dimanche 29 juin 2008

知者と賢者

"Adolphe Franck" (1878)


離れて日本を見る
どこもかしこも儲かるか儲からないかの枠組みしかない貧しさだ
もはや すべての人にこれが組み込まれているかのように
しかも その意味を疑うことがない
あるいは その枠の中にいることさえ気付いていない

フランスで哲学を学び始めて 何かのためではなく
 そのもののためだけに考えることがありうることに驚く
その態度を知ってしまうと それ以外が浅いものに変わって行った

枠組みを取り払って考える
この過程を経ないところからは 何も見えてこないだろう
それは生きる術ではなく 生の理解にわれわれを導く


ある人が思想を語る
それを聞く
その時 その思想がどれだけその人の体から出ているのか
どれだけその人の生と繋がっているのか
その結びつきが見えない時 その話は全く残らない 伝わらない

知識ではなく智慧
知識を統合したところの智慧
これが人を動かすのだろう
どの分野にも欠けているのが深い智慧
今求められるのが 知者ではなく賢者である所以だ

ひょっとすると私のどこかに賢者への憧れがあったのかもしれない
そこに辿り着くためには ある領域を抜け出たところでしか手に入らない何か
その何かを求める旅に出なければならないとでも思ったかのようである



mercredi 25 juin 2008

すべてはすでに考えられている?


この領域に入り、これまで自分の考えていたことはすでに考えられていることに気付くことが多くなっている。日本にいる時には、事ある毎に 「人生は数字ではない」 と言ってきた。これなどは自分の独創などとは思ったことはないが、今日次の言葉に出会った。

「生命に関するすべては質的なものである」

 このようなことがこれから次々に起こる予感がする。





lundi 23 juin 2008

病理学では扱わない 「病理とは」 という問い


手元にある病理学の教科書 Robbins Pathology の病因 (Etiology or Cause)のところに、次の記載がある。
"For the Arcadians, if someone became ill, it was the patient's own fault (for having sinned) or the makings of outside agents, such as bad smells, cold, evil spirits, or gods. For modern terms, there are the two major classes of etiologic factors: intrinsic or genetic and acquired (infections, nutritional, chemical, physical).
The concept of one etiologic agent to one disease (developed from the study of infections or single-gene disorders) is no longer sufficient."
病気には内因性と外因性のものがあるということが紀元前の大昔からわかっていたという記述である。日本にいた時には、『病理学総論』 の環境や外因による疾患に関する章を受け持ったこともある。今哲学に入り、病理学の教科書でどの程度哲学的な要素が扱われているのか、Robbins を改めて見直してみた。改めて、と書いたが、このような視点で教科書を見るのは初めてになる。

この教科書は1,000ページを優に超えているが、病気とは何なのか、病理とは何なのかについて触れていると思われるところは、僅か半ページほどである。そ のことに驚いたが、現役の時にそう感じたことは一度もなかった。つまり、病理学にそのような期待はしていなかったと同時に、病理学の視野にはこの問題は 入っていないことになる。やはり、この問題を扱うのは哲学に任されているのかもしれない。その意味では両者の交流が不可欠になるが、哲学の方がどれだけ進 んでいるのか、今の段階ではよく分からない。




vendredi 13 juin 2008

ハーバート・スペンサーと社会進化論


Herbert Spencer
(April 27, 1820 – December 8, 1903)


イギリスの哲学者、社会学者にしてダー ウィンの進化論の擁護者で、適者生存("survival of the fittest", "sélection des plus aptes")の造語者。ダーウィンの進化論が生物界を対象としているのに対して、彼は特に自然選択の考えを哲学、心理学、社会学の領域へ適用しようとし た。後に、彼の思想は社会進化論("social Darwinism", "Darwinisme social")と呼ばれたが、基本的な点でダーウィンとは一線を画している。第一に、ダーウィンの進化が全くの偶然の結果で、最終的には"open- ended" であるのに対し、彼の進化論は最後にはある目的に叶う理想的な平衡状態("end-point")に落ち着くと考えていた(Progress, therefore, is not an accident, but a necessity.)。また、ダーウィンの最終的な立場とは異なり、彼は獲得形質(例えば、よく使ったものが発達し、そうでないものは退化するが、それ)は遺伝するとしたラマルクの信奉者であった。これらの考えが社会の発展を見る時に重要であると彼は考えていた。

