文化に浸ってみてはどうだろうかという考えの下、これまでいろいろとやっていたようだ。何かのためにやるというのでは全くな く、ただフランス語の音や文化の中に身を晒し、そこでの出会いに快感を感じながらこれまで続けてきたように思う。ひょっとすると、こんなことは今までの私には起こらなかったことかもしれない。

今更述べる必要などないだろうが、異なる文化に触れるとこれまで慣れ親しんだものとは異なる発想の中に身を置くことになり、自分の中の全く別のところが刺激され、しばしば目を開かされる。私の購読している Le Point という週刊誌(アメリカの Time や Newsweek に当たるようなものか)にはほとんど毎週のように哲学者 (philosophe) が出てくる。そのことに先ず新鮮な驚きを感じた。それから文化欄には哲学・思想と題する項があり、現役の哲学者や思想家が自らの経験を2-3ページに亘っ て語るのを読むことができる。その内容は哲学研究などではなく、自らの人生をどのように生きたのかを自らの思索を通して自らの言葉で語るというもので、そこにこれまでには感じたことのない、ある種の感動を覚えることになった。時には雑誌全体の特集としてニーチェ、ショーペンハウアー、スピノザ、モンテーニュなどの哲学者が10ページほども割いて取り上げられることもある。これらは私にさらなる驚きを与えた。

最近、フ ランス大統領選挙で勝ったサルコジの政権に、対立する社会党の影の内閣の大臣が参加するという現象が起こった。この現象に対して、表層的な、あるいは裏話的な分析に終始するのではなく、哲学者が出てきてそもそも裏切りとはどういうことなのかを分析したり、精神医学者が裏切りを生む精神状況を語ったりと物事へのアプローチが重層的で、事の本質に迫ろうとする精神を感じ、私にとっては大いに刺激的であった。このような小さな経験を積み重ねているうちに、私の中 の何かが変容して行ったようだ。フランス語の « ouvrir votre esprit » という表現を「あなたの精神を開く」と直訳した時、私の経験していたことはまさにこれだと感じた。

2005年春、パリにあるパスツール研究所の友人が私の研究室を訪ねてきた。彼は東京の街がマスクをしている人で溢れていることに驚いていたが、そこから会話がある方向に向かった。私が花粉症であること、花粉症のお陰でフランスとの出会いが生れたこと、病気がなくならないのは病気自体に存在意義があるからで、私にとっての花粉症はまさにフランスへの想いを呼び覚ますためにあったと考えている、というような他愛もないことである。そこで彼は、病気の意味などに興味が あるのであればこの人を読んでみては、と言って「ジョルジュ・カンギレム」という名前を出し、« Georges Canguilhem » と綴ってくれた。それを見た時に実に不思議な感覚が襲ってきた。何と形容してよいのかわからないが、今まで全く知らなかった世界への鍵がそこにあるかのよ うな、未知への扉がこれから開かれようとしているかのような感覚だろうか。それから彼の著作を取り寄せたり、関連する本に目を通すようになっていた。その 結果、このような領域が科学哲学、フランス語では épistémologie (la philosophie des sciences) と呼ばれていることを初めて知ることになる。今から僅か2年ほど前のことでしかない。

またその頃から、ぼんやりと自らの退官のことが頭に浮かんでいた。それまでは研究生活が永遠に続くと無意識のうちに思い、呑気に研究をしていた。そもそも基礎研究を始めた当初の思いは、何か美しいものを見てみたい、あるいは大きな原理のようなものに触れてみたいというものであった。そのためには、自らの興味に従い求めを続け、その結果見つかってきたことをもとに、さらに問いかけるということを続けていけば、いずれ私の思いが満たされるのではないかと考えていた。これは意識的に考えた というよりも、直感的にそう思っていただけである、と今では言わざるを得ない。この考えは、研究生活が永遠に続くという前提の下で初めて自らを納得させることができるのではないか、と思い始めていた。そんな折も折、アインシュタインの次の言葉に出会ったのだ。
「概念と観察の間には橋渡しできないほどの溝があります。観察結果をつなぎ合わせることだけで、概念を作り出すことができると考えるのは全くの間違いです。あらゆる概念的なものは構成されたものであり、論理的方法によって直接的な経験から導き出すことはできません。つまり、私たちは原則として、世界を記 述する時に基礎とする基本概念をも、全く自由に選べるのです。」
この言葉を見た時、ひょっとして私はスタートから間違っていたのではない か、という疑念が湧いていた。と同時に、これまで如何に自分の対象となっているも のの本質を考えないで研究をしていたのかということを痛感させられていた。これから同じようなことを続けていて果たして自分は満たされて終ることができるのだろうか、さらに突き詰めると、これからを如何に生きるべきなのか、という究極の問が生れて初めて私の前に現れた。

