jeudi 12 décembre 2013

パリから見えるこの世界 (11) 「ダーウィンのパンゲン説,あるいは科学が求める説明」



雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 「パリから見えるこの世界」 の第11回エッセイを紹介いたします

医学のあゆみ(2012.12.8) 243 (10): 929-933, 2012

ご一読、ご批判いただければ幸いです






mardi 10 décembre 2013

進化医学と適応主義について聴く

Dr. John Matthewson 
(Massey Univ, New Zealand & Univ of Sydney, Australia)


進化医学の現状、より正確には問題点についてのお話を聴く

進化医学のことを聞いた10年以上前、新しい視点が生まれていることに少し興奮した

しかし、よく読んでみると、その説明が殆ど後付けに見えたのだ

つまり、今ある状態(形質)は最良の適応の結果であると考え、そこから理由付けをするのである

この分野の言葉で言えば、適応主義(adaptationism)を採用していることになる

これが度を過ぎると、しばしばその証拠もなしにどんなことでも説明できることになりかねない


進化医学には20年ほどの歴史がある

確かに、抗生物質の耐性や癌の進化には貢献があった

しかし、その後の経過を見ると過度の適応主義が蔓延っているとの批判的分析が出されている

それは進化医学の考え方が間違っているというよりは、やり方の問題だとジョンさんは考えていた

さらに、医学の現場への還元や新しい研究プログラムが進化医学から出ているのかという問題もある

メカニズムに基づく説明に優る歴史的な説明は可能なのだろうか

そして、そのための証拠を集めることができるのだろうか

この辺りの問題が総合的に論じられていた


個人的な印象は、これからの道はかなり厳しそうだというもの

セミナー後にお話を伺ったところ、同様の感触をお持ちであった

しかし、これからの進展をしばらくの間見守りましょうというとことで落ち着いた





mercredi 27 novembre 2013

コロンビア大学での医学哲学会議から (4) MUPS とは


先日の会議でトロント大学の院生 Michael Cournoyea さんが取り上げていた MUPS についてメモしておきたい


医学的な原因がわからず、診断がつかない身体的な症状のこと

その存在は知っていたが、このような名前で呼ばれていることは初めて知った

臨床の現場では意外に多く、報告により異なるが、25-50%から30-70%に及ぶという

診断がつかないため、患者さんは医者巡りをすることになる

気のせいだとして片づけられることもある 

しかし、上のスライドにあるように、いろいろなことが考えられている







アラン・バディウさんによる三つの 「哲学的状況」、あるいは哲学の使命


先日のニューヨークで入った書店で哲学書を眺めている時、この小冊子が目に入った

アラン・バディウ(Alain Badiou)、スラヴォイ・ジジェク(Slavoj Žižek)著

Philosophy in the Present (Polity; 2009)