歴史の不幸になるのか、本来は自由主義に基づく彼の考え方が選民による大衆(より適応していないとされた)の支配、例えば植民地主義、優生学、さらにはナチズムによってその科学的根拠を与えるものとされた。その流れは現代でも一部で受け継がれている。

大部分の(哲)学者の書は専門外では読まれないものだが、彼の生存中に100万部を超える書が売れている。1860年から1903年までの間に、アメリカ だけで37万部弱という本国イギリスと同じ売り上げを記録。海賊版を入れると相当数になるだろうと言われている。想像力を喚起する彼のスタイルや自己啓発的な要素も加わり、専門職の人だけではなく一般の人にも受けたのではないだろうか。そのためかどうかわからないが、専門の哲学者たちからは批判もあったようである。生涯独身を通した彼は亡くなるまで書き続け(最後は口述筆記)、ノーベル文学賞の候補にもあがっていたようだ。

彼の宗教的立場は不可知論で、神の存在は知りえないとするもの。神学を拒絶したが、科学を根拠に宗教を転覆させようとしたのではなく、科学と宗教を融和しようとした。また、戦争や帝国主義に抗し、国家の役割を最小限にする(国内外の安全保障に限る)という思想 "minarchisme" の擁護者でもあった。


スペンサーとダーウィンの考えを読みながら自らを振り返っていた。ある目的に向かって歩む、あるいは予定調和を思わせるスペンサー的考え方とは相容れない 生き方、まさにダーウィンの偶然に身を委ねる "open-ended" の思想に近い生き方にしか魅力を感じなかったようだ。今回こちらに来ることになったのも、そう考えると理解しやすい。この一事からこれまでを見ると、私は真の意味での(ダーウィン的)進化論の信奉者だったのかもしれない。

最後に彼の言葉から。日頃よく耳にする考えが彼に由来することがわかる。

● "Every man may claim the fullest liberty to exercise his faculties compatible with the possession of like liberties by every other man."

● "Every man is free to do that which he wills, provided he infringes not the equal freedom of any other man."

 いずれも他人の自由を認め、その自由を侵さない限りにおいて、人は自らの自由を行使できるという考え方。


● "No one can be perfectly free till all are free; no one can be perfectly moral till all are moral; no one can be perfectly happy till all are happy."

 すべての人が自由で、道徳をわきまえ、幸福にならなければ、人は自由でも道徳的でも幸福でもない。その方向に社会が進化する(べきだ)と考えていた。

● "Opinion is ultimately determined by the feelings, and not by the intellect."

 意見(世論に通ずる)は最終的には知性ではなく感情で決まる。日頃の出来事を見ていると、19世紀の彼の観察眼の確かさに肯かざるを得ない。






lundi 9 juin 2008

ニールス・イェルネという科学者

Niels Jerne writing in a church somewhere in Europe


To氏から届いた今年の年賀状に、私の姿がこの方と重なったという言葉が添えられていた。免疫学をやっている人ならば知らない人はいない方である。何とも過分な言葉だったのでこれまでどこかに引っ掛かっていたが、振り返る余裕がなかった。To氏は大学院時代の後輩で、私がアメリカに行く前の1年間一緒に仕事をしていたことがある。その後ニューヨークでも1年ほど時期が重なり、彼がイギリスに移ってからも学会参加の折に訪ねたこともある。彼はイギリスに10年ほどいたのではないだろうか。ヨーロッパの空気を長い間吸っていた彼がどうしてそのような印象を持ったのかはわからない。とにかく、この機会にニールス・イェルネという人間について読んでみることにした。

Science as Autobiography: The Troubled Life of Niels Jerne (Yale University Press, 2003)

