mercredi 22 février 2012

L’âme と l’esprit の違い



魂とか精神とか心などと訳される二つの言葉、âme と esprit

この違いに興味を持ったのはフランス語を始めて数年経った頃

週末通っていた学校の若いフランス人教師に聞いてみたが、はっきりした違いはわからなかった

その後の経験から漠然とでき上がった解釈では、こうなる

âme がより原始に近い霊魂という含みがあるのに対し、esprit は啓けた精神というニュアンスがある

では、哲学的にはどう見られているのか

手元にある小さな哲学辞典に当たってみた


âme の語源はラテン語の anima で、息、風のそよぎ、生命原理などの意がある

一方の esprit も語源に返れば、spiritus で息吹き、spirare で呼吸するとなり、生きることに繋がる

âme は体に形を与え、動かすもの

プラトンによれば、そこは情念のあるところで、牢獄にいるように体の中にあるもの

イデアの世界に関与している

一方のアリストテレスは、体と密に結び付き、体に形と生命、感受性、欲望、人間には理性と思想を与えるものと考えた

さらにデカルトになると、それは生命原理ではなくなり、体とは別に思考をするものとされる

思考という行為(le cogito)により、人間が主体となったのである


それでは esprit はどう考えられているのだろうか

プラトンが âme を操縦するのが esprit と考えたように、古代ギリシャでは esprit が âme の上位に置かれていたようだ

ベルグソンなどは esprit は物質には還元できいないと考えていた

しかし、最近では esprit の状態はニューロンの活動に還元されるとの考えも出されている



精神と物質、心と体の問題は古くて新しい大きな問題である

これからは科学の成果にも目を配りながら、考えを深めていく必要があるだろう



mardi 21 février 2012

哲学は科学を十全にする


The Atheist's Guide to Reality: Enjoying Life Without Illusions
Alex Rosenberg (born 1946)


届いたばかりのデューク大学の哲学者ローゼンバーグさんの本を読み始める

序でわたしが感じたことと同じことを感じていたことを知り、嬉しくなる


彼は世界の成り立ちを知るために物理学を始めたという

ところが、物理学では彼の求めていた解が得られないことに気付き、二つのオプションを考える

ひとつは精神療法を受けること、もうひとつは哲学

それぞれにこんな狙いがあった

精神療法により、世界の成り立ちなどを気にすることなく生きていけるようになるのではないか

哲学では、少なくとも自分の問になぜ物理学が答えられないのかの解を得られるのではないか

しかし、精神療法はお値段が高過ぎ、哲学は面白過ぎた

それで彼の人生が決まったようである


彼は哲学を始めてこんなことに気付いたという

哲学について知りたくなりこの領域に入ってきたわたしが驚いたことと全く同じなのである

それは 「哲学の歴史は、実は偉大な哲学者が科学について考えた歴史である」 ということ

少なくとも17世紀以降は物理学、化学、そこに生物学も加わるようになる


つまり、哲学は科学なしには生きられない

しかし、科学は哲学なしでも生きられると思いがちである

哲学の膨大な蓄積を考えると、哲学を無視することによって科学は多くのものを失っていないだろうか

科学を十全なものにするためには、哲学は不可欠なのではないか

そんなことを改めて思い出させるエピソードであった



dimanche 19 février 2012

ヒラリー・パトナムさんが挑んだ哲学的な問


鳥の声を聴くオリヴィエ・メシアン(1908-1992)
Olivier Messiaen : à l'écoute des chants d'oiseaux



ヒラリー・パトナムさんHilary Punam, born July 31, 1926)が考えた哲学における根源的な問が、彼の85歳の誕生日を記念したシンポジウム "Philosophy in an Age of Science" で紹介されていた。その中からいくつか。

1. 人間の知に限界はあるのか
2. すべての人間の知は科学的知なのか
3. 人間の心は機械なのか
4. 倫理の科学はあり得るのか、あるいは倫理は客観的なのか
5. 真理は客観的概念なのか
6. 科学にはヒエラルキーがあるのか、あるいはすべての科学は一つの科学に還元されるのか
7. 世界は分割されているか、あるいはわれわれは世界を恣意的に分割しているのか
8. 神は存在するか、現代社会における宗教の意味は何か
9. われわれは生まれながらにして世界を観るためのある概念を持っているのか
10. 経済学は客観的な科学か、貧困の根絶というような目的はあるのか
11. 科学の歴史はどうか、科学史を学ぶ価値はあるのか
12. 量子力学のような複雑な科学理論から何を学ぶのか、例えば、世界はランダムなのか、というような根源的、形而上学的な問に示唆を与えるものがそこにはあるのか
13. 数学の基礎、あるいは数学的概念は存在するのか

