lundi 5 janvier 2009
Paul Davies という科学者
Paul Davies (born 22 April 1946): a British-born physicist, writer and broadcaster, currently a professor at Arizona State University and the Director of BEYOND (Center for Fundamental Concepts in Science)
"An ultimate explanation" ビデオ (1 2 3 4 5)
samedi 3 janvier 2009
スタンレー・ミラーという科学者 Stanley Miller
2007年10月07日
2007年5月20日、生命の起源について問い続けたアメリカの科学者、スタンレー・ミラーが77歳で亡くなった。以前であれば特に注意を惹かない科学者だったであろう。しかし、生命の起源という根源的な問題について実験的に答えを出そうとした存在には興味が湧いている。原始のスープからアミノ酸が得られたことを示した彼の実験について、生命の起源に対しての答えは何も得られていないという批判は当然なのかもしれない。アミノ酸から有機体への道は果てしもなく遠いように見えるからだ。しかし、問を立ててそこに向かう実験をした最初の人であることには変わりはなく、その時彼の中でどのようなことが起こっていたのか、私の好奇心を掻き立てる。

ユーリー/ミラーの実験 Urey-Miller experiment
The experiment that simulated hypothetical conditions present on the early Earth and tested for the occurrence of chemical evolution. Specifically, the experiment tested Oparin and Haldane's hypothesis that conditions on the primitive Earth favored chemical reactions that synthesized organic compounds from inorganic precursors. Considered to be the classic experiment on the origin of life, it was conducted in 1953 by Stanley L. Miller and Harold C. Urey at the University of Chicago (Science 117: 528-529, 1953).
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2009年1月19日
● January 19, 2009; Science An Origin-al: Stanley Miller
● Jeffrey L. Bada and Antonio Lazcano. Prebiotic soup--Revisiting the Miller experiment. Science 300: 745-746, 2003.
● Website: 50th anniversary of this pivotal experiment of Stanley Miller
vendredi 2 janvier 2009
哲学と科学の接触で思い出したこと
元旦の「哲学的視点からのお話を免疫学会で」という話題に絡んで思い出したことがある。昨年の秋口だっただろうか。内科の検診に行った時の先生との会話である。私がこちらで医学を含めた科学哲学について勉強中であり、日本の科学の学会で哲学について講演する予定であると話した時に、まずフランスで科学哲学を学ぶなどということは素晴らしい、そして科学の分野にそのような働きかけをするのはお互いにとってよいことなので積極的にやるべきだという反応が出ていた。先生はさらに続けて、生活習慣病の学会では哲学的な講演が毎回取り上げられ、その会場は埋め尽くされるという話をされた。科学の学会に哲学が顔を出すというのは珍しいことではなく、フランス(あるいはヨーロッパ)のお医者さんがそれを歓迎している様子を聞き、心地よい驚きが襲っていた。
先生の専門である生活習慣病と言えば、完治は難しい場合が多いので、治すというよりは共に歩むことの方が多くなり、医学の科学的側面以外の要素が求められているためだと理解するとわかりやすい。そこで実際に哲学を取り入れるところまで行くのは行動的である。日本の医学会の状況はどうなっているのだろうか。特に、哲学の側が科学の土俵に出て行って顔を合わせるということはあるのだろうか。医学を哲学や倫理の側面から考えましょうという動きや学会活動があるのは承知しているが、もし孤立しているとすれば実際の医学への貢献は限られるのではないだろうか。
これから注意して見て行きたいが、そろそろ科学者や医学者の集まりで哲学者が直接語りかけたり、逆に科学の側も自然をより深く理解しようとする精神のあり方が求められるような気がしている。もちろん、そのためには哲学は必要がないどころか有害であるという考え方も存在するが、まず対面してお互いを知ることから始めてはどうだろうか。学問を系統発生 phylogenèse の目で見る時、その根には哲学がある。科学者個人の個体発生 ontogenèse にとってもその根を見ることには大きな意味があるように感じている2009年年頭である。
先生の専門である生活習慣病と言えば、完治は難しい場合が多いので、治すというよりは共に歩むことの方が多くなり、医学の科学的側面以外の要素が求められているためだと理解するとわかりやすい。そこで実際に哲学を取り入れるところまで行くのは行動的である。日本の医学会の状況はどうなっているのだろうか。特に、哲学の側が科学の土俵に出て行って顔を合わせるということはあるのだろうか。医学を哲学や倫理の側面から考えましょうという動きや学会活動があるのは承知しているが、もし孤立しているとすれば実際の医学への貢献は限られるのではないだろうか。
これから注意して見て行きたいが、そろそろ科学者や医学者の集まりで哲学者が直接語りかけたり、逆に科学の側も自然をより深く理解しようとする精神のあり方が求められるような気がしている。もちろん、そのためには哲学は必要がないどころか有害であるという考え方も存在するが、まず対面してお互いを知ることから始めてはどうだろうか。学問を系統発生 phylogenèse の目で見る時、その根には哲学がある。科学者個人の個体発生 ontogenèse にとってもその根を見ることには大きな意味があるように感じている2009年年頭である。
研究環境が精神に与える影響
先日、八杉竜一著「近代進化思想史」(中央公論社、昭和47年3月)を手に取った時、「科学者の思惟の自由について」と題されたところに行き当たった。そこで触れられていることは、最近の私が体で感じていることと共通するところがある。そのポイントは、冒頭で引用されているメチニコフの次の言葉にすべて表れているだろう。メチニコフは言う。
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「実際において、前者(ビュフォン)がボネーと同様にかつて教授となったことなく、それに対してリンネが四半世紀以上も科学の教授者であったことは、興味がある。ビュフォンがいかなる学務の形式にも要求にもとらわれることなく、科学に対してきわめて自由な態度を持したのは、多分このことと関係があるのであろう。」
「講壇から科学を教授し教科書を書いた学者、したがって学派の形式に最大の影響を及ぼした学者の大多数が、ボネーやビュフォンよりもリンネやパラスに頼ることがはるかに多く、概して哲学的一般化よりも体系的杓子定規にいちじるしく傾きがちであったことは、疑えない。」
