lundi 7 avril 2014

第1回カフェフィロ PAWL 「ディオゲネスという生き方」 のまとめ


サイファイ研初の試みになる 「生き方としての哲学カフェ PAWL」 を2014年3月28日(金)に開いた

まず、年度末のお忙しい時に参加いただいた皆様に感謝したい

初回のテーマとして、古代ギリシャの哲学者ディオゲネスを取り上げた

現代の枠組みの中にいると、その生き様は常軌を逸しているように見える

しかし、本当にそうなのだろうか

実はわれわれの方が多くのものに囚われ、自由が奪われた状態にあることに気付いていないのではないか

 文明の中にいるわれわれは多様に絡み合った枠組みの中にいる

最初から枠組みの中にいると、そこで進行していることの本当の姿が見えてこない

社会の流れを外から観るという視点がなければ、大きな流れに異議申し立てをすることもできない

これは哲学の持つ大きな機能であるはずだ

そのことを教えてくれる哲学者である


それから彼は社会的秩序を超えて自由にものを言うこと(parrhesia)を実践した人間でもある

この営みは思想と行動の一致を要求する

そのため、その人間を危険に陥れることになる

日本に帰ってきていつも感じるのは、自由にものを言うということが抑制されているということである

言論空間が澄み切っていない、突き抜けていないように感じるのだ

そこでは 「もの・こと」 の核心に至るのが難しい

そのため、本当の姿を見ないままどんどん先に進むのである

カフェの名前であるPAWLは生き方としての哲学(Philosophy As a Way of Life)の頭文字である

しかし、この言葉には別の意味もある

それは、一方向に進むための装置であるラチェットのツメという意味である

歯止めの役割を担っている

より広く解釈し直すと、正の方向に進むことに対するフィードバックという含みも見えてくる

さらに、社会の大きな流れに抗する機能を持っているとも言える

上でも述べたように、これこそ哲学がやるべきことである

その意味でも、含蓄のある名前になったと考えている


なぜ初回に辺縁の哲学者とも言えるディオゲネスを選んだのかという質問が出た

これまでに書いたことが一つの回答になるだろう

それから、この会のテーマとしてディオゲネスを選んだ後にこういうエピソードがあった

驚きの大発見、それは今年二度目の出来事か (2013-12-11)、

彼の哲学を見直してみると、自分の中に多くのディオゲネス的なものがあるのではないか

その実践は若い時には難しかったが、囚われのなくなった今、それがよく見えるようになっている

それが、彼を初回の主役に選ばせたのではないか

無意識のうちに



今回、初の試みとして、このところ気に入っているカメラの動画機能を使ってみた

どうなるかわからなかったが、15分間ちゃんと写っていた

丁度、イントロ部分をカバーする内容であった

講師の話がローキーで驚いたが、折角なので参考のためにYoutubeにアップした

ご批判をいただければ幸いである




これからも刺激的な哲学者を選び、そのエッセンスを現代に引き付けて考える予定にしている

ご理解とご支援をよろしくお願いいたします





Aucun commentaire: