mercredi 30 avril 2008

シンポジウム 「メチニコフの遺産・2008年」から


イリヤ・メチニコフ Elie Metchnikoff
(né le 15 mai 1845 à Ivanivka près de Kharkiv en Ukraine et décédé le 15 juillet 1916)


イリヤ・メチニコフがノーベル賞を受賞して100年を迎えたのを記念したシンポジウム(L’héritage de Metchnikoff en 2008)が2008年4月28日から30日までの予定でパスツール研究所で始ったので通っている。初日は歴史的にメチニコフの仕事を振り返るもので、アメリカ、ジョンス・ホプキンス大学のアーサー・シルヴァーシュタイン(Arthur Silverstein)教授とボストン大学アルフレッド・タウバー(Alfred Tauber)教授がそれぞれの立場から語った。

シルヴァーシュタイン氏は現在名誉教授で、もう少しで完全に引退するとのことであったが、もともとは眼科学教授でありながら医学の歴史についても研究をされ、免疫学の分野では古典と言ってもよい "A History of Immunology" (1989年)を著している。私も初版本を持っており、これまでよく読んできた。今アマゾンを見ると、お値段が¥15,485 となっている。これほど払った記憶がないので、価値が出てきているのかもしれない。

シルヴァーシュタイン氏は有名なメチニコフの写真を背景に、ゆったりとした調子で話を進めた。当時、炎症という現象が生体にとって害になると考えられていた。彼はヒトデで見出した貪食という現象を基に、炎症は宿主の受身の対応ではなく、積極的に対処している宿主にとって有益な反応で、その中心に貪食細胞があると考えた。

この考え方はドイツ学派には受け入れられず、彼が求めていたドイツでの就職は遂に成らなかった。1888年、彼が43歳の時にパスツールに呼ばれて創設されたばかりのパスツール研究所で仕事を開始し、1916年、71歳で亡くなるまで研究を続ける。

この間20世紀を跨ぐ20年に亘って、免疫は細胞によるとするメチニコフの細胞学説と免疫の主体は抗体であるとするポール・エーリッヒ(Paul Ehrlich)の液性学説とが、フランスとドイツに別れて争った。それは、不毛の争いではなく、むしろお互いが刺激し合い、新しい実験データ、新しいアイディアを生み出した実り多いものだったと結論している。その結果、エーリッヒとともに1908年にノーベル賞を手に入れる。

その後、貪食細胞には特異性がないということ、細胞の実験が非常に難しいこと、それから相手方のエーリッヒの提示した抗体産生のメカニズムを示す側鎖説の図の説得力、さらに決定打になったエミール・フォン・ベーリング(Emil von Behring)による血清療法の成功などが相まって、彼の説は次第に省みられなくなる。しかし、1世紀を経て彼の唱えた食作用、自然免疫という考え方が再び息を吹返してきている。シルヴァーシュタイン氏は最後に次のようなことを話して講演を終えた。

「1960年代から70年代にかけて細胞性免疫の研究が盛んになった時に、メチニコフのことを持ち出す人はほとんどいなかった。また、1950年代のニールス・イェルネ(Niels Jerne)やマクファーレン・バーネット(Frank Macfarlane Burnet)が自然選択説やクローン選択説を提唱した時に、エーリッヒに対する賛辞(tribute)を捧げることはなかった。歴史を忘れないということは重要なことである」



タウバー氏はもう少し若い世代のせいか、テンポ良く攻撃的に話を進めた。彼が示したメチニコフの絵はクリスティーの競売にかけられたものとのことで、見たことがないだろう、という調子であった。

メチニコフの生年1845年が重要で、1859年に発表されたダーウィンの「種の起源」の影響を同時代で受けており、進化論の信奉者になっている。彼の求めた問は、どのようにして生体はその同一性・独自性(identity)を保っているのか、というものであった。そして外界と協調関係にあるのではなく、むしろ disharmony が正常の状態で、その監視役として貪食細胞があると考えていた。当時としては全く独創的な考えであった。タウバー氏自身は、免疫学が自己・非自己の認識に終始するある意味では閉ざされたシステムとしてあるのではなく、外界の他のシステムとも交わるオープンで全的な(holistic)なシステムとして捉えるべきではないのかと考えている様子が伝わってきた。

話の中で、メチニコフに纏わるエピソードをいくつか紹介していた。パスツール研究所での年収が1フランだったこと。紹介した研究経過でもわかるように、実際にドイツ人は彼のことを嫌っていて、研究所では両者が話もしない時期があったという。またノーベル賞授与に際して財団があげた理由がエーリッヒについては短いのだが、メチニコフについては度を越えて長いものであったという。当時、非特異的な貪食細胞についての理解が、スマートな抗体による免疫には追いついていなかったということかもしれない。




それからもう一つ興味を惹いたのは、メチニコフとトルストイとの出会いである。1909年5月30日、ヤースナヤ・ポリャーナにあるトルストイの家で2人は会う。この日は哲学的問題や社会問題について話が進み、メチニコフと彼の2度目の妻オルガにとって深い印象を残すことになる。しかし、それぞれの印象が異なっていた。神秘主義的哲学者のトルストイは言う。
 "J'ai consulté un dictionnaire, devinerez-vous combien de genres de mouches ont été classifiés par les savants? 7000! Où trouve le temps de s'occuper dans ces conditions des questions de l'âme?"

 「私は事典を引いてみた。どれだけの蠅が分類されているのか当てて御覧なさい。何と7,000もあるのだ。そんな状態で精神の(本質的な)問題について考える時間がどこにあるのだろうか」

科学精神の持ち主メチニコフはこのように考えていた。
"La science est la seule issue pour l'Humanité souffrante."

 「科学こそ、病める人類を救い出す唯一のものである」
メチニコフがトルストイに対して尊敬の念を抱いていたのに対して、トルストイは科学ですべてが解決できると考えているメチニコフを浅はかな人間として捉えていたようだ。現在にも通じる視点の対立と言えなくもない。

講演の後で、シルヴァーシュタイン氏とタウバー氏と言葉を交わすことができた。シルヴァーシュタイン氏のところには日本人(すべて眼科医)が沢山来ていたようで、その過程で囲碁に興味を持ち日本棋院に初段の認定を受けに行ったこともあると話してくれた。お二人の著書を持っていたことを思い出し、サインをもらうため会場に持参していた。シルヴァーシュタイン氏は「敬意を込めて」という言葉を添えて、またタウバー氏のサインには「われわれのクラブへようこそ」と書かれてあり、これから話していきましょうとの言葉をかけていただいた。タウバー氏の本は今年になってから手に入れた以下の2冊である。


このような形で、これまで読んできた本とこれから読むであろう本の著者に接することになるとは思ってもいなかった。非常に満たされた気分で帰路についた。



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