メチニコフ著 「種の起原に関する問題の概要」(1876年)
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八杉氏の本では、大学に所属し権威の象徴であったキュビエとほとんど公的機関に属さずに研究をしたラマルクを対比させたり、在野を通したダーウィンを登場させて精神の自由が研究に及ぼす影響について語っている。若き日にダーウィンは家に相当の財産があることを知ってから医学に身を入れなくなったと書かれているが、それ以上に彼の中に物質や名誉に対する執着がなく自由人としての資質を持っていたことが彼の成功に寄与しているのではないかと八杉氏は考えている。
私自身の経験になるが、これまで公的な機関に所属して研究をしてきた時とそのような縛りのない今の精神状態が大きく違うことを感じている。現役の時には研究する上での精神の自由を必要以上に重要なものとして捉えていたつもりであるが、今からみると相当にきつい縛りがかかった状態であったことがわかる。その上で日頃考えていることは、もし今のような精神状態で生命科学の研究をしていたならば、全く違った研究対象や研究のやり方を選んでいたのではないかということである。具体的には、より面白い研究に仕上がっていたのではないか、あるいは独自性や独創性を生み出しやすい状況になったのではないかと思うことしきりなのである。もちろん何も変わらなかったかもしれないが、今のような精神状態での研究生活は理想に近いと思えるのだ。
このような視点から現代の科学を取り巻く環境を見てみると、果たしてその将来は大丈夫なのだろうかと心配になる。さらに現在の科学者が気の毒に見えてくる。それくらい自由な精神を維持しにくい状況にあるように見えて仕方がない。日本のいろいろな場所にオーソドックスなものに囚われない精神を持ったグループが群立するようになると研究の世界にも真の活気が出てくるのだろうが、、、
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「実際において、前者(ビュフォン)がボネーと同様にかつて教授となったことなく、それに対してリンネが四半世紀以上も科学の教授者であったことは、興味がある。ビュフォンがいかなる学務の形式にも要求にもとらわれることなく、科学に対してきわめて自由な態度を持したのは、多分このことと関係があるのであろう。」
「講壇から科学を教授し教科書を書いた学者、したがって学派の形式に最大の影響を及ぼした学者の大多数が、ボネーやビュフォンよりもリンネやパラスに頼ることがはるかに多く、概して哲学的一般化よりも体系的杓子定規にいちじるしく傾きがちであったことは、疑えない。」
メチニコフ著 「種の起原に関する問題の概要」(1876年)
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八杉氏の本では、大学に所属し権威の象徴であったキュビエとほとんど公的機関に属さずに研究をしたラマルクを対比させたり、在野を通したダーウィンを登場させて精神の自由が研究に及ぼす影響について語っている。若き日にダーウィンは家に相当の財産があることを知ってから医学に身を入れなくなったと書かれているが、それ以上に彼の中に物質や名誉に対する執着がなく自由人としての資質を持っていたことが彼の成功に寄与しているのではないかと八杉氏は考えている。
私自身の経験になるが、これまで公的な機関に所属して研究をしてきた時とそのような縛りのない今の精神状態が大きく違うことを感じている。現役の時には研究する上での精神の自由を必要以上に重要なものとして捉えていたつもりであるが、今からみると相当にきつい縛りがかかった状態であったことがわかる。その上で日頃考えていることは、もし今のような精神状態で生命科学の研究をしていたならば、全く違った研究対象や研究のやり方を選んでいたのではないかということである。具体的には、より面白い研究に仕上がっていたのではないか、あるいは独自性や独創性を生み出しやすい状況になったのではないかと思うことしきりなのである。もちろん何も変わらなかったかもしれないが、今のような精神状態での研究生活は理想に近いと思えるのだ。
このような視点から現代の科学を取り巻く環境を見てみると、果たしてその将来は大丈夫なのだろうかと心配になる。さらに現在の科学者が気の毒に見えてくる。それくらい自由な精神を維持しにくい状況にあるように見えて仕方がない。日本のいろいろな場所にオーソドックスなものに囚われない精神を持ったグループが群立するようになると研究の世界にも真の活気が出てくるのだろうが、、、
jeudi 1 janvier 2009
ヒポクラテスの誓い Le serment d'Hippocrate
ヒポクラテス Hippocrate de Cos
Image conventionnelle de « portrait » romain en buste
(gravure du 19e siècle)
医を医の側から歴史的に考えるとすれば、ここから入るのが自然なのかもしれない。
ヒポクラテス Hippocrate de Cos (vers 460 av. J.-C dans l'île de Cos – vers 370 av. J.-C à Larissa)
医学の父、医聖とも言われる古代ギリシャのこの医者は、魔術・呪術や哲学と一体になっていた医学をそれとは別の知識体系、技術として新たに確立した。実際のところ、彼の人生や思想についてはよくわかっていない。ただ彼のものとされる膨大な著作に残された体系を作り上げ、今回取り上げる誓いという形で倫理を医に持ち込んだ人とされている。この誓いについてもヒポクラテス自らが書いたものかどうかを疑う声があるらしい。
ヒポクラテスの誓いについては、おそらく学生時代に触れているはずであるが、正直なところその記憶は薄れている。当時の日本では医学概論、医学倫理と言われる領域が未だ確立しておらず、専門家も少なかったため年長の教授が講義をしていた。長い間医の領域に直接関与するところから離れ、科学の視点からものを眺めてきたが、この機会に原点に一度立ち返っておくのは意義があるだろう。改めて白紙の状態で触れ直した時に新たなものが見えてくるだろうし、倫理の面でも大きな反省材料を提供してくれると予想されるからだ。
今回はヒポクラテスの原文とされるものを小川鼎三氏が訳したものを以下に掲げる。参考までに仏英訳も添えた。この誓いは時代に合わせて何度か改変されているが、それらについては後ほど触れることにしたい。
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ヒポクラテスの誓い(小川鼎三訳)
医神アポロン、アスクレピオス、ヒギエイア、パナケイアおよびすべての男神と女神に誓う、私の能力と判断にしたがってこの誓いと約束を守ることを。この術を私に教えた人をわが親のごとく敬い、わが財を分かって、その必要あるとき助ける。その子孫を私自身の兄弟のごとくみて、彼らが学ぶことを欲すれば報酬なしにこの術を教える。そして書きものや講義その他あらゆる方法で私の持つ医術の知識をわが息子、わが師の息子、また医の規則にもとづき約束と誓いで結ばれている弟子どもに分かち与え、それ以外の誰にも与えない。
● 私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない。
● 頼まれても死に導くような薬を与えない。それを覚らせることもしない。同様に婦人を流産に導く道具を与えない。
● 純粋と神聖をもってわが生涯を貫き、わが術を行う。
● 結石を切りだすことは神かけてしない。それを業とするものに委せる。
● いかなる患家を訪れるときもそれはただ病者を利益するためであり、あらゆる勝手な戯れや堕落の行いを避ける。女と男、自由人と奴隷のちがいを考慮しない。
