先日、この問題について免疫学での考え方を少し紹介した際に、システム生物学に批判的な立場を取る学者としてシドニー・ブレナーさんの名前を出した。彼の考え方を検討する前に、2000年にキーストンで聞いた講演の印象記が残っているので振り返ってみたい。
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Keynote Address に立ったSydney Brenner(Molecular Sciences Institute)は "From Genes to Organisms" と題して、スライドなしで一時間、ゆったりと噛み締めるように、時にはユーモアたっぷりに、また時には若い人への助言も交えながら話した。彼の話を聞いていると、考えることが如何に重要であり、また楽しいことであるのかと言うことがその全身から伝わってくる。そこにはあくせくとした経済至上主義的な科学のやり方とは無縁のものが漂って いて、西洋の科学の歴史と伝統というようなものをどうしても感じてしまう。
彼の話題は、現在ゲノムプロジェクトが花盛りであるが、遺伝子の構造が明らかにされた後の問題、すなわち塩基配列から遺伝子の機能、さらには個体の在り様が予測できるか、genotypeからphenotypeをcomputeできないかという根本的な問題についてであった。その骨子は、最近の論文にも述べられているので参照されたい(The end of the beginning. Science 287: 2173-2174, 2000)。
遺伝子情報から細胞、個体がどのように機能するか、どのような形になるのかをコンピュータで予測することについては、現段階では否定的であった。一つには、 細胞の中は、溶液の中に多数の分子が浮いていて、ランダムにぶつかり合っているようなものであり、あるプログラムで動いているというような代物ではないこと。生物現象はマスターコントロールなどされないランダムな出来事によっており、その中である分子が本来持っている機能を発揮できる相手と特定の場所、時間に出会った場合のみ作用するという程度のものでしかないこと(中心、マスターによる作為がないという意味では、宗教、神の存在とは相容れないもの)。したがって、遺伝子産物を作らせて、試験管や細胞内でそのやるべきことをやらせて、それを測定すること "measurements" によってのみ機能がわかるという。その意味で、これから重要になるのは今忘れられつつある定量的な解析 "quantitative analysis" である。ある分子が何個細胞にあり、その1個がどのような分子と相互作用しているのかということを明らかにすること。また、 "regulation" もこれからのキーワードになってくるだろう。biochemistry は死んだと言われるが、これからその再生が必要であり、事実細胞周期やシグナル伝達の研究などから "information transfer" を扱う新しいbiochemistry が生まれつつある。
彼は、ヒトの遺伝子を今予想されているよりは少ない5万弱ではないかと推定している。ゲノムの解明が終わった後は、その一つ一つの機能を明らかにしていくことが重要になるが、このことは5万人の生化学の教授を必要としていることを意味しているという。余談であるが、Arabidopsis のゲノムプロジェクトに関与している Elliot Meyerowitz (Cal Tech)によると、yeast は6,000、C. elegans は9,000、Drosophilaは14,000の遺伝子を持つのに対して、彼の扱っている植物は25,000と意外に多くの遺伝子を持っているという。一つには、外界の状況を感知するシステム(例えば、レセプター型セリンスレオニンキナーゼ遺伝子が100くらいはあり、それに伴うシグナル伝達系も発達していると想定される)と同時に、それに対応した毒素や酵素を作るための機構に用いられているようである。
若い人への助言として話していたのは、何かを始めようとする時にこれから扱おうとする対象がどのようなものであるのかについて、論理的な構造(logical structure) を把握しておかなければならない。これが弱くなっているのではないかという。また、教科書にあるようなドグマチックなモデルに囚われることなく(例えば、 細胞の中で、ある分子が線で引かれた道を動くというようなことはない)、実際に起こっていることを想像することが重要だということも指摘していた。心したい点である。
(2000年4月21日)
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このシンポジウムの2年後にブレナーさんはノーベル賞をもらっている。その時からかなりの時間が経過したが、最近の考え方を以下のインタビューで語っている。1927年1月13日生まれの御年83だが、全く衰えを知らず素晴らしいとしか言いようがない。
- An interview with... Sydney Brenner. Interview by Errol C. Friedberg. Nat Rev Mol Cell Biol. 9: 8-9, 2008.
- Interview with Sydney Brenner by Soraya de Chadarevian. Stud Hist Philos Biol Biomed Sci. 40: 65-71, 2009.
なぜシステム生物学は成功しないか
全体を理解しようとするのは大切である。しかし、システム生物学がやろうとしているのはデータを大量に集め、そこからモデルを作ろうとする逆問題(inverse problem)を扱っており、成功しないだろう。マイクロアレイで限られた時点で膨大なサンプルの測定をし、それをまとめてモデルを作り、最終的には理論にもっていくとしている。それは、部屋の中にドラムがあり、それにつながったコードから得られる情報を基にドラムがどういうものかを明らかにしようとするようなもので、ドラムそのものを触ることはしない。そして、正確な測定が難しい。それ以上に、進化の問題を抱えた生物の現象は常に揺れる可能性がある。
私が提唱する分子生物学のやり方は、実際の構成成分を扱い、それがどのように振舞うのかを解析した後に、全体の状態をコンピュータ解析するもので、これをこれからも進めることが重要である。
創発(emergence)について
そこでは 「全体は部分の総和より大きい」 と言われるが、正確には「全体は『分離して解析された』部分の総和より大きい」 となる。部分の総和より大きい全体などあり得ない。全体をcompute するのは部分の相互作用である。2万もの遺伝子をどのように扱って全体を解明するのかは生物学が解決すべき問題になる。しかし、生物学は多くの問題を解決できない。
分子生物学の仕事は、部分が何をしているか、何と相互作用しているかを方程式に入れることである。それは膨大な数の部分が反応し、動き回っているというシステムではない。そんなシステムはナンセンス。もしそうであれば、われわれは存在していないだろう。そこで生物学が見るべき単位は細胞であり、遺伝子や分子ではない。つまり、全体を細胞のネットワークとして見ること、つまりコミュニケーションの分野になる。全体の解明のためにはシステム生物学でも top-down、bottom-up でもない、middle-out とでも言うべきやり方が必要で、それは細胞から出発して生体に行き、細胞から分子に向かうものである。
(つづきます)
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