samedi 29 juin 2013

「医学の哲学」 国際セミナーで思考の違いを考える


医学の哲学を研究している若手のための国際会議がパリで開かれた


6月20日から22日までの3日間、パンテオン・センターが会場だった

わたし自身の研究テーマとは直接の関係がないこともあり、会があることは知らなかった

その中に3つのワークショップがあり、シニアとジュニアの二人で座長をすることになっていた

そして、なぜかわたしがジュニアの座長に指名されたのである

専門ではないのでお断りしたが認められず、参加を余儀なくされた

テーマは 「医学における知識と実践」

どんなことになるのかその場で観察するといういつもの危うい考えで、「こと」に臨んだ

それ以外には方法がなかったからでもある


アメリカ、カナダ、イタリア、フランスの若手が参加した会では多くのことを学んだ

まず、大雑把な印象から

アメリカ大陸の方は皆さん声がよく通り、話すのが速い

深く留まるように考えるところはなく、流してどんどん先にいく

そして、情報量が多い

一方、フランスの若手は考えながら言葉を紡ぎ出しているのが手に取るようにわかる話振りであった

知識の量よりは、一つの問題を掘り下げて考えるところがあるように感じた

イタリアの若手は何の衒いもなく、小気味よい論理の展開でどんどん前に進み、好感を持った


少し引いて彼らの話を見直してみると、次のような考えが浮かんできた

第一に、彼らの思考様式がわれわれのもとのかけ離れているように見えること

 また、思考が行われているレベルも違うように感じる

これは、抽象的概念を用いて論理的に考えることをわれわれが苦手としていることと関係がありそうである

その訓練を若い時からやっているのかどうかが、大きな違いとなって表れているのだろう

同年代の日本人の中に、彼らと同じレベルで話ができる人が一体どれだけいるだろうか

そんな疑問が頭を過った


もう一つ感じたことは、言語と思考の関係である

それは、フランスの若手が英語で言う muse しながら語っているような話振りを観ている時に浮かんできた

つまり、言葉が思索の道具として使われているのが見えるように感じたからである

言葉を発する時に単なる記号と堕しているのではなく、それが思考と密に繋がっているような関係が見えたのである

このように言葉を発する人は意外に少ないことに気付く

それは、時間をたっぷり取り、ゆっくり考えるという習慣が生み出すものではないだろうか

今、暇の只中にいる身であればこそ、そのように感じたのかもしれない

 忙しく仕事をしている時には全く逆の印象を持ったのではないか、と想像されるからである



ところで、会が終わった後、オーガナイザーからワークショップのサマリーを求めるメールが届いた

会の前に言ってもらえれば、もう少ししっかりと聴いていたのに、と恨み言でも言いたくなる心境だった

しかし、ここはフランスである

こちらに来てからは苛立つことはなくなっている

乏しいメモをもとに纏めて提出したところである
 
当日討論された内容に興味をお持ちの方は、以下をご覧いただければ幸いです


jeudi 27 juin 2013

リチャード・ドーキンス博士 "Greatest Show on Earth" を語る




ドーキンス氏の本のプロモーションにお付き合いするようだが、仏訳を持っているので取り上げてみた

こちらに来てから、英語の本もフランス語で読むことが多くなっている

普通のリブレリーで英語の本を探すことはほとんど不可能なので致し方ない

ドーキンス氏の主張の大枠は、大体頭に入りつつある

イギリス人らしいというべきなのか、ドーキンスさんらしいというべきなのか、端正できりりとした話し方である

われわれのふわーっとした話し方とは違い、正確を期そうとして決然と言葉を発しているのがわかるようだ




vendredi 21 juin 2013

"American Philosopher" を観る




偶然に行き当たったアメリカの哲学者のインタビュー・フィルムを観る


最終的には、冒頭でリチャード・ローティ(Richard Rorty, 1931-2007)さんが語っていることに尽きるのだろうか

哲学は自己の中に何があるのかを知るということから、新しい人間になるということに変わってきたのではないか

ソクラテスから始まった哲学は、ニーチェによる新しい人間の創造へと移行していったということになる

わたしであれば、自己を探ることによって新しい人間になる、と言いたいところである

つまり、哲学によって生き方が変わるということになる

あるいは、生きることを考えた時、哲学が現れた、と言った方がより正確か

この関係は相互に絡み合っているのだが、、


ローティさんは他にも興味深いことを言っている

例えば、アメリカの哲学というように場所の特徴を示す哲学を規定することは難しいのではないか

なぜなら、哲学は人口の1%程度を占めるコスモポリタンのような人間がやる傾向があるからである

