Affichage des articles dont le libellé est Japan. Afficher tous les articles
Affichage des articles dont le libellé est Japan. Afficher tous les articles

lundi 21 février 2011

科学と哲学の将来について



先日の日本滞在中にお話した先生から科学と哲学についての質問が届いていたので、現在の考えを以下のようにまとめて送った。

----------------------------------

興味深いお話をありがとうございます。

先生のお話は科学と哲学の関係を考える上で重要な問題を含んでいると思います。結論からになりますが、科学という大きな営みの中における科学者と哲学者の役割は別ものだというのが現在のわたしの考えになります。科学者は具体的な実験データなどから科学的事実(一時的真理)と言われるものを引き出し、科学の論理の中で整合性を取りながら次の疑問を出して前に進みます。そして、その発見が広く社会に影響を及ぼすことになれば評価されるというのが現状だと思います。したがって、普通の科学者は現在の評価基準に合わせて研究しているのだと思います。

この過程における哲学の関与についてですが、ノーベル賞学者の中にも、所謂哲学は科学の現場には不要であるばかりか有害であるとさえ言っている人がいます。わたしの現役時代もこれに近い立場を採っていたと思います。大部分の科学者も日常の科学を進める上で哲学は必要ないと考えているのではないでしょうか。どれだけの一流の科学者が哲学を勉強しているでしょうか。科学的成果と哲学の間に相関があるようには見えません。

それでは哲学は何をするのか、ということになりますが、これは哲学者の数だけの役割が考えられているのだと思います。わたしの印象では、古代ギリシャからの伝統として哲学には全体に対する視線があり、部分を知る人よりは全体を知る人の方を賢いと考えるところがあるように思います。それから哲学による知は反省による知だという考えがあります。つまり、哲学者は科学者が出す知(先生の言葉では真理になるでしょうか)と同じものを出すのではなく、科学者の出した知について考え、ある領域の中に留まらず、異なった領域での知とも関連付けながら科学知に新しい次元を見出すこと、科学者の頭にある科学知を超えたより広い枠組みに入れ直された新しい見方、新しい知を提供することではないかと考えています。

科学の役割として人類の幸福や福祉に役立つものを生み出すことが第一に挙げられますが、そこで考えられているのは多くの場合物質的なものの提供ではないかと思います。その考えが広まると、科学の外にいる人は科学を打ち出の小槌と見て、そのような結果を要求することになります。わたしは、それ以上に重要なこととして人間や社会における自由との関連を考えたいと思っています。歴史を見れば明らかですが、真っ当な科学が成立するためには自由な社会が必要になります。同時に、自由な社会を維持するためには科学精神が不可欠になると思います。

証拠に基づく議論が展開せず、論理に合わないことが蔓延っている社会では、理に叶わないことを指摘できる空気が失われることになります。自由な議論が損なわれる社会がその行き先をしばしば誤ることを考えると、自由な科学精神を培うために科学が必要なのだという視点で科学を捉えることが重要ではないかと考えております。そして、その視点から科学の教育や普及がされなければならないと思っています。そうすることにより、科学精神が一般の人の日常の考えや行いの中に入り、科学に何かを求めるのではなく、科学精神を使おうとする視点が得られるのではないかと考えています。ただ、日本では自由に対する感度が鈍いようにも見えますので、少々楽観的かもしれませんが。この点を強調するのは、こちらに来てから文系の教育を受けていますが、そこでは今言ったような意味での科学精神は身に付かないのではないかという印象を持っているからになります。

科学と哲学の今後ですが、哲学の側はこれまで科学を対象として膨大な仕事を残しています。一方、科学の側は哲学が科学の現場に役立つかどうかという視点から哲学に対して否定的な見方を採っていたように思います。しかし、科学と哲学の目指すところは大きな意味での科学知の確立という共通のもので、そこに至る道が異なっているに過ぎないことを科学の側が理解する必要があるのではないかと思います。その理解の上で科学と哲学が積極的に交流することは、より深い自然の理解に繋がるだけではなく、上で言った意味での科学の普及にもよい影響が出るような気がしています。

