Affichage des articles dont le libellé est metaphysics. Afficher tous les articles
Affichage des articles dont le libellé est metaphysics. Afficher tous les articles

dimanche 21 décembre 2014

マルセル・コンシュさんによる哲学、人生、真理

 Marcel Conche (1922-) 
© Dailymotion


マルセル・コンシュさんのビデオを観る

もう92歳になっているが、これは何年前のものだろうか

91歳の時にビデオが作られているので、そのボーナス映像ならば同じ時になる

 Marcel Conche : La nature d'un philosophe (Christian Girier)

コンシュさんについては最初のブログから取り上げている

おそらく、フランス語を始めるようになり、最初に知った哲学者になるだろう

最近では、今年の2月にこの場に書いている

マルセル・コンシュさんによるエピクロスの哲学 (2014-2-18)


このビデオでは、かなり重要なことが語られている

特に心を打ったのは、探究の末に絶対的な真理に到達したという言葉

そして、そこに至るには自由が決め手になるということであった

彼の語りの簡単なまとめを以下に

-------------------------------

まず、天職について

早い時期から人生を哲学に捧げることを決めており、それ以外のすべてを犠牲にしてきた

その中には愛情も入っている

結婚して妻を愛してはいたが、愛情に溢れていたわけではなかった

愛情に溢れることによる幸福を求めたが、それを一度も味わうことはなかった

しかし、そのことに後悔は全くない

その理由は、自分が味わうことができなかったその内容を知らないからである

そして、それは自分が選択した道ではなかったからでもある

愛情生活は素晴らしいが、いろいろなことを一緒にやらなければならないので時間を奪われる

そのことには24歳の時から注意していた

愛する人と共にいることと愛情生活は別である

愛情生活と思考による喜びも別物である


わたしは幸福を求めはしない

わたしに必要なものは、幸福ではなく真理に近づくこと、すなわち哲学である

 幸福とは、真理に近づくべく探究するそのことの中に表れているとも言える

 わたしの見方をニーチェが書いている

 « La vraie vie ne veut pas le bonheur. Elle se détourne du bonheur. » 

「真の生活は幸福を欲しない。真の生活は幸福から離れて行くのである」


わたしには嫉妬も羨望の感情も全くない

そこには何の利点もないだろう


この年になり真理を発見したと思うかと訊かれれば、答えは非常に簡単で、「ウィ」である

わたしがやっている形而上学で重要になるのは、証明ではなく、力強い議論である

それを決めるのは、論者の自由である

ここで言う真理は、わたしの真理と言うよりは絶対的真理である


神は文化的な存在で、個人の判断を超えた客観的な存在ではない

自然の根源的な意味について、科学はある段階までは参考になる

しかし、科学が形而上学を代替することはできない

形而上学が全体を扱うのに対して、科学はそうではないからである

ビッグバンから始まる世界がすべてだという人がいるが、それは「もの・こと」の全体ではない

エピクロスが言った無限の世界がそこにある

有限のわれわれが無限を理解することができるのか

無限とは神が与える想像の世界にだけあるのではなく、われわれが生きている自然の中にある

その意味で、スピノザは正しかった

われわれは無限の中に在ることを知り、そのことを祝福して生きることが大切である







vendredi 3 octobre 2014

エピジェネティークの後はメタフィジーク

Dr Vincent Colot
Institut de Biologie de l’Ecole Normale Supérieure (IBENS)