とにかく、興味深いエピソードに溢れている。とてもすべては紹介できないが、まず各章のタイトルを眺めて驚いた。そこには私の発言ではないかと思われるものがいくつか並んでいたからだ。例えば、こんな具合である。

 1. "I have never in my life felt I belonged in the place where I lived"

 3. "I wanted to study something that couldn't be used"

 4. "I have the feeling that everything around me is enveloped in a mist"

 21. "Immunology is for me becoming a mostly philosophical subject"

最後のタイトルは私の願望であったかもしれないが、彼はそれを実現させてしまったということだろう。この本を読んでまず感じるのは、当然のことながらいかにもヨーロッパ的な科学者がそこに描かれているということである。今こうしてパリにいることが、そのことを体で理解させてくれる。デンマークの人であるが、オランダに移り住んだこともあり、デンマーク語、オランダ語、ドイツ語、英語を操るこちらでは稀ではないポリグロットであった。そういうこともあり、第一章の発言になったのかもしれない。

若き日の考え方は"art-for-art's sake"というロマンティックなもので、機械文明を軽蔑していた。重要なことは他にあり、それは考えることであり、感情であり、愛情であった。それも"love for someone"ではなく、"love for love itself"。当然のことながら哲学にも興味を示し、ニーチェ、キェルケゴール、ベルグソンを読み、文学ではジードとプルーストを愛したようだ。

将来の専門を決める時に、彼は役に立たないことをやりたいと考えた。数学が浮かび、文学、歴史にも興味を示したが、結局すべてのことに興味があるのだから哲学をやるべきだと結論する。しかし、物理学のアドバイザーと父親の意向を受け入れ、ライデンで物理学を学ぶことにする。ところが酒に溺れたり、文学や哲学に凝る生活で学業の方は思わしくなく、この間の成果は個人授業で習ったラテン語とギリシャ語だけだとまで言っている。社会な成功を目指す姿勢を示す同僚には軽蔑を覚え、他の人と同じではいやだと考えていたことが紹介されている。それでは一体何をやるべきかという問題に再び直面する。法律、工学、教師の道には興味はなく、残ったのが医学であった。そこでは広い視野が要求され、科学としてだけではなく、哲学、心理学、社会的要素も学ばなければならないところが気に入ったようである。

この著者はイェルネのメモや日記なども見ることを許されていたようで、人間イェルネが至るところに顔を出す。彼の私生活も相当生々しく語られている。基本的には自分が満足する人生を選び取った人で、家庭は顧みなかったと言うのが正確だろう。夫として、あるいは父親としての人生には耐えられなかったかのようだ。画家であった最初の妻はおそらく彼の女性関係が原因で自殺している。二番目の妻はその時の女性らしいが、結局満足できなくなっている。

デンマーク国立血清研究所 (コペンハーゲン、1950-1951年)
左がガンサー・ステント、右端がジム・ワトソン、後ろで立っているのがイェルネ

この本を読むと、後に名を成す科学者の接触がいくつも見られる。例えば、この写真にあるように若き日のジム・ワトソンやガンサー・ステントが彼の研究室に滞在している。その後ワトソンはクリックと運命の出会いをするイギリスのキャベンデッシュ研究所へ向かい、ステントはパスツール研究所を訪ねることになる。また後年、アメリカが気に入っていたドイツ人のマックス・デルブリュックの誘いでカリフォルニア工科大学を訪ねることになるが、その時の様子はまさにヨーロッパの科学者が砂漠の中で迷っているように見える。そして再びヨーロッパに戻り、かけがえのないもの、とてつもなく重要なものに帰ってきたことを悟る。それは数千年に及ぶヨーロッパの歴史であり、ヨーロッパ精神であり、素晴らしい活力であり、想像力であった。またカリフォルニアでは助手がいないので実験ができないとこぼしている。彼は実際のウサギも見たことがないのではないかという話も紹介されている。机に向かい考えるだけの理論家としての面目躍如というところか。

