lundi 26 décembre 2011

映画 A Dangerous Method、あるいはカール・ユングという人生



夜の散策中、タイトルに惹かれてシネマの中に入る。

"A Dangerous Method"


案内を読んでみると、カール・ユングに纏わるお話だ。フロイトも出てくることがわかり、観ることにした。昨年、東京で開いた会でユングの言葉についても触れていたからでもある。

この世に偶然はない。これはわたしの底を流れるアイディアになっている。この映画でユングも同じ考えの持ち主だったことを知り、驚く。この世の出来事には何かの意味があると考える傾向があったのだ。

ユングとフロイトが決別したことは知っていた。精神分析の分野は 「いずれ」 のリストの相当先にしかない。その背景について調べるところまでは行っていなかった。ただ、この映画で両者の考え方の違いが少しだけ見えたような気がした。

フロイトはユングを精神分析という自らの領域の後継に、と考えていた。フロイトは開拓しつつあった領域を科学的批判に耐え得るものにしようとしていた。彼の周りには多くの批判者がいたのだ。

一方のユングはフロイトが科学的として囲い込んだ領域を超えようとする。この世に偶然はなく、すべてに意味があると考えるような人間である。テレパシー、神秘主義、シャーマニズムなどにも興味を示す。

患者に対する態度でも二人は意見を異にしていた。フロイトは患者のあるがままを観察し、分析するところで止めようとする。ユングは患者の持てるものを十全に発揮できるようにしたいと考えていた。患者への踏み込みがより強いと言えるのだろうか。両者の決別は必然だったのかもしれない。

カナダ人監督デヴィッド・クローネンバーグさん (David Cronenberg, 1943-) のインタビューによると、この映画のもう一つの要素として、台詞としても語られていたが、人種の問題があることがわかる。フロイトはユダヤ人だが、ユングは言ってみればアーリア人。当時のオーストリア・ハンガリー帝国ではユダヤ人が虐げられるということは少なかったようだが、かと言って社会の中心を占めるということもなかった。フロイトがユングを取り込もうとした背景には、自らの精神分析が社会的認知を受ける上で助けになるのではないかという思いもあったとみている。ユダヤ人で無神論者のクローネンバーグさんは、ユングよりはフロイトの立場にシンパシーを感じているようだ。

今のわたしから見ると、どちらが正しいのかわからない。二人の立場が可能だということを理解できるようになっているからだ。それぞれの進み方に意義を見出していると言ってもよいだろうか。そんな曖昧なところにいる。もう少しその中に入ってみなければ、それ以上のことは言えそうにない。






ところで、この映画のメイン・テーマはユングの女性関係である。1903年、裕福な家庭の出のエンマ・ラウシェンバッハと結婚。5人の子供を授かり、エンマが亡くなるまで夫婦関係は維持する。彼の人生にはこの他にも女性が登場する。今回の主人公である彼の患者だったザビーナ・シュピールライン。映画の最後で名前だけが出てくるトニ・ヴォルフ。ユングは一体どのような内的人生を歩んだのだろうか。これまでになく興味が湧いている。それとは別に、ヨーロッパのゆったりした空気とフロイトのシガー姿を味わっていた。




ユングさんが1914年から1930年にかけて書いたご自身の 「内なる大聖堂」 (cathédrale intérieure)とも言える「赤の書」が今年、フランスで翻訳された。この書は彼の死後厳重に保管されていたが、2年前にアメリカで出版され、その翌年には日本でも翻訳されている。格段にお高いが。

Amazon.com (The Red Book: Liber Novus, 2009; $112.21)
Amazon.co.jp (The Red Book, 2009; 15,693円)
Amazon.fr (Le Livre Rouge, 2011; Euro188,10)
創元社のサイト (「赤の書」、2010; 42,000円)









科学的な観察と治療に止めようとするフロイトさんの立場と科学を超えて神秘主義にも興味を持ちながら、患者の生を十全に発揮させようとするユングさんの立場。自らの性向を比較してみると、ユンギアンの要素を否定できそうにない。より正確には、理性(科学的な思考)を徹底した上で、神秘の世界にも目を閉じないでいたいと思っているのではないだろうか。それが存在すると感じた時には科学で説明できないからと言って捨て去るのではなく、その先に行ってみたいと思っているようだ。そこにこの世界の豊かさが隠れているようにも見える。このような世界の観方は、科学主義に染まってしまうとなかなか採れないはずのものである。

今年はユングさんが亡くなって50年目の年であった。


カール・グスタフ・ユング
(1875年7月26日 - 1961年6月6日)
Carl Gustav Jung




samedi 12 novembre 2011

存在が本質に先行する L’Existence précède l’essence


Jean-Paul Sartre
L'Existentialisme est un humanisme
(Folio/Essais)


存在が本質に先行する。これが実存主義の本質で、ハイデッガーにも見て取れる人間の捉え方だという。

彼の提唱する実存主義が2つの方向から非難されていて、1945年に行われたコロックで自らを弁護したのがこの書となった。一方の非難は、実存主義はヒトを絶望の淵に誘うもので、解決法がないため瞑想的哲学へ行かざるを得ない。瞑想というのは一つの贅沢なので、この考えがブルジョワ的であるとして非難するのは共産主義者。もう一方は、人間の醜い側面 (l'ignominie) を強調し、卑劣さ (le sordide)、胡散臭さ・いかがわしさ (le louche)、不品行 (le vicieux) を至るところに明らかにし、人間のよいところを見ようとしないとして非難するのはキリスト教者。

最初の方に、無神論実存主義 (l’existentialisme athée) という項目があり、その中に私の見方に近いものが言葉になっていた。これは先日、別ブログ 「フランスに揺られながら」 に漢江様から何のために外国語を学ぶのかについてのコメントがあり、その答えとして次にようなことを書いた。

--------------------------------------------

同様のことがフランス語の場合にも当てはまります。この世界に入る切っ掛けは、全く予想もできないものでしたが、とにかく始めました。これも何かのためにということはありませんでした(カテゴリ 「フランス語学習」 で少し触れています)。しかし、その後の経過を見ていると、フランス語を読むうちに、「言葉」 の意味を考えるようになりました。その結果、日本語をより深く読めるようになったと感じています。また、フランス文化に触れるうちにフランス人の頭の働きを感じるようになりますので、その視点からしか見えない世界を見ることができるようになりました。またフランス語のブログを始めるようになってからは、私のレベルの中ではありますが、フランス語圏の方ともお話ができるようになりました。これらの経験は私を促す効果があったようで、私自身の人生を見直さざるを得ないような重要な影響がありました。

以上のような私の経験から見ると、何のために外国語を学ぶのかは、学びを始めなければわからないということになります。これは私自身の事に当たる時の、まず始めてから後でその意味を探るという姿勢とも関係があるのかもしれません。

--------------------------------------------

サルトルの方には次のようにある。

L’existentialisme athée, que je représente, est plus cohérent. Il déclare que si Dieu n’existe pas, il y a au moins un être chez qui l’existence précède l’essence, un être qui existe avant de pouvoir être défini par aucun concept et que cet être c’est l’homme ou, comme dit Heidegger, la réalité-humaine. Qu’est-ce que signifie ici que l’existence précède l’essence ? Cela signifie que l’homme existe d’abord, se rencontre, surgit dans le monde, et qu’il se définit après. .... L’homme n’est rien d’autre que ce qu’il se fait.

ここでは、サルトル自身が無神論実存主義者であり、この考えが理に叶っているとして次のように書いている。もし神が存在しないとしたならば、少なくとも存在が本質に先行する存在、あらゆる概念で説明される以前に存在する存在があり、それが人間で、ハイデッガーの所謂人間的実在性というものがあると無紳論実存主義者は宣言する。それでは、存在が本質に先行するとはどういうことか?それは、まず人間が存在し、その人間同士が出会い、世界に出現する。そうした後に、自らを定義するということである。・・・人間はつくられるもの以外の何物でもない。


人間存在の捉え方、あるいはこの世の歩き方が彼らと近いことに驚いている。

(2007年7月20日)




dimanche 6 novembre 2011

更地から始める、そして目に見えないものを理解するということ



フランスのものを読むようになり、どうして何の役にも立たないようなことに (もちろん、それまで私が持っていた基準によれば、ということだが) 疑問を持つのか、しかもあらかじめ決められた目標に向かうのではなく、方角が見えないところから歩み始めるのか、という不思議を抱えることになった。それは同時に、人間の精神の中で繰り広げられている目には見えない 「もの」 を言葉にしようして人生を生きている人、あるいは人生を送り死んでいった人たちが山ほどいることを意味していた。

それではなぜ、それまで読んでいた英語の世界ではこのような疑問を感じなかったのだろうか。英語とフランス語文化の本質的な違いなのか、単に触れる順序だけの問題だったのか。英語に触れてから相当の時間が経つ。その結果、英語の世界が日常になり、英語が仕事の言葉、何かの役に立つ情報を得るための言葉になっていた可能性がある。一方のフランス語は生きるために必要な言葉ではなかった。しかも窓口になったのが哲学だったこともわたしの中での抵抗感を増幅する原因だったのかもしれない。

このようなズレを感じた背景には一体何があるのだろうか。ひとつには、更地に枠組みを作るところから始めるかに見える彼らの営みに、それまで感じたことのない自由な精神の動きを見たことが挙げられる。あらかじめ決められた目標に向かうのではなく、目標を決めるところから始める自由と困難。一つの問に一つの答えという直線的な頭の使い方ではなく、いろいろな点を繋ぎ合わせてまとまりを付けるという頭全体を使う運動の面白さ。同様の違いは、直線的な解を求める仏検と複雑系を解くようなDALFの問を実際に体験して感じることになった。




科学の発展を振り返ると、最初は目に見える物を記載したり、分類したりするところから始まる。それがある程度進むと目には見えない領域が現れる。そこでは哲学的な思考が重要だったはずである。そこで何かを言うことのできる人は飛び抜けた想像力を持つ一握りの天才なのだろう。そして、その目に見えない物を見ようとする人間の意志が技術を生み、やがてそれが見えるようになるというのが科学の歴史の一側面ではないだろうか。言い換えれば、科学は物をこの目で見ようとする人間の試みのような気がしてくる。現代においても哲学が目には見えないことについて発言し、科学に貢献することはできるのだろうか。それは並大抵のことではなさそうだ。

「科学とは、物を見ようとする試みである」
"La science, c'est un essai de voir des choses."


一方、科学との比較で文系の領域を眺めると、最後まで目には見えない 「もの」 (概念など) を言語化することによりわかったような気分になるところがある。そこには言語の持つ限界があり、特に外から入ってきた者にとって、その理解には大変な困難が伴う。こちらに来て受けた講義で困ったのが、まさにこの点だった。翻って、目に見えないものを理解することが本当にできるのだろうかという疑問が湧いてくる。科学者はポンチ絵を頻繁に用いる。その絵を見ることにより、理解したような気になるのだ。この状況は文系の学問にも当て嵌まるのではないだろうか。つまり、言語化された 「もの」 を自らの頭の中で視覚化できないと理解したと感じないのではないか、ということだ。未だ想像の域を出ないが、科学の領域から入ってきて数年の者にはそう見える。

「理解するとは、ものを視覚化することである」
"Comprendre, c'est visualiser des choses."




samedi 5 novembre 2011

東洋のフランシス・ベーコン、徐光啓


徐光啓 Xu Guangqi (1562–1633)


中国最高のルネサンスマン Polymath で、東西の科学交流を最初にやった明朝末期の科学者である徐光啓の業績を振り返る行事が2007年10月上海で開かれた。

1562年に生れた徐は官吏になるように育てられたが、1600年に運命の時 (a watershed moment) が訪れる。中国に最初に居住が許された最初の西洋人にしてイエズス会のイタリア人学者マテオ・リッチ Matteo Ricci (1552-1610) に会い、その虜になったのである。それから2人の交流が始る。それは2人の個人の交流でもあるが、同時に東西文化の交流にもなった。彼はリッチの助けを借り て、自身が 「幾何」 の名前を付けたユークリッド幾何学を訳している (上の写真)。リッチも同様に孔子をラテン語に訳している。これらの経験から、徐は西洋の考え方に学ぶことの大切さ、さらに突き詰めると科学的にものを見ることの重要性に気付き、それを説くようになる。

1604年に学位をとった後は順調に出世している。彼の興味の中心は農業の改善で、中国を飢饉から救い、ダムや灌漑、食料政策の改善に努めた。それだけではなく、中国暦をより正確なものした。正式にその成果が取り入れられてのは彼の死後、1633年のことであった。このように幅広い領域に興味を示したためレオナルド・ダビンチや近代科学の父フランシス・ベーコンと比肩される。

リッチに対する感謝の気持ちからなのか、彼は1603年にローマ・カトリックに改宗し、Paul Xu Guangqi として洗礼を受けている。このことについて中国政府は全く触れていない。敬虔なクリスチャンではあったが、同時に孔子の思想にも心酔していたと言われている。



jeudi 3 novembre 2011

ジュール・ボルデの言葉


ジュール・ボルデ Jules Bordet
(Soignies le 13 juin 1870 - Bruxelles le 6 avril 1961)


« On dit souvent que la vie est belle : elle l'est pour ceux qui en jouissent, elle l'est davantage encore pour ceux qui cherchent à la comprendre. » (Jules Bordet)

  「人生は美しいとよく言われる。人生を堪能している人にとってはその通りである。さらにそれを理解しようとしている人にとっては尚更である。」 (ジュール・ボルデ)


ベルギーに生れた彼は、1892年にブリュッセル自由大学 (Université Libre de Bruxelles) で医学を修める。1894年からはパリのパスツール研究所、イリヤ・メチニコフ Ilya Metchnikov (1908年、免疫研究によりノーベル賞受賞) の研究室で研究した後、ブリュッセルにパスツール研究所を設立。1906年には百日咳菌を発見。学名を Bordetella pertussis と言い、彼の名前が付けられている。補体結合反応という免疫反応の原理も発見。免疫研究の功績により1919年にノーベル賞受賞。パスツール研究所の免疫研究棟 (メチニコフ・ビル) のセミナー室に彼の写真が飾られていたように記憶しているが、、。



mardi 1 novembre 2011

哲学者とは



講義を受けていると言葉の定義が常に問題になる。それがわからないと話についていけない。「・・・とは」 という問である。しかし、これを始めるととんでもないことに気付く。何一つまともに答えられるものがないのである。しかも、単純な言葉になればなるほど難しくなる。それを理解するためにはあらゆるところに目をやらなければならないのと、あらゆるところに関わってくるからだろう。普通は、鴎外の 「かのように」 ではないが、そのほとんどをわかったようなつもりで生きている。そうしないと生きてゆけない。例えば、「時間とは」、「空間とは」 などと問い始めたら、それぞれ一生かかっても終らない問題になる。おそらく、哲学者とはそれをやる人間なのだろう。普通の人が何気なくやり過ごしていることの前で立ち止まり、それを問い直すという作業に人生を賭ける人種のような気がしてきた。そのような人種が如何に少ないかは、これまで何度か触れてきた。この年代になると、これこそが生きることなのだと実感できるようになるのだが、、。

ハンモックでも触れたが、今年の正月のテレビで各界の人の人生を10分程度にまとめたものを見ながら、一人の人間は一つの問題に答えを出すためにこの世に現れたのではないか、という感慨を持っていた。その意味では、一人ひとりが広い意味で哲学をやりながら生きているのかもしれない。前回も触れたように、その結論が最後の最後にならなければ出ないような、そんな人生を歩んでみたいものである。

(2007年11月7日)




lundi 31 octobre 2011

リッカルド・シャイーさんのベートーベン交響曲第9番を聴きながら



切っ掛けははっきりとは思いださない。おそらく、ル・モンドのサイトを開けた時に広告が目に入ったような気がしている。ひと月前のことだ。すぐにプログラ ムを調べ、注文していた。パリはもう5年目に入ったが、初めての本格的コンサートになる。別に意識的に避けていたわけではないが、最初の2年くらいはそん な余裕などなく、後の2年はそんな気分にならなかった。どこかに学生には贅沢ではないかという気持ちもあったのかもしれない。日常に音楽や音楽的なものが 溢れ、アパルトマンを出るといつも不思議の世界 (詩的で音楽的?) が待っているので強い欲求にまで至らなかったのだろうか。

コンサートはリッカルド・シャイー (Riccardo Chailly, 1953- ) 指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏によるベートーベンの第9交響曲合唱付きである。ビブリオテークからサル・プレイエルに出掛ける。ゲヴァントハウスを引き連れてベートーベンの交響曲全曲演奏をしていたようだ。




プログラムによると、最初の曲はフリードリヒ・チェルハさん1926- ) がベートーベンの第9の前に演奏する曲としてゲヴァントハウスから依頼されたもので、最初の反応は Non ! だったようだ。しかし、日が経つにつれて曲の冒頭が頭に鳴り響き、菌糸体のように増殖しはじめたという。そして、最初の姿がどうだったのかわからなくなる ほどの変容を遂げ、一音も書くことなく混沌とした中から形が見えてきた時、委嘱を受けることにして一気に書き上げたとのこと。この一節には肖りたいものだ と強く反応していた。ただ、曲はあまり印象に残っていない。




ベートーベンの第9は何度も聞いているはずだが、実演はそれほどない。曲の外から何気なく聴く時と今日は明らかに違った。曲の内側から聴いているという感 覚が常に付き纏っていた。そのせいだろうか。これまで聴いたことのない曲に何度聞えたことだろう。シャイーさんの表情の付け方に新しいところもあり、こん な曲だったのかという思いで実に新鮮な経験になった。合唱が始まるとみなさんがどんな姿で歌っているのかをオペラグラスでたっぷりと味わわせていただい た。人間が声を出して歌うというのも随分と野性的な運動であることに気付く。叫びのようなところなど尚更だ。

演奏を聴きながら、もう何十年も前のカーネギー・ホールでの演奏を思い出していた。指揮はクルト・マズアさん。そのすぐ後にロリン・マゼール指 揮のクリーヴランド管弦楽団を聴き、音量の違いに驚いたのだ。ゲヴァントハウスの演奏には音そのものの迫力に欠けるというのがその時の印象で、ヨーロッパ とアメリカの違いを実感させられた最初の経験になった。近いうちにアメリカのオーケストラを聴いて当時の印象を確かめてみたいものだと思っていた。




ところで、バイオリンに Kana Akasaka という名前が見えた。イタリア人がドイツのオーケストラをパリで指揮する。隣の席からはイタリア語や聞き慣れない言葉が聞こえる。ヨーロッパにいれば当た り前だが、日本からの目で見直せば、異なる文化の中を人がよく動いていることに驚く。どこか羨望にも近い驚きである。



dimanche 23 octobre 2011

「生きるとは、詩的に生きること」 Vivre, c'est vivre poétiquement


Le chemin de l'espérance (septembre 2011)
Stéphane Hessel & Edgar Morin


先日、小さなリブレリーで見つけたこの本を読んでみる。第二次大戦中レジスタンスだったお二人、ステファン・エッセルさん (1917年10月20日ベルリン生まれ、94歳) とエドガール・モランさん (1921年7月8日パリ生まれ、90歳) の184歳コンビによる 「希望の道」 である。

現代世界は個別の現象が独立してあるのではなく、すべてが一つに繋がっている。例えば、核兵器の増殖、人種・宗教紛争の継続、バイオスフィアの破壊、制御不能な世界経済、お金による支配、経済・技術優先による野蛮などの問題はわれわれ一人一人を取り巻く問題になっている。この認識がこの本のベースにあり、そこからどこに向かうのかを探っている。最終的には、それぞれの人間が 「善く生きること」 ができるような社会、個人の資質が花開くように生きられる社会を目指すべきだというところに辿り着く。

そのためには、物を持つことによる満足から精神世界の充実への転換、数から質への転換、異分子排除から開かれた心 (共感、同情、心遣い) への転換などが語られている。教育についても触れられている。中学校では現代社会を取り巻く問題が地球規模になっていることを踏まえ、これまで分離されていた教科を絡み合わせて教えること。それから知識を教えるだけではなく、知識とは何かを教えること、同様にヒューマニズムを教えるだけではなく、人間とは何かを生物学的、個人的、社会的側面から教えて、人間の歴史や人間を取り巻く状況、矛盾、悲劇をはっきり意識させることが重要になると主張している。これらは哲学的視点を導入することを意味しているのだろう。

われわれが 「善く生きる」 ためには個人の持てるものを開花させることが前提になる。そして、「生きるとは、すなわち詩的に生きることである」 という言葉が現れる。これを見た時、もう5年も前に出遭っているマルセル・コンシュさん(1922 年3月27日生まれ、89歳)の言葉と重なり、嬉しくなる。人間が持っている詩的な必然性を表現することこそ善く生きることになるという考え方。そこに向けての政策を考えるというやり方。外界の変化を感知する感受性とその情報を受け取った後の反応が実にしっくりと私の中に入ってくる。


マルセル・コンシュ MARCEL CONCHE (III)
(2006-09-27)
人生を詩的に POÉTISER LA VIE (2006-10-01)




mercredi 12 octobre 2011

クリスチャン・ド・デューブさんの人生と世界観

Christian de Duve


クリスチャン・ド・デューブChristian René de Duve, né le 2 octobre 1917, en Angleterre)

著者はイギリス生まれのベルギー人で、細胞内小器官であるリソソームペルオキシソームの発見により1974年にノーベル医学生理学賞を受賞している。ベルギーのルーヴェン・カトリック大学Katholieke Universiteit Leuven) で研究の後、ニューヨークのロックフェラー大学でも研究室を持ち、大西洋を跨いで活躍された。1917年生まれなので、御歳94。


