mercredi 27 novembre 2013

コロンビア大学での医学哲学会議から (4) MUPS とは


先日の会議でトロント大学の院生 Michael Cournoyea さんが取り上げていた MUPS についてメモしておきたい


医学的な原因がわからず、診断がつかない身体的な症状のこと

その存在は知っていたが、このような名前で呼ばれていることは初めて知った

臨床の現場では意外に多く、報告により異なるが、25-50%から30-70%に及ぶという

診断がつかないため、患者さんは医者巡りをすることになる

気のせいだとして片づけられることもある 

しかし、上のスライドにあるように、いろいろなことが考えられている







アラン・バディウさんによる三つの 「哲学的状況」、あるいは哲学の使命


先日のニューヨークで入った書店で哲学書を眺めている時、この小冊子が目に入った

アラン・バディウ(Alain Badiou)、スラヴォイ・ジジェク(Slavoj Žižek)著

Philosophy in the Present (Polity; 2009)

バディウさんの言葉はよく入ってくるので、これまで何度も取り上げている

英語に訳された本が書架にたくさん並べられていることに驚いた

彼の主著 『存在と出来事』 (1988)が出たのは51歳の時で、英訳はその17年後の68歳の時である

バーンズ・アンド・ノーブルにも置かれていた

バディウさんは年齢とともに熟成を見せる衰えを知らない哲学者という印象が強い

哲学が時間のかかる営みであることを思い起こさせてくれる

もちろん、パスカルウィトゲンシュタインのような天才は別なのだろうが、、

この本は二人の哲学者の講演と対論を基にしたものなので、読みやすい

タイトルにあるように、「現在」に如何に哲学が絡むことができるのかについて省察している

以下に、バディウさんの言葉を


まず、哲学について間違った考えが蔓延っている

テレビでコメントしている哲学者のように、哲学者は社会のどんな問題についても語ることができると思われている

真の哲学者とは、自分が重要だと思う問題を決め、すべての人にとって重要な問いを出す人である

 そもそも哲学とは、新しい問題を創り出すことである

哲学者が関わりを持つのは、新しい問題を創り出さなければならないような兆候が見られた時である

世界ではいろいろなことが起こっているが、すべてがそのような時ではない

哲学が必要になるのは、「哲学的状況」 と呼ぶ状況がある時である

その状況を3つの例で説明したい


一つは、プラトンの 『ゴルギアス』 に描かれたソクラテスとカリクレスとの間の全く相容れない関係である

カリクレスにとっての幸福な人間とは、奸計と暴力で人民の上にある者

一方、ソクラテスにとっての真の人間、すなわち幸せな人間は、哲学的な意味における正義の人である

両者の間には、正義が暴力なのか、思想なのかの違いがあり、その間に橋は架けられない

対話は不可能で、衝突しかあり得ない

つまり、勝者と敗者しかないのである

この状況における哲学の役割とは何か

それは、どちらかを選ばなければならないことを明らかにすることである

哲学的状況とは、存在に関する選択が明らかになる時である


第二の例は、シラクサ出身の数学の天才アルキメデスの死である

第二次ポエニ戦争の時、シラクサはローマの将軍マルケッルスにより占領される

アルキメデスはレジスタンスに加わり、兵器を開発したりしていた

占領下のある日、幾何学の研究を継続していたアルキメデスは砂に図を描き、考えていた

その時、兵士が到着し、名を馳せていた人物に興味を持ったのか、将軍が会いたいと言っている旨を彼に伝えた

