dimanche 29 mars 2009

考えるために生きる Vivre pour penser



科学の内容から如何にして哲学的テーマを探り出すのか

それがこれからの課題になる

哲学とは何か

永遠のテーマだが、フランス語を始めてから « Réflexion » という言葉に反応している

立ち止まって振り返ること 自らに戻ること

言葉や問題の根に戻って考えること

そしてそこから生まれたものを生きること

生きることと結びつかないことには意味を感じなくなっている

生きるために考える (Penser pour vivre) ではなく 考えるために生きるのだ

カントはこう言ったという

「哲学を学ぶことはできない 哲学することしか学ぶことはできない」

« On ne peut apprendre la philosophie, on ne peut qu'apprendre à philosopher. »

それさえもできるのだろうか

しかし よく生きるためにはそれ以外に方法はなさそうだ

哲学とは知ではない

科学知ではない

科学知足らしめているものを振り返ることか

この世にあるあらゆるものの意味を振り返ることか

おそらく それは知に至る運動なのだろう

ソクラテスに待つまでもなく

何も知らないわれわれはこの運動を最後までするしかなさそうだ

しかし それはわれわれに何をもたらしてくれるのだろうか

おそらく 最後までわからないだろう

ただ その運動をしている間は十全に生きていることを感じることができるような気がする

それ以外に求めるものはないのかもしれない

それ以外は付録のようなものかもしれない




mardi 24 mars 2009

医学史の古典が課題に


Kurt Sprengel
(3. August 1766 - 15. März 1833)
deutscher Botaniker und Mediziner


次の三つのの著作が参考文献に上がっていた。いずれも BIUM から手に入る。

● Daniel Le Clerc. Histoire de la médecine.
Amsterdam : G. Gallet, 1702.

● Kurt Sprengel. Essai d'une histoire pragmatique de la médecine.
Paris : Imprimerie impériale, Vol. 1, 1809; Vol. 2, 1810.

● Charles Victor Daremberg. Histoire des sciences médicales.
Paris : J.-B. Baillière, 1870.

Le Clerc は800ページになろうとする大著だが、Sprengel は2巻で1200ページを超え、Daremberg は1300ページを超える壮大なる著作である。数百ページの本についてのコントランデュをするのに苦労しているのが小さなことに見えてくるから不思議である。これこそ文系の方の仕事になるのだろう。人類の蓄積に触れ味わうことが大きな目的でこちらに来たが、2-3世紀前の本に触れるような時には形容しがたい満足感が訪れる。それにしても、どれくらいでその満足感は終わるのだろうか・・・



samedi 21 mars 2009

ブログ 「生命科学を哲学する」 との統合に際して



ブログを始める時は時間的、精神的に余裕のある時期になる。そのためについ現実的な考慮が疎かになってしまう。過大な期待を抱いてしまうのである。これまで何度か経験してきたが、一向に改まらない。

昨年末に、このブログの前身「ジョルジュ・カンギレム・ページ」を「医を考える」として拡大した時に、基礎的な領域に重点を置いたブログ「生命科学を哲学する」も立ち上げた。それから3か月が経つが、多くの課題を抱えた身としてはその維持がなかなか大変である。そこで今回この二つを一緒にまとめることにした。もしこの活動が充実するようなことがあれば(そのような前途は見えないが)、その時に改めて二つに分けても遅くはないだろう。

ということで、URLはそのままで新しく「医学・生命科学を考える」として再出発することに致しました。

これからもよろしくお願い致します。





dimanche 15 mars 2009

シーウォル・ライトという遺伝学者 Sewall Wright


Sewall Wright
(December 21, 1889 – March 3, 1988)


