dimanche 31 mai 2009

ガレノスの一生、そして 「私はなぜ書くのか」




Claude Galien

(129 ou 131, Pergame - 201 ou 216)


紀元2世紀から1000年以上に渡って西洋医学に影響を及ぼし続けたガレノスとはどんな一生を送ったのだろうか。年表で見てみたい。

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129年: ペルガモンに生まれる
146年(17歳): 医学の勉強を始める
151-156年(22‐27歳): 最初のアレキサンドリア滞在
157-161年(28-32歳): ペルガモンの剣闘士の医者になる
161-162年(32-33歳): 2回目のアレキサンドリア滞在
162-166年(33-37歳): 最初のローマ滞在
166年(37歳): ペルガモンに戻る
168年(39歳): 皇帝からアクイレイアに召喚される
169年(40歳): 2度目のローマ滞在始まる
172-174年(43-45歳): 「治療法」の最初の6巻を執筆
193-194年(54-55歳): 「治療法」の最後の8巻を執筆
216-217年?(87-88歳?): おそらくカラカラ帝の治世が終わる1年前、ローマで亡くなる

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Méthode de Traitement (Gallimard 2009)




穏やかそうだが好奇と遊び心を宿したその目が印象的である。彼は「私はなぜ書くのか」(" Pourquoi j'écris ")についてこんなことを言っている。

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親愛なるユーゲニアノス様

かなり前にヒエロン様のために私の「治療法」の執筆に取り掛かりました。しかし、この方が突然旅立たれ少ししてから亡くなったことを知らされましたので、この本の執筆を諦めました。あなたもよくご存知のように、この作品も他の作品も有名になりたいがために書いたことはなく、友人を喜ばせ、自分自身を磨くために書いてきました。それは現在にとって有用なだけではなく、プラトンの言葉を借りれば「忘れっぽい老年」を見越しての記憶の倉庫の役割を果たすものです。

実際のところ、大衆の賞賛はしばしば生きている者にとって役に立つ代物でしょうが、死者には何の役にも立ちませんし、一部の生きている者にとっても同様です。哲学を拠り所とした静かな生活を選び、その身を養うだけの蓄えを持っているすべての人にとって、有名人になることは非常に大きな障害になるでしょう。それは度を超えて最も美しいものを遠ざけることになるからです。あなたもよくご存知のように、わたしも厄介な人たちにしばしば悩まされてきました。時として本を読むこともできないくらい長期に亘り休みなく。

私は若い時からなぜか大衆受けする有名人を酷く軽蔑してきました。そこには神からの霊感があるのか、あるいは狂気のようなものなのか。何とでも呼んでください。同時に、私には真理と科学への渇望がありました。なぜなら人間はそれ以上に美しく神聖なものを獲得できないと信じていたからです。私の名前をどの著作にも付けなかったのはそのためです。ご存知のように、あなたがよくされるような公衆の面前での極端な賞賛をしないように、そして私の著作に名前を付けないようにお願いしてきました。これらすべての理由から、私の「治療法」の執筆を断念しました。

私の短い論文に私の発見の重要な点を書き留めましたが、まだ完全な形にはなっておりません。しかし、あなたやわれわれの多くの仲間が、私が患者に対して実践していたことを著作の中に見出したいと望んでいるので、まだ不足しているところを現在の論文に加えようと思います。

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Galien de Pergame. Souvenirs d'un médecin



jeudi 28 mai 2009

セルゲイ・メタルニコフという科学者 Serge Metalnikoff


Serge Metalnikoff (1870-1946)



イリヤ・メチニコフ(Ilya Metchnikov, 1845-1916; prix Nobel 1908)はロシア出身の科学者で、後年パリにあるパスツール研究所に迎えられ、終世そこで研究生活を送った。昨年、彼がノーベル賞を受賞して100年になる記念のシンポジウムがパスツール研究所で開かれたことは昨年触れた(「メチニコフの遺産・2008年」)。ところで、彼のロシア時代にパブロフの犬で有名なイワン・パブロフ(Ivan Pavlov, 1849-1936; prix Nobel 1904)の師に当たるイワン・セッチェノフ(Ivan Setchenoff)と関係があったことを知る。この方はリベラルな考えの持ち主で、コスモポリタンにして唯物論者であったという。

彼の影響でメチニコフは免疫系が外界との適応に重要であると考えており、抗原投与後の貪食細胞の増大を一種の条件反射として見ていた節がある。この研究テーマを引き継いだのが、同じくロシア出身のセルゲイ・メタルニコフ(Serge Metalnikoff, 1870-1946)である。

彼はサンクトペテルブルク大学で動物学を修めた後、1897-1899年にはハイデルベルグとナポリで研究する。それから1年間をパスツール研究所のメチニコフの研究室で過ごし、ロシアに戻って生物学研究所を率いる。1919年にはパリに亡命し、パスツール研究所のベスレッカ (Alexandre Besredka) の研究室に加わり、亡くなるまで研究を続けた。

彼は、動物を免疫することはその神経系を免疫することであると考えていた。その仮説を証明するための無脊椎動物を用いた実験では、神経節の破壊により抗体産生が消失することを示している。また、抗原投与後に種々の刺激(例えば、耳を温める、脇腹を引っ掻くなど)を加えるなどして条件反射と抗体産生の関係も解析し、ばらつきがあったがそれらしい結果も得られたという。ロシアではネオ・ラマルク主義(獲得形質の遺伝)の傾向が留まることを知らず、抗体産生や貪食はパブロフ流の反射機構に依存するという考えのもとに仕事が進められた。

しかし、後年のメタルニコフの研究は真剣に受け入れられたとは言い難く、例えば音楽による免疫の条件付けの研究などは失笑を買うものであった。その結果、研究費の支援を得ることが難しくなり、研究も完成に至ることはなかった。研究所を辞めた後、ひっそりと亡くなったという。

彼は、免疫という現象が進化の中にあり、獲得形質が遺伝する興味深い領域であると考えていた。同時に免疫は自然の創造性を表すもので、生物学的な現象は常に移り変わるもので再現されることがないと考えていた。古代ギリシャのヘラクレイトス(Héraclite d'Éphèse)を思わせる考え方である。しかし、これは自然の中に法則を見つけようとする科学の流れに反するものであった。ただ、彼の視線が免疫現象というものを全体としてどう捉えるのかに向かっており、その上で立てた仮説に基づいて実験を組み立てるという方向性を貫いていた点には注目したい。同時に、ある時点で仮説を捨てる勇気も必要になることを教えているようでもある。


mercredi 27 mai 2009

インフルエンザA (H1N1) (Grippe porcine; Swine flu) - 34 熱帯地方に要注意

世界の状況
5月27日、GMT 06:00現在
WHO map

世界の48国で13,398例、死亡95例 ← 46ヶ国で12,515例、死亡91例 (5月25日)
Japan (360) ← (345)


最新の Nature 誌に、これから注意を向ける必要があるのは、インフルエンザが絶えず発症し管理も行き届いていない熱帯地方であるとの記事が出ていたので紹介したい。

