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mercredi 28 janvier 2015

最新の免疫学関連本二冊


今週はパリから南へ1時間のところにあるシャルトルで過ごしている

町のリブレリーに入り、免疫学関連の本が目に入ったので紹介したい

一つは、昨年出たフィリップ・クリルスキー(Philippe Kourilsky, 1942-)博士のもの

(Odile Jacob, 2014)

博士は、2012年までコレージュ・ド・フランス教授だった

講義を何度も聴いたが、この本はその総決算という印象がある

哲学的な雰囲気もあり、新しい見方を提供しようとしているようにも見える


もう一冊は、パスツール研究所のジャック・テーズ(Jacques Thèze, 1944-)博士の出たばかりのもの

 (Odile Jacob, 2015)

博士は、わたしがボストンに滞在した時期にベナセラフ(1920-2011)博士の研究室に留学していた

そのため、セミナーなどではお顔は拝見したことがある

その意味で、懐かしいお名前である

この本の構成は伝統的・教科書的なもので、その内容が新しくなっているという印象である

あくまでも第一印象ではあるが、免疫学全体に新しい見方を提供しているという感じはしない

読後に新しい感想が出てくることがあれば、改めて書いてみたい





vendredi 28 novembre 2014

第8回サイファイ・カフェ SHE のまとめ

2014年11月27日(木)に参加の皆様


第8回サイファイ・カフェ SHE の初日

いつものように直前まで準備に追われ、消化不足の感が拭えなかった

テーマはインテリジェント・デザイン(ID) で、科学の領域にいる時には頭に浮かぶこともなかった

そのため、他の科学者も同様なのかと想像していた

しかし、テーマの提示の後に続いたディスカッションは中身が濃く、しかも途切れることがなかった

参加された皆様の興味と意識が高いことに驚いた

あるいは、それだからこそ参加されたということでもあるのだろうが、、

この流れは懇親会でも変わらず、3時間にも及ぶ意見交換が続いた

哲学をどう見るのか、日本における哲学の現状は?というような広い問題についても語られていた

わたし自身も語る中で、自分の考えを再確認していた

他には、日本社会にこのような意見交換の場が非常に少ないという声が聞こえた

また、若い人の参加を如何に増やすかにも注意を払った方が良いのではないかという意見もあった

会の中での議論は深まりを見せているが、特に若い層への働きかけの工夫が必要になるのかもしれない


 2014年11月28日(金)に参加の皆様


第8回サイファイ・カフェSHEの2日目

この日もディスカッションは密な繋がりを見せ、懇親会でもそれが続いていた
 
しかし、昨日との違いにも気が付いた

それは、同じ材料を提示した後に立ち上がるディスカッションの内容の違いであった

参加者によって全く別の世界が広がるという、考えれば当たり前のことに感動したのである

昨日は統計や確率などが飛び出し、科学の方法論を中心とした科学的な内容が多かったような印象がある

今日は宗教(仏教やキリスト教)や生命の誕生の説明に関連する話が多かったように記憶している

それ以外の話も出ていたが、最初の印象が記憶の前面に残ったためかもしれないのだが、、、


わたしの役割は、事実を提示すること

それを広げ、深めるのは参加者の役割

参加者が「考える」という作業を担当しているとも言える

この関係はわたしの理想とするもので、少しずつそこに向かっているようでもある
 
今回も話題になった進化は、そもそも偶然が支配するopen-endedな過程と考えられている

その時点での条件に向き合うことを続けている先に、何が出てくるのか分からない

それが生命の持つ創造性にも繋がるのだろう

この会も生き物のようなもの

方向性を持たない進化の道を辿ることで良いのだと思う

 これは、理想に向かっているとする上の感想と一見矛盾するようにも見える


こう考えれば、問題はなさそうだ

上の理想は行き先そのものではなく、そこへの行き方に関わるものである

歩き方は覚えつつあるが、それはどこに向かうのかを決めることとは関係はない

しっかり歩くことを続けているうちに、思いもよらないところに辿り着く

そのイメージでよいのではないか

それが面白そうである

それこそが、この生き物を十全に生かす道になるのではないか


帰り道、原宿・渋谷間で人が線路に飛び出し、30分ほど足止めを食らった後にこんな考えが巡っていた


年末のお忙しいところ、参加された皆様に感謝いたします

次回は、来年の夏以降になる予定です

ご理解のほど、よろしくお願いいたします




jeudi 16 octobre 2014

「科学における知の基盤を探る」 講演会のご案内

@Collège de France


講演会のご案内をいただきました

以下の要領で行われます

興味をお持ちの方は奮ってご参加を!