 しかし、彼は身動き一つせず、再度の要請にも答えず、計算を続ける

そこで頭に血が上った兵士は、彼を殺してしまったのである

これが哲学的状況になるのは、国家権力と創造的思考との間に相容れない関係があるからである

暴力により創造としての真理が簡単に消されてしまうからである

同様の例として、作曲家アントン・ヴェーベルンの死がある

彼は第二次大戦直後、アメリカの占領軍兵士の誤射により殺害された

事故ではあったが、哲学的状況に変わりはない

ここにも権力と真理との間に超えることのできない溝がある

哲学のミッションは、その隔たりについて省察し、そこに光を当てることである


そして、最後の例は、溝口健二の驚くべき映画 『近松物語』 である

その理由は、存在をひっくり返すような愛と社会の規範との間に相容れないものがあるからである

例外をどう考えるのか、日常の継続性と社会の保守性に如何に抗して考えるのかという問題である

哲学が大学の科目としてではなく、人生に何らかの意味を持つものであるために考えなければならない三つのこと

それが選択と隔たりと例外になる

そこから、この人生を意味あるものにするためにやらなければならないことが現れる、

出来事を受け入れ、権力から距離を取り、自分の決定に断固従うこと

そのことを理解すること、そしてそのことによってのみ、哲学が真に人生を変えることに寄与できるのである







dimanche 24 novembre 2013

アメリカの医学哲学会議で、英語世界におけるフランスを考える


昨夜ニューアークを発ち、今朝オルリーに着いた

ニューヨークでは何かに追われるような緊張の中、常に動き、前に進むことを強いられる

声が大きく、会話のテンポは速く、決然としていて、即断が求められるように感じる

こちらにはそれがない

そのためだろうか、少し引いてゆっくり思いを巡らすことができるようだ


医学哲学においても、テーマとその扱い方がアメリカとフランスでは明らかに違う

実証的で科学的に対象に迫るのがアメリカのやり方で、主観の関与をなくし対象を突き放してしまう

そのため、科学の発表と変わらず、冗談も科学者のものと変わらない

リタ・シャロンさんの "narrative medicine" などは、この中にあって異質に見える

フランスの場合には、実証的な研究もあるが、抽象的な思索に入る場合が稀ではない

観念論や形而上学的思索が許されている

これがアメリカでは興味の対象から外れ、フランスではよく知られている哲学者は読まれていないようだ


アメリカにいた時の感受性を思い出しながら形而上学の含みのある発表を聴いてみた

そうすると、アングロ・サクソンの反応がよくわかるのだ

フランスの中に閉じ籠っているように感じさせるのは、フランスの哲学にとっても得策ではないだろう

アングロ・サクソンの枠組みの中で、如何にフランスの特徴を発信することができるのか

この発想がなければ、例外的な研究、マージナルな研究ということになりかねない

フランス語がわからなければ、その思想に触れることができないからだ

それほど英語的発想には圧倒的な力があり、それゆえフランス的な思考が重要になるはずである

発想を大きく変える必要があると感じた


6月にパリで同様の医学哲学の会議があった

その時はベースがヨーロッパだったので、このような切迫感はなかった

今回はほとんどがアングロ・サクソン的背景の中で行われた

そのためだと思うが、両者の落差が想像以上に大きいことを改めて感じる旅となった




コロンビア大学での医学哲学会議から (3)

Prof. Nancy Cartwright (UCSD & Durham Univ.)


