samedi 29 janvier 2011

江戸の普遍人、平田篤胤




平田篤胤
(1776年10月6日-1843年11月2日)


先日、荒俣宏さんと平田篤胤の末裔で篤胤神道宗家の米田(まいた)勝安さんの対談本に目を通す。

 「よみがえるカリスマ平田篤胤」(2000年、論創社)

平田篤胤は荷田春満、賀茂真淵、本居宣長に連なる国学の四大人に数えられ、戦後は狂信的な国粋主義者として批判された人物。ただ、米田さんは篤胤を国学だけで評価するのは不当であり、その幅広い仕事を常人の守備範囲で理解するのは至難の業だと語っている。確かに、神道・国学に始まり、古伝、神代文字、文学、民俗学、宗教(仏教、儒教、道教、キリスト教、神仙道)、暦学、地理学、医学、蘭学、窮理(物理)学、兵学、易学などについて膨大な書物を残している。科学を学んだ上での文系の学問だったことが特徴になるだろう。彼の最終的な夢は、歪んだ江戸末期の世を改めること。そのためには、権力を倒せ!という政治運動に恃むのではなく、人々の考え方を変えるように教化するのが有効であると捉えていた。具体的には、日本の言葉、神についての考え方、暦、度量衡、そして科学を正すことであった。

子供の時から本を読むのが好きで、書き抜きもしていた。20歳の時、再び帰る道を断ち、秋田を出て江戸に向かう。この途中に猛烈な吹雪に遭い、宗教体験をした。米田さんによると、宗教への入口にはいくつかあるという。

まず、学問(哲学、倫理学、心理学、法学、天文学など)の方法論を通して教学を習得する学習的信仰。
第二に、論理の積み重ねではなく、個人的な神秘体験を通して信仰に至る体験的信仰。
第三に、自然現象から人間の力の及ばぬ世界を感性鋭く自覚して信仰に至る感性的信仰。
第四に、葬儀、お宮参り、初詣などの日常の慣習の中で信仰に至る慣習的信仰、など。

江戸に出て苦労した後、25歳の時に平田家の養子になり、篤胤を名乗る。以後学者の人生を歩むことになる。26歳の時に本居宣長の書に触れ、伊勢に出向き、宣長に入門する。同年、妻綾瀬を娶る。その翌年に長男が生まれるもすぐに亡くなる。32歳で元瑞を名乗り、医者を開業。篤胤37歳の時、31歳の妻が亡くなり悲嘆憔悴する。その経験が「霊能真柱」を書かせる。人間精神を確固にする根本は死後の霊魂の行方を明らかにすること。地獄極楽や天上黄泉の国に行くのではなく、天照大神の指示により大国主神が支配する霊界に行くとしている。そして、その霊界は地上にあり、霊魂はそこで永久に生きるのである。


篤胤は、学問というものは自分一代で完成できるものだけをやるのではなく、数百年、数千年と継承されて行くもので、未完の部分は後の学者に委ねればよいと考えていた。いろいろなものに興味を持ち過ぎて、手が及ばなくなったという批判は当たらないとは米田さんの指摘。篤胤の学問をまとめると、次のようになるだろう。

第一に、東洋医学、西洋医学を研究し、人体解剖までやり、人間とは何かという問に科学的に答えようとした。
第二に、天文・地理・暦学を研究し、時間・空間という基本概念を明らかにしようとした。
第三に、科学的研究ではわからない心、智慧、生前・死後、文化の発祥や未来、さらに人間の力の及ばない超常現象、幽冥、超能力などを解明しようとした。

この3つの柱は、科学、哲学、宗教と対応しているようにも見える。彼はあくまでも根本的な問題に興味を持っており、その方法論の基礎には合理精神、批判精神、科学精神がなければならないと考えていたという。これはディドロとダランベールの百科全書の精神と重なるものである。そこには、人間の精神の向上が伴わない知識だけの学者は失格であるという考え方があるように見える。当時の先端科学のみならず、人知の及ばない世界にも開かれていたその脳の中を、いずれこの目で見てみたいものである。


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