dimanche 22 février 2009

新しいカンギレム本


Philosophie et médecine. En hommage à Georges Canguilhem

direction : Anne Fagot-Largeault, Claude Debru, Michel Morange; édition, Hee-Jin Han
(décembre 2008)



(janvier 2009)



mercredi 11 février 2009

科学という営み、そして科学教育の見直し



科学という人間の行為について定義するのは、他の定義と同じように非常に難しい。しかし、こちらに来てから調べたところ、次のようにまとめられるのではないだろうか。少なくとも私自身はこの定義を見て大いに参考になった。それは以下の4つになる。

1) décrire des phénomènes (現象を記載する)
2) prédire la conséquence (結果を予言する)
3) maîtriser la connaissance (知識を習得する)
4) expliquer, substituer des raisons aux faits (説明する、事実を理由に置換する)

上の4つの営みの中で特に重要になると考えているのが 「説明する」 という行いであるが、フランス語の辞書を見てみると次のようになっている。

a) 起こっていることを明確に理解させる
b) 理由や原因を明らかにさせる

上の a) は科学の目的の1番目、「現象の記載」 と重なるところがある。さらに、b) は科学の基本的なところを言い表していると考えられる。説明する "expliquer" の語源を辿れば、ラテン語の explicare になり、「包みを解く」ことを意味していた。つまり、科学には今起こっていること、これまでに起こったことを包みを解くように記載し、その事実の背後にある原因を明らかにしようとする営みであることがわかる。その後に、その蓄積を習得し、その知識を用いて将来起こるであろうことを予言することが加わり、一つのまとまった考え方を提示することになる。

科学をどのように見るのかという問題は、科学を学ぼうとする時に最初に出て来なければならないものだろう。この認識ができていないと、その後の対応も間違った方向に行くことになる。例えば、前回触れたように科学を 「知ること」と定義した時には、科学的な知識を与えれば科学を教えたことになるが、果たしてそれでよいのだろうか。上の4つの目的の中の3番目だけを教えたことにしかならないからである。

また、4つの営みを見てみると、これらは自然科学の中でだけ重要なことではなく、人間の営みの中で必須のものであることが分かってくる。つまり、科学を学ぶことは人間にとって不可欠なものを学ぶことを意味していることが明らかになる。私が前回のエッセイで強調したかったことはまさにこの点にあり、そこが現状では欠如していると感じている。科学者についてそうなのだから他の領域では況やということになる。最近の日本社会の目を覆うような状況の根にはこの科学精神の欠如が大きいと考えているが、これについては同意していただけるのではないだろうか。この状況を根本的に変えることができるのは科学をしっかりと教育する以外にはないという結論になる。


そして最近届いた雑誌 Science (2009年1月23日号) の巻頭言で編集長のブルース・アルバーツ (Bruce Alberts) 氏が 「科学教育を再定義する (Redefining Science Education)」 と題してこの問題を論じているのを見て、我が意を得たので以下に紹介したい (原文はこちらから)。

主な論点は、上に述べたことと重なっている。科学教育において、科学的に考えるということを教えるのではなく、科学について語られ、事実を覚えるように教えられているが、これが多くの問題の根にあると看破している。大学における科学教育では、どのような領域であれ、「自然界の現象を知り、それを使い、そしてその科学的な説明を解釈する」 ことを目的にしていて、中でも 「知ること」に重点が置かれている。それはアメリカの専門家が推奨している科学の4つの目的の一つにしか過ぎない。他の目的は以下の3つである。

1) generate and evaluate scientific evidence and explanations (科学的証拠や説明をし、それを評価する)
2) understand the nature and development of scientific knowledge (科学的知識の性質と展開を理解する)
3) participate productively in scieintific practices and dicourse (科学的実践と発表に生産的に参加する)

科学の定義に 「科学的」という言葉が入っているのは循環的に見えて抵抗がないわけではないが、科学には単に知ること以外に重要なことがあるという点に著者の主張があることは理解できる。さらに、大学を出ても科学的な理解や説明とそうでないものとの区別がつかない人が多いことに驚いている。特に、証拠に基づいて立証されなければならないという科学において重視されるやり方が理解されず、科学とは科学者が導き出した一つの真実であるかのような捉え方しかされていない、あるいはそのようにしか教えられていない。知ること以外の3点についてこれから教育していかなければならない。そして、その評価を国家レベルのプロジェクトとして始めるように提案している。長い目で見ると、それがビジネスや産業に見られる問題解決にも役立つと考えている。