この本は簡素な自伝で、若き日の教育環境や研究生活を振り返り、いくつかの分岐点があったことを指摘している。そこにジャック・モノの言う偶然と必然の組み合せを見ている。細胞の生化学、細胞生物学に集中した後は次第に大きな絵に興味が移り、生命の起源、人類の歩み、脳機能、さらには 「意味」 についての思索へと進んで行く。

ド・デューブさんはわれわれの遺伝子の中には 「集団のエゴイズム」 が生き残っていると見ている。異なる者に対する攻撃性が潜んでいて、「遺伝子の原罪」 の虜になっているという。ド・デューブさんのお国も言語による対立が表面化している。また、「核ホロコースト」 という言葉を使って最近の日本の状況にも触れている。この状態を変える希望は、遺伝子の機能を後天的に変えるエピジェネティックな作用の中にあるのではないかと言っている。それは教育で、そのためには教育者が必要になる。教育者を求めるには師や賢者が必要になる。たとえそのような人が稀に見つかったとしても、その声に耳を傾ける人たちがいなければならない。

ド・ デューブさんは子供の頃、イエズス会で教育を受けている。それから科学の道に入り、後年ダーウィンの進化論を研究することになる。そして、80年の歳月を経て、教育者となるべき人が二千年前にすでにいたことを悟ることになる。それがキリストだと気付いたという。その教えが遺伝子の重荷からわれわれを救うと考えており、東洋にも例えば仏陀や孔子などの師がいるはずであると語っている。




現代にはいろいろな対立がある。両者の差異をなくそうとするのではなく (それは不可能だろう)、対立を認め、それを乗り越える方向性を探ることがこれからやらなければならないことだろう。そのためには、できるだけ多くの哲学者、道徳家、科学者、他の領域の思想家が 「知的誠実さ」 (l'honnêteté intellectuelle) を以って両者が合意できるところを探さなければならないと考えている。そして、ド・デューブさんにとって基本になるのはキリストの言葉である。この本では l'honnêteté intellectuelle という言葉が何度か使われており、その度に自らの心に問い掛けていた。

デカルトの心身二元論についての否定的な考えも語られている。死する身体と永遠の精神、物と心、res extansares cogitans。この異なるものが松果体で相互作用とするとデカルトは考えた。ド・デューブさんは単純に論理的に考えて行く。もし精神と物質が異なる本質を持つとした場合、どのようにして相互作用が可能になるのか、という疑問である。そして、物質と精神は異なるのではなく、一つの現実の別の面が現れたもので、この二元論は一元論にその場を譲らなければならないと結論している。

ド・デューブさんを煩わしたもうひとつの二元論がある。それは創造主 (神) とその作品が別物であるとする二元論である。19世紀初めにウィリアム・ペイリー (William Paley, 1743–1805) が 「自然神学」 の中で、時計の比喩を使って創造主の存在証明をしている。道に転がっている時計を見た時、その複雑な構造物はそれを造った人の存在を考えなければならない。同様に、宇宙の複雑な存在を目にした時、創造主を想定しないわけにはいかないと考えた。そこで出てくるのが、一体その創造主を誰が創造したのかという疑問だ。幹細胞のように、創造主が自分自身をも創造したのか。神学者が言うように、創造主は創造されるものではなく、そこにあるものなのか。あるいは、スピノザ (1632-1677) が唱える汎神論pantheism) のように、自然そのものが神なのか。物理学者の中には創造主を考えることなく、物理的な原理の想像を絶する偶然の成果として生命と知性が生れたとする新たな自然神学も生れている。ド・デューブさんは信仰やこれらの推測から距離を取り、上に述べた一元論で行きたいと考えている。



samedi 24 septembre 2011

頂点と地獄を見た二人の科学者: フリッツ・ハーバーとロバート・オッペンハイマー


「化学兵器の父」 と言わるフリッツ・ハーバー (1868–1934) という化学者がいた。非常に野心的だったようで、ユダヤ人だったが後に改宗している。第一次世界大戦で使われた毒ガスの開発に関与。同じく科学者であった妻のクララはその方向に同意せず、1915年銃で自殺。息子も自殺している。1917年に再婚。1918年にはアンモニアの合成などの業績でノーベル化学賞を受賞。後にナチがガス室で用いることになるツィクロンBのもとになったツィクロンAを作る。ベルリンではアインシュタインとも親交があったが、ヨーロッパの将来の捉え方が全く異なっていた。ドイツに忠誠を誓い、社会に受け入れられるために努めてきたハーバーだったが、ナチの台頭で国外に逃れざるを得なくなる。最終的にはスイスで亡くなり、最初の妻と一緒に葬られている。アインシュタインはハーバーの人生をドイツのユダヤ人の悲劇であると語っている。

彼の人生が語られているBBCのサイトがある。 The Chemist of Life and Death





ハーバーと重なるロバート・オッペンハイマー (1904-1967) の複雑な人生も眺める。この映画では証言がふんだんに取り入れられていて、実像が浮かび上がる。若き日の彼は感情面での発達にバランスを欠き、未熟な人間として映ったという。ハーバード大学を3年で卒業後、ケンブリッジ大学で実験物理学を始めるが科学者としての才能に疑いを持つ。しかし、ドイツで理論物理学をやるようになり、自分の進むべき道を見つける。25歳にして世界的な研究者としてアメリカに戻り、カリフォルニアで教え始める。講義は難解を極めた。彼の言葉は常に計算されていて、心から出ているようには見えなかった。それは高慢さからなのか、優越性を示すためだったのか。いつもステージに上がっているようで、同僚としての付き合いは難しかったようだ。

常に科学だけに興味を持っていたが、1936年から社会の動きにも興味を示すようになる。最初の恋人になる医学生が共産党員だったこと、妻になる女性も元共産党員だったことも関係しているようだ。彼自身が党員だったという証拠は残っていないようだが、妻だけでなく彼の弟も弟の妻も共産党員だったことからシンパシーは感じていた。国家の機密を知り過ぎた男として厳しい監視下に置かれる。原爆の後、冷戦期に入ると国への忠誠が問われることになった。

科学者としての最高の栄光に辿り着き、それがために地獄をも味わうことになった二人の科学者。第一次大戦に関わったフリッツ・ハーバーと第二次大戦に関わったロバート・オッペンハイマー。いずれも複雑な人間だった。科学者としても優秀だった。科学を進める魔力的な力をこの二人は内に秘めていた。今は単純に裁くのではなく、それぞれの中をもっと知りたいという気持ちが湧いている。





jeudi 1 septembre 2011

この世界に身を晒し、その反応を観察する


L'Age d'Or
(vers 1938-1946)
André Derain (1880-1954)


もう9月に入った。数字だけ見ていると、時の経つのは驚くべき速さだ。今年は一体何をやっていたのだろう。すぐに答えが出てこない。


昨日、この1年を振り返るためにメモを読み返していた。丁度そのノートは10月にカナダであった会議の様子から始まっていた。内容は結構詰まっている。読みながら、こちらに来てからのわたしの存在はこの世界に開いた受容体としてあったのではないか、と改めて思う。これまで閉じていた受容体を働かせ、その前を通り過ぎるもの・ことを受け入れ、処理し、記載していた。そこにはこれまで見えなかったこの世界の像がある。これまでに見ていた世界を補完する新たな視線がある。

もし、もの・ことを選ばずに記載されたそのメモがなければ、これまでに触れたものは何もなかったかのように風の中に消え去っていただろう。わたしの記憶容量を遥かに超える情報を目の前にし、確かに生きていたことに驚く。しかし、それは思い出の記録として残したものではないはずだ。そこから何かを引き出し、経験にするためだったのではないか。

これまでは日々現れる新らたなものに触れることに費やされ、何かを生み出す可能性を孕んだ原体験に戻る時間が取れなかった。どうだろうか。これからの1年くらい、受容体を休ませ、情報を処理し直すことに当ててみては。そんな考えが浮かぶ。どうなるのか。それはいつものようにわからない。




Promeneurs dans un parc
(1900-1910)
Henri Julien Félix Rousseau (1844-1910)


ところで、まだオランジュリーの残り香を味わっている。写真を見ながら感じるのは、実物に触れた時に生れた自分の中の反応を再現するのは難しいということ。そしてそれ以上に、日頃画集などを見ている時には予想もできないような反応がその場では起こるということだ。よもや睡蓮の部屋で浮遊感を味わうなどと、誰が想像しただろうか。もう一つ今回感じたのは、味わうのはその絵一枚ではないということ。もし、シャイム・スーティンの絵が一枚だけだったなら、あれほどのエネルギーを感じただろうか。また、その絵が置かれた部屋の空気、光や色も大きな要素だ。その周辺に何が置かれているのかでも印象はガラッと変わってしまう。アンドレ・ドランの絵は、それまでの流れとの差として目に飛び込んできたからだ。


やはり日常を抜け出し、異なる場に身を置くこと、実物のある空気に触れることが大切になるのだろう。そこでは何が起こるのかわからない。その面白さを味わわない手はない。その時に生れる反応を注意深く観察し、それを経験にまでできると新たなところに繋がるのかもしれない。



jeudi 25 août 2011

「学問的哲学」 と 「生き方としての哲学」 との調和



科学と哲学が対比される。それぞれの特徴を明らかにし、両者の関係を考えるのは 大変な作業だ。それはそれとして、同様の対立が哲学の中にもあると気付く。大学で教えられる学問的とでも言うべき哲学と自らの存在に照らした省察を主とする哲学との対比。それは、頭の中だけと体全身、専門職と日常生活、個別と全体と言い換えることができるような対比に見える。

この乖離に最初に気付いたのは、こちらの大学に来てすぐのことである。形而上学なるものが一体どういうものなのかに興味を持ち、自分の存在そのものに跳ね返ってくるような哲学が語られることを期待して講義を受けていた。もちろん、これまでの経験と照らしながら話を聞くことにより、省察や瞑想の世界に入ることはできた。しかし、講義そのものの中にその要素を見つけることは稀であった。大学における哲学というものが生き方としての哲学から大きく離れて いるためだろう。全体への視線が薄れ、科学者同様に哲学者と雖も小さな領域の専門家にならざるを得ない状況があるのだろう。それは哲学が大学で教えられるようになってからの宿命かもしれない。

わたしがこれまで哲学をやる中で感じていたアンビバレントな精神状態は、この対比をどう調和させるのかについて曖昧にやり過ごしていたことに原因があることに気付く。そして、われわれの生を全なるものにするためにはどちらか一方を諦めるのではなく、この二つとも思う存分打ち込めばよいだけなのだと決めることができたのだ。

