mardi 8 avril 2008

ピエール・アドーとゲーテ


研究所の帰り、散策をしてみたくなり、散策の後にはカフェに足を伸ばしたくなっていた。束の間の開放感が確かにそこにある。その後、本屋を覗く。新しいものなど今は読む気もしないのに。しかし中に入ると何かないかと探している目があるのを確認する。そこに飛び込んできたのがこの本であった。


御年86、ピエール・アドーさんの「生きること忘れるなかれ」である。副題にゲーテがあったので、今はそれどころではないとは思いつつ手に取っていた。実は2006年の暮れ、こちらに様子を見に来た時に彼の本 "La Philosophie comme manière de vivre" 「生き方としての哲学」に触れ、その中にある次のような言葉に心が震えたことがあるからだ。

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「古代人にとって、哲学とは体系の確立ではなく、生きる選択であり、変化の必要性である。・・・私はいつも哲学を世界の捉え方の変容と考えてきた。」 (ピエール・アドー)

「哲学とは体系の確立ではなく、自分自身の内、自分を取り巻く世界を何ものにもとらわれることなく観ることを一度決意することである。」 (ベルクソン:アドーによる引用)

「現在に生きること、それはこの世界を最後であるものとしてのみならず初めてのものとして見るように生きることである。世界をあたかも初めて見るように努めること、それは型にはまった見方を排すること、現実を在るがままに見る、とらわれることない視点を取り戻すこと、日頃見逃している世界の素晴らしさに気付くことである。」 (ピエール・アドー)

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今度の新著のもう一つのキーワードは、"exercice spirituel" という言葉。霊性を伴った精神の活動とか働かせ方というニュアンスだろうか。これは私がフランスの哲学者などが書く文章を読みながら浮かんだ言葉、「思考 運動」とも通じるものがあり興味を持ったということもあるのだろう。この言葉は、Louis Gernet (1882-1962)、Georges Friedmann (1902–1977)、昨年94歳で亡くなった Jean-Pierre Vernant らがすでに使っているという。

この言葉には宗教的な含みはなく、知性、想像、意志による活動で、それによって世界の見方の変更を迫り自らを変えることになるもの。つまり、知を得るためのものではなく、自らを築き上げる活動を意味している。この "s'informer" と "se former" の間の大きな違いに彼との最初の出会いで気付き、それをはっきりと理解できたことがその後につながる大きな理由になっている。その意味では彼には借りがあるということになるだろう。この精神のあり方が古代には生き生きとしてあり、それがゲーテの中にも見られるというのだ。そのあり方はこう言い換えることもできるだろう。

「過去の重みや未来の幻影に惑わされることなく、現在という瞬間に集中し、その一瞬一瞬を激しく生きること」

さらに私の状態を説明するのに日頃使っている表現 "le regard d'en haut" (上からの視点)が出てくる。それは今そこにあるものや出来事から距離をとり、より広い立場から見ようと自らに迫ることである。さらにである。ゲーテが変わることなく持ち続けたという "l'émerveillement devant la vie et l'existence" (人生や存在を前にして感嘆する心)。そこにはゲーテの人生への深い愛があり、"Memento mori" (N'oublie pas le mourir) ではなく、スピノザに 霊感を得た "Memento vivere" (Gedenke zu leben / N'oublie pas de vivre) を見るという。畳み掛けるようにこのような言葉が入ってきて、気が付いた時には出たばかりのその本を手に入れていた。こういうつながりでゲーテにも大きな興味が湧くことになる。この世には汲み尽くせぬものがあるということだろう。アドーさんにはまた借りが増えることになるのかもしれない。

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