遺伝的浮動などの研究でダーウィン後の進化論の発展に重要な役割を果たしたシーウォル・ライトという遺伝学者がいる。まず、99歳までしっかり生きた人であることに感動する。凍った道で滑り、骨盤骨折の合併症で亡くなっている。普通の人であれば、亡くなったことは残念だが99歳なのでおめでたいとも言えるのではないか、となるかもしれないが、彼の場合には目こそ弱っていたが知力の方に衰えはなく、夏にある国際学会を楽しみにし、亡くなる数時間前まで論文のディスカッションをしていたという。彼の4巻からなる2000ページを優に超える大著 "Evolution and the Genetics of Populations" (進化と集団遺伝学) は70歳後半から80歳代にかけて書かれたもの (1968年、1969年、1977年、1978年) で、最後の論文発表は亡くなる2か月前の1988年1月である。冬の散策に出ていなければ、まだまだ活力を保っていたと想像される。

彼の家系はシャルルマーニュ治世の8-9世紀にまで遡ることができることを知ると、遺伝学に興味を持つことになったのも理解できる。マサチューセッツ州メルローズに生まれたが、3歳の時に父親フィリップがイリノイ州のロンバード大学に職を得たので移り住む。まだ学校に行く前の7歳の時には "The Wonders of Nature" というパンフレットを書いている。早熟の少年だったようだ。父親のフィリップも polymath で大学では数学、天文学、経済学、測量学、体育、英作文を教え、詩や音楽を愛していた。そのためか、シーウォルには詩の領域に入るように勧めたが、彼は自然科学を選び父親を落胆させた。それは大学でアメリカの女性で初めて理学博士をシカゴ大学からもらっていたウィルヘルミン・キーという先生の影響が大きいと言われている。

大学卒業後、イリノイ大学でフェローシップをもらい、この間ハーバード大学のウイリアム・キャスルのもとでモルモットの毛の色について研究し、26歳の時に博士号を得る。ここで inbreeding (近親交配) にも研究を進めるが、それは両親がいとこ同士の結婚だったことが原因ではないかと考えている人もいる。それから10年間は同じテーマのもと農務省で、37歳から65歳の定年まではシカゴ大学、さらにその後の5年間はウィスコンシン州立大学で研究を続けた。キャリア後半には哲学にも興味を持ち、生物学についての哲学論文も物しているという。

やはり進化学者で100歳の人生を全うしたエルンスト・マイヤーがいる。こちらの方は定年後に生涯に出した本の半分以上 (14/25) を出版し、200編もの論文を書いているという圧倒的な活力を示している。お二人ともただただ素晴らしいと言う他はない。




samedi 14 mars 2009

マッシモ・ピグリウッチさんのセミナーを聞く Massimo Pigliucci



昨日の午後からニューヨーク州立大学ストーニー・ブルック校のマッシモ・ピグリウッチさんのセミナーがあった。昨年、ウィーン近郊のアルテンベルグにあるコンラート・ローレンツ研究所で開かれた進化論の新たな展開を探る会議で明らかになったことが中心であった。この会議については、昨年Nature誌にも取り上げられていたので興味を持って出かけた。

演題: Evolutionary theory: the view from Altenberg

ダーウィンに始まる進化論を次にように追っていた。

Evolutionary theory 1.0:

(1) common descent
(2) natural selection

ET 1.1:
(1) rejection of Lamarck
(2) separation of soma & germ

中心となった科学者:アルフレッド・ウォレスアウグスト・ヴァイスマン

ET 2.0: beginning of the modern synthesis
(1) compatibility between Mendelism & statistical genetics
(2) theories of selection & random drift: birth of population genetics

中心となった科学者:ロナルド・フィシャーJ.B.S.ホールデンシーウォル・ライト

ET 2.1: mature modern synthesis
(1) variationi in natural populations
(2) species concepts, speciation processes
(3) compatibility of gradualism with paleontology
(4) applicability of Darwinism to variety of mating & genetic systems in plants

中心となった科学者:テオドシウス・ドブジャンスキージュリアン・ハクスレーエルンスト・マイヤージョージ・ゲイロード・シンプソンジョージ・レドヤード・ステビンズ

これから modern synthesis の先をゆくET 3.0 に当たるものが必要になるのかどうか。この点について話し合うためにアルテンベルグに集まり、以下のような問題点について考えたという。

(1) How do we factor in development?
(2) Is evolution always gradual?
(3) Is natural selection the only organizing principle?
(4) What are the targets of selection?
(5) Is there a discontinuity between micro- and macro-evolution?
(6) Is the question of lamarckian inheritance settled?
(7) Where do evolutionary novelties come from?
(8) What about ecology?