そんなことを考えている時、こちらに来る前にパリを訪ねた折に出遭ったピエール・アドーさんの 「生き方としての哲学」 のことを思い出す。早速、関連本を読んでみたが、こちらに来る前の感覚が蘇ってくる。そこにわたしの求めていたことがある。自らの専門としての、謂わば頭だけの哲学に加え、実践に結び付く哲学、自らの全存在に跳ね返ってくる哲学がそこで語られている。哲学書を読み、それを華麗な言い回しで解説することで満足するのではなく、生きることを考え、生き方やものの見方を変えるために選択し、心を決めることが行われているかどうかがそこでは問われるのだ。このエピソードは、科学と哲学の関係についても改めて考えさせてくれる。

ピエール・アドー PIERRE HADOT " LA PHILOSOPHIE COMME MANIERE DE VIVRE " (2007-01-03)





ところで、今日読んでいた本の中にアトピー atopie という言葉が出てくる。アレルギー疾患の中で遺伝的素因のあるものに使われるが、この語源になっているギリシャ語の atopos (場所 topos がない、場所を超えて) について触れている。この言葉はソクラテスの特徴を記述するためにプラトンが使っているという。場所がないという原意から、奇妙な、変わっている、常軌を逸した、非常識な、型に分けられない、度を越した、などなどいろいろに翻訳が可能な言葉でもある。

過去の哲学者はこの言葉をどのように解釈していたのだろうか。モンテーニュはすべての生の形の普遍性や自由闊達さ、キェルケゴールは宇宙や個人の実存の表現、ニーチェは時代精神に対抗する哲学者の態度、ルソーは奇行や狂気などを考えていたという。atopos を 「場所を超えて」 の意味に解釈すると、わたしの考える哲学者の基本的な態度にも繋がっている。と同時に、哲学が正規に教えられている場所から離れたところから、新しいものを産み出すもとになる時代精神に抗する姿勢や自由闊達さなどが生れる可能性が高いのかもしれない。


--------------------------------------------
vendredi 26 août 2011

昨日の本には、プラトンがソクラテスのことを atopos と言っていると記されている。その一例として、「饗宴」 (Le Banquet ; Symposium) がある。宴の最後の方に登場するアルキビアデスがこんなことを言っている。手元にあるバージョンと拙訳を。
"But this man here is so out of the ordinary that however hard you look you'll never find anyone from any period who remotely resembles him, and the way he speaks is just as unique as well."

Plato, Symposium (translated by Robin Waterfield)

「しかし、ここにいるこの男 (ソクラテスのこと) はあまりにも常軌を逸しているのでどんなに厳しく見たとしても彼に少しでも似ている男を見つけ出すことは時代を超えて難しいでしょう。そして、彼の話し方もまたどこにも見られないものなのです」 (強調と註は訳者)



vendredi 19 août 2011

ミシェル・ペトルチアーニさんに触れる Michel Petrucciani, pianiste français



久し振りにジャズチャネルへ。
詩情溢れる澄み切った音が流れてくる。
自然に心に響いてくるのでしばらく聞き入っていると、
このピアニストの名前が続いた。
Michel Petrucciani, 1962年12月28日 - 1999年1月6日)


名前は知っていたが、こんな音楽を奏でるピアニストだとは知らなかった。
彼がフランス人だったことも。
名前は聞いたことがあるが、中身を何も知らない。
これまでこんなことばかりだ。
このままでは何も理解しないうちにこの世から去っていくことになるだろう。
そう気付いた時、何かに出遭ったその時に直ちに摩擦の痕を残しておくことにした。

今回も素晴らしいドキュメンタリーと演奏を味わい、記憶に傷を付ける。


















ニューヨークがもう懐かしく感じられる。
第二の故郷になるのだろうか。
遠くにありて思う方がよいのかもしれない。






 ステファン・グラッペリ
Stéphane Grappelli, 1908年1月26日-1997年12月1日)


ほとんど90歳で亡くなっているが、最後までとろけるような音を出している。






これはお暇のある方でなければ駄目だろうが、彼の世界を満喫できる。



mercredi 17 août 2011

「科学から人間を考える」 試みのお知らせ

科学に対する理解不足のために起こる不利益や不都合が多くなっています。その背景には科学を歴史、哲学などの広い視野から考える習慣の欠如があるように見えます。このような認識のもとに、今回、科学を歴史的、哲学的な視点から考え直す場として 「科学から人間を考える」 を設けることにしました。最初の会を以下の要領で開催いたします。

このような考え方に興味をお持ちの方、忙しい日常を離れて 「もの・こと」 を見直してみたいと思われている方、また高校生・大学生など社会に出る前の方など、お気軽にご参加いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
-----------------------------------------------

日時: 2011年11月24日(木)
午後6時半~8時

定員: 約20名

会場: カルフール会議室Carrefour
東京都渋谷区恵比寿4-6-1
恵比寿MFビルB1



今回の会場では飲み物の注文が義務付けられておりますので

参加費を下記のように変更いたしました。
学生の方の負担が増えますが、ご了承いただければ幸いです。
(2011年9月30日)

参加費
高校生・大学生: 無料
一般 : 1,000円
この他、会場で飲み物1杯の注文をお願いします。


会の詳細は下記のサイトをご覧ください。


参加のご希望、お問合せは、以下のアドレスへお願いいたします。
hide.yakura@orange.fr

mardi 16 août 2011

映画 「夢」、あるいは黒澤監督の叱咤



ブログを始める時期に一致して写真を毎日撮るようになったと記憶しているので、写真との付き合いはもう6-7年なる。何はともあれ三文カメラをポケットに入れてから外出するのが常になった。今では面白そうな対象が向こうから寄ってくるような気がしている。すべてが偶然であり、必然でもあるという不思議な感覚である。対象を選ぶ時の決め手は色と形の配置が自分の好みに合うかどうかで、カメラを覗き、構図を決めてシャッターを押す。一瞬のことだ。


この夏の日本で仕入れた黒澤明監督の 「」 (1990年) の DVD を観る。映画が始まってすぐに画面の色と構図がわたしの好みに合っていることに気付く。と同時に、監督もそこに相当の神経を使っていることを想像させる。いろいろな夢が出てくるが、日本(人)の歩み、文明そのもの、あるいは科学信仰に対する批判が時に静かに、時に激しく語られている。こんな叱咤を受けているような気分になる映画である。

 「日本人、いや人間よ。目を覚ませ。そして、もっと考え、もっと賢くなれ」

仕事を離れ、こちらでたっぷりと考える時間が生れている今だからこそ、黒澤監督の感受性がごく自然に入ってくる。しかし、仕事をしている時にこれらの夢を観て、どれだけ体の芯から理解できただろうか。言葉面だけに終わっていたのではないかと甚だ心許ない。多くの重要な問題は歴史や哲学の助けを借りなければ正解に辿り着かないだろう。しかもその助けを受け入れるためには時間が必要になるのだ。この前提を理解し、実践することが、忙しく仕事をしている人にとって極めて難しい理由がここにある。事がなかなか動かない理由がここにある。

3・11以降有名になった 「赤富士」 のエピソードは知っていたが、同根の批判精神に溢れる作品だとは想像していなかった。



lundi 11 juillet 2011

ポール・ジャクレー、あるいは西と東の交わるところ


La Danse d'Okesa, Sado, Japon
(1952)


Bnf の会員には年に4回ほどパンフレットが送られてくる。
最近のものにこの方の展覧会の案内が出ていた。

ポール・ジャクレー Paul Jacoulet (1902–1960)
落款は、「若礼」

作品を見た第一印象。
色が抜けるように明るい。
そして形に古さを感じない。
一体どんな人間が創ったのか。

彼はパリ生まれのフランス人浮世絵師。
子供の頃に日本に来て、一生日本で暮らした。
日、英、仏の言葉を自由に操るルネサンスマン。
能、歌舞伎、義太夫、バイオリンに三味線、そして蝶の蒐集家。
作品の色の鮮やかさ、多彩さは蝶を見ていた影響では、との指摘もある。

英語は家が近かった野口米次郎のアメリカ人妻レオニー・ギルモアさんに習った。
イサム・ノグチさんの母親に当たる。
不思議な繋がりだ。

日本国内を隈なく旅し、あらゆる階層の人間を描いた。
特にアイヌなどの民族のマイノリティに興味を抱いていた。
民間で伝承されている風俗、習慣などを探し、残しておこうとした。
南洋にも旅し作品を残している。
ミクロネシア、インドネシア、フィリピン。
そして、韓国、満州、モンゴルへも。

第二次世界大戦中も日本に留まる。
軽井沢に疎開し、野菜や鶏などを市に出して生活していたという。

パンフレットによると、彼の作品は東洋と西洋の宇宙の完璧な統合であり、
浮世絵の作法を踏襲しながらも、この分野に新風を吹き込んだものである。

糖尿病のため、58歳の若さで亡くなっている。




Les Graines de camélia Oshima, Izu
(1957)


2003年に横浜美術館で彼の展覧会が開かれている。
虹色の夢をつむいだフランス人浮世絵師

わたしは今回初めて知ったが、日本での認知度もあまり高そうに見えない。
もっと知られてもよい芸術家ではないだろうか。

彼の家族から贈与された作品のすべてが9月初めまで展示されている。
いずれこの目で観てみたいものである。
彼の作品はこちらでも鑑賞できる。



lundi 20 juin 2011

近代科学の受容をクラーク精神から考える


William Smith Clark (1826-1886)
Source: Hokkaido University Library


今年の3月11日、日本を揺るがす地震・津波・放射能汚染の被害が東北地方を中心に広がった。まさに黙示録(アポカリプス)の世界とも言われるこの災害により、自然の驚異的な力に改めて畏怖の念を覚えただけではなく、科学技術を用いる際のわれわれの考え方に大きな問題があることも見えてきた。アポカリプスとはカタストロフィーではなく、それまで隠れていたことが顕わになることを意味している。それは科学を具体化する人たちの精神の荒廃であり、われわれ自身が持っていなければならない科学精神の衰弱をも意味しているように見える。

2010年10月のある夜、日本語を読みたくなった私はその前年日本の古本屋で手に入れた渡辺正雄著『日本人と近代科学』(岩波新書、1967年)を読んでいた(この本については2010年10月27日にここで取り上げている)。日本で科学をやった後フランスで科学哲学を学ぶ中、日本の科学は技術を優先し、それができれば事足れりとするところがあり、科学の精神面での理解が欠落しているのではないかと感じるようになっていた。この本を手に取ったのは、その問に何らかのヒントが得られるかもしれないという期待があったからかもしれない。