--------------------------------
「科学における知の基盤を探る」 講演会開催のご案内 
日時: 2014年11月18日(火)13:30~17:30
会場: 日仏会館ホール
〒150-0013 東京都渋谷区恵比寿3-9-25
入場料: 無料

    演題Ⅰ 

「科学思想の源泉としてのフランス─デカルトから啓蒙思想へ─」

村上 陽一郎氏(東京大学名誉教授)

演題Ⅱ 

「モノー 『偶然と必然』: 生物の生物らしさを分子から理解しようとする思索のあゆみ」

佐藤 直樹氏(東京大学大学院総合文化研究科教授)

演題Ⅲ 

「新しい自然誌(Histoire naturelle)を求めて」

中村 桂子氏(JT生命誌研究館館長)


参加ご希望の方は、池田忠生 tdikeda@ae.auone-net.jp にお申し込みください。

定員になり次第、受付を終了させていただきます。





dimanche 24 novembre 2013

アメリカの医学哲学会議で、英語世界におけるフランスを考える


昨夜ニューアークを発ち、今朝オルリーに着いた

ニューヨークでは何かに追われるような緊張の中、常に動き、前に進むことを強いられる

声が大きく、会話のテンポは速く、決然としていて、即断が求められるように感じる

こちらにはそれがない

そのためだろうか、少し引いてゆっくり思いを巡らすことができるようだ


医学哲学においても、テーマとその扱い方がアメリカとフランスでは明らかに違う

実証的で科学的に対象に迫るのがアメリカのやり方で、主観の関与をなくし対象を突き放してしまう

そのため、科学の発表と変わらず、冗談も科学者のものと変わらない

リタ・シャロンさんの "narrative medicine" などは、この中にあって異質に見える

フランスの場合には、実証的な研究もあるが、抽象的な思索に入る場合が稀ではない

観念論や形而上学的思索が許されている

これがアメリカでは興味の対象から外れ、フランスではよく知られている哲学者は読まれていないようだ


アメリカにいた時の感受性を思い出しながら形而上学の含みのある発表を聴いてみた

そうすると、アングロ・サクソンの反応がよくわかるのだ

フランスの中に閉じ籠っているように感じさせるのは、フランスの哲学にとっても得策ではないだろう

アングロ・サクソンの枠組みの中で、如何にフランスの特徴を発信することができるのか

この発想がなければ、例外的な研究、マージナルな研究ということになりかねない

フランス語がわからなければ、その思想に触れることができないからだ

それほど英語的発想には圧倒的な力があり、それゆえフランス的な思考が重要になるはずである

発想を大きく変える必要があると感じた


6月にパリで同様の医学哲学の会議があった

その時はベースがヨーロッパだったので、このような切迫感はなかった

今回はほとんどがアングロ・サクソン的背景の中で行われた

そのためだと思うが、両者の落差が想像以上に大きいことを改めて感じる旅となった




samedi 12 octobre 2013

科学史の存在理由を問う


存在理由を問うことは、人間をはじめとしてあらゆることに求められるべきだろう

科学の歴史についてもいろいろな説明がされている

最近、オーフス大学の歴史家 Helge Kragh さんの考えに触れる機会があった

彼は6つの理由を挙げている

その第一は、科学史は科学哲学にとって必須である

哲学をする前提としての実証的な部分を構成するというのである

第二は、その教育的重要性である

科学を教える時、その歴史を教えることが一つの有効は方法になると考えるからである

第三には、文系と理系という二つの文化を繋ぐものとしての役割である

第四は、特に第二次大戦後、科学研究の有用性を強調するために重要になってきた

それは政治的な理由と言ってもよいものだが、反対に科学研究を監視する上でも重要になるだろう

第五は、科学研究そのものにとって有用なことである

新しい道を拓くというだけではなく、科学知に対して批判的な目を向ける上でも重要になる

そして第六は、過去の科学知がそれだけで興味深いものであるということである

それは今はほとんど役立たない知であることがほとんどであるが、それにも拘らずである


これらの理由は、他の領域を考える上でも重なる部分が多いように見える



vendredi 20 septembre 2013

西研教授の 「現象学的明証性とエビデンスをめぐって」 を読んで


今回の日本滞在では、東京医科大学のファカルティ・ディベロプメントでお話しする機会があった

その会場には哲学科の西研教授がおられ、多くの示唆に富むコメントをいただいた

講演終了後に届いたメールの中で、エビデンスと現象学についての対談を紹介された