この中では最後のエコロジーについて強調していたのが印象に残った。エコロジーが学問としての体裁を成しているのか。エコロジーこそこれから取り込んでいかなければならない領域ではないのか。要は、未だに手つかずで期待が持てる領域であるということになる。

トマス・クーンが物理学と天文学の歴史からパラダイムシフトという概念を導き出したが、生物学ではそれがあるのかどうか。神の存在を唱えたウィリアム・ペイリーからダーウィンにおける展開はその一つだろう。しかし、それ以降の展開はダーウィン進化論の修正、修飾、発展が中心でパラダイムシフトと言えるものはまだ現れていない。これからどのように進行していくのだろうか。その意味では興味深い領域ではある。

この成果は来年MIT Pressから出版されるようだ。最後に、新らたに彼もエディターの一人になって出すことになった open-access online journal "Philosophy & Theory in Biology (P&TB)" の紹介があった。生物学と哲学が離れてあり、時には対立する状態にもなる科学と哲学の関係を打開しようという意図も感じられ、同じ認識を持っている者として共感を持って聞いていた。

Massimo Pigliucci's Evolutionary Ecology Lab site




jeudi 12 mars 2009

人間を対象にした免疫学の推進

このタイトルを見て、分野外の人はこれまでの免疫研究は人間を対象にしていなかったのか、と驚かれるかも知れない。もちろん、時間的なスケールは人により異なるだろうが、免疫学の研究者は将来的には人間への応用を視野に入れていると想像される。私もかつてはその現場に身を置き、そのような視点を意識していたからである。しかし、実際の学問の世界で生き残るのは、他の世界と同様になかなか大変である。研究者が現実的な生活を考え始めると、理想はさて置き、生存に有利なやり方を取らざるを得なくなる。20-30年前までであれば研究者にもまだ余裕はあっただろうが、今や研究者の世界にも数字による評価が大手を振って歩くグローバリゼーションの波が押し寄せている。その波にのまれないためには、波に乗らなければならないというので、数字が上がる仕事に大挙することになる。その犠牲になっているのが、ヒトを対象にした免疫学だというのである。

この主張はよく理解できる。人間はそもそも雑種であり、病気の様相も複雑であるため、純粋科学から見ると研究が泥臭くなり数字による評価を得にくいため、より単純で解析がきれいにできるモデル動物や試験管内での実験に向かうことになる。研究者が生活する上ではこの視点はやむを得ないかもしれない。しかし、モデル動物とヒトとの間には大きな溝があり、動物での成果がヒトでは再現できないことがしばしば起きている。現在の研究の方向性がヒトの病気の解明や治療法を編み出す上で障害になっており、新しいアプローチが必要であるという考えが生まれても何ら不思議ではない。そのような考えが最近出されている。

Hayday AC, Peakman M "The habitual, diverse and surmountable obstacles to human immunology research" Nature Immunology 9: 575-580, 2008

Mark M. Davis "A prescription for human immunology" Immunity 29: 835-838, 2008

この二つの論文を読みながら、いろいろな考えが廻っていた。まずヒトそのものを対象にして研究を進めること自体には倫理的な面をクリアしていれば異論はないだろうし、そうしなければわれわれに還元される研究成果は生まれないだろう。

ここで一番大きな疑問に感じるのは、このように指標を増やし、対象を広げて集団としての数値を出すことで果たして正常や異常を定義できるのかという点である。それはある物質の量を調べる研究になるので、同一個人でも時とその環境により大きく変化することが予想される。この点についてはマスター1年目の論文でジョルジュ・カンギレムの仕事を読みながら考えてみたが、現時点では否定的な見方に傾いている。もちろん、このようなアプローチをする過程で副産物として新たな発見は生まれる可能性はあるだろうが、、。