日本には一色に染まりやすく(自分なりに考えて、その考えを表明することをせず)、批判や論争が起こりにくい状況があり、その意味では科学精神溢れる自由な社会とは言えないかもしれません。ただ、今回の滞在で強く感じたことは、今の日本の科学者は哲学的思考や深く考えることに飢えているのではないか、ということです。日本は哲学の未開地ですが、将来へ期待を抱かせる何かがあるような印象をもって帰ってきました。

少し長くなりましたが、現在の大雑把な考えになります。
ご意見をいただければ幸いです。


samedi 29 janvier 2011

江戸の普遍人、平田篤胤




平田篤胤
(1776年10月6日-1843年11月2日)


先日、荒俣宏さんと平田篤胤の末裔で篤胤神道宗家の米田(まいた)勝安さんの対談本に目を通す。

 「よみがえるカリスマ平田篤胤」(2000年、論創社)

平田篤胤は荷田春満、賀茂真淵、本居宣長に連なる国学の四大人に数えられ、戦後は狂信的な国粋主義者として批判された人物。ただ、米田さんは篤胤を国学だけで評価するのは不当であり、その幅広い仕事を常人の守備範囲で理解するのは至難の業だと語っている。確かに、神道・国学に始まり、古伝、神代文字、文学、民俗学、宗教(仏教、儒教、道教、キリスト教、神仙道)、暦学、地理学、医学、蘭学、窮理(物理)学、兵学、易学などについて膨大な書物を残している。科学を学んだ上での文系の学問だったことが特徴になるだろう。彼の最終的な夢は、歪んだ江戸末期の世を改めること。そのためには、権力を倒せ!という政治運動に恃むのではなく、人々の考え方を変えるように教化するのが有効であると捉えていた。具体的には、日本の言葉、神についての考え方、暦、度量衡、そして科学を正すことであった。

子供の時から本を読むのが好きで、書き抜きもしていた。20歳の時、再び帰る道を断ち、秋田を出て江戸に向かう。この途中に猛烈な吹雪に遭い、宗教体験をした。米田さんによると、宗教への入口にはいくつかあるという。

まず、学問(哲学、倫理学、心理学、法学、天文学など)の方法論を通して教学を習得する学習的信仰。
第二に、論理の積み重ねではなく、個人的な神秘体験を通して信仰に至る体験的信仰。
第三に、自然現象から人間の力の及ばぬ世界を感性鋭く自覚して信仰に至る感性的信仰。
第四に、葬儀、お宮参り、初詣などの日常の慣習の中で信仰に至る慣習的信仰、など。

江戸に出て苦労した後、25歳の時に平田家の養子になり、篤胤を名乗る。以後学者の人生を歩むことになる。26歳の時に本居宣長の書に触れ、伊勢に出向き、宣長に入門する。同年、妻綾瀬を娶る。その翌年に長男が生まれるもすぐに亡くなる。32歳で元瑞を名乗り、医者を開業。篤胤37歳の時、31歳の妻が亡くなり悲嘆憔悴する。その経験が「霊能真柱」を書かせる。人間精神を確固にする根本は死後の霊魂の行方を明らかにすること。地獄極楽や天上黄泉の国に行くのではなく、天照大神の指示により大国主神が支配する霊界に行くとしている。そして、その霊界は地上にあり、霊魂はそこで永久に生きるのである。


篤胤は、学問というものは自分一代で完成できるものだけをやるのではなく、数百年、数千年と継承されて行くもので、未完の部分は後の学者に委ねればよいと考えていた。いろいろなものに興味を持ち過ぎて、手が及ばなくなったという批判は当たらないとは米田さんの指摘。篤胤の学問をまとめると、次のようになるだろう。