Swine flu attention turns to the tropics. Nature 459, 490-491, 2009

現在のところ、大半の感染者は北半球に分布しているが、これから南半球で広がり、そこでウイルスが変異する可能性が危惧されている。しかし、忘れてならないのは熱帯地方で何が起こるかなのだ、と指摘する専門家がいる。特に、東南アジアでは子供、鶏、アヒルや水鳥のインフルエンザ・ウイルスがあり、いつ新たなウイルスが出ないとも限らない。これから必要になるのは一にも二にも監視体制になるが、単に北半球や南半球だけではなく、熱帯地方にも目をやる必要がある。問題は以前よりは良くなっているとはいえ、富める国と貧しい国の間の監視体制には大きな差がある。WHO 事務局長チャンは、開発途上にある国を守るためにわれわれが協力して全力を傾けることこそ求められていると語っている。


vendredi 22 mai 2009

インフルエンザA (H1N1) (Grippe porcine; Swine flu) - 30 「1918年の過ちを避ける」

昨日の Nature 誌に 「1918年の過ちを避ける」 というエッセイが出ていた。当時の状況を知る上でも、そこから何が教訓になるのかを探る上でも参考になるので紹介したい。

今回のようなパンデミックで問題になるのは、第一に治療に必要となるワクチン、第二には情報の処理、コミュニケーションである。これは一般市民とのコミュニケーションのみならず担当者間のコミュニケーションを含んでいる。その意味で1918年のアメリカでの対応は避けるべき事例として研究の価値がある。

パンデミックは1918年1月に始まり、世界で350万人とも1億人とも言われる犠牲者を出して1920年6月に終わった。これは全人口の1.9%-5.5%に当たる。犠牲者の特徴は、25-45歳の働き盛りの成人で、この集団での死亡率は約10人に1人であった。

アメリカでは1918年春から散見されたが、軍の施設を除いては見過ごされていた。第1次大戦の戦場になっていたヨーロッパではスイスの兵士が犠牲になり表面化し、8月3日にはペストのパンデミックに相当するのではないかとの機密情報がアメリカに届いていた。

アメリカ政府はこの情報処理に当たって、戦況を知らせる際に用いる方針を採用したのである。すなわち、事に当たっては真偽は問題ではなく、士気にどのような影響を与えるのかが最も重要であるというものであった。優れたジャーナリストとして名の通っていたウォルター・リップマンはウッドロー・ウィルソン大統領に、一般大衆は精神的に子供なので("mentally children")命令に従うように諭すこと、という書簡を送っている。1917年、このメッセージを受け取った翌日にウィルソン大統領は士気を高めるためにすべての情報を管理するという方針を決定することになる。

その結果、1918年9月に致死的なパンデミックがアメリカを襲った時には、大統領は何の警告も出さなかった。政府の公衆衛生最高責任者が、適切な注意をしていれば特に問題はないとの声明を出したが、これが過度な心配は病気よりも危険だという掛け声になり広まっていく。そして、この病気は新しい名前を付けた古いどこにでもある風邪なのだ、とのメッセージに固定化されて行った。

しかし、実際には全く症状が違い、初期にはコレラ、チフス、デング熱などと誤診されていた。症状が出て1日で亡くなる人もあり、口や鼻のみならず目や耳からの出血という凄まじいものであった。にもかかわらず、政府や新聞は何でもない病気として片づけていた。公衆衛生責任者も情報を隠蔽するという態度を採り続けた。ここではフィラデルフィアの公衆衛生責任者の例が紹介されているが、1日の死者が200人を越えた時にはそのピークを迎えたと言い、300人になると最大を記録したとし、最終的には1日に759人の死者を数えるところまで至ったのである。そして、新聞は責任者の責任を追及することはなかった。このような情報処理は例外ではなく、アメリカ全土で行われていた。

嘘と沈黙は、当局の信用と信頼性を失わせる。その結果、人々が頼るのは当てにならない噂話になり、それに基づいた根拠のない想像になる。相互の接触を拒否するようになり、人間関係を損ない、病気になるのを恐れて家に閉じこもるようになる。その結果、社会活動にも大きな影響が出てくる。当時、ミシガン大学の医学部長は、このような状態が続けば地上から文明が消滅するだろう、と発言していたという。

当時と現在とでは状況は違うが、コミュニケーションが重要であることだけは変わっていない。ワクチンができるまでは、感染が広がり続ける可能性が高い。政府の責任者は真実を公開することが求められている。今回の感染については比較的うまく処理されているが、最近の例では必ずしも透明性が保たれているとは言えない。2003年、中国でのSARSは最初隠蔽されたし、2004年、タイとインドネシアの鳥インフルエンザも情報が秘匿された。

アメリカではパンデミックの際に透明性を高める方針が確立され、オバマ大統領もよく対応している。真実が隠されているのではないかという疑念が持たれるような沈黙も問題になる。1918年の噂話のように、あらゆる憶測がネットを駆け巡る可能性があるからだ。真実(情報)を管理するという発想ではなく、それは語られなければならないという姿勢が大切だろう。そうすることにより、疑心暗鬼に陥ることなく、われわれを具体的な方策に向かわせると考えるからだ。

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John M. Barry. Pandemics: avoiding the mistakes of 1918. Nature 459, 324-325, 2009

jeudi 21 mai 2009

フランク・リーヴィスの現代的問いかけ


Frank Raymond Leavis


今年はC.P. Snow の名著 "The Two Cultures" の出版50周年に当たり、Nature誌が特集を組んでおり、マーティン・ケンプ (Martin Kemp) というオックスフォード大学美術史名誉教授が "Dissecting The Two Cultures" と題するエッセイでその現代的な意味を論じている。その中で、この方の存在を初めて知ることになった。

Frank Raymond Leavis (14 July 1895 - 14 April 1978)

スノーが 「二つの文化」 を出した後にもの凄い反響があったことは、その4年後に書かれた "A second look" の中で触れていたが、このような辛辣な批判がされていたことは今回初めて知った。その代表格がフランク・リーヴィスだったのだ。

スノーは物理の研究者として出発したが、問題が起こり途中から作家に転身し成功を収める。彼には政治的な上昇志向 (political climber) があり、大学の中枢を歩み、1964-1966年には男爵として技術大臣 (Minister of Techonology) の補佐官を務めた。また、ハロルド・ウィルソン首相が1963年に出した科学技術に対する政策の主要な立案者でもあった。そのためだろうか、応用科学の重要性を説き、先進国と発展途上国とのギャップに対しても敏感であった。

エッセイの著者ケンプ氏は、学生時代にスノーに論争を仕掛けたリーヴスに会っている。すでに英文学の伝説的存在で、舌鋒鋭い批評家でもあった。世界的な名声を手に入れてはいたが、体制の中で活躍するスノーとは対照的に、大学の中ではアウトサイダーに徹していた。1962年、彼のダウニング・カレッジにおける30年に渡る活動を記念したリッチモンド講演 (Richmond Lecture) をする。その中で、「悪意に富む人身攻撃 (ad hominem attack)」 とも言われる矛先がスノーに向かったのだ。

彼はこう言い放つ。「彼(スノー)は小説家として存在もしないし、その兆しさえない。小説とは何かさえ知らないだろう。・・・彼が提案した世界の問題について考えるだけの能力があるとするのは馬鹿げている」。文学批評家の判断は人間が生存する状況 (life) に関わるもので、偉大な文学は人間的な価値を真に守るものである、とリーヴィスは考えていた。彼の立場は、苦しみの中での道徳的な無知に対して物理科学は癒しをもたらさないが、倫理はその無知に対する癒しを与えてくれると考えていた17世紀のパスカルに通じるものであった。

