dimanche 30 décembre 2012

ウンベルト・エーコさんの世界観

Umberto Eco (1932-)
Photo : Serge Picard (partie)


昨日の散策中、トゥール市役所前のカフェが開いていたので暖を取る

そこで、駅のキオスクで買ったPhilosophie magazineウンベルト・エーコさんのインタビューを読む

エーコさんは、哲学教育を受けた記号論la sémiotique) 研究者

あらゆることに通じた彼は、考えることが愉しい営みであることを証明している、とある

以下、彼の言葉から

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哲学するとは、死との折り合いをつけること

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重要な哲学者は、トマス・アクィナス(Thomas d'Aquin, 1224/25-1274)
その主張の内容ではなく、思考に秩序を与える論理性のモデルとして

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記号論とは、現代哲学の形態である
 それは20世紀哲学を襲った言語論的転回 (linguistic turn / tournant linguistique)に向き合う最良の方法だから
 言葉で表現されたものと言葉との関係をどう見るのか
アングロ・サクソンの分析哲学は、純粋科学を真似て心的要素を排除した
言葉を純化し、外部にある物や状況の標識として以外には使用しない
存在しないものには興味がないのである
それに対して、記号論は分析哲学では問題にならない心的存在にも興味を示す
人間存在にとって避けることのできない文化的、道徳的、倫理的な側面も扱う
より複雑で、興味深い領域である

***

翻訳には解決されていない問題がある
原典は変わらないのに、なぜ翻訳は古くなるのか
それは、翻訳は一つの解釈であり、解釈は時代の制約を受けているからではないか
他の芸術と同じように、常に復元し、再解釈する必要があるのだ

***

 神なき倫理は可能かと問われれば、可能だと答える
それは体に基づく倫理である
体の要求に抵触しないかが問われる倫理である

***

記号とは、わたしの頭にあったものを他人の頭に入れることを可能にするもの
それは実在するものとは何の関係もない
存在しないが、真なるものは含まれるのである

***

ヨーロッパは多言語による脅威に晒されている
しかし、一つの言語に統一することでこの問題は解決できないだろう
 ヨーロッパには言語的にも精神的にも多言語を使う能力がある
多言語主義とは、異文化理解に向けて努めることを意味している
その観点からの貢献が可能ではないか

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やはり、記号論に関するところが興味深い

記号論的世界観には共振するところがある

ヨーロッパにいることで、多言語主義の影響を目に見えない形で受けている可能性があるのかもしれない

そんなことにも気付かされたヨーロピアンのお話であった




mardi 25 décembre 2012

レオナルド・サスキンドさんの 「ホログラムとしての世界」 を聴く



レオナルド・サスキンド (Leonard Susskind, 1940-)さんの話を聴く

聞こえてきた言葉:

ブラックホール

エントロピー

情報

ヤコブ・ベッケンシュタイン
Jacob Bekenstein, 1947-)

ひも理論

ピクセル

ボクセル

ホログラフィー

一つの現実の二つの表現

宇宙論


明快な言葉で語られた内容だったが、理解したとはとても言えない

ただ、理論物理学という領域のお話、どこか哲学のセミナーを聴くような印象がある

物理学が哲学から飛び立った当時を想像させるお話であった




lundi 24 décembre 2012

バディウさんによる現代フランス哲学


先日のリブレリーでのこと

アラン・バディウAlain Badiou, 1937-)さんのこの本に目が行く

La Fabrique, 2012)

早速イントロを読んでみた

バディウさんが身近な哲学者をどう見ているのかがわかり、興味深い

バディウさんが分析するフランス現代哲学の特徴の中には、わたしの深いところにある願いと響き合うものもある


哲学の歴史を振り返ると、特に重要な「時機」が二つある

一つはパルメニデスからアリストテレスに至る古代ギリシャの時代

それからカントからヘーゲルに至るドイツ観念論の時代

バディウさんは、そこに「現代フランス哲学」を加えようとしている

現代とは20世紀後半から現在までを指し、指標として二つの作品と次のような人物を挙げている

サルトル存在と無』 (1943)

ドゥルーズガタリとの共著) 『哲学とは何か』 (1991)

この間にいる人として

 バシュラールメルロー・ポンティレヴィ・ストロースアルチュセール

ラカンフーコーリオタールデリダ

この周辺から現在に繋がる人として

ジャン・リュック・ナンシーフィリップ・ラクー・ラバルトジャック・ランシエール、アラン・バディウ


その上で、「現代フランス哲学」の特徴について次の4点から解析する

(1)起源、(2)哲学的活動、(3)哲学と文学の関係、(4)哲学と精神分析の絶えざる議論


 (1)起源

20世紀後半からの哲学の起源を考える場合、20世紀の初めに戻らなけれはならない

そこに二つの源流が見えてくる

一つは、1911年にベルグソンがオックスフォードで行った講演 『思想と動くもの』(後に出版)