● 医に関すると否とにかかわらず他人の生活について秘密を守る。
● この誓いを守りつづける限り、私は、いつも医術の実施を楽しみつつ生きてすべての人から尊敬されるであろう。もしこの誓いを破るならばその反対の運命をたまわりたい。
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エミール・リトレによる仏訳
Traduction par Émile Littré du serment d'origine
« Je jure par Apollon, médecin, par Esculape, par Hygie et Panacée, par tous les dieux et toutes les déesses, les prenant à témoin que je remplirai, suivant mes forces et ma capacité, le serment et l'engagement suivants :
Je mettrai mon maître de médecine au même rang que les auteurs de mes jours, je partagerai avec lui mon avoir et, le cas échéant, je pourvoirai à ses besoins ; je tiendrai ses enfants pour des frères, et, s'ils désirent apprendre la médecine, je la leur enseignerai sans salaire ni engagement. Je ferai part de mes préceptes, des leçons orales et du reste de l'enseignement à mes fils, à ceux de mon maître et aux disciples liés par engagement et un serment suivant la loi médicale, mais à nul autre. »
« Je dirigerai le régime des malades à leur avantage, suivant mes forces et mon jugement, et je m'abstiendrai de tout mal et de toute injustice. Je ne remettrai à personne du poison, si on m'en demande, ni ne prendrai l'initiative d'une pareille suggestion ; semblablement, je ne remettrai à aucune femme un pessaire abortif. Je passerai ma vie et j'exercerai mon art dans l'innocence et la pureté.
Je ne pratiquerai pas l'opération de la taille.
Dans quelque maison que je rentre, j'y entrerai pour l'utilité des malades, me préservant de tout méfait volontaire et corrupteur, et surtout de la séduction des femmes et des garçons, libres ou esclaves.
Quoi que je voie ou entende dans la société pendant, ou même hors de l'exercice de ma profession, je tairai ce qui n'a jamais besoin d'être divulgué, regardant la discrétion comme un devoir en pareil cas. »
« Si je remplis ce serment sans l'enfreindre, qu'il me soit donné de jouir heureusement de la vie et de ma profession, honoré à jamais des hommes ; si je le viole et que je me parjure, puissè-je avoir un sort contraire. »
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“I swear by Apollo, Asclepius, Hygieia, and Panacea, and I take to witness all the gods, all the goddesses, to keep according to my ability and my judgment, the following Oath.
To consider dear to me, as my parents, him who taught me this art; to live in common with him and, if necessary, to share my goods with him; To look upon his children as my own brothers, to teach them this art.
I will prescribe regimens for the good of my patients according to my ability and my judgment and never do harm to anyone.
I will not give a lethal drug to anyone if I am asked, nor will I advise such a plan; and similarly I will not give a woman a pessary to cause an abortion.
But I will preserve the purity of my life and my arts.
I will not cut for stone, even for patients in whom the disease is manifest; I will leave this operation to be performed by practitioners, specialists in this art.
In every house where I come I will enter only for the good of my patients, keeping myself far from all intentional ill-doing and all seduction and especially from the pleasures of love with women or with men, be they free or slaves.
All that may come to my knowledge in the exercise of my profession or in daily commerce with men, which ought not to be spread abroad, I will keep secret and will never reveal.