第一に、東洋医学、西洋医学を研究し、人体解剖までやり、人間とは何かという問に科学的に答えようとした。
第二に、天文・地理・暦学を研究し、時間・空間という基本概念を明らかにしようとした。
第三に、科学的研究ではわからない心、智慧、生前・死後、文化の発祥や未来、さらに人間の力の及ばない超常現象、幽冥、超能力などを解明しようとした。

この3つの柱は、科学、哲学、宗教と対応しているようにも見える。彼はあくまでも根本的な問題に興味を持っており、その方法論の基礎には合理精神、批判精神、科学精神がなければならないと考えていたという。これはディドロとダランベールの百科全書の精神と重なるものである。そこには、人間の精神の向上が伴わない知識だけの学者は失格であるという考え方があるように見える。当時の先端科学のみならず、人知の及ばない世界にも開かれていたその脳の中を、いずれこの目で見てみたいものである。


dimanche 16 janvier 2011

ジャン・マリー・ブイスーさんによる日本の科学 La condition de la science au Japon selon M. Bouissou



先日、「問われる科学」とでも訳すべきこの本にざっと目を通した。昨年、11月に出たばかりの科学者、哲学者数名によるもの。この中に「日本における近代科学受容の問題点 ― 渡辺正雄さんの見方」(2010年10月27日)で触れた点に関連することが出ていたので振り返ってみたい。近代日本の専門家ジャン・マリー・ブイス―(Jean-Marie Bouissou)さんは日本における科学をこう見ている。

「日本と科学の歴史はトラウマの歴史である。1853年における日本の技術レベルは3世紀前と変わらなかった。例えば、蒸気機関はなかった。日本人はその技術は知っていたが、政府がすぐにその使用を禁止した。文字通り、歴史を止め、社会を停滞させた。しかし、アメリカ船の到来で、すべてが変わった。自らの技術の遅れに気付き、蒸気機関を持っていなかった僅か30年後には驚異的な発展を遂げた。そして1905年にはロシアとの海上戦を制することになり、その数十年後にはアメリカに空中戦を仕掛けることになる。これほどの技術の進歩を見せた国はどこにもなかった。

この点を指摘した上で、日本人が技術の模倣に務めたにもかかわらず、1945年までは科学の本質的なところには特に興味を示さなかった。しかし、広島、長崎の経験で日本は科学に負けたと考えるようになった。そして、ベビーブーマー世代は科学万能、日本復興の旗頭の下で育てられる。ここでは漫画などによる科学の普及も行われた。しかし、80年代にこれが覆る。科学で西欧に追い付いても名声も得られなければ、国際的な尊敬も幸福も手に入らなかったので、科学への熱狂が冷え、特に若者は科学から遠ざかることになる。学生の科学のレベルの国際比較にもそれが表れている。科学がそのオーラを失ったのである。それに気付いた政府はコミュニケーションに力を入れ、公開討論や重要な政策の宣伝に努めている」


これを読んで思い出したのは、昨年参加したアメリカ科学振興協会の総会での日本、中国、韓国の政府関係者の発表である。そこで感じたのは、もちろん国内的なコミュニケーションも大切だが、それ以上に外に向けてのコミュニケーションが重要になるのではないかということだ。そのやり方がいかにも稚拙というか内向きに見えたのである。つまり、西欧と同じレベルの論理構成で話をしたり、特に共通の意識でそこに参加しているという姿勢に乏しい印象を与えるのである。戦後半世紀以上経っても対外的なやり方はあまり進歩していない、あるいは外の視線に対する感度が弱く、外に対する対処法を戦略的に考えていないのではないか、という感想を持った。それは、今のままではいつまでも彼らの枠の外にいる存在としてしか見られない可能性が高いという危惧でもある。しかし同時に、日本はそもそもそんなことはどうでもよいと思っているのではないかという諦めに近い思いも巡っていた。それは科学政策の関係者に限らず、広く政治のレベルにも浸透しているような気がしている。


vendredi 7 janvier 2011

杉田玄白著 「蘭學事始」 を読む

杉田玄白著 「蘭學事始
(昭和三十四年第一刷、昭和四十二年第十二刷、校註者緒方富雄)