・・・などなど。

挑んだ問の多様さと深さに驚かされる。




samedi 11 février 2012

連載エッセイ 「パリから見えるこの世界」 始まる



昨年、医学総合週刊誌 「医学のあゆみ」 編集部の岩永氏からエッセイの連載を依頼された。

「パリから見えるこの世界」 と題したエッセイを月1回のペースで綴ることにした。

フランス語のタイトルも添えるとのことだったので、« Un regard de Paris sur ce monde » とした。

改めて、このような機会を提供していただいた岩永氏に感謝したい。

初回は 「科学から哲学、あるいは人類の遺産に分け入る旅」 と題して、哲学に入るまでの心象風景を綴った。

医学のあゆみ 240 (6): 549-552, 2012 (2月11日発行

第二回は 「自然免疫、あるいはイリヤ・メチニコフとジュール・ホフマン」 と題し、免疫学の歴史の一断面に触れた。

こちらは、3月10日に発行予定となっている。



このシリーズでは、医学、科学、哲学、歴史、フランスというキーワードを中心に興味深い話題を提供できればと考えています。

どこかで目に触れた折には、ご意見、ご批判をいただければ幸いです。

よろしくお願いいたします。




mercredi 8 février 2012

「医学・生命科学を考える」 + 「パリからのエッセイ」 = 「科学・医学・哲学を巡って」



年頭、この場所のことを考えていた。

そして本日、タイトルの通り、二つのブログを一つにまとめることにした。

具体的には、「パリからのエッセイ」 の内容をこちらに移し、この場のタイトルを 「科学・医学・哲学を巡って」 と改めた。

副題は、Autour de la science, de la médecine et de la philosophie とした。

住所はそのままである。

少しだけ、頭の中がすっきりしたように感じられる。






jeudi 2 février 2012

モンディアリザシオンによる思考様式の単一化から逃れるために




先日のbnfのリブレリーでのこと。このタイトルを見て、ユニークな思考のどこが悪いのか、と反応して手に取ったクロード・アジェージュさんの本。不思議がっているうちに、unique という言葉に 「単一の」 という意味があることを思い出す。一色に染まる思考に抗する本だとわかり、手に入れる。何というお粗末さ。

クロード・アジェージュさんは初めての方になる。チュニジアのカルタゴ生れで、御歳76。カルタゴと聞いただけで、心躍るものがある。コレージュ・ド・フランスの教授を1988年から2006年まで務めていた。異なる言語が飛び交う土地で生まれ育ったためか、ウィキによると日本語も含めた50ほどの言葉を理解できるという。Dictionnaire amoureux シリーズの言語に関する辞書も書いている。




今日取り上げた本では、モンディアリザシオンが齎す問題を言語を含めた幅広い領域について分析している。因みに、英語のグローバリゼーションはフランス語では意味合いが変わっている。著者の解釈では、モンディアリザシオンとは文化の支配にまで至るもので、グローバリザシオンは商業の分野に限られ、文化的な優勢を齎すものと区別している。すでに明らかなように、現代の国際社会で意志の疎通をしようとすると、英語以外の言葉は使えない状況にある。つまり、英語が体現している世界の見方、思考様式しか通用しなくなっている。アジェージュさんはそこに多様な世界の見方、少数派の言葉、つまり考え方、文化が消失する危険性を見ている。


この本を読みながら、こちらに来る1年ほど前のことを思い出していた。ある通勤の朝、それまでの歩みを振り返り、驚くべきことに気付いたのだ。研究の上では英語は必須なので、アメリカから帰ってから頭の中を英語のままで通すように努めていた。その日、若き日の考えがさっぱり深まっていないことに愕然とし、その理由に思いを巡らせていた。そして、自分の英語の能力の範囲内でしか展開しない思索に身を委ねていたため、結局のところ考えていなかったと結論せざるを得なかったのである。



確かに、外国語を学ぶことは世界(の見方)を広げる上では必須である。その前に忘れてはならないことは、「もの・こと」の機微に至るまで表現できる母国語を鍛え上げておかなければならないということだろう。そこが蔑にされていると思索は深まらない。母国語の大切さに関して、フィールズ賞受賞者ローラン・ラフォルグさん(Laurent Lafforgue, 1966-)の興味深い言葉が紹介されている。

「数学のフランス学派が格別に優れているので、いまだにフランス語を使うことができるのだとよく言われますが、わたしはその逆だと考えています。フランス学派が独創性と強さを保っているのは、フランス語に執着しているからなのです」

その上で重要なことは、ギリシャ語やラテン語などの古典を学ぶことだという。これは自らの経験から言えることだが、英語以外にもう一つ理解できる言葉を持つことではないだろうか。英語の世界にいる時には、ものの見方、捉え方、表現の仕方という基本から冗談の言い方に至るまでその影響を受けていた。その結果、日本語の世界、すなわち自らの精神世界が等閑にされ、密度の薄いものになっていた。それだけではなく、英語文化の外にあるやり方を遅れたものと見るようになったことである。この危険な精神状態に気付くことができたのは、そこから出る機会があったからに過ぎない。日本を覆う閉塞感という言葉を目にする時いつも浮かんできたのは、この本が言う「パンセ・ユニーク」であった。