If I keep this oath faithfully, may I enjoy my life and practice my art, respected by all men and in all times; but if I swerve from it or violate it, may the reverse be my lot.
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mardi 30 décembre 2008
はじめに
医を考える場合、その領域はほとんど無限である。医を医学とすると、科学としての側面、例えば病気にはどのようなものがあり、どのようなメカニズムで出現するのかについて考えなければならないだろう。医を医療と捉えると、技術的側面、人間的側面を視野に入れなければならず、医者と患者を取り巻く問題が前面に出てくる。それぞれの立場で何が根本的な問題になるのか。哲学や倫理について考えを広げなければならなくなる。それはさらに医療を取り巻く社会的な問題へとつながるだろう。
途方もない奥行きである。そのすべてに思索を深めようという野心を持つのは重要だろうが、ここでは上に書いたような広がりに沿ってまず始めることにしたい。最初は科学に重点を置いたところから入り、そこから歴史的、哲学的、倫理的、社会的な考察がおそらくその順で続くものと予想される。未熟であることを恐れず、その時に自らの目の前に現れる問題について考えるという姿勢で歩みたい。
途方もない奥行きである。そのすべてに思索を深めようという野心を持つのは重要だろうが、ここでは上に書いたような広がりに沿ってまず始めることにしたい。最初は科学に重点を置いたところから入り、そこから歴史的、哲学的、倫理的、社会的な考察がおそらくその順で続くものと予想される。未熟であることを恐れず、その時に自らの目の前に現れる問題について考えるという姿勢で歩みたい。
dimanche 14 décembre 2008
ジョルジュ・カンギレムによるバロック
この夏、「正常と病理」 の中で本論に色付けする例として、バロックを持ち出しているところに出くわした。私にとって興味深い指摘であり、美しく書かれているので以下に引用したい。
Les arts plastiques, de la fin du XVIe siècle et du commencement du XVIIe siècle, ont fixé le style baroque, ont libéré partout le mouvement. A l'inverse de l'artiste classique, l'artiste baroque ne voit dans la nature que ce qui est inachevé, virtuel, non encore circonscrit. « L'homme du baroque ne s'intéresse pas à ce qui est, mais à ce qui va être. Le baroque est infiniment plus qu'un style dans l'art, il est l'expression d'une forme de pensée qui règne à cette époque dans tous les domaines de l'esprit : la littérature, la musique, la mode, l'Etat, la façon de vivre, les sciences ». Les hommes du début du XVIe siècle, en fondant l'anatomie, avaient privilégié l'aspect statique, délimité, de la forme vivante. Ce que Woelfflin dit de l'artiste baroque, qu'il ne voit pas l'oeil mais le regard, Sigerist le dit du médecin au début du XVIIe siècle : « Il ne voit pas le muscle, mais sa contraction et l'effet qu'elle produit. Voilà comment nâit l'anatomie animata, la physiologie. L'objet de cette dernière science est le mouvement. Elle ouvre les portes à l'illimité. Chaque problème physiologique conduit aux sources de la vie et permet des échappées sur l'infini ». Harvey, quoique anatomiste, ne voyait pas dans le corps la forme, mais le mouvement. Ses recherches ne sont pas fondées sur la configuration du coeur, mais sur l'observation du pouls et de la repiration, deux mouvements qui ne cessent qu'avec la vie. L'idée foncionnelle en médecine rejoint l'art de Michel-Ange et la mécanique dynamique de Galilée.
Georges Canguilhem, Le Normal et le pathologique
16世紀終わりから17世紀初めにかけて、造形芸術はバロック様式を定着させ、運動をあらゆるところに広く解き放った。古典芸術家とは反対に、バロックの芸術家は自然の中に未完成で表面に現れない、まだ境界が定かではないものしか見なかった。「バロックの人間は今あるものではなく、これから現れるものに興味を示しめす。バロックとは芸術の様式を遥かに超えるものである。それは当時の文学、音楽、流行、国家、生き方、科学などの精神のあらゆる領域を支配していた思想の一つの形の表現である」。16世紀初めの人間は解剖学の基礎を築き、生物の静的で限定された側面を大切にしていた。ヴェルフリンがバロック芸術家は目ではなく視線を見ると言ったが、シゲリストは17世紀初めの医者のことをこう言っている。「彼は筋肉ではなく、その収縮やそれが及ぼす効果を見る。ここに”動的解剖学”、すなわち生理学が生まれたのである。この科学の対象は動きである。これが無限への扉を開き、生理学のそれぞれの問題は生命の根源に至り、無限を見晴らすことを可能にする」。ハーベーは解剖学者ではあったが、体の中に形を見るのではなく動きを見たのである。彼の研究は心臓の形態に基づくものではなく、脈拍と呼吸の観察と命とともにしか停止しないこの二つ運動に基づいている。医学における機能という概念は、ミケランジェロの芸術とガリレオの動的力学を結び付けるのである。
ジョルジュ・カンギレム著「正常と病理」 (拙訳)
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lundi 27 octobre 2008
ヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼッカーに触れる
散策に出る時に手にしたヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼッカー (Viktor von Weizsäcker: 21 April 1886 - 9 January 1957) の「病因論研究―心身相関の医学」("Studien zur Pathogenese")をメトロとカフェで読む。今回は解説から始めた。