もう一つは、1912年にブランシュヴィックが発表した 『数理哲学の諸段階』

ベルグソンが生命の哲学を志向したのに対して、ブランシュヴィックは概念の哲学を提唱した

生命と概念の対立がフランス哲学の中心的課題で、それが主体の問題に繋がって行ったのである

それは、人間が生きた体であると同時に、概念を生み出すからである

さらに源流を遡るとすれば、最終的には哲学的に主体を確立したデカルトに辿り着く

彼は物理的な体についての理論を打ち立てただけではなく、省察についても理論化した

つまり、物理学と形而上学に興味を持った人物であったことになる

事実、20世紀後半にはデカルトについての膨大な議論があった


(2)哲学的活動

次に、この時期にどのように哲学が行われたのかについて考えてみよう

第一の鍵は、デカルトの遺産とともにドイツ哲学についての議論である

例えば、コジェーヴによるヘーゲルのセミナーにラカンやレヴィ・ストロースが興味を示したという

また、若き哲学者による現象学の発見がある

ベルリン滞在中にフッサールハイデッガーを読んだサルトル

 ニーチェが重要な哲学者だったフーコーやドゥルーズ

カントについて書いたリオタール、ラルドゥロー、ドゥルーズ、ラカン

何をするために彼らはドイツに向かったのか?

それは、概念と存在との新しい関係を探るためだったとバディウさんは言う

20世紀初めからフランス哲学の興味は生命と概念であった

両者の関係を新しい方法で解析できないかと考えたとしても不思議ではない


第二の鍵は、科学である

彼らは、単なる知の問題を扱う場合とは比較にならないほど広大で深いものが科学の中にあると考えた

科学を現象を明らかにするものとしてだけではなく、芸術活動にも匹敵する創造的活動のモデルとして捉えたのである

バシュラールが詩と同じように物理学と数学について考えたように


第三の鍵は、政治的活動である

この時期の哲学者のほとんどすべてが政治的問題を哲学しようとした

サルトル、戦後のメルロー・ポンティ、フーコー、アルチュセール、ドゥルーズ、

ラルドゥロー、ランシエール、クリスチャン・ジャンベ、フランソワーズ・プルースト、バディウ

彼らは概念と行動との関係を模索したのである


第四の鍵は、哲学を新しくすること

政治の現代化が語られる前に、哲学者たちは芸術、文化、習慣の変容を欲していた

哲学は抽象絵画、現代音楽、探偵小説、演劇、ジャズ、映画、性、生活スタイルに興味を持っていた

 と同時に、幾何学や論理学というような形式主義にも情熱を持っていた

 そこには概念と形の運動との新たな関係の模索が見られる

哲学の現代化を通して、哲学者たちは形の創造に繋がる新しい方法を探していたのである



(3)哲学と文学の関係

上の分析の中に形の問題が出てきた

 哲学と形の創造との間には密接な関係がある

形の中には哲学自体の形をも含む

新しい概念だけではなく、哲学が使う言葉の創造である

20世紀のフランス哲学における顕著な特徴として、哲学と文学との関係がある


この問題を少し長い時間軸で眺めてみる

例えば、18世紀のヴォルテールルソーディドロは文学者であるとともに哲学者であった

17世紀のパスカルも文学と哲学のどちらに属するのかわからないし、20世紀のアランも同類だろう

20世紀前半には哲学者と超現実主義者が接触した

思想と形の創造、生活、芸術との新たな関係をお互いが模索していたのである


最初は詩的なプログラムだったが、50-60年代には哲学的プログラムを準備した

哲学自体が文学的な形を見つけ出さなければならなかった

すべての哲学者が独自の表現を求めたのである

フーコー、ドゥルーズ、デリダ、ラカン、サルトル、アルチュセール、、、

そして、哲学と文学が、概念と生の経験が混然一体となったような新しい表現法が創られた

そのことにより、文学的な生に概念が与えられることになったのである


そこから生まれた主体は、デカルトに由来する理性的で意識を持った主体でも内省的な主体でもない

もっと曖昧で、もっと生や体に結びついた、より創造的で生産的な、もっと大きな力を含んだものである

それこそが、フランス哲学が見つけ、表現し、考えようとしたものであった

そこで重要になってきたのが、意識よりさらに広大な無意識を発見したフロイトの精神分析である



(4)哲学と精神分析の関係

ということで、20世紀後半のフランス哲学は精神分析と議論することになる

それは20世紀初頭からの二つの流れに対応する

一つは、ベルグソンに始まる実存主義的生気論で、サルトル、フーコー、ドゥルーズに繋がる流れ

もう一つは、ブランシュヴィック、アルチュセール、ラカンの概念の形式主義の流れ

この二つの流れを跨ぐのは、概念を持つ存在としての主体である

フロイトの無意識が、まさにそこに関わってくる

哲学と精神分析との関係は、愛を伴った共犯関係であると同時に憎しみを伴う競合関係になったのである


ここで3つのテキストを挙げてみたい

一つは、バシュラールが1938年に出した『火の精神分析』

ここでバシュラールは、フロイトに見られる性を夢に置き換えた新しい精神分析を目指した

二つ目は、サルトルがその最後で「実存的精神分析」を提唱した『存在と無』(1943)