バディウさんの言葉はよく入ってくるので、これまで何度も取り上げている

英語に訳された本が書架にたくさん並べられていることに驚いた

彼の主著 『存在と出来事』 (1988)が出たのは51歳の時で、英訳はその17年後の68歳の時である

バーンズ・アンド・ノーブルにも置かれていた

バディウさんは年齢とともに熟成を見せる衰えを知らない哲学者という印象が強い

哲学が時間のかかる営みであることを思い起こさせてくれる

もちろん、パスカルウィトゲンシュタインのような天才は別なのだろうが、、

この本は二人の哲学者の講演と対論を基にしたものなので、読みやすい

タイトルにあるように、「現在」に如何に哲学が絡むことができるのかについて省察している

以下に、バディウさんの言葉を


まず、哲学について間違った考えが蔓延っている

テレビでコメントしている哲学者のように、哲学者は社会のどんな問題についても語ることができると思われている

真の哲学者とは、自分が重要だと思う問題を決め、すべての人にとって重要な問いを出す人である

 そもそも哲学とは、新しい問題を創り出すことである

哲学者が関わりを持つのは、新しい問題を創り出さなければならないような兆候が見られた時である

世界ではいろいろなことが起こっているが、すべてがそのような時ではない

哲学が必要になるのは、「哲学的状況」 と呼ぶ状況がある時である

その状況を3つの例で説明したい


一つは、プラトンの 『ゴルギアス』 に描かれたソクラテスとカリクレスとの間の全く相容れない関係である

カリクレスにとっての幸福な人間とは、奸計と暴力で人民の上にある者

一方、ソクラテスにとっての真の人間、すなわち幸せな人間は、哲学的な意味における正義の人である

両者の間には、正義が暴力なのか、思想なのかの違いがあり、その間に橋は架けられない

対話は不可能で、衝突しかあり得ない

つまり、勝者と敗者しかないのである

この状況における哲学の役割とは何か

それは、どちらかを選ばなければならないことを明らかにすることである

哲学的状況とは、存在に関する選択が明らかになる時である


第二の例は、シラクサ出身の数学の天才アルキメデスの死である

第二次ポエニ戦争の時、シラクサはローマの将軍マルケッルスにより占領される

アルキメデスはレジスタンスに加わり、兵器を開発したりしていた

占領下のある日、幾何学の研究を継続していたアルキメデスは砂に図を描き、考えていた

その時、兵士が到着し、名を馳せていた人物に興味を持ったのか、将軍が会いたいと言っている旨を彼に伝えた

 しかし、彼は身動き一つせず、再度の要請にも答えず、計算を続ける

そこで頭に血が上った兵士は、彼を殺してしまったのである

これが哲学的状況になるのは、国家権力と創造的思考との間に相容れない関係があるからである

暴力により創造としての真理が簡単に消されてしまうからである

同様の例として、作曲家アントン・ヴェーベルンの死がある

彼は第二次大戦直後、アメリカの占領軍兵士の誤射により殺害された

事故ではあったが、哲学的状況に変わりはない

ここにも権力と真理との間に超えることのできない溝がある

哲学のミッションは、その隔たりについて省察し、そこに光を当てることである


そして、最後の例は、溝口健二の驚くべき映画 『近松物語』 である

その理由は、存在をひっくり返すような愛と社会の規範との間に相容れないものがあるからである

例外をどう考えるのか、日常の継続性と社会の保守性に如何に抗して考えるのかという問題である

哲学が大学の科目としてではなく、人生に何らかの意味を持つものであるために考えなければならない三つのこと

それが選択と隔たりと例外になる

そこから、この人生を意味あるものにするためにやらなければならないことが現れる、

出来事を受け入れ、権力から距離を取り、自分の決定に断固従うこと

そのことを理解すること、そしてそのことによってのみ、哲学が真に人生を変えることに寄与できるのである







dimanche 24 novembre 2013

アメリカの医学哲学会議で、英語世界におけるフランスを考える


昨夜ニューアークを発ち、今朝オルリーに着いた

ニューヨークでは何かに追われるような緊張の中、常に動き、前に進むことを強いられる

声が大きく、会話のテンポは速く、決然としていて、即断が求められるように感じる

こちらにはそれがない

そのためだろうか、少し引いてゆっくり思いを巡らすことができるようだ


医学哲学においても、テーマとその扱い方がアメリカとフランスでは明らかに違う

実証的で科学的に対象に迫るのがアメリカのやり方で、主観の関与をなくし対象を突き放してしまう

そのため、科学の発表と変わらず、冗談も科学者のものと変わらない

リタ・シャロンさんの "narrative medicine" などは、この中にあって異質に見える

フランスの場合には、実証的な研究もあるが、抽象的な思索に入る場合が稀ではない

観念論や形而上学的思索が許されている

これがアメリカでは興味の対象から外れ、フランスではよく知られている哲学者は読まれていないようだ


アメリカにいた時の感受性を思い出しながら形而上学の含みのある発表を聴いてみた

そうすると、アングロ・サクソンの反応がよくわかるのだ

フランスの中に閉じ籠っているように感じさせるのは、フランスの哲学にとっても得策ではないだろう

アングロ・サクソンの枠組みの中で、如何にフランスの特徴を発信することができるのか

この発想がなければ、例外的な研究、マージナルな研究ということになりかねない

フランス語がわからなければ、その思想に触れることができないからだ

それほど英語的発想には圧倒的な力があり、それゆえフランス的な思考が重要になるはずである

発想を大きく変える必要があると感じた


6月にパリで同様の医学哲学の会議があった

その時はベースがヨーロッパだったので、このような切迫感はなかった

今回はほとんどがアングロ・サクソン的背景の中で行われた

そのためだと思うが、両者の落差が想像以上に大きいことを改めて感じる旅となった




コロンビア大学での医学哲学会議から (3)

Prof. Nancy Cartwright (UCSD & Durham Univ.)