哲学者は他の職業に比べてノマドの傾向が強いといういくつかの発言もある

もちろん、土地の伝統の影響を強く受けている哲学者もいるという別の指摘もあるのだが

 日本の場合はコスモポリタンの傾向は少ないように見えるが、実際にはどうなのだろうか


ローティさんの他の指摘から

大学における師弟関係で哲学を論じる傾向があるが、哲学は常に外から入ってきているのである

哲学者には、社会を変えるために考える人と古代ギリシャからある問題を考える人の二つのタイプがある


ヒラリー・パトナム(Hilary Putnam, 1926-)さんが語ったという優れた哲学の要件

それは、ヴィジョン(洞察力)と議論のフィネス(巧みさ)

どちらか一方が欠けても駄目だという

その他、最近ここでも取り上げた分析哲学と大陸哲学についての分析も出ていて、実に興味深いものであった


お話に出てきたアメリカの哲学者から

ジョナサン・エドワーズ(Jonathan Edwards, 1703-1758): アメリカ初の哲学者と言われる

ラルフ・ワルド・エマーソン(Ralph Waldo Emerson, 1803-1882)

チャールズ・サンダース・パース(Charles Sanders Peirce, 1839-1914)

ウィリアム・ジェームズ(William James, 1842-1910)

ジョン・デューイ(John Dewey, 1859-1952)

ジェーン・アダムズ(Jane Addams, 1860-1935): ソーシャルワークの先駆者

コーネル・ウェスト(Cornel Ronald West, 1953-)


進歩の議論の時に出てきた Meliorism




vendredi 14 juin 2013

ピエール・ゴルシュタインさんの科学研究


昨日、マルセイユの免疫学者ピエール・ゴルシュタインさんのセミナーを聴く

Pierre Golstein (Centre d'Immunologie de Marseille-Luminy)

T細胞による殺傷機構や細胞死について長い間研究されている

研究領域が違うこともあり、直接お話を聴くのは初めてになる

タマホコリカビ (Dictyostelium discoideum)を使って、発生、細胞死、免疫などについて解析していた


イントロでは、研究を始めることだけではなく、研究所を創る過程についても話をされていた

マルセイユの研究所の創設に関わっただけではなく、今はインドの研究所の立ち上げにも関わっているからだろう

それから、研究のモデルを選ぶということについて話題にされた

まさに、モデルを選ぶということを哲学する、という風情であった

この地上には真核生物だけでも1000万に及ぶ種が存在しているという

それにもかかわらず、主要な研究対象は10種程度である

つまり、研究者が研究対象を選ぶ時に、考えていないという主張である

あるいは、そもそも研究モデルを選ぶという発想自体が頭にないということである

研究を始めた研究室で偶然に使われていた動植物をモデルにしているだけではないかというのである

わたしが言うとすれば、ヒラリー卿よろしく、「そこに・・・があったから」 に過ぎないことになる

研究者が意識的にモデルを選ぶとすれば独立した時であるが、モデルを変えることはほどんどない

モデルの選択ということを考えていないこともあるが、変えることには危険が伴うと直観的に感じていることもあるだろう

ご自身は、長い間マウスを使っていたが、考えて今のモデルに切り替えたという

細胞死にはアポトーシスやネクローシス以外にもいろいろな型があるはずだと考えているからだろう


お話を聴きながら感じていたこと

まず、言葉を正確に使おうとしていること

それは、思考を正確にしようということである

事実を語るだけではなく、常に考えるためのクッションが置かれているとでも言うべき精神の状態を観ることができる

こちらに来た当時の身で聴いたと想像してみると、日本では見たことがない科学者だという感想を抱いただろう

「フランス的な」 科学者などと言うことには問題があるのだろうが、そう言いたくなる衝動に駆られる

哲学的だ、とは言えそうだが

上滑りなところは微塵もなく、どこまでも落ち着いている

別の言い方をすれば、大人に見えるのである

フランス、あるいはヨーロッパの科学の歴史が滲み込んでいることを感じさせる

普段は1時間半のセミナーだがこの日は3時間にも及び、流石のフランス人も終わりの時間を確認していた

研究成果そのものよりも研究や科学をどのように考えるのかについて、多くのことを考えさせられる時間となった





dimanche 9 juin 2013

パリから見えるこの世界: 第5回 「フィリップ・クリルスキー教授とともに専門と責任の関係を考える」


雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 「パリから見えるこの世界」 の第5回エッセイを紹介いたします。