著者の渡辺氏は、西洋の近代科学を見る場合の軸として忘れてならないのはキリスト教であることを強調している。西洋の伝統的な世界観は神を基本とし、神が創造した自然の中に現れているだろう法則を見つけ出すのが科学(者)の仕事であったと考えている。その上で、明治期の日本が西洋の学術を摂取する際、それを生み出した思想的・文化的基盤に思いを致すことなく、技術的な導入・模倣に終始したこと、そして学術の諸分野の相互の関連を考慮することもなく、細分化された専門分野を個別に学び取ってきたその状態が継続したことが現在の問題を引き起こす原因になっていると見立てている。そして、しばらくするとこのような文章が現れ、目から鱗が落ちることになった。
「それだけに、同じ時代のこの日本の一部にキリスト教的観点を最重要視したキリスト教主導の教育(女子教育も含む)が開始されていたこと、またW.S.クラークを初代教頭に迎えた札幌農学校のように、国立でありながらキリスト教と近代科学の両面に重きを置いた教育機関が存在していたことの意義は無視してならないところである」

つまり、北海道大学の前身には科学を技術的側面だけではなく、その文化的・思想的背景を含めて学ぶことが可能な環境が揃っていたことが見えてくる。著者はこの本のテーマの外にあるとして、この問題に深入りしていない。このような指摘を読むのはこの時が初めだったので、当時の状況を調べてみた。



内村鑑三(1861-1930)
Source: Hokkaido University Library


札幌農学校では第一期生からキリスト教精神としての理想主義、道徳教育、博愛精神などが教育の基本に置かれ、英語で教育が行われていた。一期生には後の農学校長で、東北帝国大学農科大学長や北海道帝国大学初代総長を務めた佐藤昌介、二期生には新渡戸稲造、内村鑑三などの日本、そして世界をリードする人材がいたことはあまりにも有名である。しかし、時代とともに当初の理想が忘れられ、内村鑑三は1926年5月14日に開かれた大学創基50周年の折に次のような言葉を北海タイムス紙(現在の北海道新聞)に発表し、式典への招待を断っている。

「明治の初年において、私どもが北海道についていだいた理想は、はなはだ高いものでありました。その第一は北海道を浄化せんとすることでありました。
 ・・・ここ札幌を日本第一の収穫地ならびに精神の修養地となさんことでありました。
 しかしながら今日にいたって事実如何と観察すれば、理想はいずれも裏切られたのであります。北海道は日本を浄化するどころか、かえって内地の俗化するところとなりました。いまや日本中で北海道ほど俗人のばっこするところはないと思います。
  ・・・
 札幌が出したものは多数の従順なる官僚、利欲にたけたる実業家、又は温良の紳士であります。しかれども正義に燃え、真理を熱愛し、社会人類のために犠牲たらんとする人物は一人も出しません。積極的の大人物でありません。進んで善事を及ぼさんといたしません。主として消極的の人間であります。
 私はクラーク先生の精神は、札幌に残っているとは思いません。残っているのは先生の名であります。そして今度先生の銅像ができたとのことであります。しかしそれだけのことであります。先生の自由の精神、キリストの信仰、それは今は札幌にありません。札幌は先生のボーイズ・ビー・アンビシャスの広い意味においてこれを知りません」
(蝦名賢造著 『札幌農学校・北海道大学百二十五年―クラーク精神の継承と北大中興の祖・杉野目晴貞』p.64-65; 西田書店、2003年)

事に当たる時、自らの精神の中に入り、自らを振り返ることの大切さを農学校開校当時の教育者は教え、学生もその哲学の下に研鑽に励んでいた。知識(だけ)ではなく、その知識を支えるべき精神的基盤を重視する教育であった。しかし、その精神が次第に風化し、内村の痛烈な批判を受けることになる。

わたしは経験を積み重ねる中で、教育についてこのように考えるようになった。それは、行動の基に哲学的思索を置き、その哲学を生きることにより世界を変えることができることを次世代に伝えることに尽きるのではないかというものだ。背後にある精神を忘れたまま、技術に偏った片肺飛行を続ける日本の現状を目にする時、ウィリアム・クラーク博士の精神性溢れる教育に想いを致し、その精神を蘇らせることが今求められているのではないだろうか。



新渡戸稲造(1862-1933)
Ⓒ 2004 National Diet Library, Japan


ここで、クラーク精神という言葉からさらに想像を羽ばたかせてみたい。この精神の基本にはキリスト教の理想主義や博愛精神があったとされるが、それを可能にするためにはものを考える時に省みる姿勢、自らに戻る精神運動がなければならないだろう。自らを対象にすることもその一つだが、自らの行っている仕事や研究、自らの属する社会(家庭から国家まで)も対象になり得るし、すべきだろう。それならほとんどの人がやっていると答えるかもしれない。しかし、ここで言う「考える、省みる」とは、仕事や研究の中の細かい事柄、家の中の具体的なやりくりを対象にしているのではない。仕事をするということ、仕事が対象としているもの、仕事と他のこととの関係など、仕事そのもののについて考えることを意味している。ここで言う仕事はあらゆることに置換できる。例えば、医者はいろいろな病気の発症メカニズム、診断法、治療法については詳しく知っているが、そもそも病気とは何なのかについて考えているとは限らないという状況と似ている。つまり、専門の中で考えるのではなく、それを超えた知を求める姿勢、専門を上から見て考える姿勢とでも換言できるかもしれない。

哲学の定義は人様々だろう。わたしは上で述べたような姿勢で対象に当たるのが哲学的態度だと考えている。そうすると、遠くから眺める日本の空間にはこの姿勢が著しく乏しいように見える。そして、おそらくそのことが原因ではないかと想像されるが、日本が一人の大人としてこの世界に生きているという姿が見えてこない。日本人の知性が見えてこないのだ。上で述べたような意味での哲学を一人ひとりが実践することがなければ、いつまでもこの状況は変わらないだろう。生き生きとした空間には変貌しないだろう。その基礎ができて初めて日本の科学のみならず国としての再生が静かに始まるような気がしている。ユートピアンの遥かな夢だろうか。



lundi 13 juin 2011

レフ・シェストフ、あるいはギュンター・アンダースという哲学者、そして理性の後に来るもの


Léon Chestov (1866-1938)
un philosophe russe juif


昨日のこと、哲学雑誌のページを何気なく開け、この言葉に出遭う。

「理性が勝利を収めるに従い、現実の空間がどんどん小さくなる」

この言葉はレフ・シェストフLéon Chestov ; Lev Shestov, 1866-1938) というキエフで生まれパリで亡くなったユダヤ人哲学者のもの。一体どういう意味だろうか。記事ではこう説明されている。


4世紀ほど前にガリレオ (1564 - 1642) とデカルト (1596 - 1650) は自然を数学の言葉に置き換えることにより世界の理解が進むという科学的な理性 (ガリレオ的理性) を確立した。確かにその後の展開を見れば、自然の理解は大きく進んだのは間違いない。そのやり方は便利な生活を営むことができるようになるかわりに、自然の破壊も進めることになった。

1911年、アーネスト・ラザフォード (Ernest Rutherford, 1871-1937) が原子核を発見した。その発見は、物質は安定した素子、分割不能な原子からなるのではなく、常に動いている微粒子からなることを示した。この発見が広島、長崎、チェルノブイリ、福島に導くことになった。

核の世紀になる20世紀前半、エトムント・フッサールEdmund Husserl, 1859–1938) はシェストフの批判を知り、足元が崩れていくのを感じた。ナチズムから自己破壊に至る過程で責任を問うべきは、国家でも知識人でもなく、ガリレオ的理性の概念であるとフッサールは考える。

しかし、それは理性を敵に回すことではない。理性に至る新たな道、新たな理性を探り出すのが哲学に課せられた問題なのだとフッサールは考える。その回答は、良心、人間の身体、真の歴史、倫理的生活、地球という唯一の土地、これらに繋がること。そして、感受性、愛情、道徳を豊かにすることにより、技術的な理性を使うだけではカタストロフになる運命を見通すことができるようになる。

ハンナ・アーレント
Hannah Arendt, 1906-1975) や彼女の夫でもあったギュンター・アンダースGünther Anders, 1902-1992) などのフッサールの後継者たちは、非理性に堕することなく、ガリレオ的理性の独占が齎す危険性をわれわれに伝えてくれた。



Günther Anders (1902-1992)
un philosophe juif


一夜明けて、同意するところの多いシェストフ、フッサール、ギュンター・アンダース御三方の方向性を振り返る。

理性が勝つと問題なので理性を捨てるべきだ、あるいは、今回の福島でも明らかになったように、科学は間違いを起こし頼りにならないので科学的思考を否定すべきだ、という議論が出ることがある。しかし、この考え方には与しない。それに代わる優れた考え方が今あるだろうか。

あくまでも理性的な、科学的な考え方を突き詰めてみること。それを徹底的に進めた上で、その考え方ではどうしても理解できないことがこの世界にはあるということを体で感じ取ることができなければ、その後の歩みも覚束ないものになるだろう。科学に対する強烈な批判が生れてきたのが西欧だったという事実は、そこにわれわれの想像を超える徹底した理性の壁があったからではないだろうか。

理性的な思考をベースに据えながら、同時にその独占を許さないようにすること。独占を許すと、見える世界が限られてくるからである。そして、それが存在するもののすべてであるかのような錯覚に陥り、そのことにも気付かなくなる。これこそ、シェストフさんが言った 「現実の空間が小さくなる」 の意味ではないだろうか。

そこから逃れるためには、科学を超えた知に関する理解がなければならないだろう。それが倫理を含めた哲学であり、歴史であり、文学であり、人間としての反応になる。そして何よりも、その思考過程を自由に表明し、論を戦わせる姿勢とそれを由とする社会の空気が不可欠になるだろう。



Edmund Husserl (1859–1938)
un philosophe allemand, fondateur de la phénoménologie


最後に、今回登場した方々について一言だけ。

シェストフさんは今回初めて知ることになった。しかし、彼の作品は60-70年代に13巻の選集として日本に紹介されていたようだ。当時は理性一直線で、興味の外だったのかもしれない。

ギュンター・アンダースさんのテーマは、テクノロジーの時代の哲学。特に、われわれの倫理や存在に与えるマスメディアの影響、核の脅威、ユダヤ人虐殺、哲学者であることの意味に焦点を合わせていたとのこと。しばしば、哲学者と言われることを忌避したという。彼のテーマには興味が重なり合うところが多い。

そして、フッサールさんだが、5年前にいただいた御宣託がある。それはフッサールやハイデッガーを味わうために生れてきたというもの。これまでも何度かこのことに触れたことがある。常に気になる存在だったのだが、今一つピンとこなかった。しかし、今回はその意味がわかりつつあるというところだろうか。

イメージ、時間、現象学 L'IMAGE, LE TEMPS, LA PHENOMENOLOGIE (2006-04-28)



mardi 7 juin 2011

自らとのランデブー、そして愛が行動を導くのか


Danse
de Jean-Louis Raina


先日、エドガール・モランさんとパトリック・ヴィヴレさんの 『危機の時代にいかに生きるか?』 という本を取り上げ、モランさんのお話に触発されるように書いた。

Comment vivre en temps de crise ? (2010) 
Edgar Morin et Patrick Viveret

ここでは今回初めて読むことになったヴィヴレさんの考えについて。最初のブログ 「ハンモック」 では書かれたものを忠実に訳すことをやっていたが、こちらに来てからはある文章に触れた時に自分の中に広がる混沌とした想いを言葉に置き換えることに重点が移ってきたように見える。ヴィヴレさんとの遭遇はどのような結果になるだろうか。遠くから様子を眺めてみたい。