ご本人のHPの冒頭から数行下のところにある 「現象学的明証性とエビデンスをめぐって」 である

 現象学と言えば、もう7年前になるが一つの出来事があった

イメージ、時間、現象学 L'IMAGE, LE TEMPS, LA PHENOMENOLOGIE (2006-04-28)

それ以来、いつかはと思いながらも未だ手付かずの現象学

 今回の滞在では時間がとれなかったので、パリに落ち着いた今朝、目を通してみた


科学的なエビデンスとの比較で、哲学的エビデンスについて現象学での可能性を探っている

現象学におけるエビデンスは、「明証性」 と訳されている

科学におけるエビデンスは、知覚事実とその数学的処理により得られるとしている

それに対して、現象学における 「明証性」 はどのように確保されるのだろうか

フッサールによれば、わたしにとっては疑うことができない 「事柄それ自身の現前」 として捉えられる

そこにはまだ、誰とでも共有できる性質が備わっていない


フッサールは 『デカルト的省察』 で、知覚事実とより厳密なエビデンスになる反省による内在的体験を分けているという

その上で、知覚事実については疑えるが、それについて反省していることは疑えないと考えた

まさに、デカルトの Je pense donc je suis である

対象は多様でも、そこに向かう態度には誰にでも共通する構図があり、フッサールはそれを本質と呼んだ

 さらに、その本質を引き出すことを 「本質観取」 と呼び、内的世界のあり方の構造を捉えようとしたという

西教授は反省的明証性を意味する "reflexive evidence" という言葉を当てている



 これは意識に存在するとされる二つの段階と対応しているように見える

すなわち、一つは外界の受容で、もう一つがその一段上にある外界の受容についての省察である

 第二段階に行かなければ、意識があることにはならず、目覚めていない状態と何ら変わらない

ヘーゲルが言う 「思惟」 とそれは対応するものだろう

彼は次のように言っている

 「哲学の目的は真理である。・・・

真理は直接的な知覚や直観においては認識されない。

それは外面的感性的直観においても、また知的直観においても同様である。

ただ思惟の努力によってのみ真理は認識される」



20世紀に入り、人文系の科学も自然科学的であろうとする流れが現れた

この対談では心理学からの例が引かれている

主観的な要素を極力排除しようとして、数学的、統計学的処理へと向かう流れである

内的世界を完全に無視する行動主義などは、その代表例になるのだろうか

確かに、科学の中にいる時には、そのような切り捨てが小気味よく見えることがある

科学はそうでなければならないと考えがちになる

そして、それが科学者に熱狂をもって迎えられ、勢いある流れとなる

しかし、時が経ち、冷静が戻って来ると、多くのものが見落とされていたことに気付くのである

同様のことは、他の分野でも起こっているだろう


今回、現象学におけるエビデンスの求め方を知ることができた

それは誰もが反省することにより共通の理解に達することができる基盤のようなものと言えるだろう

わたし自身は、科学におけるエビデンスについても同様の省察が必要であると考えている

科学においてエビデンスとなる事実をそのままにしておいたのでは、その意味が見えてこないからだ

そのため、それぞれのエビデンスを関連付け、謂わば 「現象学的」 エビデンスへと高める必要があると考えている

わたしが提唱している 「科学の形而上学化」 ということは、まさにこの営みに当たるだろう

「21 世紀の科学,あるいは新しい 『知のエティック』」 医学のあゆみ(2013.2.9) 244: 572-576, 2013
神経心理学を哲学する」 神経心理学 29: 35-43, 2013

 そして、わたしが帰国の度に開いているサイファイ・カフェSHEでやろうとしていることもそのための一つの試みと言えるだろう



今回、このような省察に導いてくれた対談を紹介していただいた西教授に感謝いたします




dimanche 28 juillet 2013

オッカムのほうき "Ockham's Broom"、あるいは偶には大掃除を


最近、Youtube からメールが届くようになった

おそらく、これまでにわたしが観たものから好みを計算して送ってくるのだろう

それが余りにも正確なので驚くほどである

恐ろしい時代に入ってきた

その中に毎回一つか二つ探りの品を入れてくる

潜在的な嗜好を狙ってのことだろうか


 先日、その中の一つをそれほどズレてはいないので覗いてみた

ボストンにあるタフツ大学のダニエル・デネット (Daniel C. Dennett, 1942-) さんの講演

演題は "What Should Replace Religions?"

