dimanche 25 août 2013

フランソワーズ・ダステュールさんによる現象学、哲学


新しい Philomag にフランソワーズ・ダステュール(Françoise Dastur, 1942-)という方のインタビューを見つける

 タイトルは、「わたしは哲学がポピュラーになることはないと思います」

以下に、そのお話から


 ソルボンヌで25年講師をやり、50代になってからベルギーの大学にテーズを出した

61歳で早めの退職をして、今は田舎に住んでいる

ご自身は、自分の学説を広める哲学の専門家というよりは、問いにより人を目覚めさせる哲学教師と考えている

大学の哲学はテクストの厳密な解釈に閉じ籠り、死に掛かっている

一つの問いへと開いていくことをしないのだ

今、自分の村で50人くらいの人を集めて哲学を教えているのは、新しい道を探るためである


ご本人はフランス現象学の専門家で、現象学についても語っている

現象学はプラトン主義の世界観に抗する

われわれに見えている「もの」の背後にあるものを探してはいけないという強い確信がある

 そして、すでにそこにある「もの」、現れている「もの」、前提条件が観ることを妨げる「もの」を明らかにしようとする

doxa、共通意見、先入見を排除するのだ

このようなやり方を採るのが現象学だが、それは哲学の元々の姿でもある


われわれはしばしば、周りにあるものに名前を付けるが、そのものを観ることをしない

フッサールによれば、「もの」そのもの至るには、言葉を排しなければならない

隠れている初めの経験に戻らなければならない

これは西田の「純粋経験」の世界のようでもある


死を意識できるのは人間だけである

死を意識することだけが、「いま・ここ」を生かす道を開くのである

この点が動物と違うところだと考えている


ご主人がインド人とのことで、インドの思想に興味を持っているようだ

例えば、Darśan / Darshan という概念

「視点」 とか 「ものの観方」 という意味で、「知への愛」 という哲学を語らない

これはピエール・アドー(Pierre Hadot, 1922–2010)さんやベルグソンの哲学の見方と通じるところがある

ピエール・アドー PIERRE HADOT " LA PHILOSOPHIE COMME MANIERE DE VIVRE " (2007-01-03)

西洋だけではなく、東洋の見方にも興味をお持ちのようである



lundi 19 août 2013

ハンナ・アーレントさんの政治哲学を聴く



これまでの記事を読み直したところ、Youtbeの映像がなくなっているのがいくつか見つかった

同じものの別バージョンがある場合は差し替えたが、ハンナ・アーレントさんのものはなかった

古い記事は以下に残し、新しいインタビューを貼り付けた

聞き手はギュンター・ガウス(Günter Gaus)さん

お二人とも煙草をやりながらのインタビューでなかなか味がある

今の日本では大変なことになりそうだが、アーレントさんであれば何と論駁するだろうか

 真剣勝負のインタビュー

このような緊張感のある対話を観ることも少なくなった

今回印象に残ったアーレントさんの言葉をいくつか

 
「私は政治哲学者ではない、政治理論の専門家である
哲学と政治はそもそも緊張関係にある
それぞれ静的な思考の世界と行動の世界にあるからだ」

「わたしにとって最も重要なことは理解すること、その思考過程が最も重要である
何かを言うため、影響を与えるために書くのではない、理解するために書いている
読者がそのように理解してくれるとすれば、最高の満足である」

「第二次大戦中の経験からインテリはあらゆることの解釈を捏造することを知った
そしてお互いを批判しない
インテリの中では協力するが、その外とは関係を持たない
それがインテリというものの本質であることがわかった
それ以来、インテリの世界には一切関与しないことにした」

「英語もフランス語もやるが、ドイツ語は何物にも代えがたい
豊かな仕事は母国語からしか出てこない」

ヤスパースが話し始めると、すべてが明快になる
彼ほど話すことに信頼を置いている人間を見たことがない
彼は理性と繋がる自由を理解していた
 それが実践されている現場に居合わせることができたのである」