リーヴスにとっての科学は人間的な価値を奪われたもので、人間の未来を予見し、それに向けて行動し準備するためには別の営みが求められると考えていた。また、人間の安寧を単に生産性、物質的な生活レベル、衛生状況、技術的な進歩という指標だけで判断するのは道徳的な破綻であるとも考えていた。1949年にジョージ・オーウェルが発表した "Nineteen Eighty-Four" で描かれた世界が現実のものになるのを恐れていた。現在の経済の状態、環境の問題を考える時、人類の進歩を単に経済成長のための技術応用という視点だけで規定するのは不十分ではないのかとする彼の考えは忘れてはならないだろう。

今を取り巻く問題は、文と理という文化の乖離と言うよりは、あらゆる領域に見られる専門化に対して、より広く理解しようとする精神の運動との乖離ではないだろうか。その根には教育があり、専門化が求められる社会に対応するために大学に入る時にはすでにこの現象が表れている。教育に今求められているのは、幅広い分野についての理解を深め、その限界を教えること。すなわち、自然科学ができることは自然科学に、人文科学ができることは人文科学に任せ、それ以上のことはしないことが大切になる。その意味で、スノーが提示した文と理の乖離は今なお現実のもので緊急を要する問題でもある。しかし、リーヴィスが問いかけた何が進歩なのかという人間的な定義も今そこにある問題になる。

Martin Kemp "Dissecting The Two Culture", Nature 459, 32-33 (7 May 2009)


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このエッセイを読みながら、個人的な歩みを振り返っていた。ここで論じられている問題は私の中にも深く静かに流れていて、それが今に繋がっていることを改めて感じている。ここで特に注目したのは、科学が言うところの進歩とは一体何を意味しているのか、というリーヴィスの根源的な問いに対する答えを自らが模索しなければならないということだろう。それをさらに広く言うとすれば、あらゆる問題に対して提示された言葉の意味するところが本当は何なのかという哲学的な問いかけが求められていることになる。そして、そのような視点を備えた人物を多く抱えている文化は深みを湛えてくるのではないか、そんな想いが過ぎっていた。


mercredi 20 mai 2009

インフルエンザA (H1N1) (Grippe porcine; Swine flu) - 28 日本文化との関連 

今回の感染とその後の対応を見ているとお国柄が現れる。医学の問題が文化によって大きく修飾されているのがわかる。日本の状況について詳しく見ているわけではないので遠くからの印象という程度にしか過ぎないが、私なりに見えてくるものがある。

第一には、基本にあるべき医学的、科学的な視点が薄弱であるということである。これは報道に見られる態度やそれに対する反応について日常的に経験していることだが、このような事態ではさらに強調されて見える。真の意味で、科学的な考え方がわれわれにまだ根付いていない証拠ではないかと思われる。あるいは、われわれのどこかに科学以外のところに価値を見出す文化的な習性があるのかもしれない。誤解を恐れずに言えば、科学的であることの意味など、どうでもよいと思っているとの疑いさえ生まれてくる。

第二には、某国の首相が上から目線と批判されていて、そのことに異存があるわけではないが、その目線は日本の政治から行政に至るあらゆる所に見られるということである。そこには最初から情報をコントロールするということが組み込まれていて、このような状況でさえ情報を政治的に利用することもありうるだろう。情報の公開に際して物々しさを感じさせるとすれば、そこには情報をコントロールしている意識がどこかにあるのではないだろうか。求められることは、あくまでも科学的で冷静な状況判断とその説明になるが、どの程度できているのだろうか。

第三には、上の二つの根にある問題で、個人の自律ということになる。これは自らの中に向けて問いかけることを繰り返す中で初めて生まれるもので、外の規範に合わせることを良しとする文化の中で生きている場合には、そこに辿り着くのは難しいのではないだろうか。しかし、この個人の自律的な生き方なくして科学的な精神が宿ることもなければ批判精神も生まれないだろう。そして、その精神なしには社会を内から変える力、ひいては新しいものを生み出す力は出てこないだろう。

以上がこれまで様子を遠くから見ていて現段階で浮かんできた感想になる。将来、医学の問題を社会的・文化的・哲学的に研究する分野の方が、今回の状況について研究成果を出されるものと思われる。どのような解析をされるのか期待したい。今回の感染はまだ継続中で、これからも予断を許さない状況が続くと予想される。折に触れて私なりに感想を綴ることがあるかもしれない。

lundi 18 mai 2009

インフルエンザA (H1N1) (Grippe porcine; Swine flu) - 25

5月18日、GMT 06:00現在

世界の40国で8829例、死亡74例 ← 39ヶ国で8480例、死亡72例 (5月17日)

Japan (125) ← (7)

Mexico (3103; 死亡68) ← (2895; 死亡66)
USA (4714; 死亡4)
Canada (496; 死亡1)
Costa Rica (9; 死亡1)

Argentina (1)
Australia (1)

Austria (1)
Belgium (5) ← (4)
Brazil (8)
China (6) ← (5)
Columbia (11)
Cuba (3)

Denmark (1)
Ecuador (1)
El Salvador (4)
Finland (2)
France (14)

Germany (14)

Guatemala (3)
India (1)
Ireland (1)
Israel (7)

Italy (9)
Malaysia (2)
Netherlands (3)
New Zealand (9)

Norway (2)
Panama (54)

Peru (1)
Poland (1)
Portugal (1)
Republic of Korea (3)
Spain (103)

Sweden (3)

Switzerland (1)
Thailand (2)
Turkey (2) ← (1)
UK (101) ← (82)

世界の状況
WHO
アメリカの状況
Centers for Disease Control and Prevention (CDC)

mardi 12 mai 2009

インフルエンザA (H1N1) (Grippe porcine; Swine flu) - 18 フランスでの予想

今日のル・モンドより。

レンヌの高等公衆衛生研究所 (Ecole des hautes études en santé publique: EHESP) の疫学者で所長の アントワーヌ・フラオ (Antoine Flahaut) 氏は、フランスの35%が感染することになり、その結果30,000人が亡くなる可能性があると発表した。

このシナリオによると、ピークは夏以降に来る。季節性インフルエンザの場合には、年に6,000人が亡くなっているという。これを聞いた健康大臣ロザリン・バシュロ氏は、France 3 で以下のように語った。

「それも一つの可能性でしょう。しかし、今は医学の専門家が将来の可能性について検討している最中です。これから冬を迎える南半球の状況を監視する必要があります。それによって、北半球が冬になる頃の状況を予想することができるでしょう」

フラオ氏はさらにこう語っている。

「今回の場合は 、SARS の時にように感染した人のすべてに症状が現れて入院することにはならないでしょう。感染者の半分は症状を出さないと思います。また、少なくとも4,000万人が亡くなった1918年のスペイン風邪の状況よりは、むしろ1968年の香港風邪と似た状況になると考えています。現在のところ、感染は外から入ってきたものだけですが、症状の出ていない国内の人から感染が広がるとしても驚きません。集団で見ると大きな脅威ですが、個人のレベルでは普通のインフルエンザと変わりありません」