このような経験から、ここでは敢えて第二外国語の重要性を強調しておきたい。この世界は一つの視点からでは捉えきれない大きさと複雑さを持っている。どの言葉から観るのかで、その姿は大きく変わってくるはずである。多面的な姿を手に入れることで、より理に叶った判断が可能になるだろう。英語だけに依存していると世界の豊かさを味わえないだけではなく、道を誤る危険性も出てくる。そんなことを考えさせてくれる出遭いであった。




mercredi 1 février 2012

トーマス・セデルキストさんによる伝記の描き方、あるいは科学者の生き方


Offenbach (1968)
Robert Pourvoyeur
(1924-2007)


昨年、今の領域に入ってから初めてエッセイを書いた(BioEssays 33: 552-554, 2011)。それを目にしたカナダのドナルド・フォースダイクさん(Donald Forsdyke)から、ご自身の論文とともに挨拶メールが届いた。免疫学の実験的な研究をやりながら、理論免疫学や免疫学の歴史を研究されている方である。言ってみれば、わたしの大先輩に当たる方と言えるかもしれない。そのフォースダイクさんから新年の挨拶が届き、いくつか論文が紹介されていた。本日、その中の一つ、トーマス・セデルキストさん(Thomas Söderqvist)の論文に目を通してみた。

Söderqvist, T. 2011. The seven sisters: Subgenres of Bioi of contemporary life scientists. J. Hist. Biol. 44:633-650

この論文ではご自身の経験を交えながら伝記のジャンルを分析している。ご自身の経験とは、以前に取り上げた免疫学者ニールス・イェルネさん(Niels Jerne, 1911-1994)の伝記執筆である。ブログの記事を見たセデルキストさんから連絡が入り、何度かやり取りがあったことを思い出す。



現代の科学者の伝記を書く中で、なぜ書くのか、それは何かのためになるのか、という疑問が生れ、そこから伝記のジャンルを分析し、これからの方向性を提唱している。まず、執筆の動機から以下の7つのジャンルを挙げ、それぞれについて解説している。

1) 科学史の一つの方法として
2) 科学知の成立過程を理解する方法として
3) 科学という営みの理解を増進するために
4) 一つの文学作品として
5) 偉大な科学者への讃歌として
6) 個人的な尊敬や愛の表現として
7) 科学者の生活を倫理的側面から分析し、科学の中でいかに善く生きるのかを考えるために

あくまでも恣意的な分類になると断っているが、最初の6つは理解できる。最後のジャンルは彼が執筆の過程で気付いたものだという。お国の哲学者セーレン・キェルケゴールさんは 「学者の場合、私生活と研究生活が別物であることが多い。重要なのは研究生活である」と言っている。しかし、セデルキストさんは考える。個人の私生活が公的な研究生活にどのように反映しているのか。個人の内面の表現としての研究生活という視点で科学者を描けないか。その解析が研究の倫理を考える上で参考になることはないか。アリストテレスの倫理でも行われている人生のあゆみや人間性をどのように形作るのかという省察をすることにより、科学の世界でどのように生きるのがより良い科学者人生となるのかという問に解を与えるような伝記が可能ではないか。

そこで嬉しいことに、このブログではおなじみのピエール・アドーさん(Pierre Hadot, 1922-2010)が登場する。哲学には大きく二つの流れがある。一つは、体系や概念、理論に重点を置く哲学で世界の成り立ちや知の体系を考える。もう一つは、生き方を観想する哲学で真理や徳を実際に生きる実践の哲学である。アドーさんは後者の道を重視すべきとの考えだった。セデルキストさんはこの二つの考え方を科学の営みにも応用することを提唱する。つまり、自然界を理解するためにどのように科学を進めたのかということと一人の人間として自己とどのような向き合い、科学者としての自己を形作って行ったのかという両面から描くことである。そうすることにより、科学者だけではなく一般の方の生き方を考える上での示唆を与えることができるのではないかという思いがあるようだ。




科学者の立場から見ても、キェルケゴールさんが言うように、専門の部分でどれだけの貢献があったのかだけが問題になるのがこれまでの流れであり、これからもその傾向は強まることはあるにせよ、弱まることはなさそうである。この現象は、一人の人間の全体が消え、その人間の専門家としての部分だけが評価の対象として浮かび上がるという現代を象徴するものと言えるだろう。それで本当によいのだろうか。この状態が続くと、人間が本来持っているかなりの部分が間違いなく死んでいくのではないだろうか。そのことに気付くかどうかは別にして。もちろん、これは科学者だけの問題ではないはずである。