第二には、このやり方はゲノム解析の時のように多数の研究者を巻き込んだ組織として科学をしなければならなくなる。ビッグ・サイエンスである。一つのシステムを個人レベルで追うという科学が歴史的に持っていたスタイルとは大きく異なる。ビッグ・サイエンスが生み出す成果には計り知れないものがあることはゲノム解析で実証済みである。ただ個人的には、これまでスモール・サイエンスに参加する意義を感じてやってきたので、ビッグ・サイエンスに関わる心境にはなれない。そこでは大きな目的のために科学者個人が埋もれてしまうように見えるからだろう。大義のためにこのようなプロジェクトに参加しようとする意志を持った研究者によるしかないのだろう。

それから莫大な研究費の確保も問題になるだろう。物動物実験の場合には遺伝的に均一な集団を用いることが多いが、ヒトの場合には雑種であり、しかも人種による差も考慮に入れなければならない。このようなアプローチに対して、一般の人の理解が得られるかどうか。日本の状況も注意して見て行きたい。

最後に研究者をヒトの研究に向かわせるには、今の研究評価の在り方を根本から考え直さなければ、これらの提案は理想に終わり実現は難しいかもしれない。研究者は現在ある条件の元に仕事を始めることになるので、今のままであれば成果の出やすいところに流れるのは避けられないだろう。今行われている評価には大きな問題があると考えているが、それを改めるためには今の評価のやり方を上回る哲学が求められるだろう。今すぐにその状況が変わるとは思えないが、そのような哲学を練り上げていく必要があるだろう。以前に別のサイトで少しだけ触れたことがあるが、そういう声は出始めている。今後もこの問題は注視する必要があるだろう。





mercredi 11 mars 2009

アングロサクソンからみたカンギレム "What is health? The ability to adapt"

イギリスの医学雑誌にカンギレムを持ちだして、健康について論じている Editorial があった。

The Lancet, March 7, 2009

健康を身体的、精神的、社会的に見て完全な状態としたり、単に病気のない状態と規定するのではなく、個人の適応力として柔軟に捉えることで、医学自体が相手に対して気持ちを寄せ、慰めを与え、創造的な行いをし得るようになるのではないか、と考えている。しかもその適応力には社会的要素や地球環境との相互作用も含まれてくる。これらすべての要素の中で個人の健康、さらには病気を捉えることで現代医学が得る物は計り知れないのではないだろうか。

マスター1年目でカンギレムを読みながら考えていたことは、まさにこのこと繋がっている。健康を今行われているような平均値から定義することはできるのか。むしろ健康とは哲学的(形而上学的)な定義しかできないのではないか。病気とはそこからの単なる逸脱ではなく、全く新しい状態、何らかの創造を生み出す可能性のある状態、人間が生まれ変わる機会を提供する状態、より深く生きるための準備をさせてくれる状態、などとして考えられないか。このようなことが1年目の考えのベースにあったことである。これらを元にして、さらに考えを深めたいものである。





samedi 7 mars 2009

科学史家ジョージ・サートン対医学史家ヘンリー・シゲリスト George Sarton vs Henry Sigerist (III)

今日は医学史家のヘンリー・シゲリストの意見を聞いてみたい。

Henry Sigerist: The history of medicine and the history of science. An open letter to George Sarton, editor of Isis. Bulletin of the Institute of the History of Medicine 4: 1-13, 1936

あなたは Isis の第23巻に "The history of Science versus the history of medicine" と題して論文を書きました。あなたの雑誌が23巻にも達することは、この雑誌が成長していることを示していて誇りに値するでしょう。われわれは愛着と敬意を持ってあなたの雑誌を見ております。ここでは私だけではなく医学史研究者の代表として、あなたの指摘された点について書いてみたいと思おいます。

まずわれわれの分野が対立するような論文のタイトルを見て驚きました。ご指摘の通り、医学史の大部分の仕事は無知な好事家によって書かれた価値のないものである点、それだけではなく犯罪的でさえあることに同意します。擬似歴史家にしか過ぎない有名な医家は、間違った医学データを発表することには神経を尖らせるのに、同様の歴史書を出版することにはなんら躊躇しません。それは彼らのキャリアに影響がないためです。歴史研究のためには生化学の手法を学ぶ数倍の時間と労力が求められます。彼らは歴史家としての責任を理解していないのです。

