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dimanche 18 août 2013

中野幹三著 『統合失調症の精神分析』 を読んで


ひょんなことから手にする本がある

普通はその中に何か通じるものを読み取り、さらに読み進むというものが多い

だが、この本との付き合いはこれまで避けていた義務的な要素が強いものとなった

専門外のお話に長い時間耐えたためだろうか、それ以前には見えなかった景色が今拡がっている

最初に、なぜ義務的な読書になったのかがわかる著者との遭遇について触れてみたい

このエピソードは、これまでもどこかに書いているはずである


2006年春、わたしはあるレストランのカウンターで偶然に隣り合わせた方と言葉を交わすことになった

その方から 「タンパク質に精神があると思いますか?」 という問いを投げかけられたのである

それまで物理還元主義を金科玉条の御旗としていた免疫学の研究者にとって、それは形容し難い衝撃であった

と同時に、このような問いが成立し得る世界に強い興味を覚えたのである

さらに、現代科学における頭の使い方、問いの出し方には大きな制約が加わっていることにも気付くことになった

翌年には退職することになっていたわたしは、残りの時間のすべてを考え、振り返ることに使おうと考え始めていた

これまで先送りにしてきた問題や人類の遺産の中を自由に散策したいという欲求を感じていたのである

もしこの時期でなければ、このような問いに対しては冷淡な態度をとっていたのではないかと想像される

そして、今年の春に帰国した折、再びそのレストランを訪れた

そこで何と7年ぶりにその方と再会することになったのである

精神科の医師、中野幹三氏であった

これからは医療の現場を離れ隠居されること、そしてこれまでの成果を本に纏められたことを知らされた

統合失調症の精神分析―心的装置の「無底」と 根源的アイデンティティ―』 (金剛出版、2013)


症例がふんだんに取り上げられているこの本を読み始めてまず驚いたことは、患者さんの発する言葉であった

常人の想像を超える奔放さで言葉が氾濫しているという印象であった
 
そこに見られる詩的で、時に哲学的な響きのある遠慮の無さにも驚くことになった

わたしの感想について、中野先生からのお便りには次の言葉があった

「傷ついたものだけに与えられた特別な感受性があるように思われます

それが自然の神秘を、我々凡人に教えてくれているように感じています」


われわれは日常に生きるために思考せずに済むようルチーン化された中に身を置いている

われわれの精神の動きは、この社会に生きるためにその迸りを抑制されているのではないか

そして、その日常にこのような精神が侵入した時、社会はどの程度許容できるのだろうか

普通は異質なもの、日常を妨げるものとして容易に排除されることになりそうである

 

さらに驚いたことは、胎児と母親との間の関係が、その後の精神の状態に影響を与える可能性

患者さんが胎児期のことを雄弁に語っていることであった

以前は視野になかった意識のないところでの影響も、今では想像できなくもない

しかし、普通は証明が難しそうに見えることは捨象しまいやすい
 
やはり、病気になることにより、普段は向かわない意識の深いところに入って行けるということなのか


フロイトの言うエスが最も深い 「無底」 と言われるところにあり、そこから自我が生まれてくるという


その過程に断絶が起こると統合失調症になるという考え

エスの中で起こるリビドー備給とそれに対抗する機転があるとする仮定

そのバランスにより生命の発露であるエロスが花開いたり、抑制されたりするという見方

実に興味深い


意識されていない自らの根のようなところに生命の根源があり、そこで普通はゆったりできる

しかしその場所から引き離され、居場所がなくなることが統合失調症の原因になりそうだとの結論

つまり、深いレベルでのアイデンティティに絡む病気であることになる

わたしの中では、物理化学的な視点でのアイデンティティしか頭になかった

しかし、精神の奥深いところにアイデンティティを決めるものがあり、それをこの病気の本質と捉える見方

この本を読む前にははっきりしなかったこの病気のイメージが、ぼんやりと顔を出してきたという印象がある


その他にも原母と原父という概念や日本の神話の分析から得られた異界とエス、霊魂とエロスとの対応など

興味深い解析がされていた

残念ながら、これらの背景に関する知識が不足していて十分な理解には至らなかった

ただ、これからこの方面のものを読んでいくための一つの指標になりそうである






lundi 26 décembre 2011

映画 A Dangerous Method、あるいはカール・ユングという人生



夜の散策中、タイトルに惹かれてシネマの中に入る。

"A Dangerous Method"


