lundi 26 mai 2008
一年を振り返って
今朝は最近の日課になっている朝のバルコンから始る。目を閉じて日の光を浴びていると、体全体が恵みを受けているように感じる。強い日差しを瞼の上に見ながら、この一年のことを振り返っていた。
こちらに来る前は科学哲学以外にもギリシャ哲学、芸術哲学、宗教哲学、現代哲学などなど哲学全体を眺めてみたいという想いを抱いていた。その想いはこちらに来てからプログラムを見ている時も続いていた。しかし、専門のクールが始り、その内容の豊富さに圧倒され、専門の領域だけでもどうなるかわからないと悟ることになり、最初の想いはどこかに飛んでいってしまった。
広く見てみたいという想いは、それまでの専門領域での生活を客観的に見ることができるようになったために生れたものだろう。専門領域を決めたのは二十代前半になるので、それ以外の分野は横目で見る程度で自らの領域が人生のすべてという生活をしてきたことになる。その中での秩序や評価、そこから生れる満足感や失望の中でそれぞれが生きているのではないだろうか。しかし、そこから外に出て世界を眺めるという視点を持つことができるようになると、広大な原野が広がっていることに気付くことになる。私の中でのイメージでは、これまで生活していた専門の世界はその原野に口を開けている穴倉のようなもので、そんな世界に繋がる口がいくつも見えるというものだ。そして、その穴倉の中もかなりの大きさなのでそれが全世界だと勘違いしてしまうほどである。
私の場合、その穴倉から出てこの広い世界がどうなっているのかを知りたいと思ったことと、より現実的にはその領域を続けていくといずれ物理的制限が出てくることが予想されるので、早めにその制限がない一人でもできるところに転換しようということだった。しかし、その転換を決意した時には一線を越えるとかルビコンを渡るという表現がぴったりする自らの精神の動きをはっきりと意識した。今まさに何かを飛び越えたな、という感じである。そんなことがあり今一年を終えようとしているが、ある意味ではまた新たな穴倉に首をつ込み始めたということになるのかもしれない。ただ今のイメージは、この広い原野に樹齢数千年にも及ぼうかという大樹がぽつんぽつんと見渡せるというもので、その中の新しい大樹に登ってみようということになるだろう。したがって、今までのように横の世界が目に入らない、あるいは目に入れないというところから、横の世界も見晴らすことができるという明るいイメージになっている。
この一年間、全くの新しい分野についていろいろな人の話を聴きながら、その外にいては人びとの記憶にものぼらないだろう膨大な仕事を成し遂げた多くの先人の存在を知り感動したのは言うまでもないが、自らの考え方の癖もわかってきた。それは自分の考え方が唯一無二のものということになりがちなことを意識させてくれる大きな効果をももたらしてくれた。心を開く効果と言ってよいのだろうか。これは異文化の中で異領域に触れるという状況の中で増幅されたようにも感じる。
定年とは、努力しないでルビコンの河を渡ることができる時と言い換えることができるかもしれない。その先には仕事という専門の中に身を沈めていたそれぞれが、人間本来の(あるいは、それまで忘れていた)姿に戻るための茫洋たる原野が広がっているように思える。
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