しかし、彼らは文化的な医家であり、その熱意を否定するのは気が引けます。興味を共有する人たちの間でクラブ的に語らうのはよい効果があるでしょう。ただそれを出版するとなると話は別になります。医学と違い、誤った歴史を発表することで人が死ぬことはないでしょうが、大きな害を及ぼします。古代ギリシャ語や文学、哲学の知識なしにギリシャの医学について書くべきではないし、中世ラテン語や神学を知らずして中世医学について書くのも問題です。どのような場合でも原典に当たるべきなので、それは可能なのです。そして、必要な時には専門家の助言を求めるべきでしょう。

歴史研究のレベルを上げるためにはどうしたらよいでしょうか。医学部教育は重要です。私の学生がヒポクラテスの伝記を書くようなことはしないと確信しています。ここまではあなたに完全に同意します。しかし、医学史が科学史の最良の部分であると医学史家が言っているということには強い異議を表明したいと思います。一体誰がそのようなことを言ったのでしょうか。誰もいないと思います。

あなたはなぜ医学史が科学史より普及しているのか、なぜ医学史研究所があるのかについて疑問に思っているようですが、財政的には決して恵まれていませんし、普及しているという状況は歴史研究の基礎がある人よりは趣味の人が多いということに過ぎません。医学史研究所を作るのにはそれほどのお金はいりませんが、それさえも集めることが難しいのです。一つにはわれわれ自身の研究の重要性を訴える働きかけが不足しているのだと思います。

ここであなたの誤解を払拭しなければなりません。それは医学史がほかのどの科学史の分野よりも体系的に多くの研究者によって研究されているということです。さらに医学は科学というよりは art だと言っていることです。まさに、医学は科学の一分野ではなく、これからもそうでしょう。もしそうであれば、それは社会科学の一分野ということになります。応用科学と位置付けることは誤りになります。

科学は医学の一面にしか過ぎず、他の多くの要素が含まれています。医学史は、医者と患者の関係、医学を取り巻く多くの職種(管理者、公衆衛生関係、科学者、看護師、神父、藪医者など)、社会などの歴史を扱う広範な分野です。それから医学は提供し、提供されるサービスで、経済的な考慮が重要になります。広い意味で、医学史は経済史の側面を持っている所以です。それから、医学は医者が見ているものだけではありません。大部分の病気は医者に見られることなく、本人や家族が対処しているのです。それからカルトや宗教が治療に関わってくることもあり、ここでは宗教史が入り込みます。

したがって、医学史が科学史の一つであるというのは基本的には誤りになります。医学が半世紀前よりも注目を集めているのは、医学の進歩と関係があるでしょう。医学の専門化が進めば進むほど、全体を上から見る必要が出てきたのです。医学の歴史を研究することにより、人々の健康改善を目指しているのだと思います。

科学史研究を永続的に効果的に進めるための研究所がまだないということは私も残念に思います。しかし、真の学者はどのような環境にあれ仕事をするものです。あなたがそれをよく示してきました。研究を志した者は安穏とした生活を拒否したのではないでしょうか。研究所は贅沢品ではなく必要な道具です。人が第一であることには変わりありませんが、環境がよければそれに越したことはありません。それと他の仕事で時間が失われることも問題です。

科学史研究所が少ないということは残念ですが、それは人気の問題ではないと思います。人気は研究に益するどころか、殺すことになります。数学史があのように素晴らしい業績を上げているのは、この分野の人が少ないからです。人気が出ると遅かれ早かれ学者をスポイルすることになり、研究の質を下げることになります。

科学史は時宜を得た研究領域になっていますが、なぜ研究所がもっとできないのでしょうか。ひとつには、それにはお金がかかるからです。今や一人で物理学の歴史も植物学の歴史もカバーできないので、多くのスタッフが必要になります。医学の場合には専門化が進んではいるものの他の領域を理解しやすいところがあります。いずれにせよ、科学は自然についての科学ではなくなっています。ひとりではどうしようもないのです。科学史に統合が求められる理由です。

