vendredi 6 novembre 2009

Daniel Dennett talks about religion, free will,,



Daniel C. Dennett is Austin B. Fletcher Professor of Philosophy, and co-Director of the Center for Cognitive Studies at Tufts University, Medford, USA.

mercredi 4 novembre 2009

学会を考える: 手段が目的に



ここ数年送られてくる学会のニューズレターに会員数の減少という言葉をよく目にするようになった。現状についての情報は持ち合わせていないので、これらの発言が真であるという前提で考えてみたい。この問題の背後にあることは、一つの学会に限らずいろいろなところに隠れている可能性があり、一考の価値があると思ったからだ。

そもそも学問の目的は、と考えると、真理の追求として異論はないだろう。自然科学ではこの自然界に潜む真理や法則を見出そうとし、人文社会科学は人間や社会を根本から理解しようとする営みだと考えることができる。その営みにおける学会という視点で考えると、問題が整理される。つまり、学会はこれらの営みをするためのわずか一つの手段にしか過ぎないことが明らかになる。他のやり方があれば、それを採用してもよいわけである。学会の発足時には活気があり、盛んに討論も行われたが、時間とともに年中行事のようにつまらなくなっていくのは自然の流れかもしれない。そして、その流れはどんなに装いを新たにしても変わることはないだろう。その底にある思想や哲学が変わらない限り。

当初は意識するか否かは別にして、学会があくまでも学問するための一つの手段にしか過ぎないということを感じている。それまでその手段がなかったからだ。しかし、この原点が忘れ去られると、すべてが学会を中心に、それが絶対的な存在であるかのように、存続させなければならないものとして変化し始める。その瞬間に、手段が目的に変わるのだ。学会の institutionalization とでも言うべきことが起こってくる。そこでは形が先に来るようになり、活力が失われるのは当然のことかもしれない。

少し過激に言わせていただければ、学会を活性化するには、という問ではなく、真理を追及し学問の質を高めるためにはどのようなやり方があるのか、という根源的な問を自らに向けなければならないだろう。その過程で学会に対する認識が変わってくると、新たな視界が開ける予感がする。

科学的精神とは、本来どのような囚われからも自由であろうとする精神から生まれている。その精神が失われ、囚われの人々で溢れてくると最早科学とは言えなくなる。そういうことを感じる人が増えてくると、その輪に集う人は減ってくるのは致し方ないのかもしれない。一個人として、一科学者として、ある学問における真理を見極めたいと思わせる場所になると、そこには活力が漲り、運が良ければそこに集う人も増えてくるような気がしている。


mardi 3 novembre 2009

ミシェル・セールさんの 「地球の第三革命、あるいは世界の語られないこと」


ミシェル・セールさんの科学に関するエッセイを読む。それは当然のように、われわれを取り巻く広い世界との関係に繋がってゆく。わたしが感じ、考えていたことと余りにもよく響き合う。21世紀の大きな課題になるだろう。以下に、その概略を紹介したい。


 Michel Serres " La troisième révolution sur la Terre ou le non dit du Monde "

科学と社会との最初の緊張関係はガリレオ裁判になる。物理学者は 「世界」 について代数学の言語で語っていたが、教会の伝統は宗教的、神秘的、神学的なものである。ここで忘れがちなのは、この 「世界」 というものである。当時は、誰ひとりとしてガリレオの言うところを理解できなかった。古代ギリシャでも同様の裁判があり人は死んでいるが、中世のような考え方の対立ではなく、市民の義務を果たさなかったり、観察する態度によってさえ、死が宣告された。そこでは 「世界」 は対象になっていなかった。

よく言われることに科学と社会の二項対立がある。そこでは、賢者と軍人との緊張関係、生物学者・医学者と法律家・宗教家の衝突、創造論、倫理委員会の必要性、代理母の悲痛、、、などが強調されて語られる。少なくとも純粋科学は 「世界」 を対象にし、社会の側は社会や政治を扱う。古代ギリシャにおけるシテ(polis に由来)の管理・運営は都市が対象であり、「世界」 の問題ではなかった。

われわれと同様の国においては、この数十年で農民が70%から2%に減少した。社会に影響力を及ぼす哲学者、インテリ、政治家、ジャーナリストは若い時から人文社会科学にだけ接し、「世界」 のものを語る科学に出会っているだろうか。古代ギリシャやガリレオの時代から科学は自らを分割して、それぞれが世界を眺めてきた。しかし最近になり、グローバル・パートナーとして 「世界」 ということを言うようになってきた。諸科学を統合して、「世界」 を発見し、緊急のメッセージを社会に発している。

西洋文明や歴史は、少しずつ 「世界」 の問題から離れている。われわれの文化は都市で生まれ、その中でナルシストの行為をしてきた。田舎や素朴さや純粋科学や 「世界」 の外で生きてきた。それがここに来て急に 「世界」 が出現し、全体を見る視点が必要になってきた。現在の環境問題、自然災害、感染症などは、この視点なしには解決できない問題である。従来の二項対立では解決できないだろう。

ここで必要になるのが、「科学と社会と世界」 のトライアングルである。三者の立体的な関係である。現在のインターナショナルな機関は、結局のところそれぞれの国の利害の対立処理に追われていて、そこでは 「世界」 が除外されている。最近、空気、水、エネルギー、地球、生物種などを扱う国際的ではなく(non international) 「世界的な」 (mondial) な機関を提唱した。そこで 「世界」 を全的な対象として捉えると、それが新たな主体となり、新しい社会を形成することになる。これまでは受け身で存在していた 「世界」 が、決定的な要因となりわれわれの前に顔を出してきた。

科学にも変化が現れ、例えば地球生命科学(SciViTe ; la science de la Vie et de la Terre)という学際的な分野が新たな視点でこの問題を研究している。プトレマイオスは世界の中心に地球を置き、太陽はその周りを回っているとした。コペルニクスはその見方を180度転換し、主客を逆転させた。今起こっていることは新たに見方の転換を迫るもので、第三革命と言えるだろう。現在の危機は、「世界」 をその視野に入れない文化であり、政策ではないか。この問題解決には歴史はあまり役立たないだろう。全く新しい見方や行動が必要になる。

dimanche 1 novembre 2009

Freeman Dyson talks about universe, science, religion,,,



Freeman Dyson is professor emeritus of physics at Institute for Advanced Study, Princeton, USA.