彼の考え出した自然選択説は、われわれの体を守る抗体がどのようにして出来上がるのかという問題についての新しい仮説である。それまで支配的であった考え方は、外から入ってきた抗原が抗体を作る指令を出すというもので鋳型説とか指令説と言われていた。しかし、彼は抗原には何ら積極的役割はないと考えた。そうでなければしっくり来ないと思えたようだ。ある種の直感、美的センスというものだろう。しかし、この説は20世紀初頭に唱えられ忘れられていたポール・エーリッヒの側鎖の単なる焼き直しで、その仕事を引用しないのは不当ではないのかという批判が出された(以前に少し触れている)。彼がそれを知っていて触れなかったのか、あるいは知らなかったのか、わからない。ただ、このことについて悩んでいた記録が残っているようだが、結局彼はエーリッヒに言及することはなかった。その説も最初はワトソンから"stinks!"と言われたり、"baloney!"などとの評価しか受けなかったようだが、次第に認められるようになる過程も興味深いものがあった。

この他にも興味深い話が満載されている。これからも閑を見て摘み読みしてみたい。役に立つ研究が声高に語られるようになり、科学者が技術者になっていく状況の中、私の中での一つの理想にも見える研究生活を最後まで貫いた人生だったように感じる。

自らの姿は自分では見ることができない。それを知るためには、どうしても他の人の目が必要になる。イェルネと比較することなどおこがましいが、To氏の言葉によってイェルネの世界の見方の中に自らと共通する要素を見ることができたことは事実である。それは薄々感じてはいたもののはっきりとは意識されていなかったもので、この本の中の声に刺激され浮かび上がってきたようである。ただ、To氏が私の中にどのイェルネを見ていたのかは今もってわからない。

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(10 juin 2008)

この本の著者Thomas Söderqvist博士から、すでに日本語訳「免疫学の巨人イエルネ」が出ていることを知らせるメールが届いた。

その中に彼のブログが紹介されてあり、日本語訳のタイトルを見る限り彼の意図が失われている、さらに言うと意図に反する訳になっていると書かれてある。この本で彼がやろうとしたことは、「巨人」というような言葉を使う偉人崇拝ではなく、原題にもあるように、イェルネの理論的な仕事は自らを理解しようとする試みだったことを示そうとするケース・スタディであり、科学者の内面を構成する科学知に向かう感情的・実存的な側面が社会・文化的なものと同様に重要であるというメッセージであった。先日、メチニコフのシンポジウムでお会いしたボストンのフレッド・タウバー氏の書評ではそのメッセージが伝わっていたが、日本語訳では完全に失われている(lost in translation)。イェルネを巨人と考えている免疫学者もいるかもしれないが、少なくとも彼はそうは描かなかったし、彼の意図ではなかったとある。


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(21 juin 2008)

この記事に出てくるガンサー・ステント博士が6月12日に亡くなっていたことを知る。
ニューヨークタイムズの追悼記事はこちらです。


 この記事の英語版


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(10 octobre 2009)

本日、偶然にも Thomas Söderqvist 博士のサイトを訪問、この本が彼の手元に届いたことを知る。以前に、この本のタイトルの真意が翻訳の過程で失われていることを書いていたが、改めてそのこ とに触れ、その上で日本語版の完成を喜んでいる様子が伝わってきた。詳細は、ブログ "Representing Individuality in Biomedicine" で。

 'Science as Autobiography' lost in translation -- 免疫学の巨人イェルネ






dimanche 8 juin 2008

フリーマン・ダイソンの科学・宗教観


この方の名前をどこかで聞いたような気がするが、思い出さない。イギリス生まれの数学者・物理学者で、アメリカに渡り最後はプリンストンの高等研究所で研究をしていた。今回、科学と宗教について語っているビデオに出くわしたので聞いてみることにした。