彼はアウトサイダー的な立場を万事において取っていたという。そんな中、弟子や学会、教会に対して辛辣な言葉を吐くという複雑な人間であったようだ。また、保守的で論理的な社会が革新を排除しようとしていたところからか、ナチの台頭には革命の期待を抱いていた節がある。さらに、ナチによる優生手術、遺伝的精神病者の安楽死に対しても否定的ではなかったし、むしろ遺伝疾患に対する強制避妊手術に対しては歓迎の意を示していたという。また全体のための個の犠牲にも同調していた記述が残っている。その後、このような物質主義的ダーウィニズムを非難するようになるが、、、彼への興味は病気をどのように見ようとしていたのかという一点であったが、新たに社会との複雑な関係が現れた。これから問題になるだろう。
豊富な臨床経験から病気に対する考えが次第にまとまりを見せてくる。彼の考え方は、心の活動を身体面から説明しようとしたり(身体因論)、逆に身体の変化を心の側から説明しようとする心因論でも、心と体が相互に反応しあうという心身平行論でもなかった。むしろ、心と体を持つ有機体が環境に接する時に相互に代替可能であるとする心身相関論を基にしているという。さらに原因と見えるもの、結果に見えるものが実はつながっていて環を成す形態をとっているとするゲシュタルトクライス "Gestaltkreis" という概念を提唱することになる。
この本の中に少し立ち止まるところがあった。それは次のような記述に出会った時である。
「われわれは、いろいろな機能をもっているから生きているのではない。生きているからいろいろな機能をもっているのである。機能や活動が障害されるから病気になるのではない。病気になるから機能や活動も障害されるのである。」
これをどのように解釈すればよいのか、考えさせられたのである。まず、生きていること、病気になることに重きが置かれている。科学的に見ると、例えば病気の主原因が一つの遺伝子の変化や明らかな外因であるような場合は機能が障害されるから病気になると考えてよいだろう。しかし、それ以外の多くの病気については彼の見方には真理があるように感じる。病気に主体を置き、病気になることは健康な時とは別のやり方で環境に対することになると考えている。病気に創造性を見るカンギレムにも通じるようだが、そこまで積極的に解釈しているのかもう少し読んでみないとわからない。
また多くの病歴を見ていく中で、心と体の基盤となっている患者の生活史に目を向けなければならないという考えに至っている。つまり、病気をその人間の人生におけるひとつのドラマとして捉え直さなければならないという立場である。病気の分子論的な解析、心理的な解析という局所的な視点ではなく、患者を長い時間軸の中に置き直して「なぜよりによって今なのか?」("Warum gerade jetzt?")を問わなければならないとしている。訳者らは、非線形理論、カオス理論の医学への応用も視野に入れていかなければならないが、そのためには両者の脱皮が必要だと考えている。
今日のお話は、ヴァイツゼッカーへの入り口に着いたようなものである。
彼の人間像とあわせてその考えをもう少し読み進みたい。
彼はアウトサイダー的な立場を万事において取っていたという。そんな中、弟子や学会、教会に対して辛辣な言葉を吐くという複雑な人間であったようだ。また、保守的で論理的な社会が革新を排除しようとしていたところからか、ナチの台頭には革命の期待を抱いていた節がある。さらに、ナチによる優生手術、遺伝的精神病者の安楽死に対しても否定的ではなかったし、むしろ遺伝疾患に対する強制避妊手術に対しては歓迎の意を示していたという。また全体のための個の犠牲にも同調していた記述が残っている。その後、このような物質主義的ダーウィニズムを非難するようになるが、、、彼への興味は病気をどのように見ようとしていたのかという一点であったが、新たに社会との複雑な関係が現れた。これから問題になるだろう。
豊富な臨床経験から病気に対する考えが次第にまとまりを見せてくる。彼の考え方は、心の活動を身体面から説明しようとしたり(身体因論)、逆に身体の変化を心の側から説明しようとする心因論でも、心と体が相互に反応しあうという心身平行論でもなかった。むしろ、心と体を持つ有機体が環境に接する時に相互に代替可能であるとする心身相関論を基にしているという。さらに原因と見えるもの、結果に見えるものが実はつながっていて環を成す形態をとっているとするゲシュタルトクライス "Gestaltkreis" という概念を提唱することになる。
この本の中に少し立ち止まるところがあった。それは次のような記述に出会った時である。
「われわれは、いろいろな機能をもっているから生きているのではない。生きているからいろいろな機能をもっているのである。機能や活動が障害されるから病気になるのではない。病気になるから機能や活動も障害されるのである。」
これをどのように解釈すればよいのか、考えさせられたのである。まず、生きていること、病気になることに重きが置かれている。科学的に見ると、例えば病気の主原因が一つの遺伝子の変化や明らかな外因であるような場合は機能が障害されるから病気になると考えてよいだろう。しかし、それ以外の多くの病気については彼の見方には真理があるように感じる。病気に主体を置き、病気になることは健康な時とは別のやり方で環境に対することになると考えている。病気に創造性を見るカンギレムにも通じるようだが、そこまで積極的に解釈しているのかもう少し読んでみないとわからない。
また多くの病歴を見ていく中で、心と体の基盤となっている患者の生活史に目を向けなければならないという考えに至っている。つまり、病気をその人間の人生におけるひとつのドラマとして捉え直さなければならないという立場である。病気の分子論的な解析、心理的な解析という局所的な視点ではなく、患者を長い時間軸の中に置き直して「なぜよりによって今なのか?」("Warum gerade jetzt?")を問わなければならないとしている。訳者らは、非線形理論、カオス理論の医学への応用も視野に入れていかなければならないが、そのためには両者の脱皮が必要だと考えている。
今日のお話は、ヴァイツゼッカーへの入り口に着いたようなものである。
彼の人間像とあわせてその考えをもう少し読み進みたい。
dimanche 19 octobre 2008
インパクト・ファクターの考え方
ノーベル賞受賞に際して、現在の科学のやり方が本末転倒になっているのではないかということを別ブログで書いた。簡単に言うと、どのような研究がよい研究かということについて考えることなく、インパクトの高い雑誌に発表された論文は優れた研究であるとされていることに問題はないかということであった。よい研究だからどこそこの雑誌に出たというのではなく、その雑誌に出たからよい研究であるとされていて、よい研究の条件にその結果が含まれる論理矛盾に陥っていると指摘した。このような状況になると、成された研究の中味を研究者が吟味し議論することがなくなり、他人任せの評価に委ねることになる。これで本当に画期的な研究が生まれるのか、溌剌とした科学が生まれるのかという疑問を下村脩氏の受賞対象になった研究を見て提示した。また以前に Martin Raff 氏がインパクトの高い雑誌のレフリーのやり方に疑義を呈した時に賛意を示した。
今日届いた10月10日発行の雑誌 Science の Editorial でドイツの Kai Simons 氏が同様の考えを発表している。また同じ号の Letters 欄には NIH の Abner Notkins 氏がインパクト・ファクター (IF) の悪弊を除き科学が本来の道を歩む方法として三つのことを提案している。第一に、研究所はIFを評価の対象とはしない宣誓書を出すこと、第二に研究室のヘッドも同様の宣誓書を作り、メンバーと堅実な研究の進め方についてディスカッションをすること、第三には雑誌社はIFを一切公表しないことである。これらが実行されればかなりの効果は期待できそうである。ただ雑誌の商業主義が今の傾向を煽っているところがあるので実現するかどうかは定かではないが、少なくとも科学者の側だけでもその姿勢を変えることができれば、大きく動き出す可能性は高いのではないだろうか。
以下に Simons 氏の発言の要約をした。詳細は原文を参照願いたい。
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IF が研究の質の反映ではない。雑誌がレビューを取り入れると引用回数が増えるので、雑誌の方がIFをあげる工夫をしている。驚くべきことに訂正の引用まで計算されている。なぜこれほどまでにIFが力を持つようになったのか。それが研究者の論文が評価され、研究費の配分から昇進など研究者や研究所の将来を決めるようになったからである。従ってIFの高い雑誌に出そうとして時間の浪費と研究者のやる気を削ぐことになる。
