mardi 7 juin 2011
自らとのランデブー、そして愛が行動を導くのか
先日、エドガール・モランさんとパトリック・ヴィヴレさんの 『危機の時代にいかに生きるか?』 という本を取り上げ、モランさんのお話に触発されるように書いた。
Comment vivre en temps de crise ? (2010)
Edgar Morin et Patrick Viveret
ここでは今回初めて読むことになったヴィヴレさんの考えについて。最初のブログ 「ハンモック」 では書かれたものを忠実に訳すことをやっていたが、こちらに来てからはある文章に触れた時に自分の中に広がる混沌とした想いを言葉に置き換えることに重点が移ってきたように見える。ヴィヴレさんとの遭遇はどのような結果になるだろうか。遠くから様子を眺めてみたい。
危機になり人々に不安が広がると、モランさんも言うところの 「希望の原理」 (le principe d'espérence) を見出すことが重要になる。この問題を考える時に重要になる3つのことがある。その第一は 「起こり得ないということ」 (l'improbable)、第二は 「創造の可能性」 (la possibilité créatrice)、そして第三が 「変容」 (la métamorphose)になる。
今、世界で問題になっているのは、一つの世界の終りである。マルクス主義者のアントニオ・グラムシ (1891-1937) は、危機についてこんなことを言っている。古い世界がなかなか消え去らず、新しい世界が生れるのに時間がかかっている時、魔物が出現する可能性がある。その時は危機であると同時に新しい機会の到来でもある。それから黙示録のヨハネ (le saint Jean de l'Apocalypse) は、アポカリプスとはカタストロフではなく、それまで隠れていたものが姿を現すことであると言っている。ヴィヴレさんはヨハネの黙示録の意味において、われわれはアポカリプスの時代に入っているのではないかと見ている。カタストロフではなく新しい姿が現れる啓示の時代、人類が自分自身に出遭い (rendez-vous) 本質的な問に向き合う時代に。そこには3つの変化が見られる。
一つは、DCDモデル (dérégulation-competition-délocalisation : 規制緩和、過度の競争、地方分散) と言われるものの持続が難しくなっていること。DCDモデルに見られることは、節度のなさと生き難さからくる不満である。第二の変化は、西欧近代の終わり、経済による救済 (le salut par l'économie) の終わりである。どのようにしてそこから抜け出すことができるのだろうか。ひとつは、上からモデルを押し付けるのではなく、自然との関係、われわれの存在意義、社会との繋がりという問題について異なる文明の間で真に開かれた厳しい対話をし、できるだけ普遍的なものを打ち建てること。それこそが人類が自らに向き合う (rendez-vous) ことの意味になる。その過程ではマージド・ラーネマさん (Majid Rahnema、1924- ) の言う 「内的時間の破壊」 を克服しなければならないだろう。そして、第三の変化は歴史的に見た時代の大転換である。そこでもエコロジーの挑戦 (air)、土地・領土 (空気・水・エネルギーの他、バーチャルな世界)の激変 (aire)、工業化社会から情報化社会への時代の転換 (ère) という3つの変化が見られる。
工業化社会では 「人生において何をするのか」 が問われたが、今は 「人生について何をするのか」 が問われている。われわれの地球、われわれの種、そしてわれわれの生について何をするのかが問題になってきた。何を持つかではなく、どうあるのかという本質的な問が目の前に現れているのだ。このようなわれわれ自身との出遭い (rendez-vous) においては、われわれの存在を十全に生かすための智慧が重要になる。マーティン・ルーサー・キング (1929–1968) によれば知性は愛の問題に行き着くという。ここでの知性はパスカルが言った心の理性と関係づけて捉えるべきもので、すべての感情を含んだ知性、心の知性とでも言うべきものである。
今の人間からさらに崇高な人間へと変わることができるだろうか。そのためには内なる野蛮の問題と向き合わなければならないというのがヴィヴレさんの考えになる。ホロコーストを持ち出すまでもなく、野蛮人、外国人、異端者という異質なものにどう対するのか。問題はわれわれの内に隠れているので、それを外に出し白日のもとに晒さなければならない。そして、こう問わなければならないだろう。「どうしてこのような野蛮が文明の只中で起き得たのだろうか」 と。
ヴィヴレさんはさらに問う。どうしたら節度ある幸せを手に入れることができるのか。どうしたら異文化との厳しい開かれた対話が可能になり、他者を受け入れることのできる寛容と多元主義の場を作ることができるのか。どうしたら人類は他者との関係において知性と良心を調和させて働かせることができるのか。他者との関係という時、根本的にはそれは愛との関係に帰着する。どれだけよく愛することができるのかの問題に帰着する。この気付きが人間を崇高へと導くと彼は考えている。
ギリシャの愛にはエロス、アガペーだけではなくフィリアがあり、源にはポルネイア (pornéia) がある。このポルネイアの元々の意味は大食いへの愛で、過度の食への依存、吸収や融合とも関連する言葉だという。大部分の人間関係における問題は、他者を受け入れないことからくるという意味で、ポルネイアの問題とも言える。これは政治や経済の問題についても当て嵌まる。
ヴィヴレさんは言う。他者の存在、違いや特異なものの存在は寛容さを以って受け入れなければならないとするところから、むしろわたしにとって必要なのだという視点の転換が必要になる。そして、それは生きることそのものに関係してくる。節度のなさからくる興奮と抑鬱という回路から抜け出て、集中と静謐という生をより鮮明に感じることのできる回路へと移行しなければならない。それこそが生きる悦びであり、それはまさしく政治的問題なのである。人間らしく生きるということはひとつの仕事であり、それ故お互いに助け合わなければならないのだ。個人の変容と社会の変容を対立させることなく進めなければならない。そうしなければ人類は目の前の巨大な挑戦を受けて立つことはできないだろう。
この本は去年出ている。このようなことは前から言われているのだろう。しかし、何事もないように見える日常の中でその声は掻き消されてしまう。今回のようなことが起こっても、表層を触るだけの反応しか生れていないように見えるのだから。危機の時代には、自身との真のランデブーによって隠れている本質的なものを引き出す必要があるはずなのだが、、、
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