  Freeman Dyson (15 décembre 1923-) ビデオ

宗教的立場を問われて、"religion without theology"と答えている。彼の世界観はagnostic に近いようだ。神の存在を求めると言うよりは、彼にとっての宗教はその文学であり、音楽であり、絵画である。つまり宗教が生み出した具体的な芸術ということになる。さらには人間関係を結ぶもの、コミュニティを支えるものと捉えている。人間はself-sufficientではない。一人では生きられない、何かに頼らなければ生きていけない存在である。生きていくためには大きな目的が必要であり、それがないところに行動は生れない。

彼は3つの心・精神を提唱している。一つはhuman mind。それからmicro (atomic, subatomic) mindとmacro mindを考えている。ミクロの方は原子などの世界で、マクロは宇宙の世界になる。これを聞いた時、すぐにパスカルの二つの無限を思い出した。例えば、量子物理の世界では原子が崩壊するか否かは予想ができない。その意味では原子(の心)に選択の自由があることになる。蛋白質の精神などということも思い出す。これはあくまでもモデルだとしているが、、

それからEdward Wilsonがその著書で科学によってすべてが解決できるとの考えを発表した時に、その書評で批判している。ダイソンが科学はあくまでも限られた領域のことにしか答えを用意していないと考えていることがわかる。先日のトルストイとメチニコフとの行き違いを思い出すエピソードでもある。

科学も宗教も神秘的なものに向かう活動である。彼は科学を取り巻く世界を語る時に、ある詩の一節を思い出すという。それは科学とは草原のようなもので、その周りには鬱蒼とした森が取り囲んでいる。世紀を経て草原が広くなろうともその森は決してなくならないというもの。科学と宗教は外に広がる宇宙を見るための2つの窓のようなもので、別の視点から同じものを見ていると考えているようだ。また彼の場合には、宗教を詩のようなものとして捉え、科学とともに大切なものに感じている様子が伝わってくる。

われわれの未来のことを問われたダイソンは、こう答えている。彼が子供時代を過ごした1930年代のイギリスでは、先がほとんど見えないhopelessな状態を経験した。それから現在を見ると、全体としてはよい方向に進んでいるようだ。神の存在はわからないが、その方向は大きな(神の)目的とは矛盾はしないだろう。現在も多くの問題を抱えているが、彼が子供時代に感じた絶望感を抱くところまで行くものではないと結んでいる。

イギリス紳士をそのまま科学者にしたような方で、その落ち着いた真摯な受け答えに好感を持った。

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Wikiに紹介されているイギリスの大学についての彼の言葉が印象に残った。

「ケンブリッジ大学に溢れる憂鬱な悲観論は、イギリスの階級制度の結果であるというのが私の見方である。イギリスにはこれまで二つの激しく対立する中流階級があった。一つはアカデミックな(大学人、学問を重視する)中流であり、他方はコマーシャルな(商業中心の)中流である。19世紀にはアカデミックな中流が権力と地位を勝ち得ていた。私はアカデミックな中流階級の子供として、コマーシャルな中流階級を嫌悪と軽蔑をもって見ることを覚えた。それからマーガレット・サッチャーが権力を得たが、これはコマーシャル中流階級の復讐でもあった。大学人はその力と威信を失い、商業人がその地位を奪い取った。大学人はサッチャーを決して許すことはなかったし、それ以来大学人は悲観的になったのである」

"My view of the prevalence of doom-and-gloom in Cambridge is that it is a result of the English class system. In England there were always two sharply opposed middle classes, the academic middle class and the commercial middle class. In the nineteenth century, the academic middle class won the battle for power and status. As a child of the academic middle class, I learned to look on the commercial middle class with loathing and contempt. Then came the triumph of Margaret Thatcher, which was also the revenge of the commercial middle class. The academics lost their power and prestige and the business people took over. The academics never forgave Thatcher and have been gloomy ever since."