「WHOは5月14日にワクチンについて発表するはずです。季節性インフルエンザで見られた北アメリカのH1N1株に対するものにするのか、パンデミックに対応したワクチンにするのか決めなければなりませんが、後者の開発にすべきでしょう。今回のウイルスは極めて競争力が強く、他の株を追い落としていくからです。1月には地上にはH1N1株しかなくなっているでしょう。各国は適切な対策を講じなければなりません。なぜなら全員に行き渡るワクチンはないからです」


L'épidémie de grippe A pourrait tuer 30 000 personnes en France (Le Monde, 12 mai 2009)

lundi 11 mai 2009

「フランス絵画の19世紀」展に寄せて ― 注意深さと悦びについて ―



Jules Bastien-Lepage

« Saison d'octobre, récolte des pommes de terre » (1879)


絵画を味わうとは一体どういうことだろう。そもそもなぜ絵画と向き合うのだろうか。芸術作品と意識して向き合うようになってからまだ時間は経っていないが、その切掛けになった出来事から現在に至るまで過程を振り返りながら今の段階で言えることを改めて考えてみたい。

音楽との付き合いは長いが、絵画や彫刻などの造形芸術との意識的な接触はまだ10年にも満たない。その引き金が引かれたのは、5-6年前から積極的に始めたフランス語との出会いではないかと思っている。その教材に使われている芸術作品をフランス語で読むという過程や、その頃から努めて通うようになった展覧会という空間において、大げさに言うと美の発見の悦びを感じるようになっていた。フランス語との接触により、今ここにあるものに止まらず、これまでに蓄積されてきたすべての事に敏感になり、注意深く観察するようになっていた。この注意深さこそ、芸術作品と触れ合う時に大切なことではないのか。この注意深さこそ、ただ流れているだけにしか見えない日常の中に隠れている非日常を見る目をもたらしてくれるのではないのか、と気付くようになっていた。芸術作品を味わうということは、注意深さという性質を通して人生を味わうことと同義ではないかと思い至った瞬間になる。

2005年のある夏の日。古本屋に置かれていた堀田善衛(1918-1998)の「美しきもの見し人は」(朝日選書、1995年初版)を手に取った私は、その序にあった次の言葉に反応していた。

「元来、ヴァレリイの言うヨーロッパ、それを構成する三つの主柱、すなわち、ギリシャ、キリスト教、科学精神といったものの、このどれ一つをとってみても、なみの日本人としての生活感情を生なままで、それをもったままで近づいて行って、ごく自然にこの三つのものの、どれ一つとして自然にわれわれのなかへ入って来てくれるというものではない、と思われるのである。 [・・・]
 正直に言って、誰しも何等かの無理をしなければならないのである。つまり、勉強、ということがどうしてもともなう。そうして、この無理と努力の報酬としての感動がある、というかたちになっていることが大部分の例であろうと思われる」

当時は科学の領域に身を置き研究に打ち込んでいたが、まずヴァレリー(Paul Valéry ; 1871-1945)の言っている「科学精神」という言葉に新鮮な驚きを感じていた。それから、ギリシャ、キリスト教が体の一部になっていないわれわれが、ヨーロッパ芸術を味わおうとした時に出会うであろう無理についても納得していた。しかし、堀田は「私の努力は、なるべく努力をしない、勉強をしない、ということに注がれることになる」と続けている。自分の感性を信じ全身を晒すという堀田の態度は、わたしが作品に接する際にそれまで取ってきたものと重なるところがあり、大いに力づけられたことを思い出す。

予習をしない。自分の感性を信じ、全身を作品の前に晒した時に起こる内なる揺らぎを注意深く観察する。そこで自分が揺れる作品、悦びをもたらしてくれる作品、何かの意味を感じる作品が飛び込んでくるのを待つことになる。自分の感性に触れないようなものは無視してしまう。芸術のために生きているわけではないのだから。生きるために芸術を味わうのだから自分の感性を信じるしかないだろう。そして、自分を揺らした作品についてさらに探ることになる。探りたくなるのである。芸術家やその周辺の人物について、絵の主役や脇役や背景について、他の人の見方について、さらにそこに流れる音楽について、などなど限がない。この自発性が生まれた時、芸術は一気に近い存在になってきた。それを手がかりに世界がどんどん繋がり、広がり、深まりを見せてくる。その全体を改めて見渡す時、深い静かな悦びが訪れてくるのだ。

ところで、今回の「フランス絵画の19世紀」展で取り上げられているアカデミズムとは一体どのような絵画を言うのだろうか。実はこの展覧会のお陰で、これまでに出会っていた「ホラティウス兄弟の誓い」、「マラーの死」、「ナポレオンの戴冠式」、「サン・ベルナール峠を越えるナポレオン」のジャック・ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David ; 1748-1825)、「横たわるオダリスク」、「ナポレオン」、「ヴァルパンソンの浴女」、「泉」、「トルコ風呂」のドミニク・アングル(Dominique Ingres ; 1780-1867)、それから最近友人になったばかりのジュール・バスティアン・ルパージュ(Jules Bastien-Lepage ; 1848-1884)がこの派に属していることを知ることになった。一番新しいバスティアン・ルパージュについてはほぼ1年前、オルセーで「10月、じゃがいもの収穫」(Saison d'octobre, récolte des pommes de terre)を目にしながら通り過ぎようとした時、何かを訴えかけられているように感じて戻ったのが発見の切掛けになった。いずれも若い時であれば全く興味を示さなかったであろう画家になる。

アカデミズムの流れを理解するためには、フランス革命(1789-1794)に始まる歴史を18世紀にまで遡って見直す必要があるだろう。アカデミズムの第一世代はこの革命を掻い潜っており、芸術と謂えども社会の動きとは無縁ではなく、特にこの時代は政治との関係を抜きに芸術を見ることはできないとさえ言えるからである。フランス革命以前の社会は、聖職者、貴族、平民からなる階級性が固定化し、それに伴って聖職者、貴族に対する年金支給や免税措置などにより富が偏在する絶対君主制のアンシャン・レジームであった。この時期にディドロ(Denis Diderot ; 1713-1784)、ダランベール(Jean Le Rond d’Alembert ; 1717-1783)による百科全書、さらにルソー(Jean-Jacques Rousseau ; 1712-1778)、ヴォルテール(Voltaire ; 1694-1778)に代表される考え方が浸透するようになる。それは、社会習慣や権威に身を任せる姿勢を理性や科学精神、批判精神をもって検討し直すことにより、客観的真理の発見を求め、人間を解放しようとするものであった。そして、それは自然に社会秩序を改革する期待へとつながっていった。しかし、理性や科学に信を置く啓蒙思想、物質主義に対し、不合理なもの、曖昧なもの、感情などの人間的側面を賛美、信奉する人たちも残っており、古代への憧憬も現れていた。このような対立は科学絶対主義の時代にも見える現代でも確認することができ、人類の歴史と寄り添うものかもしれない。いずれにせよ、これらの思想的背景のもと、理性に基づき平等な新秩序を構築しようとする革命勢力とアンシャン・レジームを維持したい反動勢力が激しくぶつかることになる。