会議三日目はコロンビア大学の疫学部門が主催の会であった

テーマは、疫学における説明と予測

医学だけではなく、行動科学、経済学、政治学からの発表があった

一つの話題は、科学で極めて重要になる因果関係とか因果律と言われる概念

大きく3つの考え方が取り上げられていた

第一は、デイヴィッド・ヒューム(1711-1776)の規則性に基づく説である

Aという出来事の後に例外なくBという出来事が観察された時に限り、AがBの原因になっているとする

第二は、ナンシー・カートライト(1944-) さんなどが唱える確率に基づく説

Aという出来事がBの確率を上昇させる場合に限り、AがBの原因になっているとする

第三は、デイヴィド・ルイス(1941-2001)のカウンターファクチュアル理論がある

これは、もしAが起こらなかった場合、Bは起こらないはずだと言えるかどうかを基にしている


19世紀の科学における因果律は、完全な規則性に基づく説を採用していた

疫学の場合には、不完全な規則性に依存することになる

因果関係を明らかにするのは、説明するためであり、予測するためでもある

説明は理解に不可欠であり、予測は有効な行動に不可欠である

疫学は法則を求めるのではなく、因果関係を明らかにしようとする

カートライトさんは、黄金の方法とされるランダム化比較試験(RCT)の有用性を検討していた

まず、AがBの原因である証拠として7つのカテゴリがあることを示す

その上で、個別研究の集合を解析する場合と比較していた

その結果、RCTが明らかにする証拠は1つのカテゴリなのに対して、後者の場合には5つに及ぶことを明らかにした

原理的には、個別研究の集合解析はRCTに何ら劣ることはないということになる


考えるべきことの一つは、疫学の目的は世界を理解することなのか、世界を変えることなのかということ

両者は二律背反ではないが、二つの違いはその後の方向性を変えることになる

世界を変える場合には、具体的な政策決定が絡み、各政策の有効性の検討が必要になるからである

世界を理解する場合には、原因を見出し説明することに重点が置かれ、予測へと繋がる

相関と因果性は区別しなければならないが、相関が役に立たないわけではない

因果性が確立されていない段階で、危険を避ける行動をとることができるからである

疫学は説明ではなく、行動の決定に寄与する学問であるべきだという考えが出されているようだ




コロンビア大学での医学哲学会議から (2)

Prof. Ross Upshur (Univ. of Toronto, Canada)