おそらく、必読書のようなリストに挙がっていたのだろう。しかし、いつの間にか忘れてしまったようで、"must" に挙げられた途端にやる気が失せるというわが身の性質を見る思いだ。昨年日本の本棚で発見。こんなものまで読もうとしていた昔の存在に想いを馳せながら持ち帰った。そしてこの正月、40年以上経ってやっとのことで読むことになった。

読み始めてすぐ、登場する人物が非常に近く感じられ、予想以上の面白さに時が消える。ただ、もっと早く読んでいればよかったのに、という感情は湧いてこない。今がこの本を味わうのに最適の時だったのだろう。まさしく、パングロス博士の言だ。年月を経て何かに辿り着くというこの感覚に繋がるところがあった。

「さてその好き嗜むといふことはアーンテレッケン(註:ひきつける)といふなり。わが身通詞の家に生れ、幼よりそのことには馴れ居りながら、その辭(ことば)の意何の譯といふを知らず。年五十に及んでこの度の道中にてその意を始めて解し得たり」

やっとわかったということを口に出しているところに、思わずにんまりする。至るところで昔の日本人の感性に触れ、このにんまりがしばしば現れるのだ。人物評も吹き出してしまうほど面白いところがある。言ってみれば、彼らは今の私と似たような境遇。漢学は留学生などを送り蓄積があるのに対し、蘭学は全く訳のわからない異文化、異言語だ。その壁に接し、暗中模索、悪戦苦闘している。玄白翁がその人間の姿と心を素直に語られているところがいとをかし、なのである。フランス語を始めて1-2年の間、壁が前に立ちはだかり、どうしても向こう側が見えないもどかしさを感じていたことを思い出す。

例えば、玄白は自らをこう評価している。

「翁は元来疎漫にして不學なるゆゑ、かなりに蘭説を翻譯しても人のはやく理會し暁解するの益あるやうになすべき力なし。されども、人に託してはわが本意も通じがたく、やむことなく拙陋を顧みずして自ら書き綴れり」

そして興味を惹いたのは、前野良沢という人物。幼くして親を失うも伯父の宮田全沢に育てられ、愛すべき人物に成長している。少し長くなるが、、

「さて、翁が友備前中津候の醫官前野良澤といへるものあり。この人幼少にして孤となり、その伯父淀侯の醫師宮田全澤といふ人に養はれて成り立ちし男なり。この全澤、博學の人なりしが、天性奇人にて、萬事その好むところ常人に異なりしにより、その良澤を教育せしところもまた非常なりしとなり。その教へに、人といふ者は、世に廢(すた)れんと思ふ藝能は習ひ置きて末々までも絶えざるやうにし、當時人のすててせぬことになりしをばこれをなして、世のために後にその事の殘るやうにすべしと教へられしよし。

いかさまその教へに違はず、この良澤といへる男も天然の奇士にてありしなり。専ら醫業を勵み東洞の流法を信じてその業を勤め、遊藝にても、世にすたりし一節載(ひとよぎり)を稽古してその秘曲を極め、またをかしきは、猿若狂言の會ありと聞きて、これも稽古に通ひしこともありたり。かくの如く奇を好む性なりしにより、青木君の門に入りて和蘭の横文字とその一二の國語をも習ひしなり」