この中で、フロイトの実証的な精神分析に対して、真に理論的な精神分析をぶつけた

サルトルにとっての主体とは、根源的なプロジェ、存在を創り上げるプロジェであった

三つ目は、ドゥルーズとガタリの『アンチ・オイディプス』(1972)

ドゥルーズは、「スキゾ分析(schizoanalyse)」と呼ぶ新たな方法で精神分析を行うことを提唱したのである



バディウさんによると、「現代フランス哲学」のプログラムには共通の特徴が見られるという

第一に、最早概念と存在の乖離がなくなったこと

彼らは、概念が過程であり、出来事であり、創造であり、生きていていることを示したのである

第二に、哲学を現代の中に組み込んだこと

つまり、哲学をアカデミアから取り出し、生の中に循環させた

性的、芸術的、政治的、科学的、社会的な現代性の中に哲学を投げ入れたのである

第三に、知の哲学と行動の哲学との対立を捨て去ったこと

つまり、理論と実践の垣根を取り払ったのである

第四に、哲学を政治哲学を経由せずに、政治的な場面に置いたこと

 それは、政治について省察するだけではなく、新しい政治的主体を可能にするために「関わる」ことを意味した

第五に、主体の問題を再び取り上げ、内省的な主体を捨てたこと

意識に還元できない主体、すなわち心理学では解析できない主体を相手にすること

長い間フランス哲学のプログラムの半分を占めていた心理学を叩きのめすこと


そして第六には、文学とは異なる新たな哲学表現を創造すること

18世紀に続き、アカデミアやメディアを超える哲学者を再び創り出すこと

その表現と行動で現代の主体を作り変えることが、フランス哲学のプログラムであり、野心である

それは、哲学者を賢者以外の者にすること

瞑想と内省に明け暮れる教授然とした哲学者に別れを告げること

そして、彼らを戦う作家、主体の芸術家、創造を愛する者、哲学的闘士に創りかえることであった




samedi 22 décembre 2012

ブライアン・グリーンさんのダイナミックな対談を愉しむ


The Hidden Reality: Parallel Universes and the Deep Laws of the Cosmos (2011)


初めてブライアン・グリーンBrian Greene, 1963-) さんの話を聴く

お互いを持ち上げる対談ではなく、アイディアがぶつかり合うダイナミックな対談だった

ミクロの世界だけではなく、ここで出ていたマクロの世界も日常感覚では理解できないところがある

グリーンさんも指摘していたが、日常感覚がこのような話を理解できるようには進化してこなかったのかもしれない

われわれの生存には必要なかったからである

これから進化しないとも言えないが、それを待つこともできない

そんな世界にお構いなしに生きることも可能だが、理解したいという気持ちは湧いてくる


文化の違いがはっきり見えるテンポの良い、刺激的な対談であった


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関連記事

Stephen Hawking さんの "The Grand Design"、あるいは量子論的存在論 (2010-10-02)




samedi 15 décembre 2012

免疫学会講演に対する感想をいただく


先日、神戸で開かれた免疫学会で 「免疫を説明する」 という演題で話をさせていただいた

 免疫学を哲学する、とでもいう内容である

 このような話をする時いつも気になるのが、現場の科学者の反応である

科学者や科学という営みに何らかの刺激を与えることができないかという願いがあるからだ

哲学という領域に閉じ籠もっていたくはないということでもある



講演の後にコメントをいただいた武田昭様にお礼のメールを差し上げたところ、以下のような文章が届いた

インターフェースから語りかけたいという考えの持ち主にとって嬉しいメールであった

これからの研究者にとっても有益なメッセージが含まれていると考えたので、以下に転載したい

転載を許可していただいた武田昭様には改めて感謝したい


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矢倉英隆 先生
メール拝受。ありがとうございます。   
神戸の免疫学会における先生の御講演、大変、感銘いたしました。
私は臨床医ではありますが、長らく、免疫学領域の研究に携わって参りましたので、免疫学の根幹が、いわば哲学的な発想に起源をもつことに、いかばかりかの理解を持つ人間ではあり、このたびの先生のお話に、とても魅了されました。