二日目の話題として、ロス・アップシャー(トロント大学)博士の基調講演を取り上げてみたい

プライマリ・ケアの忙しい現場で仕事をする中で考えてこられた生命倫理の専門家でもある

タイトルは、Anamnesis, or the Question of the Question 

病歴を取る時に行う問い掛けに関する問い掛けであった


病歴を取るとは、患者さんの過去について思いを馳せること(リフレクション)である

それをさらに進めると、医学について考える(リフレクト)することにも繋がる

医学は何のためにあるのか

証拠(エビデンス)と言うが、それはどれだけ有効なのか

患者さんの病歴をどのように扱うのか

医学における理性的思考とは、どういうことを言うのか、などなど

医学においては、理性的で厳密な思考から倫理に叶った医療へと向かわなければならない

つまり、すべての医療関係者は応用哲学者(applied philosopher)であることが求められる


近年、人口における高齢者が増加の一途を辿っている

年齢が増すにつれて、複数の慢性疾患を持つ人も増える傾向がある

カナダでは、80歳以上の10人に一人は5つ以上の病気を持つという

医療関係者は、必然的に高齢者を対象にしなければならない状況が続くことになる

アップシャーさんは、老人が嫌いな人は医療に入るべきではないと強調していた

また、医療が病気にとって良いものなのか、患者さんに対して良いものなのかを考えること

昨日も問題になっていた科学と価値の対立である


そしてタイトルに戻ると、70%~90%の診断は病歴によって決まる

それほど重要な病歴にも拘らず、哲学の対象になっていないという

病歴を取る時に重要になるのは、どのように問いを繋げ、進めていくのかということ

さらに言えば、どのような問いを出すのかが医療の質を決めることになる

 ドイツの哲学者ガダマー(1900-2002)は、問いを出すことについてこう言っているという

「問いを出すとは、可能性の扉を開け、開いたままにしておくことである

疑問を出すことなしに、われわれは経験することができない

問い掛けることにより、問題にしていることをあるパースペクティヴのなかに入れるのである

問いの技術とは、問いを続ける技術であり、それは取りも直さず思考の技術なのである」


問いの重要性を考える時間となった



コロンビア大学での医学哲学会議から (1)

Prof. Jeremy Simon (Columbia Univ.)

11月20日~23日、マンハッタンのコロンビア大学で医学哲学の会議があった

これから何回かに分けて、印象に残ったことを書き出してみたい

会はオーガナイザーのジェレミー・サイモン博士の挨拶で始まった

医学哲学を専門にしているわけではないが、不思議なものである

この6月に出席を余儀なくされて以来、今年3回目の国際会議出席になる

この領域の歴史はまだ浅いようだ

本格的になってきたのは、ここ20年から10年くらいのものではないだろうか

未だに医学哲学なる領域が成立するのか議論されている状況である


日本では大阪大学の澤瀉久敬博士が「医学概論」なるものを始めた

戦中から戦後にかけてのことである

詳細はわからないが、この流れは今や途絶えているように見える

医学にとって直接的な意義が認められないとの判断があったのだろうか

加速度的に進歩しているように見える医学の中にいると、事実に追われるのはよくわかる

考える余裕がなくなるのだ

指導する側にその発想が乏しいと、このような流れは続かない

そうであるとすれば、残念なことである

Prof. Kirstin Borgerson (Dalhousie Univ., Canada )


午前中の話題からいくつか

2002年の段階で、医学系の雑誌は4,600を超えている

2005年の臨床研究の対象者は200万人に及ぶという

2011年の臨床研究数は53,000件に迫る勢いである

膨大な医学研究が発表されているが、その内容には多くの問題がある

研究のデザイン、不適当な対照群、少な過ぎる対象数、間違った解析法に誤った解釈などなど

その上、それらのデータの総体が統合され、再解釈されることなく放置されている

さらに、対象への不利益が行われることもある

例えば、よい薬ができてもそれまでのものを処方し続ける

逆に副作用が明らかになってもそのまま使い続けさせる

臨床試験、さらに言えば医学の臨床を取り巻く問題として、科学と価値の対立がある

科学的には理にかなっているが、社会的に不利益を及ぼす計画を実行するのかという問題である

発表者のボルガーソンさんは後者の立場に立ちたいと話していた

しかし、考え方は研究者により変わってくる可能性がある


それから、臨床研究の対象の“lumping”と“splitting” 問題が取り上げられていた

対象をどのように分けたり纏めたりするのかという問題で、やり方によって結果が変わってくる

ヒスパニックを対象とした時に現れる問題を分析している発表があった

ヒスパニック対ノン・ヒスパニックという分け方もあれば、ノン・ヒスパニック・ホワイトというのもある

ヒスパニック対ヨーロッパ系アメリカ人、あるいはアメリカ白人なども可能だ

さらに言えば、ヒスパニックと言っても文化的、地理的、遺伝的などの要因で変わってくる

どのグループを対照にするかによって、ヒスパニックの人種的特徴が変わってくる

一つの名の下に纏める時、その中の不均一性を見過ごす危険性がある

同様のことは、性差や年齢の違いに焦点を合わせた研究についても当て嵌まる

このような研究には政治的な意図が隠されている可能性があることを、常に考えておく必要がありそうだ


その他、プラシーボを用いた試験の絶対性(Placebo Orthodoxy)を疑問視する発表もあった

さらに、短期の臨床試験で一つの薬がプラシーボより有効であることがわかった時、どうするのか

有効性と安全性を確実にするためには、長期間試験を続けなければならない

しかし、有効な薬がありながらプラシーボを使い続けるのは倫理的に問題ではないのか

これも科学と価値の対立である

Prof. Rita Charon (Columbia Univ.)、A graduate student of Prof. Charon、
Prof. Sean Valles (Michigan State Univ.)