幸い新しい試みも始っている。Howard Hughes Medical Institute では研究者の選んだ限られた論文について詳細に検討するようになっている。また雑誌の方でも、例えば PLoS One などはある分野への貢献度を主観的に考慮することなく、テクニカルにしっかりしているものであれば掲載することにしている。European Molecular Biology Organization でも研究者のやる気を削ぐようなやり方ではないレビューの方法を導入しようとしている。
どこに発表された論文であろうが、研究そのものの質を研究者が評価しなければならない。しかし、出版社、研究者、研究機構すべてが真剣にこの問題に取り組まなければいつまでもこの数字に怯えることになるだろう。
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Science 10 October 2008:
Vol. 322. no. 5899, p. 165
Editorial
The Misused Impact Factor
Kai Simons*
Research papers from all over the world are published in thousands of Science journals every year. The quality of these papers clearly has to be evaluated, not only to determine their accuracy and contribution to fields of research, but also to help make informed decisions about rewarding scientists with funding and appointments to research positions. One measure often used to determine the quality of a paper is the so-called "impact factor" of the journal in which it was published. This citation-based metric is meant to rank scientific journals, but there have been numerous criticisms over the years of its use as a measure of the quality of individual research papers. Still, this misuse persists. Why?
The annual release of newly calculated impact factors has become a big event. Each year, Thomson Reuters extracts the references from more than 9000 journals and calculates the impact factor for each journal by taking the number of citations to articles published by the journal in the previous 2 years and dividing this by the number of articles published by the journal during those same years. The top-ranked journals in biology, for example, have impact factors of 35 to 40 citations per article. Publishers and editors celebrate any increase, whereas a decrease can send them into a huddle to figure out ways to boost their ranking.
This algorithm is not a simple measure of quality, and a major criticism is that the calculation can be manipulated by journals. For example, review articles are more frequently cited than primary research papers, so reviews increase a journal's impact factor. In many journals, the number of reviews has therefore increased dramatically, and in new trendy areas, the number of reviews sometimes approaches that of primary research papers in the field. Many journals now publish commentary-type articles, which are also counted in the numerator. Amazingly, the calculation also includes citations to retracted papers, not to mention articles containing falsified data (not yet retracted) that continue to be cited. The denominator, on the other hand, includes only primary research papers and reviews.
Why does impact factor matter so much to the scientific community, further inflating its importance? Unfortunately, these numbers are increasingly used to assess individual papers, scientists, and institutions. Thus, governments are using bibliometrics based on journal impact factors to rank universities and research institutions. Hiring, faculty-promoting, and grant-awarding committees can use a journal's impact factor as a convenient shortcut to rate a paper without reading it. Such practices compel scientists to submit their papers to journals at the top of the impact factor ladder, circulating progressively through journals further down the rungs when they are rejected. This not only wastes time for editors and those who peer-review the papers, but it is discouraging for scientists, regardless of the stage of their career.