 「何が宗教に取って代わるのか」

ほとんど右から左だったが、一つだけ反応した言葉があった

それが今日のタイトルになった 「オッカムのほうき」(Ockham's Broom)

哲学に詳しい方は 「オッカムの剃刀」 (Ockham's razor) には馴染があるはずである

 オッカムのウィリアム (William of Ockham, 1285-1347)が唱えた哲学的推論のための原則である

現代的に解釈すれば、より単純な仮説がより正しい、

あるいは競合する仮説がある時には、推論が少ない仮説を選ぶべきである、となる

贅肉を剃刀で削ぎ落とすという含みだろうか

常に正しいわけではないが、よく出される考え方である


ところで、ほうきの方はどうだろうか

剃刀が14世紀ならば、こちらは現代である

哲学的科学者と言えるシドニー・ブレナー(Sydney Brenner, 1927-)さんが考えたことのようだ

いつも興味深いことを考えている

その意味するところは、不都合な事実をカーペットの下に掃いて隠すためのほうきで、その行為も含んでいるのだろう

科学の領域で説明できない事実がある時、それをないものとして論を進め、発表しようとする

このようなことは科学に限らず、至るところで行われていることは厭というほど見せつけられてきた

偶にはカーペットをひっくり返して掃除をすると、重要な発見に繋がることがあるはずである


免疫学に例を取れば、免疫反応を増強するために使われていたアジュバントがある

抗原とともに細菌などが入ったアジュバントを投与しなければ、抗体がなかなか作られない

長い間そのことには目を瞑っていた研究に対して、それは免疫学の "dirty little secret" だと指摘した人物がいた

 残念ながら脳腫瘍で若くして亡くなったチャールズ・ジェインウェイ(Charles Janeway, Jr., 1943 – 2003)さんである

そのお蔭で進化の早い時期から存在する細胞がまず活性化しなければ免疫反応が起こらないことが明らかになった

この研究はジュール・ホフマン(Jules Hoffmann, 1941-)さんらの2011年のノーベル賞の切っ掛けになったのである


オッカムのほうきのように意図的ではなくても、大切なものがどこかに隠れている可能性はある

特に、一ところに長くなると、とんでもないところから興味深いものが出てくることがある

偶には、文字通りの大掃除が必要になるだろう

大発見に繋がる何かが顔を出さないとは誰も言えない







mardi 16 juillet 2013

第6回 「サイファイ・カフェ SHE」 のお知らせ


The Sixth Sci-Phi Cafe SHE (Science & Human Existence)   

テーマ: 「腸内細菌を哲学する」   

 2013年9月10日(火)、11日(水) 18:20-20:00 

いずれも同じ内容です  


SHEの趣旨と今回の内容
この世界を理解するために、人類は古くから神話、宗教、日常の常識などを用いて きました。しかし、それとは一線を画す方法として科学を編み出し ました。この試みでは、長い歴史を持つ科学の中で人類が何を考え、何を行ってきたのかについて、毎回一つのテーマに絞り、振り返ります。そこでは、目に見える科学の成果だけではな く、その背後にどのような歴史や哲学があるのかという点にも注目し、新しい視点を模索します。このような 営みを積み上げることにより、最終的に人間という存在の理解に繋がることを目指すスパンの 長い歩みをイメージしています。
今回は、われわれと共に存在し、進化の過程を共にしてきた微生物について考えま す。最近の研究から、われわれの中に存在する体の細胞の10倍の数の微生物は、消化・ 吸収、代謝、免疫のみならず精神活動などの生理機能に不可欠な役割を担ってい ることが明らかにされつつあります。この結果は、われわれは閉じた自律的存在ではなく、外に開かれたエコシステムであることを示唆しています。「彼ら」の存在は、「われわれ人間 」、「生物学的個体」、「オーガニズム」の意味するところを改めて問い掛 けてきます。これらの問題を考え始めるための枠組みについて講師が30分ほど話した後、約 1 時間に亘って意見交換 していただき、懇親会においても継続する予定です。
会 場
カルフールC会議室