昼食は近くのレストランで

ショーン・ヴァレスさんは午前中 “clumping”と “splitting”の話をされた方

活力に溢れている

リタ・シャロンさんは医者であるが、文学研究を終えた後に “narrative medicine” という新しい領域を提唱されている

午後最初の基調講演の演者であった

午前中の発表を聴きながら、わたしの横で一人声を出して反応していたのがリタさんであった

昼食時もお隣りで、貴重なお話を伺うことができた

一見すると最初の領域から離れているように見えるが、実は以前よりも近くに感じるという逆説

彼女の場合には、文学での経験を医学の領域に還元されている

ご自身の経歴と重なるためか、わたしの歩みにも理解を示していただいた

これから益々混迷を深める時代に入る

このような視点を導入することが豊かなものを齎すという点で意見の一致を見た

彼女の考えの一端は、以下のビデオで知ることができる



基調講演での言葉を自分なりに変容させてみたい

芸術は芸術家のためだけのものではない

患者さんをケアすることも芸術的行為である

芸術的行為にしなければならないということでもある

そこには人間の創造性が生まれているはずであり、生まれていなければならないからだ

考えることは身体活動である

体を使うこと、それは創造性の発露に繋がる

身体性を取り戻すこと

人間にとって、創造性という一つの価値は極めて重要になる

講演後に質問していた方は、感極まったのか泣きながらであった


Dr. Hanna van Loo (Univ of Groningen, The Netherlands)


午後のセッションからいくつか

科学と価値の対立を如何に乗り越えるか

元を辿れば、一つのものがあるだけのはず

この世界を二つに分けて見ることを極力抑えること

それは生物学よりさらに複雑な要素が絡み合う医学で可能なのか

知識や説得に重点を置く今のやり方から 「何をやるのかを選択する」 ことへの移行が必要ではないか

そのためには知識と価値の両方を取り込まなければならないからだ

関係者の意識(habits of thought)の変革は可能だろうか


それから、ハンチントン病の研究についての解析もあった

1983年のその遺伝子が第4染色体にあることが明らかになった

その後、塩基3個(CAG)の反復が認められること、その数と症状が相関することが発表される

しかし、遺伝子変化と症状は必ずしも相関しないことが明らかになり、環境因子の関与が示唆される

このような遺伝子決定論と環境因子の関与という対立は、いろいろな局面で顕在化している


他に、健康と病気の概念、精神疾患の共存、根拠に基づいた医療(evidence-based medicine)などが議論されていた


Prof. Rachel Ankeny (Univ of Adelaide, Australia)


今回も人間がしっかり生きてその場にいることを感じながらの時間となっている

自らの主張を決然と発表し、活発な討論が進行する中にいるからだろう

その刺激はヨーロッパの会よりさらに強く、全身が活性化されているのがわかる

昼食時そのことを指摘すると、それが当たり前の彼らは驚いていた

科学の遂行に必要なものは、技術の前に人間の自律かもしれない

さらに言えば、それは民主的な社会にも不可欠の要素になるはずである






dimanche 10 novembre 2013

mercredi 6 novembre 2013

記念切手になったアレクサンドル・イェルサン博士



先日、切手を買うためにポストに寄った

綺麗な切手もありますがどうしますか、と聞かれたので、お願いしますと答える

出す前に、係の方はそれほど綺麗ではないのですが、と言って手渡してくれたものを見て、驚き、声を上げた

ペスト菌を発見したアレクサンドル・イェルサン(Alexandre Yersin, 1863-1943)博士の顔がそこにあったからだ

おそらく、ほとんどのフランス人は知らないだろう

もちろん、係の方も知らなかった

実は、スイス出身のこのフランス人微生物学者のことを最近のエッセイで取り上げたところだった

「パリから見えるこの世界」 第18回
 医学のあゆみ (2013.7.13) 246 (2): 201-205, 2013 
「ペスト菌発見者アレクサンドル・イェルサンという人生と北里柴三郎」