革命後にできた第一共和政(1792-1804)は、ナポレオン(Napoléon Bonaparte ; 1769-1821)の第一帝政(1804-1814)により10年ほどで終わりを迎える。革命指導者同様、ナポレオンも芸術が政治の有効な武器になることをはっきりと理解しており、大々的にプロパガンダに利用した。芸術には財政的援助を惜しまず、自らのためになる芸術家を厚遇することにはなったが、芸術が政治により管理されるという側面を伴っていた。野心家であった新古典主義の総帥ダヴィッドはナポレオンに接近し、その才能でナポレオンのための絵画制作、儀式の一切を取り仕切るようになる。しかし、それは自らの芸術の規範を政治のイデオロギーのために譲ることにはならなかっただろうか。その後の彼は政治の波に翻弄される人生を送ることになる。

1795年、学問、芸術の組織が再編され、フランス学士院(Institut de France)が生まれる。その中の芸術アカデミー(Académie des Beaux-Arts)は教育機関(École des Beaux-Arts)と展覧会(サロン)の運営に関わり、これがアカデミズム発祥の母体になる。アカデミー・メンバーは学生の教育、就職、サロンへの推薦、若手の登竜門であるローマ賞の選考などを介して美術界の権威として振舞うのみならず、社会の規範として大きな影響を及ぼすようになる。そのため当時のジャーナリズムや社会の人々から持て囃され、社会の中心に位置する金持ちや政治家などに迎合するポピュリズムの傾向を持つようになる。若い芸術家に対しても、意識するかしないかは別にして、社会への適合という大人しさを植え付け、自由な生命の迸りによる芸術を抑制する効果を持つようになったとしても不思議ではないだろう。

エミール・ゾラ(Émile Zola ; 1840-1902)の芸術論(Écrits sur l’art)などに目を通しても、サロンのレベルが年々低下することを嘆いていたり、見るに堪える力を持っているのはほんの一握りの画家でしかないという手厳しい評価を下していたりする。このような主流派のアカデミズムに対して、今日われわれの好みに叶う多くの芸術家は周辺的な場所に身を置きながらも自らの命を紡ぐように芸術を磨き上げていた。そして、当時の時代の寵児たちがほとんど忘れられている今、時代を超えて人に訴えかける力を持つのは、真に人間の底から絞り出されたものだけであることが証明されることになるのである。

今回展示される絵画は、堀田善衛が言うところの、われわれが体では理解できないヨーロッパ精神を湛えた芸術になる。出かける前に予習することなかれ。アカデミズムや印象派や新古典主義や浪漫主義やレアリズムについて調べることなかれ。それは作品を自らの友にする上で重要ではないだろうから。白紙の状態で出かけて身を晒すこと。そこで何が自分の中に入ってくるのかを観察することをお勧めしたい。日常から切り離した自由な精神をもってその場に入ると、以前に見たことのある作品が驚くほどの美しさや意外性をもって迫ってくるかもしれない。19世紀に生きた芸術家の作品の中に新たな友人を見出すことができるかもしれない。それから展覧会の秘かな楽しみとして、絵そのものだけではなく、会場の空気や作品が飾られている場全体の景色を鑑賞することもお忘れなく。写真を撮るような感覚で見る方向や角度を変えながらその場を切り取ってみると、不思議な風景が現れるかもしれない。

ポーランドの女性詩人ウィスワヴァ・シンボルスカ(Wisława Szymborska ; 1923- )が “Nothing twice” と謳っている。この世のすべては一回限りなのだ。その一回性を意識できる目を持つことにより、今回の展覧会が新たな発見の場になる可能性がある。さらに、その目を日常に持ち込むことができれば、われわれの生が生き生きとしたものに変貌を遂げるだろう。日々、芸術の中に生きることになるだろう。その時、注意深さを介して芸術と日常が繋がるこの上ない悦びが訪れるような気がしている。


dimanche 10 mai 2009

インフルエンザA (H1N1) (Grippe porcine; Swine flu) - 15 1918年スペイン風邪ウイルスの同定

昨日、1918年のパンデミックについて触れた。世界の人口の1/3 が感染し、死者が1億人に上るとも言われる当時の状況について、"Flu: The Story of the Great Influenza Pandemic" の著者でもあるNYT の科学記者ジーナ・コラータ (Gina Kolata) 氏が語っている記事があったので紹介したい。そのウイルスがH1N1であることがわかるまでの興味深い話が出ている。


1918年にはウイルスは分離・同定されておらず、原因はわかりませんでした。犠牲者とともにウイルスも死んでしまうと考えるでしょうが、南北戦争の時にリンカーンが犠牲者の人体組織を永久に保管する巨大な貯蔵庫を作っていました。1990年代、米軍病理学研究所の研究者ジェフリー・タウベンバーガー (Jeffrey Taubenberger) が1918年のスペイン風邪の犠牲者の肺組織を調べることができないかと考え、1996年のある日、研究所でスペイン風邪犠牲者の2人の兵士の標本を見つけるのです。

これ以前の出来事ですが、1950年代にスウェーデンのヨハン・ハルティン (Johan Hultin) と彼の前妻がアラスカに旅行し、当時のすべて犠牲者が埋められている墓地があることを知ります。彼はその墓を掘り起こして、スペイン風邪について博士論文にまとめられないかと考えました。危険も顧みず卵でウイルスを増殖させようとしましたが何も起こらず、いずれ科学が進歩すれば誰かがやるだろうと考えていました。そして1997年、タウベンバーガーのグループによる Science 誌の報告を見ることになるのです。

それからハルティンはアラスカに戻り、材料をタウベンバーガーに送り、米軍兵士2人とアラスカの先住民族の女性の3人からウイルスを同定することになるのです。そこで全く同じ遺伝子配列とその他のウイルスが明らかになりました。

現在このウイルスはすでに死んでいるので、ここからの感染を心配する必要はありません。

1918年当時は交通機関も発達していなかったのに、どのように感染が広がったのかという点ですが、完全に隔離された場所でも感染が起こっています。アラスカの先住民族の場合がそうですが、すべての人が感染したにもかかわらず、成人の大半が亡くなっています。感染した郵便配達人が風邪を広めた可能性があります。当時は飛行機による旅行はありませんでしたが、第1次大戦で軍隊の移動がありました。現在の感染でもそうですが、なぜ感染が広がったのかについてよく分からないことがあります。記録が曖昧で、よいものがないのです。そのため死者が2500万人から1億人という幅を持っているわけです。特にアメリカの以外の状況はほとんどわかりません。

私がこの話を書いた動機ですが、スペイン風邪のウイルスが蘇ったことに興味を持ったからです。科学の素晴らしさを示すものだと思います。ここに、これまで裁かれなかった大量殺人の犯人がいたのです。それは科学的殺人ミステリーで、そこに探偵がいたのです。

現在の状況に恐怖を感じるかということですが、心配することは何の解決にもなりません。秋にスペイン風邪のようになって戻ってきた場合、ワクチンがあるでしょう。世界には新興性感染に対して素早く対応する能力があると思います。

この話を書くまではインフルエンザ・ワクチンを受けたことがありませんでしたが、「なぜそうしなかったのか、バカ者!」 と自らに言っていました。それ以来、年に一回受けています。この本の執筆により、ワクチンに対する考え方が変わりました。

皆さんは何でも風邪 (flu) と言って済ませ、季節性インフルエンザの深刻さが見過ごされているようにも思います。私の経験から言うと、頭痛、筋肉痛などの耐えられない痛みがあり、酷いものです。