Fortunately, some new practices are being attempted. The Howard Hughes Medical Institute is now innovating their evaluating practices by considering only a subset of publications chosen by a scientist for the review board to evaluate carefully. More institutions should determine quality in this manner.
At the same time, some publishers are exploring new practices. For instance, PLoS One, one of the journals published by the Public Library of Science, evaluates papers only for technical accuracy and not subjectively for their potential impact on a field. The European Molecular Biology Organization is also rethinking its publication activities, with the goal of providing a means to publish peer-reviewed scientific data without the demotivating practices that scientists often encounter today.
There are no numerical shortcuts for evaluating research quality. What counts is the quality of a scientist's work wherever it is published. That quality is ultimately judged by scientists, raising the issue of the process by which scientists review each others' research. However, unless publishers, scientists, and institutions make serious efforts to change how the impact of each individual scientist's work is determined, the scientific community will be doomed to live by the numerically driven motto, "survival by your impact factors."
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*Kai Simons is president of the European Life Scientist Organization and is at the Max Planck Institute of Molecular Cell Biology and Genetics in Dresden, Germany.
今日届いた10月10日発行の雑誌 Science の Editorial でドイツの Kai Simons 氏が同様の考えを発表している。また同じ号の Letters 欄には NIH の Abner Notkins 氏がインパクト・ファクター (IF) の悪弊を除き科学が本来の道を歩む方法として三つのことを提案している。第一に、研究所はIFを評価の対象とはしない宣誓書を出すこと、第二に研究室のヘッドも同様の宣誓書を作り、メンバーと堅実な研究の進め方についてディスカッションをすること、第三には雑誌社はIFを一切公表しないことである。これらが実行されればかなりの効果は期待できそうである。ただ雑誌の商業主義が今の傾向を煽っているところがあるので実現するかどうかは定かではないが、少なくとも科学者の側だけでもその姿勢を変えることができれば、大きく動き出す可能性は高いのではないだろうか。
以下に Simons 氏の発言の要約をした。詳細は原文を参照願いたい。
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IF が研究の質の反映ではない。雑誌がレビューを取り入れると引用回数が増えるので、雑誌の方がIFをあげる工夫をしている。驚くべきことに訂正の引用まで計算されている。なぜこれほどまでにIFが力を持つようになったのか。それが研究者の論文が評価され、研究費の配分から昇進など研究者や研究所の将来を決めるようになったからである。従ってIFの高い雑誌に出そうとして時間の浪費と研究者のやる気を削ぐことになる。
幸い新しい試みも始っている。Howard Hughes Medical Institute では研究者の選んだ限られた論文について詳細に検討するようになっている。また雑誌の方でも、例えば PLoS One などはある分野への貢献度を主観的に考慮することなく、テクニカルにしっかりしているものであれば掲載することにしている。European Molecular Biology Organization でも研究者のやる気を削ぐようなやり方ではないレビューの方法を導入しようとしている。
どこに発表された論文であろうが、研究そのものの質を研究者が評価しなければならない。しかし、出版社、研究者、研究機構すべてが真剣にこの問題に取り組まなければいつまでもこの数字に怯えることになるだろう。
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Science 10 October 2008:
Vol. 322. no. 5899, p. 165
Editorial
The Misused Impact Factor
Kai Simons*
Research papers from all over the world are published in thousands of Science journals every year. The quality of these papers clearly has to be evaluated, not only to determine their accuracy and contribution to fields of research, but also to help make informed decisions about rewarding scientists with funding and appointments to research positions. One measure often used to determine the quality of a paper is the so-called "impact factor" of the journal in which it was published. This citation-based metric is meant to rank scientific journals, but there have been numerous criticisms over the years of its use as a measure of the quality of individual research papers. Still, this misuse persists. Why?
The annual release of newly calculated impact factors has become a big event. Each year, Thomson Reuters extracts the references from more than 9000 journals and calculates the impact factor for each journal by taking the number of citations to articles published by the journal in the previous 2 years and dividing this by the number of articles published by the journal during those same years. The top-ranked journals in biology, for example, have impact factors of 35 to 40 citations per article. Publishers and editors celebrate any increase, whereas a decrease can send them into a huddle to figure out ways to boost their ranking.
This algorithm is not a simple measure of quality, and a major criticism is that the calculation can be manipulated by journals. For example, review articles are more frequently cited than primary research papers, so reviews increase a journal's impact factor. In many journals, the number of reviews has therefore increased dramatically, and in new trendy areas, the number of reviews sometimes approaches that of primary research papers in the field. Many journals now publish commentary-type articles, which are also counted in the numerator. Amazingly, the calculation also includes citations to retracted papers, not to mention articles containing falsified data (not yet retracted) that continue to be cited. The denominator, on the other hand, includes only primary research papers and reviews.
Why does impact factor matter so much to the scientific community, further inflating its importance? Unfortunately, these numbers are increasingly used to assess individual papers, scientists, and institutions. Thus, governments are using bibliometrics based on journal impact factors to rank universities and research institutions. Hiring, faculty-promoting, and grant-awarding committees can use a journal's impact factor as a convenient shortcut to rate a paper without reading it. Such practices compel scientists to submit their papers to journals at the top of the impact factor ladder, circulating progressively through journals further down the rungs when they are rejected. This not only wastes time for editors and those who peer-review the papers, but it is discouraging for scientists, regardless of the stage of their career.