 いつものように迫力のあるインタビューであった


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26 avril 2013

1974年放送のハンナ・アーレントHannah Arendt, 1906-1975)さんのインタビューを観る

彼女の政治哲学を聴く

別ブログで何度か彼女について取り上げたことがある

 ハンナ・アーレント 「精神の生活」 La Vie de l'esprit - Hannah Arendt (2008-12-07)
 ハンナ・アーレントの墓 La Tombe d'Hannah Arendt (2010-02-15)
瞑想生活のある社会 La société avec la vie contemplative (2011-01-14)


この中に、わたしがフランス語を始めて反応した言葉の一つ Réfléchir について語っているところがある

彼女の規準はこうだ

この運動をする時には、常に批判的な視線がなければならない

厳密な規則、確信に照らして考えなければならない

思考の過程で起こることは、批判的検証に従うことである

つまり、思考自体が危険な営みだという意味で、危険な思考というものは存在しない

考えないことはそれ以上に危険だと言っている




dimanche 18 août 2013

中野幹三著 『統合失調症の精神分析』 を読んで


ひょんなことから手にする本がある

普通はその中に何か通じるものを読み取り、さらに読み進むというものが多い

だが、この本との付き合いはこれまで避けていた義務的な要素が強いものとなった

専門外のお話に長い時間耐えたためだろうか、それ以前には見えなかった景色が今拡がっている

最初に、なぜ義務的な読書になったのかがわかる著者との遭遇について触れてみたい

このエピソードは、これまでもどこかに書いているはずである


2006年春、わたしはあるレストランのカウンターで偶然に隣り合わせた方と言葉を交わすことになった

その方から 「タンパク質に精神があると思いますか?」 という問いを投げかけられたのである

それまで物理還元主義を金科玉条の御旗としていた免疫学の研究者にとって、それは形容し難い衝撃であった

と同時に、このような問いが成立し得る世界に強い興味を覚えたのである

さらに、現代科学における頭の使い方、問いの出し方には大きな制約が加わっていることにも気付くことになった

翌年には退職することになっていたわたしは、残りの時間のすべてを考え、振り返ることに使おうと考え始めていた

これまで先送りにしてきた問題や人類の遺産の中を自由に散策したいという欲求を感じていたのである

もしこの時期でなければ、このような問いに対しては冷淡な態度をとっていたのではないかと想像される

そして、今年の春に帰国した折、再びそのレストランを訪れた

そこで何と7年ぶりにその方と再会することになったのである

精神科の医師、中野幹三氏であった

これからは医療の現場を離れ隠居されること、そしてこれまでの成果を本に纏められたことを知らされた

統合失調症の精神分析―心的装置の「無底」と 根源的アイデンティティ―』 (金剛出版、2013)


症例がふんだんに取り上げられているこの本を読み始めてまず驚いたことは、患者さんの発する言葉であった

常人の想像を超える奔放さで言葉が氾濫しているという印象であった
 
そこに見られる詩的で、時に哲学的な響きのある遠慮の無さにも驚くことになった

わたしの感想について、中野先生からのお便りには次の言葉があった

「傷ついたものだけに与えられた特別な感受性があるように思われます

それが自然の神秘を、我々凡人に教えてくれているように感じています」


われわれは日常に生きるために思考せずに済むようルチーン化された中に身を置いている

われわれの精神の動きは、この社会に生きるためにその迸りを抑制されているのではないか

そして、その日常にこのような精神が侵入した時、社会はどの程度許容できるのだろうか

普通は異質なもの、日常を妨げるものとして容易に排除されることになりそうである

 