これには先見性と力のある人物が必要になります。歴史は繰り返しています。科学が進むと新しい地平を開く新しい人が現れ、困難や偏見と闘いながら政治家が手を差し伸べるまで待つのです。もし科学史が時宜を得て重要性のある分野にもかかわらず充分な援助を得られていないとするならば、それは文化政策の無策振りを示すものと考えます。

ヨーロッパ社会が崩壊しています。今やすべてのエネルギーは戦争準備に費やされ、イスラム教国の運命論のようにそれは避けられないものと受け止められています。これまで生き延びてきたものを保存するためにあらゆる努力が必要になります。

アメリカの問題はビジョンを持った人間と権力を持った者が異なっていることです。しかも連邦政府には独自の文化政策がありません。州政府は主に初等教育に興味があります。大学の財政は限られているのです。

最後にひとつ言いたいことがあります。医学史は医学であるのみならず、歴史でもあるということです。科学史がそうであるように文明史の一面があります。科学史の中心は医学史ではなく(もちろん違います)、数学史だとあなたは言われていましたが、数学史についてはよくわかりません。しかし、人は文化を創る前に、永遠の価値を理解する前に食べなければなりません。それが人類の歴史です。経済的・政治的状況が文化的状況を決めているのです。

もしソ連で科学や科学史が栄えているとすれば、それは新しい経済的・政治的体制の結果になります。ドイツで科学が後退しているのも同じ原因でしょう。政治・経済史が人類の歴史の核にあると考える所以です。人類の歴史を研究する場合、人間のすべての活動の歴史を調べなければならず、そのためにはそれぞれの分野が共同する必要があります。それによってのみ、われわれは統合に達することができるかもしれません。

私はライプチッヒ大学で見られたような総合的な歴史研究所ができることを夢見ています。そのような研究所が国の生存に重要な役割は果たすことに疑いがありません。

長い便りになりました。あなたの序言がわたしを促し、すべてを語るまでは終わる訳にはいきませんでした。新年おめでとうございます。口論するのではなく、協調していきましょう。われわれはともに若い分野を代表しています。われわれは共通のものを多く持ち、同じ目的のために闘っています。どうか落胆されませんように。あなたは開拓者の仕事をしています。誰かがやらなければならないのです。収穫はいつの日か、どこかで訪れるでしょう。そして、それは豊かなものになるでしょう。それこそが問題なのです。




vendredi 6 mars 2009

科学史家ジョージ・サートン対医学史家ヘンリー・シゲリスト George Sarton vs Henry Sigerist (II)

昨日紹介した科学史家ジョージ・サートンと医学史家ヘンリー・シゲリストのお二人による対論を聞いてみたい。まずジョージ・サートン氏の主張から。

George Sarton: The history of science versus the history of medicine. Isis 23: 313-320, 1935

論文のタイトルで対立的に捉えられているように、科学史家の立場から医学史の領域を見ると、多くの人が参加していて栄えているので羨望の眼差しが一貫している。要約すると次のようになる。

歴史家としてのトレーニングを受けていない医家が仕事の合間を縫って書くことが多いので、その質は必ずしも高いものとは言えない。歴史の研究には資料もさることながら、その解析の鋭さや多面性が求められ、素人の能力を超えるものがある。医学史の場合、資料と研究者が揃った研究所がライプチッヒ大学、ジョンズ・ホプキンス大学にある。ヘンリー・シゲリスト博士はライプチッヒ大学からジョンズ・ホプキンス大学に移っている。

しかし、このような現象は医学と対極にある数学では見られない。ハイデルベルグ大学から始まった Moritz Cantor (1829-1920) の研究成果はすばらしいものがあり医学史とは比較にならないのだが、未だ数学史の研究所はできていない。数学に関する図書館はストックホルム、ニューヨーク、ロードアイランド州プロヴィデンスにあるが、体系的には利用されていない。

医学史との状況の違いをどのように説明すればよいのだろうか。それは簡単で、一般的に科学史の人気は低いが、その中で医学史の人気が相対的に高いということである。普通の人に科学や数学の重要性を理解してもらうのは大変だが、医学の場合にはその必要がない。この状態を恨めしく思うよりは祝福したいのだが、科学史のなかで医学史が最良の部分であると医者でない者に言うのは見逃すことができない。