東京都渋谷区恵比寿4-6-1 
恵比寿MFビルB1 
電話: 03-3445-5223
   
参 加 費  
一般の方: 1,500円 (コーヒー/紅茶が付きます) 
大学生: 無料(飲み物代は別になります)   

終了後、参加者の更なる意見交換の場として懇親会を開く予定です。 

参加をご希望の方は、希望日と懇親会参加の有無を添えて 
she.yakura@gmail.comまでお知らせいただければ幸いです。




jeudi 11 juillet 2013

科学における哲学教育をどう考えるのか


今朝、科学から哲学に入り、そのインターフェースにいる者としての素直な気持ちとともに目覚める

その目覚めには、前回の記事での問題提起が関係しているはずである

それと、この領域での議論をこれだけのスケールで初めて聴いたことである
 
その結果、次第に固まりつつある考えは、あくまでもインターフェースに留まるということ

専門家になることを避けること

狭い領域での語りに終わることを避けることである

その上で、科学あるいは科学の外に向けて、哲学の有用性、有効性を語ること

その方が自分のような立場の人間には向いているのではないか

そんな決意とも思える考えとともに、朝はいた


Prof. Michael Ruse (1940-; Florida State Univ.)


午前中のセッションは、朝の気分にぴったりの「生物学の哲学と教育」であった


この本の出版に合わせて、執筆者が語るラウンド・テーブルである

序を書いた生物学の哲学の領域では大御所になるマイケル・ルース教授がどっしりと控えている

 大部分の方が、哲学の中の何を教えるべきなのかを議論していた

やや専門的なのである

ひとつ面白いと思った意見があった

それは、科学における細かい考え方を教えるより、3人の科学者について語ると科学の営みが分かるというもの

その3人とは、ダーウィンアインシュタインチョムスキーであった


科学の教師からは、何をではなく、どのように教えるべきかの議論が有用ではないかとの指摘があった

 ミネソタ大学のアラン・ラヴ(Alan Love)さんからは、次のようなコメントがあった

大学の早い時期に科学の中での統合だけではなく、人文科学、哲学などを絡めたプログラムが必要になる

 しかし、明確な意識がなければこのようなプログラムをカリキュラムに入れる余地がないほど厳しい状態である

おそらく、日本の状況も変わらないと想像される

昔は医学の専門教育が始まる前の2年間は教養課程であったが、今は専門の講義が侵食していると聞いている

一つの意識を持つに至るまでの省察の時間がないためだろう

そのため、大きな流れに身を任せるしかなかった結果なのだろう


 このような状況を変えるには、どうすればよいのだろうか

大前提として、なぜこのような教養課程や統合プログラムが必要になるのかについての考えを深めることだろう

その上で、そのような理解が拡がり、コンセンサスになる必要がある

どれだけ説得力のある考えが出てくるのかにもよるだろうが、相当に時間がかかりそうである



 わたしは、この領域に入ってから気になっていることについて皆さんのご意見を訊いてみた

 その根底には、哲学・歴史の蓄積に触れていれば、もっと豊かな研究者生活になったのではないかとの思いがある

そのため、科学者に哲学を語ることの重要性を認識しているつもりである

そこで知りたかったのは、科学者の教育をどう考えるのか、そのための妙案はあるのか、である

この点に関して、哲学者の方々は意外と諦めムードの印象があった

より正確には、自らの専門に忙しく、学生の教育の方が喫緊の問題であるのか、あまり考えていないようであった

ラヴさんは、将来を見越して、科学者になる前の若い世代の教育を充実すべきとのお考えであった

 終了後、ラヴさんとお話した結論は、自らが考えて妙案を捻り出すしかないというところに落ち着いた


今日の印象は、以下のようになるだろう

科学者への語り掛けは、意外に哲学の盲点になっているのではないか

哲学とのインターフェースから科学に向けて働きかけることは、わたしにとって最も自然で適切な道なのかもしれない


そんな感触とともに会場を後にした



mardi 9 juillet 2013

何のために、誰のために哲学するのかを考えよ


7月7日から12日まで南仏はモンペリエで開かれている会議 "ISHPSSB 2013" に参加している

International Society for History, Philosophy and Social Studies of Biology が隔年に開いている会である