危機になり人々に不安が広がると、モランさんも言うところの 「希望の原理」 (le principe d'espérence) を見出すことが重要になる。この問題を考える時に重要になる3つのことがある。その第一は 「起こり得ないということ」 (l'improbable)、第二は 「創造の可能性」 (la possibilité créatrice)、そして第三が 「変容」 (la métamorphose)になる。

今、世界で問題になっているのは、一つの世界の終りである。マルクス主義者のアントニオ・グラムシ (1891-1937) は、危機についてこんなことを言っている。古い世界がなかなか消え去らず、新しい世界が生れるのに時間がかかっている時、魔物が出現する可能性がある。その時は危機であると同時に新しい機会の到来でもある。それから黙示録のヨハネ (le saint Jean de l'Apocalypse) は、アポカリプスとはカタストロフではなく、それまで隠れていたものが姿を現すことであると言っている。ヴィヴレさんはヨハネの黙示録の意味において、われわれはアポカリプスの時代に入っているのではないかと見ている。カタストロフではなく新しい姿が現れる啓示の時代、人類が自分自身に出遭い (rendez-vous) 本質的な問に向き合う時代に。そこには3つの変化が見られる。

一つは、DCDモデル (dérégulation-competition-délocalisation : 規制緩和、過度の競争、地方分散) と言われるものの持続が難しくなっていること。DCDモデルに見られることは、節度のなさと生き難さからくる不満である。第二の変化は、西欧近代の終わり、経済による救済 (le salut par l'économie) の終わりである。どのようにしてそこから抜け出すことができるのだろうか。ひとつは、上からモデルを押し付けるのではなく、自然との関係、われわれの存在意義、社会との繋がりという問題について異なる文明の間で真に開かれた厳しい対話をし、できるだけ普遍的なものを打ち建てること。それこそが人類が自らに向き合う (rendez-vous) ことの意味になる。その過程ではマージド・ラーネマさん (Majid Rahnema、1924- ) の言う 「内的時間の破壊」 を克服しなければならないだろう。そして、第三の変化は歴史的に見た時代の大転換である。そこでもエコロジーの挑戦 (air)、土地・領土 (空気・水・エネルギーの他、バーチャルな世界)の激変 (aire)、工業化社会から情報化社会への時代の転換 (ère) という3つの変化が見られる。

工業化社会では 「人生において何をするのか」 が問われたが、今は 「人生について何をするのか」 が問われている。われわれの地球、われわれの種、そしてわれわれの生について何をするのかが問題になってきた。何を持つかではなく、どうあるのかという本質的な問が目の前に現れているのだ。このようなわれわれ自身との出遭い (rendez-vous) においては、われわれの存在を十全に生かすための智慧が重要になる。マーティン・ルーサー・キング (1929–1968) によれば知性は愛の問題に行き着くという。ここでの知性はパスカルが言った心の理性と関係づけて捉えるべきもので、すべての感情を含んだ知性、心の知性とでも言うべきものである。

今の人間からさらに崇高な人間へと変わることができるだろうか。そのためには内なる野蛮の問題と向き合わなければならないというのがヴィヴレさんの考えになる。ホロコーストを持ち出すまでもなく、野蛮人、外国人、異端者という異質なものにどう対するのか。問題はわれわれの内に隠れているので、それを外に出し白日のもとに晒さなければならない。そして、こう問わなければならないだろう。「どうしてこのような野蛮が文明の只中で起き得たのだろうか」 と。

ヴィヴレさんはさらに問う。どうしたら節度ある幸せを手に入れることができるのか。どうしたら異文化との厳しい開かれた対話が可能になり、他者を受け入れることのできる寛容と多元主義の場を作ることができるのか。どうしたら人類は他者との関係において知性と良心を調和させて働かせることができるのか。他者との関係という時、根本的にはそれは愛との関係に帰着する。どれだけよく愛することができるのかの問題に帰着する。この気付きが人間を崇高へと導くと彼は考えている。

ギリシャの愛にはエロスアガペーだけではなくフィリアがあり、源にはポルネイア (pornéia) がある。このポルネイアの元々の意味は大食いへの愛で、過度の食への依存、吸収や融合とも関連する言葉だという。大部分の人間関係における問題は、他者を受け入れないことからくるという意味で、ポルネイアの問題とも言える。これは政治や経済の問題についても当て嵌まる。

ヴィヴレさんは言う。他者の存在、違いや特異なものの存在は寛容さを以って受け入れなければならないとするところから、むしろわたしにとって必要なのだという視点の転換が必要になる。そして、それは生きることそのものに関係してくる。節度のなさからくる興奮と抑鬱という回路から抜け出て、集中と静謐という生をより鮮明に感じることのできる回路へと移行しなければならない。それこそが生きる悦びであり、それはまさしく政治的問題なのである。人間らしく生きるということはひとつの仕事であり、それ故お互いに助け合わなければならないのだ。個人の変容と社会の変容を対立させることなく進めなければならない。そうしなければ人類は目の前の巨大な挑戦を受けて立つことはできないだろう。




この本は去年出ている。このようなことは前から言われているのだろう。しかし、何事もないように見える日常の中でその声は掻き消されてしまう。今回のようなことが起こっても、表層を触るだけの反応しか生れていないように見えるのだから。危機の時代には、自身との真のランデブーによって隠れている本質的なものを引き出す必要があるはずなのだが、、、


mardi 31 mai 2011

曖昧さに耐えること、そして理解することと判断することの峻別



昨日の朝、久しぶりに机の上の本をひっくり返してみた。そうすると、まだ手の付いていない小さな本が現れた。タイムリーなタイトルで中身も面白そうなので、ビブリオテークへの道すがらに読むことにした。この時期に顔を出すために隠れていたかのようだ。

『危機の時代にいかに生きるか?』

この7月で90歳になるお馴染のエドガール・モランさん (1921- ) が理解することについて書けば、パトリック・ヴィヴレさん (1948- ) は理解したことをいかに行動に翻訳するのかについて書いている。ここではモランさんの 「来るべき世界を理解する」 と題する文に触れた時に起こった化学反応を記録しておきたい。


危機になると不確実なことが増え、その解決のために尋問が横行し、最悪の場合には生贄を探すことになる。答えが出ないことに耐えられず、あたかも解決策が出たかのように振る舞い、自らをも安心させるためである。現在この世界で進行中のこと、そしてこれから起こることを理解するには、曖昧さや両義性がそこに付き纏うことに敏感でなければならない。二つの異なる、時に相反する真実があり、どちらが本当なのかわからないことがあるからだ。

アメリカは独裁者を放逐する民主主義国家のイメージとともに、人間の殺戮をも厭わない帝国主義国家の側面を持っている。16世紀以降のヨーロッパもアフリカやアメリカ大陸を侵略し、植民地にし、奴隷労働を強いた。しかしまた、ヨーロッパは人権や友愛という概念を生み出した唯一の場所でもある。残忍なヨーロッパと文化的に洗練されたヨーロッパのどちらが真実の姿なのか。残忍な側面があるからそれを全否定するだけでよいのか。それで国や人間を理解したことになるのか。歴史の過程でこの両極を揺れ動いている可能性もある。その両極を理解した上で、そこを突き抜けた理解に向かわなければなければならないのではないか。モランさんは、この曖昧さ、両義性を認めるという意味で、デカルトであるより、パスカルでなければならないと言う。



Bartolomé de Las Casas
(Séville, 14741– Madrid, 1566)


残忍なヨーロッパの時代にも偉大な精神は存在した。その一人はカトリック司祭で、侵略・残虐行為が横行していたアメリカ大陸のインディアンにも魂があることを教会に認めさせた行動の人バルトロメ・デ・ラス・カサス (1484-1566)。もう一人は自らの思索を仔細に記録したモンテーニュ (1533-1592) だ。モンテーニュはこう言っている。

「他の文明の人間を野蛮人という。そしてわれわれは人食い人種よりさらに残忍なのだ。彼らが敵の死骸を食べるのに対して、われわれは生きた人間を殺すのである」

グローバリゼーションにもこの両極が表れている。コミュニケーションの発達などにより、外国の文化にも以前とは比較にならないほどの量的、質的豊かさで接触が可能になり、多くの利益を得ている。一方、経済、利益、アメリカというヘゲモニーの下に繁栄と貧困ではなく悲惨(貧困には耐えられても悲惨に耐えることは難しい)という両極を生み出している。グローバリゼーションには最良のものと最悪のものが綯い交ぜになっていると言えるだろう。

世界の政治状況においては、例えばイスラエルとパレスチナ、アメリカとイランというような二項対立が見られる。善悪の対立で世界を見て、正しい理解に辿り着くだろうか。しばしば一方の立場から発せられる情報だけに基づいて考えることで事を理解できるだろうか。同じ人間でも状況の違いにより異なる行動に出ることがある。われわれの体も条件が変われば同じ物質に対して異なる反応を示す。つまり、理解のためには状況を掴むことが決定的に重要な要素となる。そこまで注意しなければ、ものの理解に達しないことを意味している。

モランさんは言う。理解について話す時、理解しえないものについての理解であることを前提にしなければならない。なぜなら、間違い、他者に対する無関心、文化の無理解、神・神話・思想への囚われ、自己中心主義、無知などが常に付き纏うからである。そして、理解することへの恐怖、そんなことは知りたくないという感情もある。しかし、人殺しがどういうことかを理解することとそれを認めることとは別のことである。認めたくないので知る必要がないと考えるのではなく、判断する前に理解することがどうしても必要になる。

換言すれば、理解と判断の峻別とその順序を常に意識していなければならない。同時に記憶に留めなければならないのは、知にはそもそも限界があること、つまり不確実性こそこの世の摂理であることだろう。それこそ20世紀の知が明らかにした最も大きなことでもある。



Galet
de Jean-Louis Raina


改めて自問する。

事に当たって先ず理解しようとしているだろうか。物事の両面から見た情報を元に理解しようとしているだろうか。特に危機の時に起こりやすいネーム・コーリングに堕し、あるいはそれに影響された一方的な情報を元に判断していないだろうか。哲学的態度とは意見を言うことではなく、フィリップ・ブルギニョン (Philippe Bourguignon, 1948- ) の言葉を借りれば、この世界に当たり前のものはないという立場から意見を戦わせることであったはずだ。

"Il ne faut rien accepter comme acquis." (Philippe Bourguignon)
「既定のものとして何ものをも受け入れるべきではない」

すべては知り得ないことを前提に理解しようとするところからすべてが始める。その姿勢が徹底しないところでは何も解決されないし、同じことを何度でも繰り返すだろう。


dimanche 22 mai 2011

新しい世界への道、あるいは Habits of thought との闘い



先週、パスツール研究所でフランソワ・ジャコブFrançois Jacob, 1920- )とジャック・モノー (Jacques Monod, 1910-1976)によるオペロン・モデルの発表から50年を記念した下記のシンポジウムがあり、参加した。考えておくべきことがあったので、書き留めておきたい。

EMBO Workshop on
the Operon Model and Its Impact on Modern Molecular Biology
(May 17-20, 2011; Institut Pasteur)

The review article entitled “Genetic Regulatory Mechanisms in the Synthesis of Proteins“ or in brief the “Operon model” by François Jacob and Jacques Monod was published in the Journal of Molecular Biology on June 1961 (J.Mol.Biol. 3, 318-356, 1961).


