dimanche 5 mai 2013

大陸哲学と分析哲学、わたしの場合


こちらに来る前、フランスのものを読み、その思考に違和感を覚えたことについては、これまで何度も触れている。ひょっとすると、そのことからすべてが始まっていると言っても過言ではないのかもしれない。違和感を増強した背後には、アメリカで染み付いたアングロ・サクソン的なものの見方があったこともほぼ間違いないだろう。この違いをどう表現すればよいのだろうか。これまでに書いてきたものの中に、いろいろな表現で出てきているはずである。

一般に、フランスやドイツの哲学を大陸哲学、アングロ・サクソンの哲学を分析哲学というが、それは地理的な差ではなく、それぞれの伝統的なやり方についての名称になっている。ここで、両者の違いをアメリカで大陸哲学をやっているバベット・バビッチ(Babette Babich, 1956-)さんの近著La Fin de la pensée ? Philosophie analytique contre philosophie continentale 2012)を頼りに簡単に纏めてみたい。

哲学とは考えること、思想、思考に関するという点では両者に差はない。大きく言ってしまうと、分析哲学は明晰さ、論理、答え、解決を求めるのに対して、大陸哲学は答えではなく問いの意味を考える傾向がある。先日取り上げたネガティブ・ケイパビリティとも関係しそうな 「曖昧さに耐える能力」 が求められるのである。大陸哲学が多元論的で、分析哲学を排除することはない寛容さがあるのに対して、分析哲学は大陸哲学を拒否する。両者の間には単なるスタイルや気質の違いだけではなく、対立の可能性が内在している。 

もう少し詳しく見ると、大陸哲学は哲学的問い掛けを問い掛けとして開いた状態にあることを認める。答えを提供することよりは、厳密で批判的な問い掛けを提供することに興味を持っている。問いを出すに値するのはなぜなのかについて省察しようとする。哲学の誕生以来ある問題の全体を再検討することを目指すもので、現実世界を感受し、生きることに関係する哲学を生み出す素地がある。自らの正当性の根拠を科学に求めないため、科学についての省察が可能になる。

対する分析哲学は、対象を分解し、非現実的で間違った問題を排除、否定し、最終的に分析できない問題がないようにする。ある意味では縮小に向かう概念とも言える。そのことにより、「こと」 を前に進める発展・進歩の思想も含まれてくる。この哲学がその正当性を科学に求め、科学とともにあること、科学だけが問題を解決するとする科学主義の傾向があることを考えると、よく理解できる。永遠の問題など言っているのは、明晰さの欠如であり、科学の欠如、知性の限界であると考えるのである。

分析哲学が優位にある世界でのよい哲学とは、明快に議論されているもので、必然的に理解しやすいものになる。明晰さと平明さは今日の大学においても、公共においても重要になっている。世に出回っているものを見れば、このことがよくわかる。対する悪い哲学は、読み辛く、理解しにくいもので単に避けられるだけではなく、批判の対象にさえなる。    

バビッチさんによれば、今では大陸哲学の要素が圧縮されるような形で一つの哲学として扱われているという。アメリカの大学で大陸哲学をやることは、社会的に認知されないことをやるような雰囲気があり、大陸哲学者は賤しめられていると見ている。しかし同時に、分析哲学はその資源を使い果たしたのか、大陸哲学の魅力のためなのか、大陸哲学のテーマを取り入れる傾向も見られるという。その扱い方には不満があるようだが、、。このような傾向はフランスでも表れていると見ているが、学生の大陸哲学に対する興味は衰えていないという。
翻って自らの立場を考えると、こうなりそうだ。もともとフランスに渡ってきたのは、まさにここで言う大陸哲学の訳のわからなさに惹かれてのことであった。科学の中に長く身を置く中で、何かが欠けていると感じたもの。それこそ科学では解決できない問いを一人の人間として問うことだったような気がしている。そのため、フランスでも科学的哲学に浸食されている現状には残念な気がしている。ただ、わたしが形而上学に強く惹かれたように、これまでの哲学に飽き足らなくなり、科学にその足掛かりを求めるということも理解はできるのである。今の考えは、科学から出発して形而上学へと飛び、その上で両者の間を行き来できればよいのだが、ということになるだろうか。



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