会議三日目はコロンビア大学の疫学部門が主催の会であった

テーマは、疫学における説明と予測

医学だけではなく、行動科学、経済学、政治学からの発表があった

一つの話題は、科学で極めて重要になる因果関係とか因果律と言われる概念

大きく3つの考え方が取り上げられていた

第一は、デイヴィッド・ヒューム(1711-1776)の規則性に基づく説である

Aという出来事の後に例外なくBという出来事が観察された時に限り、AがBの原因になっているとする

第二は、ナンシー・カートライト(1944-) さんなどが唱える確率に基づく説

Aという出来事がBの確率を上昇させる場合に限り、AがBの原因になっているとする

第三は、デイヴィド・ルイス(1941-2001)のカウンターファクチュアル理論がある

これは、もしAが起こらなかった場合、Bは起こらないはずだと言えるかどうかを基にしている


19世紀の科学における因果律は、完全な規則性に基づく説を採用していた

疫学の場合には、不完全な規則性に依存することになる

因果関係を明らかにするのは、説明するためであり、予測するためでもある

説明は理解に不可欠であり、予測は有効な行動に不可欠である

疫学は法則を求めるのではなく、因果関係を明らかにしようとする

カートライトさんは、黄金の方法とされるランダム化比較試験(RCT)の有用性を検討していた

まず、AがBの原因である証拠として7つのカテゴリがあることを示す

その上で、個別研究の集合を解析する場合と比較していた

その結果、RCTが明らかにする証拠は1つのカテゴリなのに対して、後者の場合には5つに及ぶことを明らかにした

原理的には、個別研究の集合解析はRCTに何ら劣ることはないということになる


考えるべきことの一つは、疫学の目的は世界を理解することなのか、世界を変えることなのかということ

両者は二律背反ではないが、二つの違いはその後の方向性を変えることになる

世界を変える場合には、具体的な政策決定が絡み、各政策の有効性の検討が必要になるからである

世界を理解する場合には、原因を見出し説明することに重点が置かれ、予測へと繋がる

相関と因果性は区別しなければならないが、相関が役に立たないわけではない

因果性が確立されていない段階で、危険を避ける行動をとることができるからである

疫学は説明ではなく、行動の決定に寄与する学問であるべきだという考えが出されているようだ




コロンビア大学での医学哲学会議から (2)

Prof. Ross Upshur (Univ. of Toronto, Canada)


二日目の話題として、ロス・アップシャー(トロント大学)博士の基調講演を取り上げてみたい

プライマリ・ケアの忙しい現場で仕事をする中で考えてこられた生命倫理の専門家でもある

タイトルは、Anamnesis, or the Question of the Question 

病歴を取る時に行う問い掛けに関する問い掛けであった


病歴を取るとは、患者さんの過去について思いを馳せること(リフレクション)である

それをさらに進めると、医学について考える(リフレクト)することにも繋がる

医学は何のためにあるのか

証拠(エビデンス)と言うが、それはどれだけ有効なのか

患者さんの病歴をどのように扱うのか

医学における理性的思考とは、どういうことを言うのか、などなど

医学においては、理性的で厳密な思考から倫理に叶った医療へと向かわなければならない

つまり、すべての医療関係者は応用哲学者(applied philosopher)であることが求められる


近年、人口における高齢者が増加の一途を辿っている

年齢が増すにつれて、複数の慢性疾患を持つ人も増える傾向がある

カナダでは、80歳以上の10人に一人は5つ以上の病気を持つという

医療関係者は、必然的に高齢者を対象にしなければならない状況が続くことになる

アップシャーさんは、老人が嫌いな人は医療に入るべきではないと強調していた

また、医療が病気にとって良いものなのか、患者さんに対して良いものなのかを考えること

昨日も問題になっていた科学と価値の対立である


そしてタイトルに戻ると、70%~90%の診断は病歴によって決まる

それほど重要な病歴にも拘らず、哲学の対象になっていないという

病歴を取る時に重要になるのは、どのように問いを繋げ、進めていくのかということ

さらに言えば、どのような問いを出すのかが医療の質を決めることになる

 ドイツの哲学者ガダマー(1900-2002)は、問いを出すことについてこう言っているという

「問いを出すとは、可能性の扉を開け、開いたままにしておくことである

疑問を出すことなしに、われわれは経験することができない

問い掛けることにより、問題にしていることをあるパースペクティヴのなかに入れるのである

問いの技術とは、問いを続ける技術であり、それは取りも直さず思考の技術なのである」


問いの重要性を考える時間となった



コロンビア大学での医学哲学会議から (1)

Prof. Jeremy Simon (Columbia Univ.)