これを読んで、アメリカにおいても同様の問題が横たわっていることに驚いていたが、アメリカでさえこのような動きがあるのである。日本はそれ以上に力を入れなければ、その原因の大半が科学精神の欠如ではないかと思われる社会に広範にみられる問題の解決は程遠いだろう。最近学会や研究機関などが社会との接点を求めて啓蒙活動を行っているが、その時に考えなければならない重要な点もここにあるだろう。科学精神の浸透に長い時間を要することは想像に難くない。それ故、いくら早く始めても早過ぎることはないのである。




mardi 10 février 2009

科学がなくなることはあるか?

Michel Serres (né le 1er septembre 1930)


歯科の待合室にあった雑誌に目を通す。自らが経験したここ数十年の流れを見ても、尽きることのない人間の好奇心がその原動力になっている科学の営みに衰えを感じることはなく、むしろその行き過ぎに目を見張らなければならないと感じ始めている。そんな中、この雑誌の疑問はそれとは逆の懸念に思え、興味を持って読んでみた。

この質問に答えているのは、哲学者で歴史家のミシェル・セールさん。77歳。
クレアモン・フェランではミシェル・フーコーと一緒に教えていたこともあり、ヴァンセンヌの新大学にも参画する。1969年からパリ第一大学の科学史教授、 1984年からはスタンフォード大学で教える。1990年にはアカデミー・フランセーズ会員に。私もお世話になっているウィキペディアの賛同者でもある。

今日の質問に対する答えは、Oui。歴史的に見ると、ある時期、ある場所で科学の営みが途絶えたことがある。例えば、紀元前5世紀にアテネの学院は閉鎖され、ほとんどの知識人は中東に移って行った。ここでギリシャの科学は終わりを告げ、ギリシャは退廃へと向かう。しかし科学自体は歩みを止めず、サマルカンド、バクダッド、、へと受け継がれていく。紀元622年のヒジュラからはイスラムの科学がルネサンス前期まで輝きを増していく。そしてルネサンスを向かえ、ヨーロッパがその後を継ぎ科学を素晴らしいものへ発展させることになる。したがって、科学とは諸科学の歴史と言えるだろう。ある場所で始まり、それがいろいろな場所に受け継がれ、結局3000年に亘ってその歩みを止めなかった営みである。数学を例にとると、発祥の地ギリシャからバクダッドへ、バクダッドからサマルカンド、シラクサやアレキサンドリアへという具合である。天文学、力学、幾何学、代数学、錬金術・化学、物理学なども同様である。

逆に他の文化的活動は中断させられている。例えば、言語、政治形態、宗教など。宗教で言えば、宗教の原理主義は科学の敵にはならないだろう。それが重要だと言う人は、歴史を知らないからである。エジプトやギリシャの科学はすでに贋物を研究するためにできていた。さらに16-17世紀には人気のあった星占いに対しても戦っていた記録がある。科学はいつも偽科学と戦う要素を持っているようである。また、政治的な原理主義はすでにギリシャ時代からあり、6-7人の賢者が裁判に掛けられている。そこではシテのための仕事もしないで空ばかり見ているというのが罪状であった。「ソクラテスの弁明」を読み直してもらいたい。そこには自然を研究しているというだけで罪になっている話が出ている。

現代の科学にとって危険なのは、むしろ特許主義や企業による秘密主義だろう。科学が公開性を重んじて発展してきたことに逆行するように見えるからだ。現代の経済至上主義が科学をその方向に向かわせていて、発展のためのブレーキになっている。

科学には、常に前に進むことを止めない他には例を見ないダイナミズムがある。しかもその運動はしばしば指数関数的に増大し、膨大な成果を上げている。それは経済や宗教、文学、、、を超えるものである。

