dimanche 24 novembre 2013

コロンビア大学での医学哲学会議から (1)

Prof. Jeremy Simon (Columbia Univ.)

11月20日~23日、マンハッタンのコロンビア大学で医学哲学の会議があった

これから何回かに分けて、印象に残ったことを書き出してみたい

会はオーガナイザーのジェレミー・サイモン博士の挨拶で始まった

医学哲学を専門にしているわけではないが、不思議なものである

この6月に出席を余儀なくされて以来、今年3回目の国際会議出席になる

この領域の歴史はまだ浅いようだ

本格的になってきたのは、ここ20年から10年くらいのものではないだろうか

未だに医学哲学なる領域が成立するのか議論されている状況である


日本では大阪大学の澤瀉久敬博士が「医学概論」なるものを始めた

戦中から戦後にかけてのことである

詳細はわからないが、この流れは今や途絶えているように見える

医学にとって直接的な意義が認められないとの判断があったのだろうか

加速度的に進歩しているように見える医学の中にいると、事実に追われるのはよくわかる

考える余裕がなくなるのだ

指導する側にその発想が乏しいと、このような流れは続かない

そうであるとすれば、残念なことである

Prof. Kirstin Borgerson (Dalhousie Univ., Canada )


午前中の話題からいくつか

2002年の段階で、医学系の雑誌は4,600を超えている

2005年の臨床研究の対象者は200万人に及ぶという

2011年の臨床研究数は53,000件に迫る勢いである

膨大な医学研究が発表されているが、その内容には多くの問題がある

研究のデザイン、不適当な対照群、少な過ぎる対象数、間違った解析法に誤った解釈などなど

その上、それらのデータの総体が統合され、再解釈されることなく放置されている

さらに、対象への不利益が行われることもある

例えば、よい薬ができてもそれまでのものを処方し続ける

逆に副作用が明らかになってもそのまま使い続けさせる

臨床試験、さらに言えば医学の臨床を取り巻く問題として、科学と価値の対立がある

科学的には理にかなっているが、社会的に不利益を及ぼす計画を実行するのかという問題である

発表者のボルガーソンさんは後者の立場に立ちたいと話していた

しかし、考え方は研究者により変わってくる可能性がある


それから、臨床研究の対象の“lumping”と“splitting” 問題が取り上げられていた

対象をどのように分けたり纏めたりするのかという問題で、やり方によって結果が変わってくる

ヒスパニックを対象とした時に現れる問題を分析している発表があった

ヒスパニック対ノン・ヒスパニックという分け方もあれば、ノン・ヒスパニック・ホワイトというのもある

ヒスパニック対ヨーロッパ系アメリカ人、あるいはアメリカ白人なども可能だ

さらに言えば、ヒスパニックと言っても文化的、地理的、遺伝的などの要因で変わってくる

どのグループを対照にするかによって、ヒスパニックの人種的特徴が変わってくる

一つの名の下に纏める時、その中の不均一性を見過ごす危険性がある

同様のことは、性差や年齢の違いに焦点を合わせた研究についても当て嵌まる

このような研究には政治的な意図が隠されている可能性があることを、常に考えておく必要がありそうだ


その他、プラシーボを用いた試験の絶対性(Placebo Orthodoxy)を疑問視する発表もあった

さらに、短期の臨床試験で一つの薬がプラシーボより有効であることがわかった時、どうするのか

有効性と安全性を確実にするためには、長期間試験を続けなければならない

しかし、有効な薬がありながらプラシーボを使い続けるのは倫理的に問題ではないのか

これも科学と価値の対立である

Prof. Rita Charon (Columbia Univ.)、A graduate student of Prof. Charon、
Prof. Sean Valles (Michigan State Univ.)


昼食は近くのレストランで

ショーン・ヴァレスさんは午前中 “clumping”と “splitting”の話をされた方

活力に溢れている

リタ・シャロンさんは医者であるが、文学研究を終えた後に “narrative medicine” という新しい領域を提唱されている

午後最初の基調講演の演者であった

午前中の発表を聴きながら、わたしの横で一人声を出して反応していたのがリタさんであった

昼食時もお隣りで、貴重なお話を伺うことができた

一見すると最初の領域から離れているように見えるが、実は以前よりも近くに感じるという逆説

彼女の場合には、文学での経験を医学の領域に還元されている

ご自身の経歴と重なるためか、わたしの歩みにも理解を示していただいた

これから益々混迷を深める時代に入る

このような視点を導入することが豊かなものを齎すという点で意見の一致を見た

彼女の考えの一端は、以下のビデオで知ることができる



基調講演での言葉を自分なりに変容させてみたい

芸術は芸術家のためだけのものではない

患者さんをケアすることも芸術的行為である

芸術的行為にしなければならないということでもある

そこには人間の創造性が生まれているはずであり、生まれていなければならないからだ

考えることは身体活動である

体を使うこと、それは創造性の発露に繋がる

身体性を取り戻すこと

人間にとって、創造性という一つの価値は極めて重要になる

講演後に質問していた方は、感極まったのか泣きながらであった


Dr. Hanna van Loo (Univ of Groningen, The Netherlands)


午後のセッションからいくつか

科学と価値の対立を如何に乗り越えるか

元を辿れば、一つのものがあるだけのはず

この世界を二つに分けて見ることを極力抑えること

それは生物学よりさらに複雑な要素が絡み合う医学で可能なのか

知識や説得に重点を置く今のやり方から 「何をやるのかを選択する」 ことへの移行が必要ではないか

そのためには知識と価値の両方を取り込まなければならないからだ

関係者の意識(habits of thought)の変革は可能だろうか


それから、ハンチントン病の研究についての解析もあった

1983年のその遺伝子が第4染色体にあることが明らかになった

その後、塩基3個(CAG)の反復が認められること、その数と症状が相関することが発表される

しかし、遺伝子変化と症状は必ずしも相関しないことが明らかになり、環境因子の関与が示唆される

このような遺伝子決定論と環境因子の関与という対立は、いろいろな局面で顕在化している


他に、健康と病気の概念、精神疾患の共存、根拠に基づいた医療(evidence-based medicine)などが議論されていた


Prof. Rachel Ankeny (Univ of Adelaide, Australia)


今回も人間がしっかり生きてその場にいることを感じながらの時間となっている

自らの主張を決然と発表し、活発な討論が進行する中にいるからだろう

その刺激はヨーロッパの会よりさらに強く、全身が活性化されているのがわかる

昼食時そのことを指摘すると、それが当たり前の彼らは驚いていた

科学の遂行に必要なものは、技術の前に人間の自律かもしれない

さらに言えば、それは民主的な社会にも不可欠の要素になるはずである






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