Flu Lessons from 1918 (NYT, May 8, 2009)
Secret of the Dead: Killer Flu (Washington Post, November 22, 2005): タウベンバーガー氏についての記事

samedi 9 mai 2009

インフルエンザA (H1N1) (Grippe porcine; Swine flu) - 13 WHO事務局長マーガレット・チャン氏の評価

これまでの WHO の対応を評価する記事が NYT に出ていたので紹介したい。

4月29日の WHO の事務局長マーガレット・チャン (Margaret Chan) 氏の発表で世界は揺れたが、このところ CDC が学校の再開を推奨したり、ケーブル・ニュースでも大きく取り上げなくなり、落ち着いてきたかに見える。しかし、チャン氏はまだ警戒レベルを下げることは考えていないようだ。なぜなら、このレベルは致死率ではなく、地理的な広がりをもとにしているからだ。チャン氏のこれまでの対応は評価するものの、警戒レベルを致死率も考慮に入れてものに改変する必要を唱える者もいる。

チャン氏によると、今回の対応には2003年に香港で発生した SARS での経験が生かされているという。彼女はその現地責任者として事に当たった。2005年に行われた WHO による方針変更で事務局長は自ら警戒レベルを決定できるようになり、世界の公衆衛生分野で最も力のある人になった。

2006年にそのポストに就いたチャン氏は、運転もタイプも料理もしない。1947年香港に生まれ育ち、教師になる。1969年、将来夫になるデヴィッド・チャン氏がカナダの大学に行くと心配になった彼女は母親に相談、後を追うことにする。デヴィッドが医者を目指すことになると、彼女も医学を目指すことにする。小児科を学び、1978年香港の公衆衛生局に就職。1997年に発生した鳥インフルエンザに対応。140万羽の鳥を屠殺する決断をし、感染を終息させる。彼女はこれで注目を集める。

2003年の SARS 感染時には初期の対応に批判も出たが、総合的には支持された。この時の経験が今回の素早い対応になったと言われる。彼女は言う。今回のように新しい感染の場合には全体像を掴むのが難しく、常に謙虚でなければならない。この10日間の彼女の対応に対する評価は高い。


Managing a flu threat with seasoned urgency
(The New York Times, May 9, 2009)

インフルエンザA (H1N1) (Grippe porcine; Swine flu) - 12 「2009年は1918年とは違う」

今回と1918年のパンデミックの比較について、医学史、公衆衛生の専門家、Patrick Zylberman とのインタビューが昨日のル・モンドに出ていた。


今回の感染をどのように見ていますか?

最も興味深いのはメキシコでの死亡例が、若年者であることです。そのため小児や老人ではなく16歳から40歳までが標的となった1918年のパンデミックを思い出します。

二つの感染を比較するのは時代錯誤ではないでしょうか?

その通りです。2003年のSARS の時には、すべての医者、疫学者、公衆衛生の専門家はスペイン風邪の再来をホロコーストのように語りました。それは手をこまねいている政治家や市民に準備させるために強調する必要があったからです。

しかし、1918年と今回の状況は全く違います。ウイルスの病原性だけがパンデミックの指標ではありません。1918年とは違い、われわれはウイルスについての知識を持っています。抗ウイルス剤やワクチン製造が可能ですし、重症例を治療する抗生物質もあります。完全ではないかもしれませんが、疫学的監視システムが1995年以降出来上がっています。

われわれは1918年の経験から何を学びましたか?

1997年の鳥インフルエンザの際の香港当局の素晴らしい対応を見てください。数人が死亡した後に鳥の屠殺を決定しました。SARS の時は最初まごつきましたが、その後はアジアとカナダ政府が状況のコントロールに成功しました。

経験から学んだことは確かです。それが充分であるかどうかですが、2006年にロンドンの大学で行われた研究によると、フランスやイギリスなどの国は比較的準備ができているが、ヨーロッパ全般ではそうではないようです。

1918年当時の人はパンデミックに対する切迫感を持っていたのですか?

当局は完全に不意を突かれたのです。忘れてならないのは、まだ第一次大戦が続いていたことです。アメリカなどの戦地から離れた国では、まだ対処すべき相手を知りませんでした。ヨーロッパで4%、サモアでは20%にも達した死亡率をもたらしたものは、当局の対応のまずさになります。

1976年の例のように、当局の過剰な反応が感染そのものよりも深刻な被害を生むということになりませんか?

1976年のアメリカでの感染は、「全く起こらなかったこと」 になります。ニュー・ジャージーの軍基地で数例が見つかり、1918年の記憶が蘇りパニックになります。1920年以来アメリカにはなかったH1N1株による感染でした。フォード大統領は全国民にワクチンを指示することになりますが、ワクチンの事故とウィルスが消えたことにより2ヶ月後には中止になりました。ワクチンの指示は科学的と言うよりは感情的なものだったのです。

現在の衛生当局の対応は感情的でしょうか?

現在のWHO の対応が過剰だと批判する人がいますが、それは正しくありません。なぜなら、すべての政府は、WHO の指針により計画を立てているからです。2003年以来、感染やバイオテロリズムへの対応に関するすべての話し合いで大きな問題になるのが、WHO がその司令官であるべきか、ということです。ヨーロッパは好意的です。アメリカはやや好意的ですが、アジアはそれほどではありません。

前パンデミック状態がこれから感染が広がり始める貧しい国にどのようなインパクトを与えるでしょうか?

それは大きな不安です。秋に第二波が北半球を襲う場合、衛生状況がよくなく治療法もない国は富める国に比べ多くの被害を受けるでしょう。感染の伝搬を遅らせる手段として、10-20%の抗ウイルス剤を共有することが考えられます。世論が共有することに反対する可能性もあり、政治的には微妙でしょう。

危機管理のために公的な関心が生まれることは、われわれの社会の進化の指標でしょうか?

もちろんです。技術的なところから公的なところへの問題の移行は、素晴らしい進化と言えます。これも現在の社会が1918年とは全く違うという理由になります。転機は新興性の病気(特にエイズ)に対する懸念が生まれた1980年代や20世紀末の食料安全の危機でした。

メディアはどのような役割を果たしていますか?

メディアの役割は決定的で、政府もそのことをよく知っています。危機にあって、情報は抗ウイルス剤と同様に感染に対して抑制効果を持つ重要なものですが、管理が難しいものでもあります。予防的な報道はパニックを限定的にしますが、人々を受け身の状態から脱するように促すものでなければなりません。これは準備が最も遅れている領域のひとつになります。

それはなぜでしょうか?

政府が情報のコントロールを手放すのを嫌がることとメディアがこれらの問題をほとんど理論化していないからです。

"Grippe : 2009 n'est pas 1918" (Le Monde, 8 mai 2009)

jeudi 7 mai 2009

インフルエンザA (H1N1) (Grippe porcine; Swine flu) - 9 旅行に関する制限について

旅行制限に関して WHO が5月1日に出した声明をアップデイトして本日発表した。その要旨は以下の通りである。

旅行は安全か?