 どのような人生を歩んだ人間だったのか、お読みいただければ幸いである


調べてみると、この切手は今年の9月23日に出たもの

 同時に、晩年のイェルサン博士が描かれた0,63€の切手も発行されているようだ

上の写真は若い時に研究をしていたパスツール研究所の様子が背景にある

一方、こちらの背景は後半生を過ごしたベトナムが景色になっている

二つの切手が彼の二つの人生を描いている


孔子はこの人生には二つの生があると言ったという

 そして、二つ目の生はこの人生は一つだけであることを悟った時に始まると付け加えた

イェルサン博士はまさに二つ目の生を遠く離れたベトナムで過ごすことになった

博士は一体何を悟ったのだろうか

そんな興味を改めて掻き立てる嬉しい新切手であった





mardi 22 octobre 2013

利根川進博士の文章を読んで


日本経済新聞に利根川進博士が履歴書を書いていることを知った

コピーを送っていただいている方がいるからである

その文章を読み、これまでに感じたことのない新鮮な驚きを覚えた

それは、簡潔で単に事実を語るだけのものだということである
 
文章の背後にほとんど何の余韻も感じないほどである

 まさに、科学の特徴を表しているように見える

そこで問題になるのは事実が重要かどうかで、その表現は二の次になる

 ジャコブモノーのように哲学的思考に進むのかどうかは、科学者の資質に掛かっているのだろう

 哲学の文章を長い間読んできたためだと思うが、驚きの発見であった




jeudi 17 octobre 2013

ジャン・ドイチュ博士の考える遺伝子

Pr. Jean Deutsch (UPMC, Paris 6)


今日は、午後から遺伝子の概念の変遷についてのセミナーを聴きに出掛ける

演者はピエール・マリー・キュリー大学名誉教授のジャン・ドイチュ氏で、専門は遺伝学

昨年、上のスライドにある本を出されている



この本では遺伝学の歴史を最初から辿っているが、今日はここ半世紀位に絞って話をされていた

簡単にまとめると、次のようになるだろうか

当初は、タンパクに翻訳される塩基配列の特定の断片を遺伝子と言っていた

しかし、それだけでは遺伝子の働きのすべてをカバーできなくなる

塩基配列とそれを取り巻く環境が重要になる

 タンパクに翻訳されないイントロンと言われる存在が明らかになる

さらに、時間的、空間的要素も遺伝子の活性化に重要な役割を担っていることもわかってくる

このような状況を考え、これらすべての要素をまとめて遺伝子と定義したいとのお話であった

ただ、その名前をパンゲンpangene)としていたのには、少し引っかかった


お話が終わった後、次のようなサジェスチョンをさせていただいた

この言葉はダーウィンユーゴー・ド・フリースがすでに使い、歴史的に汚れているのではないか

カビの生えていない新しい言葉を充てた方がよいのではないか

この点は充分に認識されていて、敢えて使ったとのことではあったが、再考されるような印象を持った





mercredi 16 octobre 2013

ジャック・デリダさんを初めて聴く



ジャック・デリダさんを初めて聴く

文章を書くこととそれについての見方を語っている

目覚めて書いている時と半分眠って書いていることを振り返っている時との感情に違いがあるという

 書いている時には感じない恐怖の感情が振り返る時に襲うようだ



それからアメリカとの違いについても語っている

その感じはよく分かる

今回初めて聴いたが、話していることや話し方には抵抗がない



長いが、ドキュメンタリーが面白い

しかし、彼によれば、それは単なるアネクドートにしか過ぎないのだろう

自らの人生は語るべきではないという

ハイデッガーはアリストテレスについてこう言ったという

生まれ、考え、そして死んだ

哲学者の生はそれで終わり









アングロサクソンとの対話になるので、思考の枠組みが違うことがはっきりする

問題にしているところも、どう問題にするのかも違う

英語の世界から見ていると、どこが面白いのかわからないということになりかねない

二つの世界は、なかなか噛み合わないというのが全体の印象だろうか





dimanche 13 octobre 2013

パリから見えるこの世界 (9) 「ルドヴィク・フレックという辺境の哲学的医学者と科学社会学」


雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 「パリから見えるこの世界」 の第9回エッセイを紹介いたします