近年の、実利的・物質的な研究が隆盛を極めている日本の免疫学の現状を見ますと、ややもすれば、大局的・俯瞰的な視点が希薄になってしまっているのではないかと、危惧する者の一人です。

とくに、今の免疫学会における若い研究者の方々の発表の中には、細かい実験Dataは豊富ながら、しばしば、その研究の座標軸が判然とは見えず、したがって自分たちのおこなっている研究の位置づけに対する意識が(それゆえにパッションが)、なかなか伝わってこない場合も少なくないように感じています。
かつての日本の免疫学を推進してきた多田先生たちの世代、いわば研究者としての品格をもつカリスマ的な先達が、一線から姿を消していることも要因の一つかも知れません。

こうした変遷する時間軸の中で、今回、矢倉先生のレクチャーが、本学会で披露されたことは、大変意義深い歴史的イベントであると、実感しております。
私の浅薄な研究生活の中で、恐れながら、免疫学ならびに免疫学研究の、他の分野には見られない醍醐味は、その複雑性・多様性を包含するシステムの普遍性を求めるところにあるのではないかと、感じております。
そこに、人間的な、あるいは形而上学的な、思索というものの入り込む素地が存在するのではないかと思っております。

矢倉先生の御講演によって、日本において、さらに多くの若手研究者が、免疫学の、本来の魅力と、その広い影響力に開眼し、これからの本邦の真の免疫学の発展に参画し貢献してくれることを願っております。

先生のますますのご活躍を祈念いたします。

武田 昭 
国際医療福祉大学病院 アレルギー膠原病科
聖路加国際病院 アレルギー膠原病科*(非常勤)




jeudi 6 décembre 2012

免疫学会で変化の兆しを感じる


今朝は気持ちよく晴れ上がってくれた

空は晴れても晴れない心

そんな状態で朝を過ごす

最後は、ぶっつけ本番ということにしてホテルを出た


始まる前、座長の労を取っていただく善本知広先生(兵庫医大)と食事をしながら歓談

科学、芸術、日本などの大きな世界を考えることの魅力について話されていた

最近、大学の40周年記念に藤原正彦氏を招いての講演会があったとのこと

興味深いお話が聴けたようである


会場に入ると、多くの方が参加されていて、いつものように驚く
 
不安定な時代に何らかの指針を哲学的な話に求めるということなのか

あるいは、日々の営みから少し距離を取って考えてみたいという欲求の表れなのか

いつも責任のようなものを感じるが、あくまでも院生のレベルなのでその効果は極めて疑わしい


わたしの話の方は、やっとのことで時間内に収まった

ということで、残念ながら質疑応答の時間が取れなかった

こちらとしてはいろいろなクリティークをいただきたかったのだが、致し方ない

ただ、終了後に何人かの方から貴重なご意見をいただいた

今の科学の流れに疑問を持っておられる方が少なくない

また、東京での会SHEについても紹介したが、興味を持たれる方がおられた


会場は、これまで以上にこの領域の話を落ち着いて聞いてみようという空気で溢れていた

もの珍しい話に触れるという雰囲気が消えているのである

学会も成熟期に入り、会員の求めるところが少しずつ変容しているように感じた

「こと」 は最後には哲学や思想に行き着く

もしそうだとすれば、今進行しつつある変容は望ましいものなのかもしれない



mardi 4 décembre 2012

神戸大学での講演終わる

 寺島俊雄、的崎尚、久野高義の各氏 (いずれも神戸大学)


12月3日(月)、夕方から神戸大学医学部で大学院修士と博士を対象としたコースで講義をした

講義自体はオープンだったようで、学生以外の方の参加も見られ、わたしの想像を上回る人数であった

1時間ほど、科学に内在する哲学について概説した後、これからの知のあり方についての私見を述べた

その後、質疑応答になったが、残念ながら教員の方からの質問がほとんどであった
 
例えば、

1) 日本の哲学が用いている言葉の難解さについてどう思うか

(どうして誰でもわかる言葉を使わないのかということ)

2)  日本とフランスにおける哲学の浸透の程度に違いはあるのか

(日本は本当に哲学のない、哲学のできない国なのか)

3) 科学と哲学の関係についての分析はあったが、科学者は哲学とどう向き合えばよいのか

4) わたしはどのような方向性の哲学で科学に向かおうをしているのか



講演終了後、冒頭の写真のお三方と久しぶりの歓談となった

今回声を掛けていただいた寺島氏に昔同じ領域だった的崎、久野の両氏が加わって愉快な時間となった

ただ、お三方ともわたしを見る目に若干の濁りと歪みがあるように感じたが、錯覚だったのだろうか


歓談の場となった中華料理店 SAY YAN


久野氏からご自分のブログ 「takのアメブロ 薬理学などなど。」 に記事を掲載されたとの連絡が入った