中に、「業は本草家にて生れ得て理にさとく、敏才にしてよく時の人氣に叶ひし生れ」の浪人、平賀源内も登場し、その奇才ぶりが紹介されている。

自ら腑分けに立ち会った玄白は、和蘭との間に「千古の差がある」とオランダの医学書の正確さに驚いている。漢書の比ではなかったようだ。玄白翁がターヘルアナトミアの訳書「解体新書」の出版により罰せられるのではないかとの恐れを抱くところがある。「江毛談(おらんだばなし)」というアルファベット入りの書がなぜか絶版になるのを見ていたので、出版すべきかどうか迷うのだ。中世ヨーロッパとは比べものにならないだろうが、当時蘭学に対する厳しい目があったことを想像させる。しかし、「解体新書」は何ごともなく出版され、後年こんな回想をしている。

「過ぎこしかたを顧みるに、未だ新書の卒業に至らざるの前に、かの如く勉勵すること兩三年も過ぎしに、暫くその事體も辦ずるやうになるに随ひ、次第に蔗(さとうきび)を噉(か)むが如くにて、その甘味に喰ひつき、これにて千古の誤も解け、その筋たしかに辦へ得しことに至るの樂しく、會集の期日は、前日より夜の明くるを待ちかね、兒女子の祭見にゆくの心地せり」

サトウキビを先端から噛んで根に向かうと、次第に甘さが増してくるという。次第にものが見えてくる悦びが表れていて、微笑ましくもあり、肖りたくもあり。時は下るが、福沢諭吉が明治二十三年(1890年)に再版によせた序などは予想もしない光景に驚いたが、最早そういう気持ちになることなど想像もできない世に生きていることを改めて思い知らされる。

「就中明和八年三月五日蘭化先生の宅にて始めてターフェルアナトミアの書に打向ひ、艪舵なき船の大海に乗出せしが如く茫洋として寄る可きなく唯あきれにあきれて居たる迄なり云々以下の一段に至りては、我々は之を讀む毎に先人の苦心を察し、其剛勇に驚き、其誠意誠心に感じ、感極まりて泣かざるはなし」


読んで感じるのは、あくまでも日常の経験の中で目に見えるところを工夫しながら一つのまとまりをつけて行くというやり方が行われていて、哲学的な思索は見られない。以前に NHKの 「プロジェクトX」 という番組を見て感じたことと近いものがここにもある。それはあくまでも細部の工夫に拘り、背後にある原理を探ろうとする精神運動に向かわないという日本文化の特徴のようなものだろうか。そこに懐かしさを感じたのかもしれない。





lundi 6 décembre 2010

最前線に立つという感覚、あるいは拡大から深化へ



もう30年ほど前のことになる。7年に亘るアメリカでの研究生活を終え、日本に帰ってきた。その時に感じたことがある。それは日本ではあるモデルを見ながら進んでいるので、生きるのが楽な国だなというものであった。それは、意識していなかったが、アメリカでは目の前がワイド・オープンになっていると感じていたことを意味している。自分がいつも最前線に立っているという感覚である。そこではモデルなどはないので選択の幅が日本より広く、その選択のために個々人が思考しなければならない。人それぞれに自らを満たすために多様な生き方が生まれる社会と言ってもよいだろう。そのやり方に慣れていない場合には大変だが、この過程こそ社会にダイナミズムを生み、時に創造的な営みが行われる源泉になっているはずである。この感覚が日本に帰って消えていくのを感じていたことになる。考えないで済むという点で楽だと言ったが、別の言い方をすれば、視界が広がっていない予定調和の世界を進むという意味で足枷がかかっているようなものである。生きる上で心が躍らないのだ。

今日の日本は閉塞状況にあり、日本人から元気がなくなったと言われている。もし、あるモデルを見ながら一丸となって進む時に感じた昂揚感がなくなったところに原因を求め、あの昂揚感よ再び、と模索しているとすればあまり期待できないのではないだろうか。あの昂揚感ではなく別の昂揚感が必要になるような気がしている。それはそれぞれが見習うモデルのない最前線に立っているという感覚と、それ故自らが考えて進まなければ立ち行かなくなることを認識することから始まる。時に昂揚感とは対極の感情も招くことになるだろう。しかし、それは与えられたものではなく自らが選んだ結果になるので、それこそ生きている証として受け入れることができるのではないだろうか。その感覚を持ち、日々を新しく生きようとするなかで道は開けるような気がしている。どこかにあるモデルを見るのではなく、それぞれの内面と向き合いながら自らの考えを深めるような生活が広がれば、何かが変わるのではないだろうか。数の世界から質の世界へ、あるいは一方向の拡大ではなく多方面での深化。今フランスに生活して感じる落ち着きの基にはこのような生活態度があるように想像している。これからの日本にとって、一つのヒントがそこにありそうである。