医学のあゆみ(2012.10.13) 243 (2): 203-206, 2012

ご一読、ご批判いただければ幸いです





samedi 12 octobre 2013

科学史の存在理由を問う


存在理由を問うことは、人間をはじめとしてあらゆることに求められるべきだろう

科学の歴史についてもいろいろな説明がされている

最近、オーフス大学の歴史家 Helge Kragh さんの考えに触れる機会があった

彼は6つの理由を挙げている

その第一は、科学史は科学哲学にとって必須である

哲学をする前提としての実証的な部分を構成するというのである

第二は、その教育的重要性である

科学を教える時、その歴史を教えることが一つの有効は方法になると考えるからである

第三には、文系と理系という二つの文化を繋ぐものとしての役割である

第四は、特に第二次大戦後、科学研究の有用性を強調するために重要になってきた

それは政治的な理由と言ってもよいものだが、反対に科学研究を監視する上でも重要になるだろう

第五は、科学研究そのものにとって有用なことである

新しい道を拓くというだけではなく、科学知に対して批判的な目を向ける上でも重要になる

そして第六は、過去の科学知がそれだけで興味深いものであるということである

それは今はほとんど役立たない知であることがほとんどであるが、それにも拘らずである


これらの理由は、他の領域を考える上でも重なる部分が多いように見える



samedi 28 septembre 2013

「サイファイ研究所 I for SHE」 を設立、それは何の原因になるのだろうか


帰国の度に、科学の成果に哲学的考察を加える「サイファイ・カフェSHE」を開いている

今回パリに戻り、この姉妹店を出してはどうかというアイディアが固まってきた

科学からではなく、哲学の蓄積から人間存在を考える「カフェフィロ・ポール(PAWL)」と名付ける予定の場である

PAWLは、ピエール・アドーさんの『生き方としての哲学』 の英訳 Philosophy As a Way of Life の頭文字

この機会に二つのカフェをまとめる場として、「サイファイ研究所 I for SHE」 を設けることにした

I for SHE は Institute for Science & Human Existence の略だが、「彼女のためのわたし」という意味にもなる

この研究所で取り上げる科学、医学、哲学、歴史、宗教、さらに人間存在まで、フランスではすべて女性

「こと」 の初めとしては、すべてがストーンと落ちたという印象がある

ご批判、ご理解、ご協力をいただければ幸いである



振り返ると、2年前の夏にサイファイ・カフェSHEの前身「科学から人間を考える」試みを始めることにした

これも日本からパリに戻って1-2週間の一瞬のことであった

その理由はわからないが、今のところ次のように考えている

日本の様子を観、いろいろな方と接触する過程で感じ取ったすべてのもの

それが無意識のうちにわたしのどこかに働きかけていたのではないか

その「どこか」とは、それまでわたしが感じ、考えていたもの溜まっていたはずのところである

そこにほんの少しの力が加わり、一つの形として流れ出したのではないかと想像される


この週末、8年前の記録を読み直していたところ、今回の萌芽と思われる記述が見つかった

ただ、当時のアイディアはまだ熟していないと感じていたことも分かった

それが実を結ぶまで、8年の蓄積が必要だったことになる

決定論の立場から言い直すと、今回の結果の原因は8年前に蒔かれていたことになる

そして、ある「こと」が起こっている時には、それがいつどのような結果を齎すのかは分からない

8年前に現在の状況など想像さえできなかったことでもよく分かる

今回の「こと」が、一体どのような「こと」の原因になるのだろうか

これから注意深く観察を続けたい



-------------------------------------------------

(dimanche 29 septembre 2013)