  医学のあゆみ (2012.6.9) 241 (10): 802-805, 2012
 
 ご一読、ご批判いただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。





samedi 8 juin 2013

ダニエル・デネットさんによる自由意志を聴く




アメリカの哲学者ダニエル・デネット(Daniel Dennett, 1942-)さんの自由意志についての話を聴く

2007年、エディンバラ大学での講演から





samedi 18 mai 2013

科学と宗教: ジョン・レノックス vs. リチャード・ドーキンスの対論を味わう





オックスフォードのクリスチャンと無神論者の対論を二つ聴く

2007年アメリカのアラバマ大学と2008年オックスフォード大学で行われたもの

数学者ジョン・レノックス(John Lennox)さんとリチャード・ドーキンス(Richard Dawkins, 1941-)さんが登壇している

いずれも言葉の正確さとどこまでも論理的であろうとするイギリス人の心、討論の醍醐味をたっぷり味わうことができる

おそらく、国の知性を代表するお二人なのだろう

日本ではなかなか経験できない時間となった


オックスフォード大学でのお二人の主張を掻い摘んで言うと、次のようになるだろうか

まず、レノックスさんのお考えから

この素晴らしい世界が何の導きもなしに生まれたとは信じられない

そこには神という創造者がいるに違いない

宗教は善悪、正義、真理、許しなどの価値を提供している

神のない世界を主張する人は、究極の正義をどこに見ているのか

還元主義的なやり方ではこの世界が益々理解できなくなるだろう

ダーウィンの言うことはわからないではないが、生命の起源や意識などは説明できていない

実体である神がそこで特別の仕事をしたはずである

 16-17世紀に近代科学が生まれたが、その原動力はキリスト教の神であった

ケプラーやガリレオは神の創造物を理性的に理解しようとし、数学でそれが可能になると考えたのである

東洋で科学が生まれなかったのは、キリスト教の存在が関係している

キリスト教は決して反科学的ではなく、科学そのものである



これに対して、ドーキンスさんは次のように主張する

この世界は何の目的もないランダムな過程から生まれたものである

自動的で、盲目的で、そこには導きもない

もちろん、今の科学で理解できていないことがあることは認める

しかし、そこに神を持ち出しても何の説明にもならない

むしろ、その神はどうしてできたのかというもう一つの複雑な問題を生むだけである

確かに、この世界には希望も正義もない

だが、それが真実なのだ

キリストが存在したのかどうかは些細な問題である(後で、存在したと認めてもよいと訂正していた)

そんなことは気にせず、人生を楽しみなさいと言いたい(後で、人生を十全に生きなさいと訂正)

この宇宙には価値はない

決定論の世界であり、理性的で理解可能な世界である

理解不能な世界に生きることを想像できますか

ダーウィン以前は、すべて魔法か神の力で片付けられてきた

科学がすべてを説明できていないし、結局説明できないかもしれない

しかし、神に逃げ込まず、諦めないことが重要である



この問題の入門としては、この対論に問題のエッセンスは尽きているようにも見える

対論を聞いた現時点でのわたしの結論は、次のようになるだろうか

科学はあくまでも科学の中で理解できるように歩みを最後まで続けて行く

しかし、科学では如何ともしがたい価値の問題がこの世界にはある

それを宗教に求めるのかどうかは別にして、人間として考えなければならない点である

科学者の枠を超えなければならないと考えている 

確かに、神が科学を進めるモーターになることもあっただろう

しかし、それを科学の中に持ち込むことは避けなければならない

少なくともわれわれが生きている間に科学がすべてを解決するとは考えられない

であれば、科学に任せてしまうのではなく、常に科学を超えた視点を持っておく必要があるのではないか











jeudi 16 mai 2013

これまでの 「サイファイ・カフェ SHE」 の話題




2011年11月

科学の問題を科学の中での議論に留まるのではなく、哲学や歴史の視点からも省みる試みを始めました

趣旨はこちらにあります
 
 最初は 「科学から人間を考える」 試みと銘打っていましたが、最近 サイファイ・カフェ SHE と改名

この3月には第5回を終えることができました

参加された皆様には改めて感謝いたします


今回、講師の発表内容をまとめ、サイトに公開しました

 ご一読、ご批判いただければ幸いです

よろしくお願いいたします

 
第1回 (2011.11.24-25)
「科学と哲学を考える」 
発表内容 

 第2回 (2012.4.17-18)
「科学の決定論と人間の自由を考える」 
発表内容

  第3回 (2012.9.11-12)
「正常と病理を考える」 
発表内容 

  第4回 (2012.11.29-30)
「脳と心、あるいは意識を考える」 
発表内容 

第5回 (2013.3.26-27)
「生気論を考え直す」 
発表内容



lundi 13 mai 2013

パリから見えるこの世界: 第4回 「フランスの大学で哲学教育を受け、文化に根差すということを考える」


雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 「パリから見えるこの世界」 の第4回エッセイを紹介いたします。