(2008年 05月 28日)




samedi 7 février 2009

複雑系入門

昨日のお話は高級過ぎたようなので、基本的なお話から入っていくことにした。




Introduction to Complexity Science


Seth Bullock

vendredi 6 février 2009

複雑系からみた生物

生物学に法則があるのか。物理学や化学のような時間的、空間的制約のない、普遍的な法則があるのか。遺伝学にメンデルの法則と言われているものがあるが、それは物理学における法則と同じように論じられるだろうか。この法則には多くの制限がかかっていて、法則とは言えないという考え方も出されている。今の段階では、生物学には物理学的な意味での法則はないのではないかと考えている。この問題についてサンタフェ研究所のジェフリー・ウエストという方が複雑系の視点から論じているビデオに行き当たった。


Geoff West (2007)
"Scaling Laws In Biology And Other Complex Systems"


最後のところで、生物の場合にはサイズが大きくなれば心臓の鼓動などは遅くなるが、社会的機構の場合(都市など)には大きくなると生活のペースは速くなる、というようなことが出ていた。これから先に向けては、あまり参考になるところはなかったようである。本当にぼんやりとではあるが、複雑系の研究が浮かび上がってきた。





jeudi 5 février 2009

モンタニエ氏語る Luc Montagnier parle de la médecine d'aujourd'hui


2008年 04月 19日


モンタニエ氏のインタビュー記事 (Enjeux-les-Echos) から。以下のタイトルで、医学、科学の現状を語っているので聞いてみたい。

" La médecine du XXe siècle a épuisé ses ressources"
「20世紀の医学はその蓄えを使い果たした」

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われわれの平均寿命は、まだ毎年3ヶ月の伸びを見せている。しかし、ガン、白血病、心血管系、神経系の原因不明の病に侵されている。老化にしても同様である。今日、長生きする人は増えているが、骨や関節の問題、ガン、アルツハイマー病、パーキンソン病などで老後が必ずしも豊かなものにならない場合がある。 入院期間が延び、効果のない高価な治療を続けることになり、健康保険も赤字に陥っている。

なぜ慢性の病気をなくすことができないのか。一つには、その原因が単一ではなく複数絡み合っているからだろう。それから一つのもの、例えば酸化ストレスと呼ばれる現象はDNAに変異を起こし、脂質や蛋白を変化させ、われわれの免疫系を弱めるという複数の効果を持つ。またある種の病原体は免疫系と折り合いをつけ、われわれの中の留まり続けるということも起こっている。

私は、エイズは老化が急速に起こるようなもので、老化はエイズがゆっくり進行するようなものであると言っている。老化に伴い免疫系をコントロールしている胸腺はほとんどなくなるが、エイズの場合はそれが急速に起こる。胸腺の退縮は生物学的にプログラムされている。それは食料が限られていた太古に老人が退場することが種の保存に必須だったという厳しい自然選択の結果である。しかし、その後の文明、文化の発達に伴い、今やそれは存在理由がなくなっている。

医学もその自然選択に抗する役割を果たしてきた。それは本来早く亡くなるべき人たちを救っているからである。そのことにより、遺伝的欠陥を後世に引き継ぐことになるだろう。これは事実で、これから遺伝病が増えるということを考慮に入れて、われわれはこの新たな状況に対処しなければならない。

したがって、遺伝子治療に関しては賛成である。ただし、自然がわれわれの体に生殖細胞と体細胞を分けて与えていることの意味を考えなければならないだろう。体細胞の遺伝子を操作することには問題を感じないが、われわれの遺伝子構成を変えることになるような操作には相当の慎重さが求められるだろう。幹細胞ですべてが解決するという立場にも私は慎重である。

私は常に理性的であり偏見も持たない。植物エキスを治療に使ったわれわれの祖先の智慧をまだ科学的に検討できていないのだ。分子生物学は多くの成果を上げたが、ほぼ限界に来ていて、すべてを説明することにはなっていない。ホメオパシーはまだ謎のままである。

パスツールは微生物には何の意味もなく、その場がすべてだと言っている。われわれの体は常に細菌と接触している。免疫系が働いていれば、微生物の増殖は抑えることができる。ある種の植物エキスは酸化ストレスへの効果で免疫系を活性化する。エイズウイルスに感染している人の5%は発症しない。細菌やウイルスが ガンに関与しているとすれば、例えば、弱い化学療法と抗生物質による治療の併用などのアプローチを取ることができるだろう。免疫系の賦活化による治療が発展することを願っている。人間は120歳まで生きるようにプログラムされているのだから。