この図は最近の日本の状況と重ならないだろうか。経済原理だけが優先される大学となり、そのことに疑義を唱えるどころか率先して従う今の大学人に大学に生きる自由人としての誇りや哲学はあるのだろうか。思えば、この改革が始まった時に大きな異議も行動も見られなかった。今や目の前だけを見た技術者が闊歩する一見華やかだが精神性に乏しい大学に変わりつつあるようにも見える。




mercredi 4 juin 2008

歴史の細分化にどう抗するか

Alexandre Koyré
(1892, Taganrog, Russie – 1964, Paris)


今日は科学史家アレクサンドル・コイレの"Perspectives sur l'histoire des sciences" (1961年、「科学の歴史についてのパースペクティブ」)を読んでみたい。彼はロシアに生まれ、ドイツ経由でフランスに落ち着いたが第二次大戦を鋏んで米国に移住し、後年フランスに戻りパリで没した。ドイツでフッサールの講義を聞いていたようだ。

このエッセイでは、アメリカのコーネル大学で科学史を教えていたゲルラック(Henry Edward Guerlac; 1910 - 1985)の論文をもとに考察を加えている。ゲルラックは科学史研究の歴史を振り返った後にデルフォイの問に行き着く。すなわち、歴史とは一体何なのか?という問である。人類の歴史と言った場合、ひとつにはこれまでに起こったことの総体、過去の出来事や事実の集合で客観的な歴史とでも言うべきもの。それから歴史家が語る過去の物語がある。

しかし、過去に辿り着くのは大変なことだ。すぐにどこかに消えていき、最早そこにはなくなり触ることのできないものである。唯一接触できるのは、これまでの時間と人間の破壊から逃れた作品であったり、記念碑、記録などだろう。それにしたところで過去のほんの一部でしかない。さらに重要なことは、それらの記録が残るに至った経過で、当時の人の当時の基準による取捨選択が行われている可能性である。その場合、歴史家が自らの時代の制約を受けた歴史を語っており、本来不変のはずの過去が常に改変され、変質して今日に至っていることになる。

19世紀から20世紀にかけての人類の歴史の発展は感動的でさえある。古代文字の解読、体系的な発掘などがわれわれに多くの過去をもたらしてくれた。しかし、すべてのことには裏がある(toute médaille a son revers)。歴史が発展し充実してくると専門化、断片化、分裂、細分化が起こってくる。人類の歴史と言う代わりに、あれやこれやの部分的歴史になってしまう。この過度の専門主義と分離主義が歴史研究に悪弊をもたらしているとゲラックは問題提起している。そこには他の領域に対する尊大な態度と、科学が生まれた生の状態を説明しようとしない理想主義的な傾向が現れてくる。

コイレはこの指摘に完全に同意する。すべて(tout)は部分の総計(la somme des parties)より素晴らしい。地方史の集合は国の歴史にはならない。さらに各国の歴史の集合はより普遍的な歴史の断片にしか過ぎない。地中海沿岸諸国の歴史が地中海史には成り得ないことでもわかる。数学や天文学、物理学や化学の歴史を合わせたからと言って科学の歴史にはならない。しかし、一体どうすればよいと言うのだろうか。部分を解析し、それを統合することなしに全体を理解することは不可能なのである。専門化という現象は発展の代償なのだろう。今やひとりが科学や人類、芸術や宗教の歴史を書くことなど不可能になっている。これこそ現代の最大の問題である。しかし、この問題に対する処方箋はコイレも持ち合わせていないと認めている。


Henry Edward Guerlac (1910 - 1985)


この問題は歴史に限らずほとんどすべての専門領域に当てはまることだろう。科学を例に取っても、このままどこまでも突き進むと予想される。それ以外に科学の中での論理はないからだ。しかし、科学も人間の行為であり、したがって社会の中での行為になる。社会が科学に何を求めているのかによって科学は大きく変わりうることを歴史が教えている。深い思慮もなくどこまでも発展を求める心理がある限り、益々加速して進みそうである。この傾向に抗するには、それにも増して大きな哲学が求められるだろう。その上、空に描かれたその絵をどれだけの人が真剣に見、それを自らの生きることに繋げることができるのかという問題が待っている。

  "Apprendre, c'est faire" (学ぶとは行動すること)