案内を読んでみると、カール・ユングに纏わるお話だ。フロイトも出てくることがわかり、観ることにした。昨年、東京で開いた会でユングの言葉についても触れていたからでもある。

この世に偶然はない。これはわたしの底を流れるアイディアになっている。この映画でユングも同じ考えの持ち主だったことを知り、驚く。この世の出来事には何かの意味があると考える傾向があったのだ。

ユングとフロイトが決別したことは知っていた。精神分析の分野は 「いずれ」 のリストの相当先にしかない。その背景について調べるところまでは行っていなかった。ただ、この映画で両者の考え方の違いが少しだけ見えたような気がした。

フロイトはユングを精神分析という自らの領域の後継に、と考えていた。フロイトは開拓しつつあった領域を科学的批判に耐え得るものにしようとしていた。彼の周りには多くの批判者がいたのだ。

一方のユングはフロイトが科学的として囲い込んだ領域を超えようとする。この世に偶然はなく、すべてに意味があると考えるような人間である。テレパシー、神秘主義、シャーマニズムなどにも興味を示す。

患者に対する態度でも二人は意見を異にしていた。フロイトは患者のあるがままを観察し、分析するところで止めようとする。ユングは患者の持てるものを十全に発揮できるようにしたいと考えていた。患者への踏み込みがより強いと言えるのだろうか。両者の決別は必然だったのかもしれない。

カナダ人監督デヴィッド・クローネンバーグさん (David Cronenberg, 1943-) のインタビューによると、この映画のもう一つの要素として、台詞としても語られていたが、人種の問題があることがわかる。フロイトはユダヤ人だが、ユングは言ってみればアーリア人。当時のオーストリア・ハンガリー帝国ではユダヤ人が虐げられるということは少なかったようだが、かと言って社会の中心を占めるということもなかった。フロイトがユングを取り込もうとした背景には、自らの精神分析が社会的認知を受ける上で助けになるのではないかという思いもあったとみている。ユダヤ人で無神論者のクローネンバーグさんは、ユングよりはフロイトの立場にシンパシーを感じているようだ。

今のわたしから見ると、どちらが正しいのかわからない。二人の立場が可能だということを理解できるようになっているからだ。それぞれの進み方に意義を見出していると言ってもよいだろうか。そんな曖昧なところにいる。もう少しその中に入ってみなければ、それ以上のことは言えそうにない。






ところで、この映画のメイン・テーマはユングの女性関係である。1903年、裕福な家庭の出のエンマ・ラウシェンバッハと結婚。5人の子供を授かり、エンマが亡くなるまで夫婦関係は維持する。彼の人生にはこの他にも女性が登場する。今回の主人公である彼の患者だったザビーナ・シュピールライン。映画の最後で名前だけが出てくるトニ・ヴォルフ。ユングは一体どのような内的人生を歩んだのだろうか。これまでになく興味が湧いている。それとは別に、ヨーロッパのゆったりした空気とフロイトのシガー姿を味わっていた。




ユングさんが1914年から1930年にかけて書いたご自身の 「内なる大聖堂」 (cathédrale intérieure)とも言える「赤の書」が今年、フランスで翻訳された。この書は彼の死後厳重に保管されていたが、2年前にアメリカで出版され、その翌年には日本でも翻訳されている。格段にお高いが。

Amazon.com (The Red Book: Liber Novus, 2009; $112.21)
Amazon.co.jp (The Red Book, 2009; 15,693円)
Amazon.fr (Le Livre Rouge, 2011; Euro188,10)
創元社のサイト (「赤の書」、2010; 42,000円)









科学的な観察と治療に止めようとするフロイトさんの立場と科学を超えて神秘主義にも興味を持ちながら、患者の生を十全に発揮させようとするユングさんの立場。自らの性向を比較してみると、ユンギアンの要素を否定できそうにない。より正確には、理性(科学的な思考)を徹底した上で、神秘の世界にも目を閉じないでいたいと思っているのではないだろうか。それが存在すると感じた時には科学で説明できないからと言って捨て去るのではなく、その先に行ってみたいと思っているようだ。そこにこの世界の豊かさが隠れているようにも見える。このような世界の観方は、科学主義に染まってしまうとなかなか採れないはずのものである。

今年はユングさんが亡くなって50年目の年であった。


カール・グスタフ・ユング
(1875年7月26日 - 1961年6月6日)
Carl Gustav Jung