jeudi 14 avril 2011

科学とは論理的な説明を誰にでも求めるもの

(Centre d'Immunologie Marseille-Luminy)


免疫学の教科書には自然免疫と獲得免疫という二つの異なる機構があると書かれている。獲得免疫はリンパ球(T細胞、B細 胞)によって担われ、一度出会ったことを覚えていて、二度目には初回よりも素早く効果的に反応する「記憶」があり、微生物の細かい特徴を識別する「特異性」がある。一方、自然免疫には記憶も特異性もないとされ、マクロファージ、多核白血球、NK(natural killer: 自然殺傷)細胞などにより担われている。先日の「哲学と免疫学」セミナー・シリーズの演者は、マルセイユで研究しているNK細胞の世界的権威のエリック・ヴィヴィエさん。お話の結論は、自然免疫と獲得免疫という二つの機構を分けている記憶と特異性について考え直さなければならない結果が蓄積してきているということ。つまり、二つの機構の境界が曖昧になってきているということになる。

記憶について見ると、NK細胞の半減期は大体17日だが、ある実験系では1-2ヶ月後でも活性 が見られるという。この場合、記憶をどう捉えるのかが問題になるだろう。つまり、単に寿命が長いだけでよいのか、それともリンパ球の場合のように、機能的にも亢進していなければならないのか。それから特異性について。NK細胞と雖も手当たり次第に細胞を殺すわけではない。感染などのストレスによる変化が出ている細胞や腫瘍性の変化を起こした細胞を選択的に殺傷するので、特異性がないとは言えないとヴィヴィエさん考えている。ただ、その特異性はリンパ球の場合のように認識する対象の個別の違いをすべて識別できるわけではない。その上で、NK細胞にも特異性はあるが、対象を認識するレセプターが作られる遺伝子レベルの機構がリンパ球とは異なっており、特異性に関する両者の違いはそれだけであるというのがヴィヴィエさんの主張であった。NK細胞の場合には、リンパ球のような遺伝子の組み換えに因る多様な特異性を認識するレセプターを持っているわけではないが、特異性はあるということだろう。記憶の場合と同様に、特異性についても言葉の定義が問題になりそうだ。

お話の中に "revisité (revisited)" という言葉が何度か出ていたが、これはある現象がその後の科学の発展に伴い見直しを迫られる場合に使われる常套句である。ある意味では、科学を特徴づける言葉とも言える。今回はNK細胞の研究を通じて、免疫系の見方に修正を加える必要が出ている現状を垣間見る思いであった。講演もそうだったが、その後でお話した時にも感じたのは、ヴィヴィエさんの思考が「滑らない」ということ。論理を一つ一つ積み上げるように話を進める様を眺めながら、科学とは単に結果を出すだけの営みではなく、どのようにしてその結果に至ったのか、その結果は何を意味しているのかを誰もが納得できるように言葉を正確に使い説明すること、その説明は人を選ばずに(権威と言われている人だろうが、そうでなかろうが)求められること、つまり科学とは民主的な営みであることを改めて感じていた。そのことを理解し実践する人たちが集まる空間はわたしの頭の中をすっきりさせてくれる。いつものように気持ちの良い時間となった。


samedi 9 avril 2011

エルネスト・ルナンの生涯



Josephe Ernest Renan

(28 février 1823 à Tréguier, Bretagne - 2 octobre 1892 à Paris)
écrivain, philosophe, philologue et historien français


国家的危機と言われる今、国家とは?という問を考える時が来ているように見える。この機会にフランスの作家、哲学者、文献学者、歴史家、エルネスト・ルナンの人生を振り返ることにも意味があるだろう。ウィキを基に見直してみたい。

ルナンは存命中、例えばイエス・キリストの生涯("Vie de Jésus" )を書いた作家として有名であった。この本では、キリストは他のどのような人物とも同じように書かれ、聖書も他のどのような本とも同じように批判的に検討されなければならないという考えが披瀝されていて、カトリック教会の怒りを買い、激しい論争を呼んだ。