mercredi 27 octobre 2010

日本における近代科学受容の問題点 ― 渡辺正雄さんの見方


Walasse Ting (1929–May 17, 2010) ―
Gallery


日曜の夜、昨年の日本で仕入れたままになっていたこの本に手が伸びた。日本における科学、特に日頃から問題にしている科学精神を考える上で何か参考になることでもないかという期待を抱きながら読み進んだ。

 渡辺正雄著 『日本人と近代科学』(岩波新書、1976年、定価230円、古本屋で400円)

副題が「西洋への対応と課題」となっている。古本を読むときにいつも感じることだが、その内容がよく入ってくることに驚く。なぜかわからないが、今のところこんなふうに考えている。対象との距離が近過ぎると焦点がぼけてよく見えないが、少し離すと見えるようになるというあの感覚、本の中で語られる動きを止めたものを上の方から眺めているという感覚が対象を捉えやすくし、読む方に落ち着きを与えているのではないか。まさにわれわれの年代がしばしば経験する紙を離すとよく見えるというやつである。

17世紀に生を受け、次々と成果を上げてきた近代科学だが、近年科学・技術の問題点も指摘されるようになってきた。このような背景の下、日本における近代科学の受容と現状について顧みることは意義があるのではないかという問題意識で書かれている。本書では具体的な例として、明治初期に会津藩士で白虎隊員でもあった山川健次郎(1854-1931; 後に東京大学で日本初の物理学教授となり、総長も務めた)、お雇い教師として大森貝塚の発見、進化論の紹介をした東京大学最初の動物学教師エドワード・S・モース(1838-1925)、日本の無常思想の枠の中で進化論を咀嚼したとされる丘浅次郎(1868-1944)らを取り上げケース・スタディをやった後、著者の考えを表明している。

日本の近代科学の受容に関する著者の分析を最初にまとめると、次のようになるだろう。
(1)西洋の学術を摂取する時に、それを生み出した思想的・文化的基盤に思いを致すことなく、技術的な導入・模倣に終始したこと
(2)西洋の学術の諸分野の相互の関連を考慮することなく、細分化された専門分野を個別に学び取ってきたこと
(3)導入した西洋の学術と日本古来のものとの関連性を無視したままにしたこと
これらを是正することを今後の課題として捉え、それは教育に委ねられるところ大であるという結論になっている。

本書では西洋の学術、特に近代科学を見る場合の軸として忘れてならないのはキリスト教であることが強調されている。西洋の伝統的な世界観は神を基本とし、神が創造したがための自然であった。その中で人間は神の像に似せて作られた特別な位置を占めていた。人間はその神の創造した自然には神の考え、すなわち規則正しい法則のようなものが反映されているはずだと考え、古代からその謎を解こうとしてきた。その末裔が専門の科学者になる。しかし、近代科学の導入を図った頃の日本人にはキリスト教に対するアレルギーがあり、科学立国を急がなければならなかったためか、西洋文明の持つ精神的な側面に目を背けることになった。当時の状況を考えると、この点の批判は難しいだろうが、このことが科学に対する理解を一面的なものにしたことは否定できないとしている。