シンポジウム最終日最初のセッションにはポール・ナースさん(1949- )とリズ・ブラックバーンさんという2人のノーベル賞受賞者が登場し、濃密な時間が流れた。ブラックバーンさんは冒頭カバンの中から取り出したフランソワ・ジャコブさんの La Statue intérieure (1987) の英訳本 The Statue Within: An Autobiography (1995年版) の一節を読み上げ、今日のテーマはこれですと言ってから話し始めた。それは研究をする時にしばしば戦わなければならない "habits of thought" (ジャコブさんの言葉では、les habitudes de pensée)。ある枠に嵌った考え方の癖のようなものだろうか。一つの事実が明らかになった時、それまでの固定化された見方・考え方でその事実を説明しようとすると、本当のことを見逃すことがある。その固定観念から自由になることによって初めて発見に繋がるということを言いたかったのではないだろうか。彼女の主張は自分の研究室から出てきたデータを元にして話を進め、しかもそれがいくつも出てくるので説得力がある。2009年に賞を貰ってから時間が経っていないせいだろうか。研究に向けての集中力が一番高い印象を持った。

同じセッションでオックスフォード大学のキム・ナスミスさん (Kim Nasmyth, 1952- ) が話した中にも類似の現象があった。1900年にメンデルの法則が再発見され、1902年にはメンデルが示した遺伝を支配するものは染色体にあるとする染色体説ウォルター・サットン (Walter Sutton、1877-1916) とテオドール・ボヴェリ (Theodor Boveri、1862–1915) により提唱された。しかし、この考え方がすぐに受け入れられることにはならなかった。その説明としていろいろあり得るだろうが、こういう説明をしている人がいる。細胞が違うとその機能も変わってくる。しかし、どんな細胞を見ても染色体は同じ姿をしている。同じ姿をしているものが違うことをやっているはずがない、と考えたのではないかというもの。観察されたものがすべてで観察されていないものが存在する可能性はその精神活動の中にないということだろうか。キムさんはもう一つ興味深いことを言っていた。それは、オペロンの研究はフランスのデカルト的論理とイギリスの経験主義的なやり方 (wet experiment) がうまく調和した極めて稀な例であるというもの。英仏の長い歴史が醸し出すものをそこに感じていた。

この日のトップバッターは細胞周期の専門家ナースさんだった。研究の内容を評価することはできないので何とも言えないが、こんなことを話していた。このデータはわたしが人生を掛けて細胞周期の調節に大切だと言ってきた分子が実は必須ではないことを示すものである。これを2度ほど言っていたのではないだろうか。そして、別のプロジェクトでは調節に必須である可能性のある新しい分子が出てきているというお話も出ていた。

上の御三方のお話を聞いて印象に残った一つは、発せられる言葉が精神活動の状態を示し、しかもそれが体と一体になって活動しているように見えたことだろうか。ブラックバーンさんは強調したい時には爪先立つようにリズムを取りながら体を上下に動かして話していた。また、ナスミスさんが強調する時は、細身の体を折り曲げるようにしながらお腹から大きな声を出していた。それぞれのプレゼンテーションには集中力と緊張感が溢れていて、質疑応答もリズム感があり、聞いていて気持ちがよい。こういうやり取りを見ていると、科学とは単に事実を見つけるだけではなく、その後の処理の仕方が重要になることに気付かせてくれる。そこではここで言うところの 「科学精神」 を十全に発揮しなければならないだろうし、デモクラティックな姿勢も求められるだろう。これらの精神的な側面がわれわれの中に根付くようになるまでには一体どれくらいの時間がかかるのだろうか。




Habits of thought は学問の世界だけの問題ではなく、われわれの営みすべてに当て嵌まるだろう。目の前に現れたことをそれまでの囚われの心から離れて見直すこと、それが新し い未来を生み出す原動力になるはずである。それを可能にするためには、われわれの考え方は最初からある枠に嵌った癖があることを意識していなければなら ず、その上でその考え方と戦わなければならない。そんなに易しいことではないことは、現実をみればよくわかる。Habits of thought からの脱却、あるいはその必要性を多くの人が共有することが閉塞感を解くひとつの有効な方法にならないだろうか。

ところで、日本の書架には The Statue Within 1989年版があるはずだが、じっくり読んだ記憶がない。ビブリオテークの方に聞いたところ、非常に感動的な本だったと言っていた。昨日原著にざっと目を通してみたが、ジャコブさんを取り巻く環境が見え始めたこともあるのか、非常に興味深いお話が次々出てくる。いずれその美しいフランス語の中に身を委ねてみたいものである。

The Statue Withinグーグル・ブックスでも読むことができる。
日本語訳は 「内なる肖像―一生物学者のオデュッセイア」 (1989、みすず書房)。


samedi 21 mai 2011

ヴァレリー・ペクレスさんの挨拶 - 最後は哲学と文化の問題か



先週、パスツール研究所でフランソワ・ジャコブFrançois Jacob, né le 17 juin 1920 à Nancy)とジャック・モノー (1910-1976)によるオペロン・モデルの発表から50年を記念した下記のシンポジウムがあった。

EMBO Workshop on
the Operon Model and Its Impact on Modern Molecular Biology
(May 17-20, 2011; Institut Pasteur)

The review article entitled “Genetic Regulatory Mechanisms in the Synthesis of Proteins“ or in brief the “Operon model” by François Jacob and Jacques Monod was published in the Journal of Molecular Biology on June 1961 (J.Mol.Biol. 3, 318-356, 1961).


2日目の夕方。公務の都合になるのだろうか、予期せぬ時間に高等教育・研究大臣のヴァレリー・ペクレスさんの挨拶が入った。挨拶の前にフランソワ・ジャコブさんがゆっくりとした足取りで会場に入ってきた。フランスの大臣の話を聞くのは今回で三度目になる。最初は、生命倫理の会での保健省大臣のロズリン・バシュロー・ナルカンさん。それから世界哲学デーで聞いた国民教育相のリュック・シャテルさん。いずれのお話も感心して聞いていたが、今回も例外ではなかった。

生命倫理とフランス語で暮れる (2010-03-29)
「世界哲学デー」 を発見 (2010-11-18)

ペクレスさんはこちらに来た当時、アメリカ化とも言えるような大学改革を推し進めていて、テレビで見かけたことがある。弁が立ち、押し出しもよく、大学にとっても手強い相手だろうという印象を持った記憶があるが、それ以来だ。4年前の印象では小柄な方かと思っていたが、長身で颯爽としているのに驚く。本当に押し出しがよい。会場の空気が引き締まる。

フランス語で話し始めた冒頭からフランスの医学・生物学の哲学者ジョルジュ・カンギレム(1904-1995)の引用が入り、暫くの間彼の生物学の哲学について語っていた。そして、オペロン・モデルの発表は単に分子生物学の幕を開けただけではなく、われわれの生命に対する考え方を変えた哲学的な革命であり、人類の思想史に深い刻印を残すものでもあったと続けた。さらにジャコブさんに向かい、あなたは自らの発見について深く明晰な省察をし、そこから哲学的、倫理的、政治的な意味を見出し指摘した真の哲学者であると称賛の言葉を贈っていた。政治家がこのような称賛の仕方をする国であることに驚いていた。

途中、フランスの大臣はフランス語で通すことになっているのですが、とほんの少しだけ冗談めかして語った後、英語でも続けていた。これからの課題として、遺伝、遺伝子を超えた機構(エピジェネティックス)、脳すなわち思考、幹細胞、老化、統合生物学などを挙げ、同時に明晰な精神による幅広い思索が人類のために求められることを指摘していた。科学のリズムが変わってきている中、フランスの活力や世界における指導的立場を維持するために研究面での充実を図る決断を数ヶ月前にしたことなどを話してお話は終わった。

今回も日本の政治家からはなかなか出てこないようなお話を聞くことができた。これをどう見ればよいのだろうか。ペクレスさんも忙しい政治家なので、こなしている側面もあるだろう。そうだとしてもそれを支える人の教養の違いになるだけである。思索を刺激することのない当たり障りのない言葉が並べられるだけでは、それでなくても閉塞感が溢れていると言われる国内の空気は淀む一方だろう。正確な言葉、核心を刺激する言葉は世界を拓く力を持っているはずである。言葉ではないと言ってやり過ごす道もある。しかし、結局のところ、まず言葉を磨くところから始めなければ未来は開けないのではないだろうか。幅広く論理的に考え、正確な言葉を使うことは哲学の領域で重要になることである。この点は、昨年の 「世界哲学デー」 においてリュック・シャテル大臣がこれからのリセ教育において強調すべきだとして話していた。科学においても、われわれの日常においても哲学がその根を支えているのでなければ、われわれの文化は底の浅いものにしかならないのではないか。そんな想いとともにペクレスさんの挨拶を聞いていた。





jeudi 14 avril 2011

科学とは論理的な説明を誰にでも求めるもの

(Centre d'Immunologie Marseille-Luminy)


免疫学の教科書には自然免疫と獲得免疫という二つの異なる機構があると書かれている。獲得免疫はリンパ球(T細胞、B細 胞)によって担われ、一度出会ったことを覚えていて、二度目には初回よりも素早く効果的に反応する「記憶」があり、微生物の細かい特徴を識別する「特異性」がある。一方、自然免疫には記憶も特異性もないとされ、マクロファージ、多核白血球、NK(natural killer: 自然殺傷)細胞などにより担われている。先日の「哲学と免疫学」セミナー・シリーズの演者は、マルセイユで研究しているNK細胞の世界的権威のエリック・ヴィヴィエさん。お話の結論は、自然免疫と獲得免疫という二つの機構を分けている記憶と特異性について考え直さなければならない結果が蓄積してきているということ。つまり、二つの機構の境界が曖昧になってきているということになる。