彼は1882年に « Qu'est-ce qu'une nation ? » 「国家とは何か」 という演説で明らかにした国家観でも有名であった。フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte, 1762-1814)のようなドイツの哲学者たちが国家を言語のような特徴を共有するグループ (le Peuple 民族) あるいは人種 (la race) という客観的・物理的な基準で定義していたのに対して、ルナンは単純に « la volonté de vivre ensemble » 「共に生きる意思」 と定義した。当時問題になっていたアルザス・ロレーヌの帰属について、国家の存在は « un plébiscite de tous les jours » 「日々の国民投票」 (その日その日に表明される国民の意思ということか) に依存していると宣言している。



ルナンはブルターニュの漁師の家庭に生まれた。祖父が少し余裕を持っていたので家を買い、そこに落ち着いていた。父は船長で筋金入りの共和主義者であった が、母は王政主義者の商人の娘であったため、ルナンは両親の政治的信条の間で終生引き裂かれた状態にあった。彼が5歳のときに父は亡くなり、12歳年上の姉アンリエッタが家族の精神的支柱になる。彼女は生まれた町に女学校を開設しようとするがうまく行かず、パリの女学校の教師として故郷の町を去る。ルナンはその町の神学校(現在はエルネスト・ルナン中学校と呼ばれる)で、特に数学とラテン語をしっかりと勉強する。母の父方の祖先はボルドーから来ているので彼女は半分しかブルトンではなかったため、両者の葛藤が見られたとルナンは回想している。

15歳の時、神学校のすべての賞を獲得したので、姉が勤めるパリの女学校の校長に話をする。それを機に、彼はパリに出ることになる。しかし故郷の教師の厳しい信仰とは異なり、パリのカトリックは華やかではあるが表面的で満足のいくものではなかった。

17歳になり、哲学を修めるために別の学校に移る。彼の心はスコラ哲学への情熱で満たされていた。すぐにトマス・リード(Thomas Reid, 1710-1796)、ニコラ・ド・マルブランシュ(Nicolas Malebranche, 1638-1715)に惹かれるが、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770-1831)、カント(Emmanuel Kant, 1724-1804)、ヘルダー(Johann Gottfried von Herder, 1744-1803)に移っていく。そして、彼が勉強している形而上学と彼の信仰との間に本質的な矛盾があることに気付き始める。彼は、哲学が真理を求める気持ちの半分しか満たすことはないと姉に書き送る。

彼の疑問を目覚めさせたのは哲学ではなく文献学であった。新しい神学校に入り、聖書を読み、ヘブライ語の勉強を始める。しかし、聖書の原文を読み進むと文体、日時、文法などに疑わしい (apocryphe) ところがあることに気付き、次第にカトリック教の信仰から離れていく。仕事 (vocation) に生きるのか、自ら信じるところを求めるのか (conviction) という普遍的な葛藤の中、彼は後者を選び、1845年10月6日(22歳)に学校をやめ、中学校の生徒監督、さらに職住を保証された助教員として私立の寄 宿学校に入ることになる。1日の拘束時間は2時間だけであったので充分に仕事ができ、彼は心からの満足を得る 。

ルナンは神父から教育を受けていたが、科学的な理想を受け入れていた。宇宙の見事さは彼を恍惚に導くものであった。後年、アミエル(Henri-Frédéric Amiel, 1821 -1881) のことを評して 「日記などつける時間のある人間は、宇宙の広大さなど決して理解しなかった」 と書いている。1846年(24歳)には、彼の生徒であった将来化学者になる18歳のマルセラン・ベルテロ (Marcellin Berthelot, 1827-1907) により、物理学や自然科学の確かさに目覚めさせられる。この二人の友情は最後まで続いた。このような環境で彼はセム語の文献学研究を続け、ヴォルネー賞(Prix Volney)を授与されることになる「セム語の歴史研究」("Histoire générale et systèmes comparés des langues sémitiques")を発表。哲学の上級教員資格を得てヴァンドロームの高校教師になる。

1860-61年(37-38歳)には、レバノンとシリアの考古学探索に参加する。妻のコルネリアと姉のアンリエッタとともにザキア・エル・カラブの家に滞在する。その家で、彼の "Vie de Jésus" 「イエスの生涯」を書くための霊感を得る。また1861年に彼の姉が亡くなり、彼女の愛した教会のすぐ近くにあるこの家の地下埋葬室に眠っている。