このような背景は進化論の受容にも影響を与えた。西欧においては神の創造した特別な位置にある人間が"下等"な生物に由来することなど想像できないことであり、神の作ったものが変わり得ることも信じ難いことであったので、進化論に対する著しい拒絶反応があった。しかし、そのことは理解不能であった。しかも進化論を理解するために必要になる諸科学(形態学、分類学、生態学、実験生物学、比較解剖学、古生物学など)の基礎が未だ築かれておらず、学問的な評価もできる状態にはなかった。自然科学の面での議論が不毛であったかわりに、ハーバート・スペンサー(1820-1903)に代表される社会進化論からの「生存競争と自然淘汰」あるいは「適者生存、優勝劣敗」などの言葉が踊り、様々な主義・主張を裏付けるのに安易に用いられたようである。

それからこれはよく言われることだが、日本人の自然観が自然の中に共にあるというもので、特別な立場にある人間が自然を客体として見み、それを変えようとする西洋の自然観とは相容れないものがある。一つの逸話として、これだけ地震の多い日本で人の世の栄枯盛衰を儚む文学は生まれたが、地震学はそこで実際に地震を体験した西洋人によってしか生れなかったことをあげている。

上の分析からも明らかなように、著者は科学を人間の知的・精神的な営みの一つとして捉えており、先人の研究成果を学ぶだけでは不十分で、それを生みだした文化や社会との関連をも理解しなければ真に理解したことにはならず、不健全な専門家にしかならないと考えている。その上で、科学の知識を習得するだけではなく、科学的思考や科学を全体的な枠組みの中で捉えようとするアプローチを取り入れる必要性を説いている。

また、ガリレオの『天文対話』を例に取り、中世のスコラ哲学を代表する人物、近代科学(ガリレオ自身か)の立場を代表する人物、知的な市民の三人の対話の中に科学の本質があるのではないかと指摘している。すなわち、真理とは公共的なものであり、それ故お互いの対話や討論を通してより高い真理を求めることができるというギリシャ以来の確信がそこに見られる。それはそのまま民主制という政治形態をも生み出す精神に繋がっていたはずである。翻って日本の学界や政界を見た時に真理は公共のものであるという前提の下での対話・討論が充分に行われているだろうか、と問い掛けている。そして、その問に否定的な考えを示した後、その原因となっているのは精神的独立の欠如、人間尊重の欠如、さらには世界観を確立させるような価値体系の欠如などをあげている。

この本の底流に流れていることは、この場でも触れてきたことと繋がるところが多い。35年ほど前の状況を改めて振り返り、表面上隆盛を極めているかに見える今日の科学の営みにおいて、当時から忘れられているとされたことがどれだけわれわれの意識に上っているだろうか。離れて見る科学の現状は、未だ片肺飛行を続けているかのようである。


samedi 20 mars 2010

アジア、そして世界における科学を考え直す時


新しく来た科学雑誌に目を通す。これまでアメリカで定期的に開かれている会議が海外でも開かれるようになっていることは知っていたが、アジアの場合には中国で開かれることが多くなっている。今回目に付いたのは Cold Spring Harbor Lab の会議だが、これからそのような機会が益々増えるのではないかという印象を持った。欧米の会議を日本でやる必要はないという考え方も理解できるし、日本にいるとそのような考えになるのは自らを振っても納得がいく。しかし、国際的な基準しかない科学のような世界では、外との日常的な接触が不可欠になるのではないだろうか。

日本の場合には世界を視野に入れた戦略的な思考が苦手で、世界に訴えかけるような姿勢に乏しい印象がある。島国の中に落ち着いてしまうとそういう視点を日常的に持つのが難しくなるのかもしれない。先月サンディエゴであったAAASの会議ではアジアの科学コミュニケーションの現状を扱ったセッションがあり、日本、中国、韓国の代表者が発表していたが、アジアの特徴は国が前面に出ていることだろうか。中国は国がすべてを決めている。科学を知らない農民が多いので、とは責任者の発言。それから韓国、そして日本の順に国の影響が少なくなるような印象を持った。アジアにおける国の関与の大きさにはアメリカの司会者も目を見張り、同じ科学とは言いながらここまでその姿が違うのかと驚いていた。