記憶について見ると、NK細胞の半減期は大体17日だが、ある実験系では1-2ヶ月後でも活性 が見られるという。この場合、記憶をどう捉えるのかが問題になるだろう。つまり、単に寿命が長いだけでよいのか、それともリンパ球の場合のように、機能的にも亢進していなければならないのか。それから特異性について。NK細胞と雖も手当たり次第に細胞を殺すわけではない。感染などのストレスによる変化が出ている細胞や腫瘍性の変化を起こした細胞を選択的に殺傷するので、特異性がないとは言えないとヴィヴィエさん考えている。ただ、その特異性はリンパ球の場合のように認識する対象の個別の違いをすべて識別できるわけではない。その上で、NK細胞にも特異性はあるが、対象を認識するレセプターが作られる遺伝子レベルの機構がリンパ球とは異なっており、特異性に関する両者の違いはそれだけであるというのがヴィヴィエさんの主張であった。NK細胞の場合には、リンパ球のような遺伝子の組み換えに因る多様な特異性を認識するレセプターを持っているわけではないが、特異性はあるということだろう。記憶の場合と同様に、特異性についても言葉の定義が問題になりそうだ。

お話の中に "revisité (revisited)" という言葉が何度か出ていたが、これはある現象がその後の科学の発展に伴い見直しを迫られる場合に使われる常套句である。ある意味では、科学を特徴づける言葉とも言える。今回はNK細胞の研究を通じて、免疫系の見方に修正を加える必要が出ている現状を垣間見る思いであった。講演もそうだったが、その後でお話した時にも感じたのは、ヴィヴィエさんの思考が「滑らない」ということ。論理を一つ一つ積み上げるように話を進める様を眺めながら、科学とは単に結果を出すだけの営みではなく、どのようにしてその結果に至ったのか、その結果は何を意味しているのかを誰もが納得できるように言葉を正確に使い説明すること、その説明は人を選ばずに(権威と言われている人だろうが、そうでなかろうが)求められること、つまり科学とは民主的な営みであることを改めて感じていた。そのことを理解し実践する人たちが集まる空間はわたしの頭の中をすっきりさせてくれる。いつものように気持ちの良い時間となった。


samedi 9 avril 2011

エルネスト・ルナンの生涯



Josephe Ernest Renan

(28 février 1823 à Tréguier, Bretagne - 2 octobre 1892 à Paris)
écrivain, philosophe, philologue et historien français


国家的危機と言われる今、国家とは?という問を考える時が来ているように見える。この機会にフランスの作家、哲学者、文献学者、歴史家、エルネスト・ルナンの人生を振り返ることにも意味があるだろう。ウィキを基に見直してみたい。

ルナンは存命中、例えばイエス・キリストの生涯("Vie de Jésus" )を書いた作家として有名であった。この本では、キリストは他のどのような人物とも同じように書かれ、聖書も他のどのような本とも同じように批判的に検討されなければならないという考えが披瀝されていて、カトリック教会の怒りを買い、激しい論争を呼んだ。

彼は1882年に « Qu'est-ce qu'une nation ? » 「国家とは何か」 という演説で明らかにした国家観でも有名であった。フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte, 1762-1814)のようなドイツの哲学者たちが国家を言語のような特徴を共有するグループ (le Peuple 民族) あるいは人種 (la race) という客観的・物理的な基準で定義していたのに対して、ルナンは単純に « la volonté de vivre ensemble » 「共に生きる意思」 と定義した。当時問題になっていたアルザス・ロレーヌの帰属について、国家の存在は « un plébiscite de tous les jours » 「日々の国民投票」 (その日その日に表明される国民の意思ということか) に依存していると宣言している。



ルナンはブルターニュの漁師の家庭に生まれた。祖父が少し余裕を持っていたので家を買い、そこに落ち着いていた。父は船長で筋金入りの共和主義者であった が、母は王政主義者の商人の娘であったため、ルナンは両親の政治的信条の間で終生引き裂かれた状態にあった。彼が5歳のときに父は亡くなり、12歳年上の姉アンリエッタが家族の精神的支柱になる。彼女は生まれた町に女学校を開設しようとするがうまく行かず、パリの女学校の教師として故郷の町を去る。ルナンはその町の神学校(現在はエルネスト・ルナン中学校と呼ばれる)で、特に数学とラテン語をしっかりと勉強する。母の父方の祖先はボルドーから来ているので彼女は半分しかブルトンではなかったため、両者の葛藤が見られたとルナンは回想している。

15歳の時、神学校のすべての賞を獲得したので、姉が勤めるパリの女学校の校長に話をする。それを機に、彼はパリに出ることになる。しかし故郷の教師の厳しい信仰とは異なり、パリのカトリックは華やかではあるが表面的で満足のいくものではなかった。

17歳になり、哲学を修めるために別の学校に移る。彼の心はスコラ哲学への情熱で満たされていた。すぐにトマス・リード(Thomas Reid, 1710-1796)、ニコラ・ド・マルブランシュ(Nicolas Malebranche, 1638-1715)に惹かれるが、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770-1831)、カント(Emmanuel Kant, 1724-1804)、ヘルダー(Johann Gottfried von Herder, 1744-1803)に移っていく。そして、彼が勉強している形而上学と彼の信仰との間に本質的な矛盾があることに気付き始める。彼は、哲学が真理を求める気持ちの半分しか満たすことはないと姉に書き送る。

彼の疑問を目覚めさせたのは哲学ではなく文献学であった。新しい神学校に入り、聖書を読み、ヘブライ語の勉強を始める。しかし、聖書の原文を読み進むと文体、日時、文法などに疑わしい (apocryphe) ところがあることに気付き、次第にカトリック教の信仰から離れていく。仕事 (vocation) に生きるのか、自ら信じるところを求めるのか (conviction) という普遍的な葛藤の中、彼は後者を選び、1845年10月6日(22歳)に学校をやめ、中学校の生徒監督、さらに職住を保証された助教員として私立の寄 宿学校に入ることになる。1日の拘束時間は2時間だけであったので充分に仕事ができ、彼は心からの満足を得る 。

ルナンは神父から教育を受けていたが、科学的な理想を受け入れていた。宇宙の見事さは彼を恍惚に導くものであった。後年、アミエル(Henri-Frédéric Amiel, 1821 -1881) のことを評して 「日記などつける時間のある人間は、宇宙の広大さなど決して理解しなかった」 と書いている。1846年(24歳)には、彼の生徒であった将来化学者になる18歳のマルセラン・ベルテロ (Marcellin Berthelot, 1827-1907) により、物理学や自然科学の確かさに目覚めさせられる。この二人の友情は最後まで続いた。このような環境で彼はセム語の文献学研究を続け、ヴォルネー賞(Prix Volney)を授与されることになる「セム語の歴史研究」("Histoire générale et systèmes comparés des langues sémitiques")を発表。哲学の上級教員資格を得てヴァンドロームの高校教師になる。

1860-61年(37-38歳)には、レバノンとシリアの考古学探索に参加する。妻のコルネリアと姉のアンリエッタとともにザキア・エル・カラブの家に滞在する。その家で、彼の "Vie de Jésus" 「イエスの生涯」を書くための霊感を得る。また1861年に彼の姉が亡くなり、彼女の愛した教会のすぐ近くにあるこの家の地下埋葬室に眠っている。

ルナンは博識だっただけではない。聖パウロと弟子たちについて研究し、発展する社会生活を憂い、友愛の意味を考え、「科学の未来」("L'Avenir de la science" )を書かせた民主主義的な意識が彼の中に息づいていた。1869年(46歳)、国会議員選挙に出る。

1年後には独仏戦争が勃発。帝政は崩壊し、ナポレオン3世は亡命する。この戦争は彼の精神生活にとって分岐点(le moment charnière)になる。彼にとってのドイツは常に思想や科学を考える上での安らぎの理想の国であった。しかし、その理想の国が彼の生まれた地を破壊 してしまった今、もはやドイツを聖職者ではなく侵略者としてしか見做し得なくなる。

1871年(48歳)、"La réforme intellectuelle et morale" 「知的、道徳的改革」の中で、フランスの将来を守る手立てを模索している。しかし、それはドイツの影響を受けたままのものであった。彼が掲げた理想は戦勝国のものであった。例えば、封建社会、君主政治、少数のエリートと大多数のそれに従わされる人。これらはパリコミューンに過ちを見た彼が得た結論であっ た。さらに、"Dialogues philosophiques" 「哲学的対話」 (1871年)、"L'Ecclésiaste" 「聖職者」 (1882年)、"Antéchrist" 「キリスト以前」 (1876年:皇帝ネロ Néron の時代を描いた 「キリスト教の起源」 "Histoire des origines du christianismee" の第4巻)などは彼の比類なき文学的天才を示してはいるが、同時に醒めた懐疑主義的な性格をも表している。フランスを説得できなかったことを知った彼は破滅への道を甘受する。しかしフランスが徐々に目覚めていくのを見ながら、「キリスト教の起源」 の第5巻、第6巻を書き上げる。そこでは民主主義との折り合いをつけ、最大の破滅が世界の発展を必ずしも中断させないこと、さらにカトリック教の教義には納得しないもののその道徳的な美と宗教的であった子ども時代の追憶との和解を見出している。



ルナンも老境に入ると若き日に思いを馳せるようになる。1883年(60歳)、最も有名な本になった “Souvenirs d’enfance et de jeunesse” 「幼少期の思い出」 を発表。その年までに 「キリスト教の起源」 を書き終え、新らたに 全4巻となる 「イスラエルの歴史」 “Histoire du peuple d'Israël” を書き始める。最初の2巻は64歳と68歳で出版されるが、残りの2巻は亡くなった後になった。この本には誤りがないわけではないが、教義は別にして信仰心 (la piété) は必要であるという彼の思想が最も生き生きと語られている。晩年、レジオン・ドヌール勲章 (グラン・ドフィシエ Grand-Officier、大将校) を始め、幾多の名誉を手にした。最後は数日の病の後に亡くなり、モンマルトル墓地に葬られる。享年69。


彼は、科学と無私の精神 (le désintéressement) に魅せられていた。宗教との関係は複雑で、「科学の未来」 には「私は都会にいる時はミサに行く人をからかうが、田舎にいると逆に行かない人をからかう」と書いている。それから科学と神の関連については、以下のように考えていた。すなわち、科学は宇宙において知りうるものすべてについて明らかにするだろう。それに対して神は完全で全的存在といえるだろう。その意味で、神とは今ないもので、生成の過程にあるもの (il est en voie de se faire ; il est in fieri.) 。しかし、そこで終っては神学は不完全なものになるだろう。神は全的存在以上のもので、絶対的なものである。数学、形而上学、論理学と同様の理法のものであり、理想の場、善きもの、美なるもの、正しきものの生きた原理である。そのように見るとき、神は永遠、不変で、進歩もなく生成が完成することもない。

彼はダーウィンの自然選択説が発表されると直ちに賛意を表した。また、人種差別的な考えも表明しているようである。ただ、彼が書いていることを当時の時代背景に置き直して検討する必要があるだろう。その動きがなければ、フィンキールクラウトさん(Alain Finkielkraut, 1949- )が言うように、遠く離れた現在から過去を見て自らの道徳的優位に満足するだけに終るのであろう。