11月20日~23日、マンハッタンのコロンビア大学で医学哲学の会議があった

これから何回かに分けて、印象に残ったことを書き出してみたい

会はオーガナイザーのジェレミー・サイモン博士の挨拶で始まった

医学哲学を専門にしているわけではないが、不思議なものである

この6月に出席を余儀なくされて以来、今年3回目の国際会議出席になる

この領域の歴史はまだ浅いようだ

本格的になってきたのは、ここ20年から10年くらいのものではないだろうか

未だに医学哲学なる領域が成立するのか議論されている状況である


日本では大阪大学の澤瀉久敬博士が「医学概論」なるものを始めた

戦中から戦後にかけてのことである

詳細はわからないが、この流れは今や途絶えているように見える

医学にとって直接的な意義が認められないとの判断があったのだろうか

加速度的に進歩しているように見える医学の中にいると、事実に追われるのはよくわかる

考える余裕がなくなるのだ

指導する側にその発想が乏しいと、このような流れは続かない

そうであるとすれば、残念なことである

Prof. Kirstin Borgerson (Dalhousie Univ., Canada )


午前中の話題からいくつか

2002年の段階で、医学系の雑誌は4,600を超えている

2005年の臨床研究の対象者は200万人に及ぶという

2011年の臨床研究数は53,000件に迫る勢いである

膨大な医学研究が発表されているが、その内容には多くの問題がある

研究のデザイン、不適当な対照群、少な過ぎる対象数、間違った解析法に誤った解釈などなど

その上、それらのデータの総体が統合され、再解釈されることなく放置されている

さらに、対象への不利益が行われることもある

例えば、よい薬ができてもそれまでのものを処方し続ける

逆に副作用が明らかになってもそのまま使い続けさせる

臨床試験、さらに言えば医学の臨床を取り巻く問題として、科学と価値の対立がある

科学的には理にかなっているが、社会的に不利益を及ぼす計画を実行するのかという問題である

発表者のボルガーソンさんは後者の立場に立ちたいと話していた

しかし、考え方は研究者により変わってくる可能性がある


それから、臨床研究の対象の“lumping”と“splitting” 問題が取り上げられていた

対象をどのように分けたり纏めたりするのかという問題で、やり方によって結果が変わってくる

ヒスパニックを対象とした時に現れる問題を分析している発表があった

ヒスパニック対ノン・ヒスパニックという分け方もあれば、ノン・ヒスパニック・ホワイトというのもある

ヒスパニック対ヨーロッパ系アメリカ人、あるいはアメリカ白人なども可能だ

さらに言えば、ヒスパニックと言っても文化的、地理的、遺伝的などの要因で変わってくる

どのグループを対照にするかによって、ヒスパニックの人種的特徴が変わってくる

一つの名の下に纏める時、その中の不均一性を見過ごす危険性がある

同様のことは、性差や年齢の違いに焦点を合わせた研究についても当て嵌まる

このような研究には政治的な意図が隠されている可能性があることを、常に考えておく必要がありそうだ


その他、プラシーボを用いた試験の絶対性(Placebo Orthodoxy)を疑問視する発表もあった

さらに、短期の臨床試験で一つの薬がプラシーボより有効であることがわかった時、どうするのか

有効性と安全性を確実にするためには、長期間試験を続けなければならない

しかし、有効な薬がありながらプラシーボを使い続けるのは倫理的に問題ではないのか

これも科学と価値の対立である

Prof. Rita Charon (Columbia Univ.)、A graduate student of Prof. Charon、
Prof. Sean Valles (Michigan State Univ.)