この問に対して、自分に一番しっくり来る道、この道を行けば悔いを残さないと思われる道は何なのかを探ることにした。研究を続ける、大学で教える、新しい分 野に入る、悠々自適を決め込む、などの可能性について、実際にその環境に身を置いて自分の反応を確かめるという方法で検討していった。試行錯誤を繰り返し た結果、最終的にはパリ第一大学の大学院で科学哲学を学ぶことになった。ここに至る道は、パリ大学の先生が私のような門外漢に許可を与えたことも含めて、 不思議の糸に導かれているとしか言いようのないものであった。

2年程前、言葉に慣れるために拙いながらフランス語でブログを始めた。先日、そこに書いたフランスで哲学をやることになったという記事に対して、A4にすると2ページにも及ぶ私の心を打つコメントが届いた。そのコメントの主は、大学で哲学を修め哲学教師をした後、フランスが自らの歴史を蔑ろにしている現状に危機感を覚え、現在政治の世界を目指しているという方である。要約すると次のようなことが綴られていた。
「今あなたの決心を知ったところです。それは非常に崇高な (noble) もので、あなたにとって重要な生命科学とフランス語の分野を発見しようとする意思の表れです。心から真摯な激励を贈りたいと思います。先日、私の『友人』 と言ってもよいガストン・バシュラール (Gaston Bachelard) について話しましたが、科学哲学を学ぶことは素晴らしい旅になるでしょう。私はあなたが単なる目撃者 (le témoin) としてだけではなく、その当事者 (l'acteur) として積極的に働きかけることを願っております。そうすることにより、常に霊感を与えるような活力(すなわち目覚め)が得られるでしょう。あなたを取り巻 き、そして呼び覚ますものによってあなたが外に開かれるようになり、人間としての勤めを追求しようと冷静に結論を出されたことに心からの喜びを感じていま す。しかもあなた自身のものの考え方、すなわち尊厳をもって生きるという考え方を失うことなく。」
最近、こういうはっきりした言葉との触れ合いに心から満足を感じるようになっている。数年前では想像もできない変化である。このような精神状態でこれからの数年をこちらで暮らしながら、人類の蓄積を掘り起こし、自らも考えていくという選択をしたことになる。いつの日か、その営みの跡を語ることができれば素晴らしいだろう、などという考えを弄んでいる。



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samedi 24 octobre 2015


今日から折に触れて8年前に始まったフランスでの道行で浮かんできた思いを読み直すことにした

今回の記事では、この旅の始まりに当たってのこころの状態が綴られている

事の始まりに関しては、その後いろいろな場所に書いている

当時の心積もりは数年の予定で、ここまでの長きに亘るとは想像もしていなかったことが分かる

今の段階では、それでよかったと思っている

落ち着いた精神状態になるには、8年の時が必要だったということになる


わたしのフランスへの興味は、全くの偶然で始めたフランス語から芽生えた

そのことがこの記事に書かれてある

若き日のアメリカでの経験と違うのは、言葉に対する態度であった

アメリカ時代には言葉の習得を第一の目的にしていたようなところがある

つまり、あらゆる機会を捕まえて言葉を学んでいたのである

しかし、学びや反復の中にいると思考が疎かになることに当時は気付いていなかった

そのことに気付いたのは、こちらに渡る数年前のことであった

その時、思考の欠如が自らの仕事にも大きな影響を及ぼしていたことに気付き、驚いたのである

この気付きから、フランスでは言葉の習得を意識的にはやらないことにした

あくまでも読み、書き、考えることを中心にして、口語表現や発音を後回しにしたのである

そのため、後者は未だに酷いものだが、それでよかったと思っている

なぜなら、思考をどのように深めて行けばよいのかということが、少しだけ見えてきたからである

それこそが、今回の滞在の目的だったからである

10年前に、フランスからコメントが届いたことも書かれてある

その主が言っていた「傍観者としてではなく当事者として」の生活はできたであろうか

マスターでは大学生活に追われていたが、ドクターでは隠遁者を決め込んでいた

その意味では、後半は実生活の中に積極的に入ることはなかった

しかし、その中においても精神的には当事者としてやっていたのではないかと思う

この12月にはテーズの審査が行われる

大学生活の締めとしては忸怩たるものはある

しかし、何事にも終りはあり、それが今回振り返ることに向かわせたのは間違いない










dimanche 11 octobre 2015

パリから見えるこの世界 (33) 目的論は本当に科学の厄介者なのか、あるいは目的は最後に現れる



雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 『パリから見えるこの世界』 第33回エッセイを紹介いたします

医学のあゆみ (2014.10.11) 251(2): 199-202, 2014

ご一読いただければ幸いです