ルナンは博識だっただけではない。聖パウロと弟子たちについて研究し、発展する社会生活を憂い、友愛の意味を考え、「科学の未来」("L'Avenir de la science" )を書かせた民主主義的な意識が彼の中に息づいていた。1869年(46歳)、国会議員選挙に出る。

1年後には独仏戦争が勃発。帝政は崩壊し、ナポレオン3世は亡命する。この戦争は彼の精神生活にとって分岐点(le moment charnière)になる。彼にとってのドイツは常に思想や科学を考える上での安らぎの理想の国であった。しかし、その理想の国が彼の生まれた地を破壊 してしまった今、もはやドイツを聖職者ではなく侵略者としてしか見做し得なくなる。

1871年(48歳)、"La réforme intellectuelle et morale" 「知的、道徳的改革」の中で、フランスの将来を守る手立てを模索している。しかし、それはドイツの影響を受けたままのものであった。彼が掲げた理想は戦勝国のものであった。例えば、封建社会、君主政治、少数のエリートと大多数のそれに従わされる人。これらはパリコミューンに過ちを見た彼が得た結論であっ た。さらに、"Dialogues philosophiques" 「哲学的対話」 (1871年)、"L'Ecclésiaste" 「聖職者」 (1882年)、"Antéchrist" 「キリスト以前」 (1876年:皇帝ネロ Néron の時代を描いた 「キリスト教の起源」 "Histoire des origines du christianismee" の第4巻)などは彼の比類なき文学的天才を示してはいるが、同時に醒めた懐疑主義的な性格をも表している。フランスを説得できなかったことを知った彼は破滅への道を甘受する。しかしフランスが徐々に目覚めていくのを見ながら、「キリスト教の起源」 の第5巻、第6巻を書き上げる。そこでは民主主義との折り合いをつけ、最大の破滅が世界の発展を必ずしも中断させないこと、さらにカトリック教の教義には納得しないもののその道徳的な美と宗教的であった子ども時代の追憶との和解を見出している。



ルナンも老境に入ると若き日に思いを馳せるようになる。1883年(60歳)、最も有名な本になった “Souvenirs d’enfance et de jeunesse” 「幼少期の思い出」 を発表。その年までに 「キリスト教の起源」 を書き終え、新らたに 全4巻となる 「イスラエルの歴史」 “Histoire du peuple d'Israël” を書き始める。最初の2巻は64歳と68歳で出版されるが、残りの2巻は亡くなった後になった。この本には誤りがないわけではないが、教義は別にして信仰心 (la piété) は必要であるという彼の思想が最も生き生きと語られている。晩年、レジオン・ドヌール勲章 (グラン・ドフィシエ Grand-Officier、大将校) を始め、幾多の名誉を手にした。最後は数日の病の後に亡くなり、モンマルトル墓地に葬られる。享年69。


彼は、科学と無私の精神 (le désintéressement) に魅せられていた。宗教との関係は複雑で、「科学の未来」 には「私は都会にいる時はミサに行く人をからかうが、田舎にいると逆に行かない人をからかう」と書いている。それから科学と神の関連については、以下のように考えていた。すなわち、科学は宇宙において知りうるものすべてについて明らかにするだろう。それに対して神は完全で全的存在といえるだろう。その意味で、神とは今ないもので、生成の過程にあるもの (il est en voie de se faire ; il est in fieri.) 。しかし、そこで終っては神学は不完全なものになるだろう。神は全的存在以上のもので、絶対的なものである。数学、形而上学、論理学と同様の理法のものであり、理想の場、善きもの、美なるもの、正しきものの生きた原理である。そのように見るとき、神は永遠、不変で、進歩もなく生成が完成することもない。

彼はダーウィンの自然選択説が発表されると直ちに賛意を表した。また、人種差別的な考えも表明しているようである。ただ、彼が書いていることを当時の時代背景に置き直して検討する必要があるだろう。その動きがなければ、フィンキールクラウトさん(Alain Finkielkraut, 1949- )が言うように、遠く離れた現在から過去を見て自らの道徳的優位に満足するだけに終るのであろう。