昼食は近くのレストランで

ショーン・ヴァレスさんは午前中 “clumping”と “splitting”の話をされた方

活力に溢れている

リタ・シャロンさんは医者であるが、文学研究を終えた後に “narrative medicine” という新しい領域を提唱されている

午後最初の基調講演の演者であった

午前中の発表を聴きながら、わたしの横で一人声を出して反応していたのがリタさんであった

昼食時もお隣りで、貴重なお話を伺うことができた

一見すると最初の領域から離れているように見えるが、実は以前よりも近くに感じるという逆説

彼女の場合には、文学での経験を医学の領域に還元されている

ご自身の経歴と重なるためか、わたしの歩みにも理解を示していただいた

これから益々混迷を深める時代に入る

このような視点を導入することが豊かなものを齎すという点で意見の一致を見た

彼女の考えの一端は、以下のビデオで知ることができる



基調講演での言葉を自分なりに変容させてみたい

芸術は芸術家のためだけのものではない

患者さんをケアすることも芸術的行為である

芸術的行為にしなければならないということでもある

そこには人間の創造性が生まれているはずであり、生まれていなければならないからだ

考えることは身体活動である

体を使うこと、それは創造性の発露に繋がる

身体性を取り戻すこと

人間にとって、創造性という一つの価値は極めて重要になる

講演後に質問していた方は、感極まったのか泣きながらであった


Dr. Hanna van Loo (Univ of Groningen, The Netherlands)


午後のセッションからいくつか

科学と価値の対立を如何に乗り越えるか

元を辿れば、一つのものがあるだけのはず

この世界を二つに分けて見ることを極力抑えること

それは生物学よりさらに複雑な要素が絡み合う医学で可能なのか

知識や説得に重点を置く今のやり方から 「何をやるのかを選択する」 ことへの移行が必要ではないか

そのためには知識と価値の両方を取り込まなければならないからだ

関係者の意識(habits of thought)の変革は可能だろうか


それから、ハンチントン病の研究についての解析もあった

1983年のその遺伝子が第4染色体にあることが明らかになった

その後、塩基3個(CAG)の反復が認められること、その数と症状が相関することが発表される

しかし、遺伝子変化と症状は必ずしも相関しないことが明らかになり、環境因子の関与が示唆される

このような遺伝子決定論と環境因子の関与という対立は、いろいろな局面で顕在化している


他に、健康と病気の概念、精神疾患の共存、根拠に基づいた医療(evidence-based medicine)などが議論されていた


Prof. Rachel Ankeny (Univ of Adelaide, Australia)


今回も人間がしっかり生きてその場にいることを感じながらの時間となっている

自らの主張を決然と発表し、活発な討論が進行する中にいるからだろう

その刺激はヨーロッパの会よりさらに強く、全身が活性化されているのがわかる

昼食時そのことを指摘すると、それが当たり前の彼らは驚いていた

科学の遂行に必要なものは、技術の前に人間の自律かもしれない

さらに言えば、それは民主的な社会にも不可欠の要素になるはずである






dimanche 10 novembre 2013

mercredi 6 novembre 2013

記念切手になったアレクサンドル・イェルサン博士



先日、切手を買うためにポストに寄った

綺麗な切手もありますがどうしますか、と聞かれたので、お願いしますと答える

出す前に、係の方はそれほど綺麗ではないのですが、と言って手渡してくれたものを見て、驚き、声を上げた

ペスト菌を発見したアレクサンドル・イェルサン(Alexandre Yersin, 1863-1943)博士の顔がそこにあったからだ

おそらく、ほとんどのフランス人は知らないだろう

もちろん、係の方も知らなかった

実は、スイス出身のこのフランス人微生物学者のことを最近のエッセイで取り上げたところだった

「パリから見えるこの世界」 第18回
 医学のあゆみ (2013.7.13) 246 (2): 201-205, 2013 
「ペスト菌発見者アレクサンドル・イェルサンという人生と北里柴三郎」

 どのような人生を歩んだ人間だったのか、お読みいただければ幸いである


調べてみると、この切手は今年の9月23日に出たもの

 同時に、晩年のイェルサン博士が描かれた0,63€の切手も発行されているようだ

上の写真は若い時に研究をしていたパスツール研究所の様子が背景にある

一方、こちらの背景は後半生を過ごしたベトナムが景色になっている

二つの切手が彼の二つの人生を描いている


孔子はこの人生には二つの生があると言ったという

 そして、二つ目の生はこの人生は一つだけであることを悟った時に始まると付け加えた

イェルサン博士はまさに二つ目の生を遠く離れたベトナムで過ごすことになった

博士は一体何を悟ったのだろうか

そんな興味を改めて掻き立てる嬉しい新切手であった