16世紀までは知識人は医者か、神学者、法学者であった。生活があるので科学に興味のある者はまず医者になり、自然科学を研究する傾向が19世紀まで続いた。純粋な科学者が出るようになってからの歴史は短いのだ。したがって、昔の科学者は種々の分野で業績を上げているが、医学史家は医学に関係のない領域については触れないか、医学的に重要なところしか触れない傾向があり、多面的なアプローチがされていない。それでは医学史とは言えない。

科学史の中心は医学史ではなく、数学史でなければならない。宇宙の基本的な説明は数学的にならざるを得ないし、数学以外では難しいだろう。ただ、数学史に焦点を合わせた科学史は医学史に比して人気がない。医学が人間に絡むのに対して、数学は非人間的で冷たく見える。しかし、全体の真実を掴もうとした時には科学史が深いものを提供する。数学は人間の思考の最も中心にあるものである。無限についての知識は数学に負っている。しかし、医学史家は数学に対して、副産物と言ってもよい応用可能な面でだけしか取り上げない。

医家は人間の病気や精神について知っており、時にその治療までできるが、人間についての本質的なことは理解していない。それは数学者や数理物理学者に委ねられているのである。ただ、もっとも興味深い研究は、数学史だけではなく科学史、および科学史に焦点を合わせた人類の歴史によって成されている。そして、科学哲学なくして歴史的視点も得られないばかりか、視点そのものが得られないことになる。それでは表面的で、不完全で、独善に満ちた結論にしか辿り着かないのである。

医学史の重要性はわかるが、それが科学史であるかのように考えているのは錯覚である。その認識はハムレットがいないハムレットの芝居のように不完全で間違っている。幸いなことに、多くの医家や医学史家もそれがわかってきて、そのような常識外れのことは言わなくなっている。彼らの中には歴史や科学史に興味を持ち、科学史協会の会員になり Isis を読み、さらには投稿する人まで増えている。今や科学史も医学史のように認知され、支援される時が近い。




jeudi 5 mars 2009

「科学史」 対 「医学史」 か、「科学史」 と 「医学史」 か George Sarton vs Henry Sigerist

科学史を学問の一分野とした「科学史の父」と称されるジョージ・サートンと医学史研究家のヘンリー・シゲリストとの間で1930年代に行われた論争について触れたい。その前に、両者の簡単な紹介から。



George Sarton (1884-1956)


1884年、ベルギーのゲントに生まれる。ゲント大学で最初哲学を学んでいたが数学に転向し、1911年に学位を取得。学生時代から小説、詩、エッセイを物し、オーギュスト・コントやアンリ・ポアンカレに傾倒し、科学哲学の基には科学史がなければならないと考えるようになる。1913年に最初の論文を科学史の雑誌 Isis に発表。第一次大戦の勃発でオランダ経由でイギリスへ亡命後、1915年にはアメリカに渡り生涯を彼の地で過ごす。1915年から1918年までハーバード大学で講義。レオナルド・ダビンチまでの科学の歴史を辿るプロジェクトが始まる。1919年に二つ目の論文を Isis に発表。1924年にはアメリカの市民権獲得。1940年にはハーバード大学教授になり、1951年退官。その後も1956年に亡くなるまで講義を続ける。彼は科学の継続性や魔術との近縁性を強調した。彼の主著 "Introduction to the History of Science" は3巻、4236ページに及ぶ。



Henry Sigerist (1891-1957)


1891年パリに生まれる。1917年、チューリッヒ大学医学部卒業。スイス軍で医療に携わった後、医学史の研究に打ち込む。チューリッヒ大学、ライプチッヒ大学を経て、1931年ジョンズ・ホプキンス大学へ移り、翌年にはウィリアム・ウェルチの後任として医学史研究所の所長に就任。1933年、後に "Bulletin of the History of Medicine" となる "Bulletin of the Institute of the History of Medicine" を発刊。1947年に退官するまでに8巻に及ぶ医学史を執筆。生前にはその1巻だけが1957年に出版される。