今回の件に関して、WHOは旅行制限することを推奨していない。今や世界では多くの人が仕事や余暇で世界を動いている。旅行制限しても感染の伝搬阻止にはほとんど役立たないどころか、世界のコミュニティにとって有害でさえある。

現在世界に感染が認められるので、感染を止めることよりは早期に発見して治療することに重点が置かれている。旅行者の症状を知ることにより感染を追跡することは役立ちはするが、その伝搬を減少させることはできない。なぜなら、症状が出る前に感染させてしまうからである。

数学モデルに基づく研究によると、旅行制限は感染伝搬の阻止には全く効果がないか、あっても限られたものにしか過ぎないという結果が出ていて、SARS の時にそれが確認されている。

WHO は旅行者の水際でのスクリーニングを推奨するか?

いいえ。それは効果があるとは考えないからです。しかし、その決断はそれぞれの国に委ねられています。そのような措置(入国や出国の拒否など)を取る場合、WHO に公衆衛生の面からその理論的根拠を報告しなければなりません。旅行者は常に尊厳と人権尊重を以って扱われなければなりません。

旅行時の注意事項は?

病気の場合には旅行を延期すること。帰国する場合には専門家に相談すること。日常生活でも行わなければなければならない一般的な予防処置により、自らと周囲の旅行者の感染を予防することができる。

lundi 4 mai 2009

アダム・ザガイェフスキさんとともに



先月、1週間ほど滞在したポーランドのクラクフは、いろいろな印象を私の中に残した意義深い滞在になった。その町での散策の途中に入った書店で、アダム・ザガイェフスキさん (Adam Zagajewski、1945年6月21日-) に出会う。翌日、彼の詩集 "Eternal Enemies" とエッセイ集 "A Defense of Ardor" を持ってヴァヴェルの丘に上り、カフェで開く。エッセイの中で彼の移動の歴史が語られている。Lvov で生まれ Gliwice へ。Gliwice から Krakow へ、Krakow から Berlin (2年間) へ、そこから Paris で20年ほど。Paris から Houston で年4か月の生活。そして Krakow に戻った。

彼の詩集に次のような言葉がある。

I returned to you years later,
gray and lovely city,
unchanging city
buried in the waters of the past.

   (from "Star")

わたしがこの町に入って最初に感じたことがここにある。
今動いている世界から動きの止まっている町へ入った。
今動いている世界の昔の姿がここにある。
それが懐かしさを呼んだのかも知れない。
心を落ち着かせたのかも知れない。
それはまさに、今激しく流れる川面の奥深く、静かに蠢く過去なのかも知れない。

superficial とはよく言ったものだ。
川面で流れに身を任せ、時の流れに身を任せる。
その底には我々個人の、そして人類の過去が眠っている。
川の中に身を沈め、そこを眺めてみようではないか。
川面が全く違って見えてくるかもしれない。
多層的に生きたいものだ。
その意思だけは持ち続けたいものだ。

こんな言葉もある。

I would have liked to live among the Greeks,
talk with Sophocles' disciples,
learn the rites of secret mysteries,

   (from "The Greeks")

過去に生きる、生きたいと欲する。
それは何と無駄な時間だろうか、と思っていたのはほんの数年前。
そこからしか未来は見えないと思い始めて、まだ数年にしかならない。

この世で大切なこと、それはどこからものを見るかだろう。
その視点が変わるだけで、この世が全く新しいものになる。
その視点が多いだけ、この世は豊かに見えてくる。
多層的に生きたいものだ。
その意思だけは持ち続けたいものだ。


dimanche 3 mai 2009

革命の闘士、聖パウロ Saint Paul, militant révolutionnaire


« Saint Paul » par Etienne Parrocel (v. 1740)


先月ポーランドのクラクフに1週間ほど滞在した。その町のショッピングモールにあった書店で久しぶりに Le Point を手に取った。この雑誌の存在を知ったのは4年半ほど前に仏検を受ける前に寄った本屋さんでのこと。読書欄や思想・哲学欄など、全体の構成がわたしの好みに合ったのだろう。それ以来、折に触れて読むようになり、謂わば Le Point という窓からフランスを眺めていたことになる。この経験がわたしを知らない間に変えていたのではないかと思えるくらい大きな影響があった。

ところで、手に取った Le Point の Idées 欄にこの方が登場し ていた。キリスト教徒を虐殺したユダヤ教徒から教会を建てる闘士への変身。昨年6月28日から今年の6月29日までを 「聖パウロの年」 として祝うことにした、と2年前にベネディクト(ブノワ)16世が宣言したという。そして、彼に宿る3つのものを見た時、強く反応していた。

1) une énergie sans mesure (過剰なエネルギー)
2) un génie militant hors du commun (並はずれた戦闘的天才)
3) une flamme mystique dont il existe peu d'exemples (例を見ない神秘主義的煌めき)

一体どういう人物なのか。どんなことをやった人なのか。一気に興味が膨らんでいた。

パウロ Paul de Tarse (? à Tarse – v. 65 à Rome)

文化交わる現在のトルコに当たるタルススに生まれ、Paul de Tarse (タルススのパウロ) と呼ばれる。ローマ化したユダヤ教徒の家に生まれ、ヘブライ語名は Saül (サウロ)で、ラテン語名が Paul となる。生後8日で割礼し、ギリシャ語とヘブライ語を話し、戒律を厳しく守るよう教えを受け、エルサレムではガマリエルのもとで勉強もしている。二十歳のサウロはモーセ五書 (Torah) をよく理解する研究者としてのユダヤ教徒であった。

古代多神教と生まれつつあったキリスト教との間の架け橋的存在であったことも、キリスト教における主要人物の一人で、初期の布教、イエスの教えの解釈に多大な貢献をしたこともすでにわかっている。その彼が今なぜ興味を持たれているのだろうか。19世紀がそうであったように、21世紀の政治的状況が関係しているのかも知れない。その辺りを知るために彼の一生を見てみたい。

自らを神の子と名乗っていた若きサウロは、イエスの弟子たち一派を悪意を持って見ていた。そして、最大の暴力を持って彼らと対することになる。教会を破壊し、家々を襲っては住人を牢獄に投げ込んだ。さらに、キリスト教徒に迫害を加えるべくダマスカス (Damas) を目指し、彼らを引き連れてエルサレムに向かう途上、事件が起こる。光がさし、「サウロ、なぜわたしを迫害するのか」というイエスの言葉を聞く。それから3日間眼が見えなくなるが、奇跡的に視力を回復したのはダマスカスのシナゴーグでイエスこそ神の子であると説教した時である。

この過激にして急激な新しい信仰への回心、完全なる豹変 (retournement du tout au tout) こそ、パウロを特徴づけるものだった。それからはすべてが入れ替わる。ユダヤ教徒がキリストの弟子に。迫害が伝道へ。守っていた戒律は、割礼であれ、安息日 (shabbat) であれ、食事の戒律であれ、すべて廃止へ。ユダヤ的なるものをすべて廃棄し、イエスこそすべての規準になった。

この完全なる回心を伝えるため、彼は稀に見るエネルギーを傾けることになる。地中海沿岸を三度に渡り踏破し、そこで教会を建て、共同体を組織し、集団の士気を高め、そこを離れるものを叱咤した。演説はうまいとは言えなかったが、その情熱に支えられた信念で持ちこたえた。怒りっぽく、権威主義的で情熱家であった彼は、生まれながら組織を作るのが上手かった。