すべてを国がやる中国のスタイルがよいとは言えないだろうが、これから世界の中で生きていこうとする気概と戦略を持っているように感じた。大陸にある中国には日本人にはない世界の中の中国という感覚が自然に身に付いているのかもしれない。アメリカで活躍する中国人科学者の数も多く、彼らはアメリカ社会に積極的に入ろうとする姿勢が強い。人口においても圧倒する中国は科学の世界でも大国になりそうな予感がしている。その上で日本はどのような道を取るべきなのだろうか。それを考える際には単なる言葉の羅列ではなく、動きを伴った大胆さが求められるように思う。


vendredi 30 mai 2008

ピューリタニズムと科学、そして日本

Robert King Merton (4 juillet 1910 - 23 février 2003)


アメリカの社会学者で科学社会学の創始者とされるこの方の最初期の仕事 "Le puritanisme, le piétisme et la science" (1936年)を読む。その中で、17世紀イギリスを対象に社会と文化と文明の関わりを見ようとしている。特に、清教徒(ピューリタン)が掲げる価値と科学の目指すところを概観し、宗教と科学の関係を比較解析している。例を挙げての指摘から数値を使って証明する方向に向かっている。その結果、ピューリタンの倫理が科学の発展をもたらしたという結論に達している。

神の創造物である自然を理解することにより創造主を賛美し、人間に幸福をもたらすことがプロテスタントの倫理であり、それが科学の目的とも合致した。自らの興味に基づいて、などという甘い動機付けではとても叶わない大きな力を感じる。17世紀の中ごろにRoyal Society of Londonが設立されるが、その憲章にもこの二つが掲げられている。ドイツの敬虔主義でも同様の現象が見られた。科学への参加はカトリックよりはプロテスタントが優位であったようだ。さらにこれを読むと、日本の徳川に当る時代から "why question" や "how question" について議論されており、その歴史の重さには如何ともしがたいものがある。

そう感じた時、日本の現状に目が行っていた。日本には優れた科学者はいるが、科学という文化はないと言った人がいるらしい。的確な観察だとは思うが、それはヨーロッパ3000年と日本の100年か200年という歴史の長さとその質の違いから来るものだろう。アメリカの歴史も短いが、そもそもアメリカはピューリタンの国。彼らは新大陸に辿り着いて16年後の1636年にはボストンに大学を造り、当時の大学の学長はボストンに哲学協会まで創っている。国の成り立ちが日本とは全く違うのである。日本の学会では科学を何とか若い人や一般の人に浸透させようという動きがあり、それは政府のレベルでも考えられているようだ。文化としての科学を育てなければ、ということなのだろう。この手の問題に対してテクニックで解決されると考えている節があるが、そんなに簡単にできることではないことにすぐ気付くだろう。まずその文化がないと言われている科学者がその先頭に立つのである。科学の発祥を辿っていけば、批判的なものの見方や自立した考え方がなければそもそも科学が生れなかったとされている。つまり、そういう精神のないところに科学文化が生れてくるだろうかというのが素直な疑問だろう。その精神が生れるにはどうしたらよいのかを考えることが先決のような気がする。しかし、この問は科学を超えて途方もない大きさのものになる。正面を見据えた大計が必要になるのだろう。

-----------------------------------
この話題に関連して、あれだけの科学的才能を発揮していたパスカルが科学の空しさを感じたのが、彼がジャンセニスムに改宗してからであるという史実も興味深いものがある。ジャンセニスムの教えでは、永遠の真理についての瞑想を妨げ、限られた知性の中で満足させるに過ぎない科学に対して空しい愛を抱くことを諌めているからである。

科学の発展に宗教の果たした役割が計り知れないというマートン氏の指摘。宗教が科学を脅かす可能性が懸念され論じられている現代。歴史の大きなうねりにも興味尽きないものがある。