Fortunately, some new practices are being attempted. The Howard Hughes Medical Institute is now innovating their evaluating practices by considering only a subset of publications chosen by a scientist for the review board to evaluate carefully. More institutions should determine quality in this manner.
At the same time, some publishers are exploring new practices. For instance, PLoS One, one of the journals published by the Public Library of Science, evaluates papers only for technical accuracy and not subjectively for their potential impact on a field. The European Molecular Biology Organization is also rethinking its publication activities, with the goal of providing a means to publish peer-reviewed scientific data without the demotivating practices that scientists often encounter today.
There are no numerical shortcuts for evaluating research quality. What counts is the quality of a scientist's work wherever it is published. That quality is ultimately judged by scientists, raising the issue of the process by which scientists review each others' research. However, unless publishers, scientists, and institutions make serious efforts to change how the impact of each individual scientist's work is determined, the scientific community will be doomed to live by the numerically driven motto, "survival by your impact factors."
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*Kai Simons is president of the European Life Scientist Organization and is at the Max Planck Institute of Molecular Cell Biology and Genetics in Dresden, Germany.
lundi 13 octobre 2008
アレックス・ローゼンバーグ氏で哲学と科学の接点を想う
新学期の最初の週が終った。ゆったりした日曜の朝である。昨日はデューク大学の科学哲学者アレックス・ローゼンバーグ氏(Alex Rosenberg)のセミナーを聞く。テーマは、発生遺伝学における還元主義の問題について。正式には、以下の通り。
"Five challenges to genocentrism in molecular developmental genetics"
まず言葉の定義から始った。
"genocentrism" (遺伝子中心主義):発生の説明を還元主義 (reductionism) で説明しようとすること。遺伝子が発生プログラムを規定し、そこで特別の役割を演じるとする見方。
"reductionism" (還元主義):生物学の説明が分子機構の詳細を明らかにすることにより改善され、その情報が加わるほどその完成度が増すとする考え方。還元主義と対するものとして、生物学には法則がない(メンデルの法則以外)とする考え、物質的基盤のはっきりしない欲望、信仰、魂などの存在を排除する eliminativism の否定、それにボトムアップ型の研究などをあげていた。
彼が指摘した遺伝子中心主義に対する挑戦は以下の5つになる。
1)Contra-induction
2) Anti-reductionism
3) Contra-genocentrism
4) Against the informational programming role of the genes
5) Replacing the univocal gene
発生のプログラムに細胞全体が不可欠であるとすれば、単純に遺伝子や分子だけで説明できるのか。脊椎動物の発生が蠅と同じではないはずである。遺伝子そのものの中には生物学的な情報までは入っていないのではないか(遺伝子産物が細胞の中でどのように振舞うのかまでの情報はないのではないか)。 epigenetic transmissionをどう捉えるのか。遺伝子以外の要素(環境など)が重要であるというholisticな立場が必要なのではないか。 natural selectionは還元主義にとって障害になるのではないか。自然選択は物理的な法則に基づく過程ではなく全く偶然に任されたものであり、物質主義者とは相容れないのではないか。
このような還元主義への疑問が出されているが、実際の科学の営みは最初に掲げた還元主義に深く根ざしていて、最早如何ともし難いものがあるかに見える。それ以外に科学の進む道はないかに見える。しかし、そこから全体の理解につながる視点が得られるだろうか。そして科学が全的理解に辿り着く新たな道を見つけることができるのだろうか。それが不可能であるとわかった時、科学と哲学の接点が見えてくるように思えるのだが、、。
"Five challenges to genocentrism in molecular developmental genetics"
まず言葉の定義から始った。
"genocentrism" (遺伝子中心主義):発生の説明を還元主義 (reductionism) で説明しようとすること。遺伝子が発生プログラムを規定し、そこで特別の役割を演じるとする見方。
"reductionism" (還元主義):生物学の説明が分子機構の詳細を明らかにすることにより改善され、その情報が加わるほどその完成度が増すとする考え方。還元主義と対するものとして、生物学には法則がない(メンデルの法則以外)とする考え、物質的基盤のはっきりしない欲望、信仰、魂などの存在を排除する eliminativism の否定、それにボトムアップ型の研究などをあげていた。
彼が指摘した遺伝子中心主義に対する挑戦は以下の5つになる。
1)Contra-induction
2) Anti-reductionism
3) Contra-genocentrism
4) Against the informational programming role of the genes
5) Replacing the univocal gene
発生のプログラムに細胞全体が不可欠であるとすれば、単純に遺伝子や分子だけで説明できるのか。脊椎動物の発生が蠅と同じではないはずである。遺伝子そのものの中には生物学的な情報までは入っていないのではないか(遺伝子産物が細胞の中でどのように振舞うのかまでの情報はないのではないか)。 epigenetic transmissionをどう捉えるのか。遺伝子以外の要素(環境など)が重要であるというholisticな立場が必要なのではないか。 natural selectionは還元主義にとって障害になるのではないか。自然選択は物理的な法則に基づく過程ではなく全く偶然に任されたものであり、物質主義者とは相容れないのではないか。
このような還元主義への疑問が出されているが、実際の科学の営みは最初に掲げた還元主義に深く根ざしていて、最早如何ともし難いものがあるかに見える。それ以外に科学の進む道はないかに見える。しかし、そこから全体の理解につながる視点が得られるだろうか。そして科学が全的理解に辿り着く新たな道を見つけることができるのだろうか。それが不可能であるとわかった時、科学と哲学の接点が見えてくるように思えるのだが、、。
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