2週間ほど前に庵からの脱出を目的に参加を決めた

今日で3日目が終わったところだが、いろいろな再会や貴重な会話があり、参加して正解であった


先ほど終わったラウンド・テーブルで、一考に値する問題が指摘されていた

下の本が3月に出たことを受けて、執筆者がそれぞれの主張をするという趣向の会であった


その問題は、モントリオール大学の哲学者フレデリック・ブシャール(Frédéric Bouchard)さんから指摘された

上の本の編者でもある

そのポイントは、科学者ではない哲学者がどういう立場で哲学するのかを明確にしなければならないということ

逆に言うと、一つの問題を論じる時に、その立場が自ずと明らかになるということであった

つまり、生物学に何らかの寄与をしようとして哲学しているのか

生物学の現場とは関係なく、自らの興味に基づいて哲学するのか

生物学を哲学することにより、形而上学への問題提起を探るのか

生物学の哲学の存在意義を考えよということになる


これは、科学の立場にいた者にとっては至極当たり前のことになる

科学者が哲学を敬遠するのは、そこで何が行われているのかわからないということがある

そして、それがわかったとしても、科学に役に立つのかという疑問が付いて回る

哲学など頭になくても科学者としては十分にやっていけるというのが、一般的な受け止め方である

わたし自身もそうであったから、よくわかるのである


自己満足に終わらせないためには、少なくとも自らの対象に対しては常に開いておく必要があるだろう

科学の現場で何が行われ、何が問題になっているのかに敏感でなければならないということだろう

これが意外に難しいのだ

なぜなら、他の領域を知らずに一つの道に入ってしまうと、その中の一般的な考え方に教化されるからである

それ以外は目に入らなくなり、それを基にキャリアを組み立てることになるからである

そこに亀裂を入れることが必要になる

哲学の領域も高度に専門的になっている

今や哲学の領域においても、省察の学としての哲学的思考が求められる所以である




vendredi 14 juin 2013

ピエール・ゴルシュタインさんの科学研究


昨日、マルセイユの免疫学者ピエール・ゴルシュタインさんのセミナーを聴く

Pierre Golstein (Centre d'Immunologie de Marseille-Luminy)