酸化ストレスが老化などに関与している。植物に由来する薬剤の有効性を試すのがこれからの目的である。祖先の経験を拒否するのではなく、現代医学と結びつける試みが大切だろう。

フランスの研究は、第二次大戦と占領でイギリスやアメリカの科学と隔絶してしまった。ドゴール大統領はこのことに気づき、若い研究者をアメリカやイギリスに送り出した。それは、特に分子生物学において重要な役割を果たした。しかしそれ以来、その方法と概念を用いることに満足してしまった。エイズウイルスの発見は、すでに知られていた手法を単に用いた基礎研究によるものであった。その後多くの優秀な研究者が研究を進めているが、大きな技術革新を生み出すには至っていない。国による研究システムの整備が全くされていない。それからソ連崩壊後に優秀な研究者を呼び寄せることに失敗した。彼らはアメリカに流れてしまった。

さらに研究費も不十分である。日本は国内総生産の3%を研究に当てている。それから中国やインドも続いている。このままの状態でいると、世界におけるわれわれの占める位置は縮小していくだろう。この状況を抜け出すためには、突破口となる技術革新と概念の転換が必須になるだろう。フランスの経済的な発展と国民の安寧は偏にこの点にかかっている。




mercredi 4 février 2009

ルドヴィク・フレック Ludwik Fleck


Ludwik Fleck 
(31 juillet 1896 - 5 juillet 1961)

2008年 05月 18日

トマス・クーン(Thomas Kuhn)がフェローシップをもらい、自由に時間を使っていた時に発見した人である。そのことを知ったのはこちらに来てまもなくのある朝、大学に向かうメトロで彼の "La structure des révolutions scientifiques" を読んでいる時であった。このフェローの時間がなければ決して出会わなかったであろうと書いてあるのを読んだ時、これからそういう出会いや発見が自分にも訪れないだろうかという期待感が訪れていた。それから後期のクールで彼の名前に改めて接し、彼がどのような考えの持ち主だったのかの概略を知ることになる。最近、彼の著書 "Gènese et développement d'un fait scientifique" が届いたので、このヴァカンスにその全貌に触れたいと思っている。

  « style de pensée » (Denkstil)
  « collectif de pensée » (Denkkollektiv)




lundi 2 février 2009

真の自然選択か否か Selection "for" vs. selection "of"


Elliott Sober "The Nature of Selection" (1984, 1993), p. 99


ある形質が選択される時、それが生存や繁殖に適しているからなのか、偶然にそうなったのかを区別することが重要になる。科学哲学の領域でよく出される例に、心臓の機能として血液を送り出すことなのか、雑音を出すことなのかというのがある。心臓が選択されたのは前者の理由によるのか、後者のためなのかという問題である。このことを理解するためには、エリオット・ソーバーがその著書 "The Nature of Selection" の中で説明している例が非常にわかりやすい。この説明のために彼は "selection for properties" と "selection of objects" という概念を使い、上図にあるおもちゃを持ち出して解説している。それによると以下のようになる。

ここではサイズの異なった玉が下に向かうのを選択とする。途中にある次第に小さくなる穴を抜けていくためには、玉のサイズが小さい方が下に行くのには有利である。ここで球には色が付いていて、小さいものほど色が濃くなっている。すべての球を混ぜた後の結果が図になっているが、サイズの小さい、色の濃い玉が一番下まで来ている。ここで選択されたのは色が黒いからなのか、サイズが小さいからなのか。理由は明らかに色ではなくサイズの差にある。ソーバーの言う selection for properties で選択の対象になったのはサイズであり、selection of objects で選択されたのは偶然にも色の濃いものだったということになる。このように選択の対象が真に生存や繁殖に有利だったためなのか、他の選択の結果見られたものなのかの差を印象的に捉えることができる。





dimanche 1 février 2009

デイヴィッド・アッテンボロー、ダーウィンを語る

今なお矍鑠としている御歳82のデイヴィッド・アッテンボロー (David Attenborough; born 8 May 1926 in London) が、ダーウィンを熱く語っている。

David Attenborough on Darwin, evolution and the Bible (Nature video)