医学のあゆみ (2012.5.12)241 (6): 486-490, 2012

 
 ご一読、ご批判いただければ幸いです。
 よろしくお願いいたします。




dimanche 5 mai 2013

大陸哲学と分析哲学、わたしの場合


こちらに来る前、フランスのものを読み、その思考に違和感を覚えたことについては、これまで何度も触れている。ひょっとすると、そのことからすべてが始まっていると言っても過言ではないのかもしれない。違和感を増強した背後には、アメリカで染み付いたアングロ・サクソン的なものの見方があったこともほぼ間違いないだろう。この違いをどう表現すればよいのだろうか。これまでに書いてきたものの中に、いろいろな表現で出てきているはずである。

一般に、フランスやドイツの哲学を大陸哲学、アングロ・サクソンの哲学を分析哲学というが、それは地理的な差ではなく、それぞれの伝統的なやり方についての名称になっている。ここで、両者の違いをアメリカで大陸哲学をやっているバベット・バビッチ(Babette Babich, 1956-)さんの近著La Fin de la pensée ? Philosophie analytique contre philosophie continentale (2012)を頼りに簡単に纏めてみたい。

哲学とは考えること、思想、思考に関するという点では両者に差はない。大きく言ってしまうと、分析哲学は明晰さ、論理、答え、解決を求めるのに対して、大陸哲学は答えではなく問いの意味を考える傾向がある。先日取り上げたネガティブ・ケイパビリティとも関係しそうな 「曖昧さに耐える能力」 が求められるのである。大陸哲学が多元論的で、分析哲学を排除することはない寛容さがあるのに対して、分析哲学は大陸哲学を拒否する。両者の間には単なるスタイルや気質の違いだけではなく、対立の可能性が内在している。 

もう少し詳しく見ると、大陸哲学は哲学的問い掛けを問い掛けとして開いた状態にあることを認める。答えを提供することよりは、厳密で批判的な問い掛けを提供することに興味を持っている。問いを出すに値するのはなぜなのかについて省察しようとする。哲学の誕生以来ある問題の全体を再検討することを目指すもので、現実世界を感受し、生きることに関係する哲学を生み出す素地がある。自らの正当性の根拠を科学に求めないため、科学についての省察が可能になる。

対する分析哲学は、対象を分解し、非現実的で間違った問題を排除、否定し、最終的に分析できない問題がないようにする。ある意味では縮小に向かう概念とも言える。そのことにより、「こと」 を前に進める発展・進歩の思想も含まれてくる。この哲学がその正当性を科学に求め、科学とともにあること、科学だけが問題を解決するとする科学主義の傾向があることを考えると、よく理解できる。永遠の問題など言っているのは、明晰さの欠如であり、科学の欠如、知性の限界であると考えるのである。

分析哲学が優位にある世界でのよい哲学とは、明快に議論されているもので、必然的に理解しやすいものになる。明晰さと平明さは今日の大学においても、公共においても重要になっている。世に出回っているものを見れば、このことがよくわかる。対する悪い哲学は、読み辛く、理解しにくいもので単に避けられるだけではなく、批判の対象にさえなる。    

バビッチさんによれば、今では大陸哲学の要素が圧縮されるような形で一つの哲学として扱われているという。アメリカの大学で大陸哲学をやることは、社会的に認知されないことをやるような雰囲気があり、大陸哲学者は賤しめられていると見ている。しかし同時に、分析哲学はその資源を使い果たしたのか、大陸哲学の魅力のためなのか、大陸哲学のテーマを取り入れる傾向も見られるという。その扱い方には不満があるようだが、、。このような傾向はフランスでも表れていると見ているが、学生の大陸哲学に対する興味は衰えていないという。
翻って自らの立場を考えると、こうなりそうだ。もともとフランスに渡ってきたのは、まさにここで言う大陸哲学の訳のわからなさに惹かれてのことであった。科学の中に長く身を置く中で、何かが欠けていると感じたもの。それこそ科学では解決できない問いを一人の人間として問うことだったような気がしている。そのため、フランスでも科学的哲学に浸食されている現状には残念な気がしている。ただ、わたしが形而上学に強く惹かれたように、これまでの哲学に飽き足らなくなり、科学にその足掛かりを求めるということも理解はできるのである。今の考えは、科学から出発して形而上学へと飛び、その上で両者の間を行き来できればよいのだが、ということになるだろうか。