T細胞による殺傷機構や細胞死について長い間研究されている

研究領域が違うこともあり、直接お話を聴くのは初めてになる

タマホコリカビ Dictyostelium discoideum)を使って、発生、細胞死、免疫などについて解析していた


イントロでは、研究を始めることだけではなく、研究所を創る過程についても話をされていた

マルセイユの研究所の創設に関わっただけではなく、今はインドの研究所の立ち上げにも関わっているからだろう

それから、研究のモデルを選ぶということについて話題にされた

まさに、モデルを選ぶということを哲学する、という風情であった

この地上には真核生物だけでも1000万に及ぶ種が存在しているという

それにもかかわらず、主要な研究対象は10種程度である

つまり、研究者が研究対象を選ぶ時に、考えていないという主張である

あるいは、そもそも研究モデルを選ぶという発想自体が頭にないということである

研究を始めた研究室で偶然に使われていた動植物をモデルにしているだけではないかというのである

わたしが言うとすれば、ヒラリー卿よろしく、「そこに・・・があったから」 に過ぎないことになる

研究者が意識的にモデルを選ぶとすれば独立した時であるが、モデルを変えることはほどんどない

モデルの選択ということを考えていないこともあるが、変えることには危険が伴うと直観的に感じていることもあるだろう

ご自身は、長い間マウスを使っていたが、考えて今のモデルに切り替えたという

細胞死にはアポトーシスネクローシス以外にもいろいろな型があるはずだと考えているからだろう


お話を聴きながら感じていたこと

まず、言葉を正確に使おうとしていること

それは、思考を正確にしようということである

事実を語るだけではなく、常に考えるためのクッションが置かれているとでも言うべき精神の状態を観ることができる

こちらに来た当時の身で聴いたと想像してみると、日本では見たことがない科学者だという感想を抱いただろう

「フランス的な」 科学者などと言うことには問題があるのだろうが、そう言いたくなる衝動に駆られる

哲学的だ、とは言えそうだが

上滑りなところは微塵もなく、どこまでも落ち着いている

別の言い方をすれば、大人に見えるのである

フランス、あるいはヨーロッパの科学の歴史が滲み込んでいることを感じさせる

普段は1時間半のセミナーだがこの日は3時間にも及び、流石のフランス人も終わりの時間を確認していた

研究成果そのものよりも研究や科学をどのように考えるのかについて、多くのことを考えさせられる時間となった





vendredi 18 janvier 2013

Stephen Hawking: The Power of Ideas




ホーキングさんは、人間は話すこと、聞くことが大切だと言っているという

コミュニケートすること

そこに人類の未来がかかっているということだろうか





samedi 15 décembre 2012

免疫学会講演に対する感想をいただく


先日、神戸で開かれた免疫学会で 「免疫を説明する」 という演題で話をさせていただいた

 免疫学を哲学する、とでもいう内容である

 このような話をする時いつも気になるのが、現場の科学者の反応である

科学者や科学という営みに何らかの刺激を与えることができないかという願いがあるからだ

哲学という領域に閉じ籠もっていたくはないということでもある



講演の後にコメントをいただいた武田昭様にお礼のメールを差し上げたところ、以下のような文章が届いた

インターフェースから語りかけたいという考えの持ち主にとって嬉しいメールであった

これからの研究者にとっても有益なメッセージが含まれていると考えたので、以下に転載したい

転載を許可していただいた武田昭様には改めて感謝したい


----------*----------*----------*----------


矢倉英隆 先生
メール拝受。ありがとうございます。   
神戸の免疫学会における先生の御講演、大変、感銘いたしました。
私は臨床医ではありますが、長らく、免疫学領域の研究に携わって参りましたので、免疫学の根幹が、いわば哲学的な発想に起源をもつことに、いかばかりかの理解を持つ人間ではあり、このたびの先生のお話に、とても魅了されました。

近年の、実利的・物質的な研究が隆盛を極めている日本の免疫学の現状を見ますと、ややもすれば、大局的・俯瞰的な視点が希薄になってしまっているのではないかと、危惧する者の一人です。

とくに、今の免疫学会における若い研究者の方々の発表の中には、細かい実験Dataは豊富ながら、しばしば、その研究の座標軸が判然とは見えず、したがって自分たちのおこなっている研究の位置づけに対する意識が(それゆえにパッションが)、なかなか伝わってこない場合も少なくないように感じています。
かつての日本の免疫学を推進してきた多田先生たちの世代、いわば研究者としての品格をもつカリスマ的な先達が、一線から姿を消していることも要因の一つかも知れません。

こうした変遷する時間軸の中で、今回、矢倉先生のレクチャーが、本学会で披露されたことは、大変意義深い歴史的イベントであると、実感しております。
私の浅薄な研究生活の中で、恐れながら、免疫学ならびに免疫学研究の、他の分野には見られない醍醐味は、その複雑性・多様性を包含するシステムの普遍性を求めるところにあるのではないかと、感じております。
そこに、人間的な、あるいは形而上学的な、思索というものの入り込む素地が存在するのではないかと思っております。

矢倉先生の御講演によって、日本において、さらに多くの若手研究者が、免疫学の、本来の魅力と、その広い影響力に開眼し、これからの本邦の真の免疫学の発展に参画し貢献してくれることを願っております。

先生のますますのご活躍を祈念いたします。

武田 昭 
国際医療福祉大学病院 アレルギー膠原病科
聖路加国際病院 アレルギー膠原病科*(非常勤)




mardi 4 décembre 2012

神戸大学での講演終わる

 寺島俊雄、的崎尚、久野高義の各氏 (いずれも神戸大学)


12月3日(月)、夕方から神戸大学医学部で大学院修士と博士を対象としたコースで講義をした

講義自体はオープンだったようで、学生以外の方の参加も見られ、わたしの想像を上回る人数であった

1時間ほど、科学に内在する哲学について概説した後、これからの知のあり方についての私見を述べた

その後、質疑応答になったが、残念ながら教員の方からの質問がほとんどであった
 
例えば、

1) 日本の哲学が用いている言葉の難解さについてどう思うか

(どうして誰でもわかる言葉を使わないのかということ)