昨日と今日はエピジェネティックスについてのワークショップへ


若い哲学研究者が中心で、数名の最先端の生物学者が加わっていた

哲学者の興味は言葉の中身、定義へと向かいがちである

それは重要なのだが、科学は定義なしに「こと」を進めることができる

どれだけの科学者がこの作業に興味を持つだろうか


エピジェネティックスはラマルク的か、という問いがある

今明らかにされていることをラマルクが言っていたわけではないという意味で、答えはNOだろう

現象面では類似しているのだが、、

ラマルクという言葉が出てくるように、科学の成果を歴史に照らして検討することの意味は大きい


エピジェネティックスはパラダイム・シフトを起こしているのか、という問いもある

さらに、「遺伝子なき遺伝」という言葉も踊っている

遺伝子はタンパクをコードするDNAの断片と定義されてきた

DNAの配列に依存しない遺伝も明らかになる

しかし、それは遺伝子があってのことである

「遺伝子なき遺伝」はありえないし、パラダイム・シフトを起こしているということもない

ただ、メンデルの遺伝学を豊かにしていることは確かである

そんなところが現状認識になるだろうか


遺伝子産物の発現に関与するすべての要素を含めて遺伝子と定義したいとする意見があった

ジャン・ドイチュ博士の提唱で、博士はそれを「パンゲン」と名付けていた

この名称について疑義を差し挟んだことは以前に触れた


偶然にも博士が横になったので、その後の経過を訊いてみた

そうすると、新しい「パンゲン」のアイディはなかなか受け入れてもらえないとの返答であった


今日のデジュネはMD氏と一緒だった

話題は、新しく出たエッセイのテーマと同じ科学と形而上学

なかなか良い話ができたと思う

わたしは科学の成果から出発して形而上学の世界に飛び出したいと思っている


一方のMD氏は、科学から形而上学を一掃したいと考えている

彼の言う形而上学とは、自然界には実体がないもので、言葉だけの世界を指している

もしそうだとすると、科学で使われている言葉のかなりの部分は形而上学の世界に属することになる

それを一掃することなどできるのだろうか

おそらく無理だろうと彼も思っている

その場合は、そういう曖昧なものを扱っていることを科学者が意識する必要があるという

ご本人は、それを科学者に意識させるようにすることが大切だと考えている


わたしの形而上学は科学の成果の先にある想像の世界になる

科学から離れることなく、その世界に新しい光を当てることができないだろうか

そうすることによって、「もの・こと」をより深く理解できるような光の当て方ができないだろうか

そんな問題意識を持っている


今日意見の一致を見たのは、次の点だった

哲学が自らの中に籠もり、そこでの満足を求めるところに留まるのを止めること

そして、多くの科学者が納得する形で科学にフィードバックができるようなやり方を模索すること

今の状態では科学者は哲学の言うことを聞くことはないだろう

もったいない話である

科学が気付いていないのだから、哲学の側からの働きかけが問われることになる

Philosophy of scienceではなく、Philosophy for scienceの視点を採ることができるかどうか

そこが問われるだろう

そう言っている哲学者もいる


このような考えになるのは、お互い科学から出発して哲学に入ったからだろう

科学への働きかけが常に意識にあるからだろう





dimanche 5 mai 2013

大陸哲学と分析哲学、わたしの場合


こちらに来る前、フランスのものを読み、その思考に違和感を覚えたことについては、これまで何度も触れている。ひょっとすると、そのことからすべてが始まっていると言っても過言ではないのかもしれない。違和感を増強した背後には、アメリカで染み付いたアングロ・サクソン的なものの見方があったこともほぼ間違いないだろう。この違いをどう表現すればよいのだろうか。これまでに書いてきたものの中に、いろいろな表現で出てきているはずである。

一般に、フランスやドイツの哲学を大陸哲学、アングロ・サクソンの哲学を分析哲学というが、それは地理的な差ではなく、それぞれの伝統的なやり方についての名称になっている。ここで、両者の違いをアメリカで大陸哲学をやっているバベット・バビッチ(Babette Babich, 1956-)さんの近著La Fin de la pensée ? Philosophie analytique contre philosophie continentale 2012)を頼りに簡単に纏めてみたい。

哲学とは考えること、思想、思考に関するという点では両者に差はない。大きく言ってしまうと、分析哲学は明晰さ、論理、答え、解決を求めるのに対して、大陸哲学は答えではなく問いの意味を考える傾向がある。先日取り上げたネガティブ・ケイパビリティとも関係しそうな 「曖昧さに耐える能力」 が求められるのである。大陸哲学が多元論的で、分析哲学を排除することはない寛容さがあるのに対して、分析哲学は大陸哲学を拒否する。両者の間には単なるスタイルや気質の違いだけではなく、対立の可能性が内在している。 

もう少し詳しく見ると、大陸哲学は哲学的問い掛けを問い掛けとして開いた状態にあることを認める。答えを提供することよりは、厳密で批判的な問い掛けを提供することに興味を持っている。問いを出すに値するのはなぜなのかについて省察しようとする。哲学の誕生以来ある問題の全体を再検討することを目指すもので、現実世界を感受し、生きることに関係する哲学を生み出す素地がある。自らの正当性の根拠を科学に求めないため、科学についての省察が可能になる。

対する分析哲学は、対象を分解し、非現実的で間違った問題を排除、否定し、最終的に分析できない問題がないようにする。ある意味では縮小に向かう概念とも言える。そのことにより、「こと」 を前に進める発展・進歩の思想も含まれてくる。この哲学がその正当性を科学に求め、科学とともにあること、科学だけが問題を解決するとする科学主義の傾向があることを考えると、よく理解できる。永遠の問題など言っているのは、明晰さの欠如であり、科学の欠如、知性の限界であると考えるのである。

分析哲学が優位にある世界でのよい哲学とは、明快に議論されているもので、必然的に理解しやすいものになる。明晰さと平明さは今日の大学においても、公共においても重要になっている。世に出回っているものを見れば、このことがよくわかる。対する悪い哲学は、読み辛く、理解しにくいもので単に避けられるだけではなく、批判の対象にさえなる。    

バビッチさんによれば、今では大陸哲学の要素が圧縮されるような形で一つの哲学として扱われているという。アメリカの大学で大陸哲学をやることは、社会的に認知されないことをやるような雰囲気があり、大陸哲学者は賤しめられていると見ている。しかし同時に、分析哲学はその資源を使い果たしたのか、大陸哲学の魅力のためなのか、大陸哲学のテーマを取り入れる傾向も見られるという。その扱い方には不満があるようだが、、。このような傾向はフランスでも表れていると見ているが、学生の大陸哲学に対する興味は衰えていないという。
翻って自らの立場を考えると、こうなりそうだ。もともとフランスに渡ってきたのは、まさにここで言う大陸哲学の訳のわからなさに惹かれてのことであった。科学の中に長く身を置く中で、何かが欠けていると感じたもの。それこそ科学では解決できない問いを一人の人間として問うことだったような気がしている。そのため、フランスでも科学的哲学に浸食されている現状には残念な気がしている。ただ、わたしが形而上学に強く惹かれたように、これまでの哲学に飽き足らなくなり、科学にその足掛かりを求めるということも理解はできるのである。今の考えは、科学から出発して形而上学へと飛び、その上で両者の間を行き来できればよいのだが、ということになるだろうか。