推定45歳から49歳にかけての一度目の旅




推定50歳から52歳にかけての二度目の旅




そして、推定53歳から58歳にかけての三度目の旅


これでキリスト教が飛躍を遂げることになる。それ以来、彼の以前に人間を分けていたすべての違いは時代遅れとされ、キリストの中に人間の規範を見るようになる。そもそも "catholique" とは、古代ギリシャ語では "selon le tout" すなわち "universel" を意味するという。異教徒の伝道師パウロは、ユダヤ教の世界と新しい信仰との関係を体系的に壊していく。苦労を重ねた後、ネロによるキリスト教徒迫害の時に断頭されている。

それ以来、西洋史の流れの背後で彼が新らしい姿で影絵のように現れることになる。その理由はいろいろあるだろうが、一つには彼が書いたものが少なく、教義 のような形でも体系立っても書かれていないことがある。さらに、言い回しが矛盾していたり、論理的につながらなかったりしているため、その解釈が自由にな され、多様な人物像が出来上がることになった。事実、カトリックの思想家、アウグスティヌス (saint Augustin ; 354 - 430)、ジャック・ベニーニュ・ボシュエ (Jacques-Bénigne Bossuet ; 1627 - 1704)、パスカル (Blaise Pascal ; 1623 - 1662) のみならず、プロテスタントのマルティン・ルター (Martin Luther ; 1483 - 1546) やジャン・カルヴァン (Jean Calvin ; 1509 - 1564) などがパウロを描いている。さらに予想もされなかったことだが、19世紀になり社会の変革を期待するすべての作家がそれぞれの聖パウロ像を作るようになった。

彼に興味を持って書いている人には、19世紀ではサン・シモン (Claude Henri de Rouvroy de Saint-Simon ; 1760 - 1825)、オーギュスト・コント (Auguste Comte ; 1798 - 1857)、エドガー・キネ (Edgar Quinet ; 1803 - 1875)、ヴィクトル・ユーゴ (Victor Hugo ; 1802 - 1885)、ピエール・ルルー (Pierre Leroux ; 1797 - 1871) などの大物がいる。しかし、注意深く読んでいる人の中には彼を賛美するだけではなく警告を発する者もいる。例えば、エルネスト・ルナン (Ernest Renan ; 1823 - 1892) は彼のことを 「文明の最も危険な敵の一人」 とまで言い、ニーチェ (Friedrich Nietzsche ; 1844 - 1900) も 「憎しみの論理の天才」 と規定している。

ニーチェが言うように、彼は歴史を体系的に改竄することに成功した。キリストの前に存在したすべてのものは、掃き捨てられ修正された。それ以来、過去も未来も新しい歴史の歩みに沿って考えられるようになる。彼は過去を一掃するという恐ろしい装置を創造したのだ。ユダヤ教の過去も消え去るものとされたが、その論理が単にユダヤの教義だけではなく、その肉体の排除をも可能にすることにはならなかったのだろうか。1992年にスタニスラス・ブルトン (Stanislas Breton ; 1912 - 2005) は、パウロ主義 paulinisme がアウシュヴィッツに絡んでいたと躊躇することなく指摘した。

しかし、彼は今でも多くの人を魅了し続けている。20世紀においてもアラン・バディウ (Alain Badiou ; 1937 - )、ジョルジョ・アガンベン (Giorgio Agamben ; 1942 - )、スラヴォイ・ジジェク (Slavoj Žižek ; 1949 - ) などの仕事の中に生きている。

革命の英雄のモデル、政治装置の確立者、普遍の発明者など複雑で多面的な要素を持つ聖パウロ。これから先、どのような新たな接触が生まれるのか注意していきたい。


samedi 2 mai 2009

豚インフルエンザ (Grippe porcine; Swine flu) - 3

昨日遅く、こちらの日本大使館から通報が入った。それによると、5月1日夜、国内で2名の感染者が確認され、感染が確認される可能性が極めて高いとされる1名とあわせ、3名がパリ市内に入院中。いずれもメキシコからの帰国者で国内での二次感染ではない。すべてが軽症で、抗インフルエンザ薬で治療中とのこと。仏保健大臣は、彼らに接触した者についての追跡作業を行うと発表。

ル・モンドにも関連記事があり、確認されたのは49歳と24歳の方。
世界の感染状況で下のWHOの発表と異なる国は (おそらく、こちらが新しい)、
Mexique :343
Canada : 41
Costa Rica : 2
France : 2
Pays-Bas : 1
Allemagne : 5
Grande-Bretagne : 10


今日のNYTから。

アメリカでの感染が、前日の11州109例から金曜の昨日は19州141例に増えている。それから、メキシコから上海経由で香港に入った25歳の旅行者が感染していることが判明。6年前に襲ったSARSの記憶が蘇っているという。アジアの密集した社会では一旦広がると手がつけられなくなる可能性があるので要注意だろう。

WHOによると、5月1日現在の世界の感染者は11カ国257例から、13カ国367例に増えている。内訳は以下の通り。

USA (141; 死亡1)
Mexico (156; 死亡9)
Austria (1)
Canada (34)
Germany (4)
Israel (2)
Netherlands (1)
New Zealand (4)
Spain (13)
Switzerland (1)
UK (8)

Hong Kong (1)
Denmark (1)

vendredi 1 mai 2009

豚インフルエンザ (Grippe porcine; Swine flu) -2

今朝、新型インフルエンザに関する通報がこちらの日本大使館から入っていた。それによると、WHOの警戒レベルが5になったこと、フランスでの現状は 「可能性が疑われる事例」 が32例(内2例は疑いが濃厚)であること、さらに関連情報をチェックするようにとの注意が添えられていた。


今日のNew York Times から。

WHOは、今回の感染を引き起こしているインフルエンザ・ウイルスの正式名をH1N1型と発表した。米国内の状況は、昨日(木曜)の段階で12州で114例が確認され、水曜の10州91例から徐々にではあるが拡大している。しかし、今後どのように進展するのかは明らかではない。

米国疾病予防管理センター(CDC)の責任者によると、警戒レベルを5に上げたWHOの判断に同意し、アメリカの準備は怠りがないとしている。また別の専門家の話として、今回メキシコで23か月の子供亡くなったことから直ちに今回のウイルスが危険であることにはならないとしている。アメリカでは毎年、36,000人がインフルエンザで死亡しており、その中にはそれまで健康だった75-150人の子供が含まれているという。

このウイルスの起源についてはまだ不明だが、これまでのウイルスより悪性という証拠はまだない。1918年, 1957年、1968年のパンデミックを起こしたウイルスに見られる遺伝子の変異は、今のところ見られていないという。

昨日ホワイト・ハウスは、オバマ政権の一員が4月中旬にメキシコに旅行した際にこの病気に罹っていたこと、妻と子供に感染したが現在は本人も回復し復職していること、さらに大統領とは接触していなかったことなどを明らかにした。

カナダでの感染が15例増え、計34例になった。
メキシコでの感染は312例で、うち12例が死亡している。


なお、以下のサイトで世界とアメリカの豚インフルエンザの発生状況がわかる。

世界の発生
WHO (OMS)

7月30日の状況:
11ヶ国が257例の報告をした。内訳は以下の通り。

USA (109; 死亡1)
Mexico (97; 死亡7)
Austria (1)
Canada (19)
Germany (3)
Israel (2)
Netherlands (1)
New Zealand (3)
Spain (13)
Switzerland (1)
UK (8)

アメリカの発生
Centers for Disease Control and Prevention (CDC)