2)  日本とフランスにおける哲学の浸透の程度に違いはあるのか

(日本は本当に哲学のない、哲学のできない国なのか)

3) 科学と哲学の関係についての分析はあったが、科学者は哲学とどう向き合えばよいのか

4) わたしはどのような方向性の哲学で科学に向かおうをしているのか



講演終了後、冒頭の写真のお三方と久しぶりの歓談となった

今回声を掛けていただいた寺島氏に昔同じ領域だった的崎、久野の両氏が加わって愉快な時間となった

ただ、お三方ともわたしを見る目に若干の濁りと歪みがあるように感じたが、錯覚だったのだろうか


歓談の場となった中華料理店 SAY YAN


久野氏からご自分のブログ 「takのアメブロ 薬理学などなど。」 に記事を掲載されたとの連絡が入った




jeudi 16 août 2012

第3回 「科学から人間を考える」 試みのお知らせ (3)


第3回 「科学から人間を考える」 試みを以下の要領で開催いたします。

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。

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第3回 「科学から人間を考える」 試み
The Third Gathering SHE (Science & Human Existence)
テーマ: 「正常と病理を考える」
2012年9月11日(火)、12日(水) 18:20-20:00
いずれも同じ内容です 


今回は、われわれの人生において避けては通れない病気に関連した問題を取り上げます。個々の病気については学校で教えられていますが、そもそも病気とは?という問はそこから除外されています。病気をどのように捉えればよいのか。正常と病理との間に境界はあるのか。健康とは、あるいは病気が治るとはどのような状態を言うのか。いずれも大きな難しい問ですが、ここではこれらの問題を考え始めるための枠組みについて講師が40分ほど話した後、約1時間に亘って意見交換していただき、懇親会においても継続する予定です。このテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしています。
 
会場: カルフール会議室 (定員約20名)
Carrefour

 東京都渋谷区恵比寿4-6-1 恵比寿MFビルB1
電話: 03-3445-5223


参加費 
一般 : 1,500円 (コーヒー/紅茶が付きます)
高校生・大学生: 無料 (飲み物代は別) 

会の終了後、懇親会を予定しています。

参加を希望される方は、希望日懇親会参加の有無を添えて
hide.yakura@orange.fr まで連絡いただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。


これまでの会のまとめは以下のサイトにあります。




vendredi 8 juin 2012

第3回 「科学から人間を考える」 試み (2)



 The Third Gathering SHE (Science & Human Existence)
テーマ: 「正常と病理を考える」
2012年9月11日(火)、12日(水) 18:20-20:00
いずれも同じ内容です 


今回は、われわれの人生において避けては通れない病気に関連した問題を取り上げます。個々の病気については学校で教えられていますが、そもそも病気とは?という問はそこから除外されています。病気をどのように捉えればよいのか。正常と病理との間に境界はあるのか。健康とは、あるいは病気が治るとはどのような状態を言うのか。いずれも大きな難しい問ですが、ここではこれらの問題を考え始めるための枠組みについて講師が40分ほど話した後、約1時間に亘って意見交換していただき、懇親会においても継続する予定です。このテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしています。
 
会場: カルフール会議室 (定員約20名)
Carrefour

 東京都渋谷区恵比寿4-6-1 恵比寿MFビルB1
電話: 03-3445-5223


参加費 
一般 : 1,500円 (コーヒー/紅茶が付きます)
高校生・大学生: 無料 (飲み物代は別) 

会の終了後、懇親会を予定しています。

参加を希望される方は、希望日懇親会参加の有無を添えて
hide.yakura@orange.fr まで連絡いただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。


これまでの会のまとめは以下のサイトにあります。

第1回(2011年11月)
第2回(2012年4月)









dimanche 6 mai 2012

第3回 「科学から人間を考える」 試みのお知らせ (1)



9月に東京で予定している第3回 「科学から人間を考える」 試みのテーマを 「正常と病理」 とすることにいたしました。

 われわれの人生において避けて通ることのできない病気と関連するテーマになります。

日程、場所などの詳細が決まり次第、この場の他、専用サイト、「パリの哲学的生活」 などに発表する予定です。

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。

よろしくお願いいたします。