さらに驚いたことは、胎児と母親との間の関係が、その後の精神の状態に影響を与える可能性

患者さんが胎児期のことを雄弁に語っていることであった

以前は視野になかった意識のないところでの影響も、今では想像できなくもない

しかし、普通は証明が難しそうに見えることは捨象しまいやすい
 
やはり、病気になることにより、普段は向かわない意識の深いところに入って行けるということなのか


フロイトの言うエスが最も深い 「無底」 と言われるところにあり、そこから自我が生まれてくるという


その過程に断絶が起こると統合失調症になるという考え

エスの中で起こるリビドー備給とそれに対抗する機転があるとする仮定

そのバランスにより生命の発露であるエロスが花開いたり、抑制されたりするという見方

実に興味深い


意識されていない自らの根のようなところに生命の根源があり、そこで普通はゆったりできる

しかしその場所から引き離され、居場所がなくなることが統合失調症の原因になりそうだとの結論

つまり、深いレベルでのアイデンティティに絡む病気であることになる

わたしの中では、物理化学的な視点でのアイデンティティしか頭になかった

しかし、精神の奥深いところにアイデンティティを決めるものがあり、それをこの病気の本質と捉える見方

この本を読む前にははっきりしなかったこの病気のイメージが、ぼんやりと顔を出してきたという印象がある


その他にも原母と原父という概念や日本の神話の分析から得られた異界とエス、霊魂とエロスとの対応など

興味深い解析がされていた

残念ながら、これらの背景に関する知識が不足していて十分な理解には至らなかった

ただ、これからこの方面のものを読んでいくための一つの指標になりそうである






samedi 17 août 2013

文系と理系の研究、そして特殊から普遍へ


 このところ、30℃を超える日はなくなり、そよ吹く風にも涼しさを感じるようになっている

先日、文系の研究について考え直すことがあった

科学の分野にいる時、文系の方が特定の作家や哲学者について研究することに違和感を持っていた

「・・・における…の問題について」 という類いである

一人の人間の中に入って研究することが、あまりにも狭く窮屈に見えたからだろう

もっといろいろな人について考えてもよいのではないか、とぼんやり考えていたのである

その固定観念はこちらに来てからも変わらず、一つの問題を選び多方面から考えたいと思ってやってきた


ところがどうだろうか

いろいろな人について読み、その問題についての考えは深まるかもしれない

しかし、それだけでは視点が軸がしっかりしないように感じるようになっている

自分だけに頼っているためか、深度に限界があるように見えるのである

一人に絞って、その人間から見える世界について深めておくことも有効なのではないか

ある人間が、どのようなことを問題とし、それをどのように考えていたかの詳細を知っていること

それは無駄ではないどころか、一つの指標として欠かせないのではないか

問題は、そこに留まっているのではなく、そこからより広く大きな問いに向かうことができるかにあるのではないか

そんな考えが浮かんできた


 翻って、科学の領域について見直してみる

実は、そこで行われることも 「・・・における・・・の問題について」 の研究ではないのか

今ではその度合いがどんどん進んでいる気配さえある

ここでも、そこからどれだけ大きな問いに向かうことができるのかが問題になるのだろう

そうすると、わたしがぼんやり考えていた文系の研究と本質的に何ら変わらないことになる

一つを深め、それを広げるという作業が必要だという点において


いずれも時間のかかる大変な営みになるのだろう

「いずれも」 には文系と理系という含みと、営みの前半と後半という含みがある

前半と後半について言えば、「こと」 を後半にまで持ち込みたいものである





dimanche 11 août 2013

パリから見えるこの世界 (7) 「ニールス・イェルネというヨーロッパの哲学的科学者から見えてくるもの」



雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 「パリから見えるこの世界」 の第7回エッセイを紹介いたします

 ご一読、ご批判いただければ幸いです



dimanche 4 août 2013

リチャード・ドーキンス博士の "The God Delusion" を観る




リチャード・ドーキンス(Richard Dawkins, 1941-)博士の 『神は妄想である』 を基にしたドキュメンタリーを観る

The God Delusion (2006)

このドキュメンタリーによると、宗教間の争い、信者と無神論者との争いの排他的な性質が見えてくる

宗教が精神の世界の国境のように見えてくる

人類が意識を持って以来われわれとともにあると思われる宗教

地球が一つの国になることがほとんど想像できないように、宗教の問題がなくなることも想像できそうにない