この週末、Institute for Science & Human Existence と同じ名前の組織があるか検索してみた

わたしがやった範囲では、なさそうである

もしそうならば、世界初の研究所ということになる

それが名前だけに終わらないようにしたいものである





mardi 24 septembre 2013

やはり、科学は哲学に行き着くのではないか


昨日、NHK特集 「神の数式」 の2日分(第1回第2回)を見る

ミクロの世界とマクロの世界を理解するための数式を発見しようとしてきた科学者の物語である

 それを観ながら再び浮かび上がってきたのが、昨年雑誌 「医学のあゆみ」 で問い掛けた言葉だった


ミクロの世界の完全な理解が可能になり、この宇宙がどこから来たのかが明らかになったとする

その時、われわれを取り巻く世界やわれわれの存在に対する科学的な理解は得られるだろう

それがこの世界はわれわれの直観を超えたものであることを教えてくれるだろう

その成果をもとに、この世界の新しい見方を構築できるだろう

しかし、科学的理解により人間が問うべき問題に対する解は得られるだろうか

例えば、この生は生きるに値するのか 、われわれは如何に生きるべきなのかというような問いに対して

そこに至るには、科学的な理解を元にしながらも、そこから別の次元へと思索を羽ばたかせなければならなくなる

それこそが、哲学的思考と言えるのではないだろうか

それは、科学の出発点にあった哲学が、科学の行く先にもなければならないことを意味している

わたしが昨年書いた 「科学は哲学に行き着くのか」 という問い掛けは、次第に確信に変わりつつある

それは、わたしの唱える 「デカルトの 『哲学の樹』 の逆転」の世界が待たれることをも意味している




vendredi 20 septembre 2013

西研教授の 「現象学的明証性とエビデンスをめぐって」 を読んで


今回の日本滞在では、東京医科大学のファカルティ・ディベロプメントでお話しする機会があった

その会場には哲学科の西研教授がおられ、多くの示唆に富むコメントをいただいた

講演終了後に届いたメールの中で、エビデンスと現象学についての対談を紹介された

ご本人のHPの冒頭から数行下のところにある 「現象学的明証性とエビデンスをめぐって」 である

 現象学と言えば、もう7年前になるが一つの出来事があった

イメージ、時間、現象学 L'IMAGE, LE TEMPS, LA PHENOMENOLOGIE (2006-04-28)

それ以来、いつかはと思いながらも未だ手付かずの現象学

 今回の滞在では時間がとれなかったので、パリに落ち着いた今朝、目を通してみた


科学的なエビデンスとの比較で、哲学的エビデンスについて現象学での可能性を探っている

現象学におけるエビデンスは、「明証性」 と訳されている

科学におけるエビデンスは、知覚事実とその数学的処理により得られるとしている

それに対して、現象学における 「明証性」 はどのように確保されるのだろうか

フッサールによれば、わたしにとっては疑うことができない 「事柄それ自身の現前」 として捉えられる

そこにはまだ、誰とでも共有できる性質が備わっていない


フッサールは 『デカルト的省察』 で、知覚事実とより厳密なエビデンスになる反省による内在的体験を分けているという

その上で、知覚事実については疑えるが、それについて反省していることは疑えないと考えた

まさに、デカルトの Je pense donc je suis である

対象は多様でも、そこに向かう態度には誰にでも共通する構図があり、フッサールはそれを本質と呼んだ

 さらに、その本質を引き出すことを 「本質観取」 と呼び、内的世界のあり方の構造を捉えようとしたという

西教授は反省的明証性を意味する "reflexive evidence" という言葉を当てている



 これは意識に存在するとされる二つの段階と対応しているように見える

すなわち、一つは外界の受容で、もう一つがその一段上にある外界の受容についての省察である

 第二段階に行かなければ、意識があることにはならず、目覚めていない状態と何ら変わらない

ヘーゲルが言う 「思惟」 とそれは対応するものだろう

彼は次のように言っている

 「哲学の目的は真理である。・・・

真理は直接的な知覚や直観においては認識されない。

それは外面的感性的直観においても、また知的直観においても同様である。

ただ思惟の努力によってのみ真理は認識される」



20世紀に入り、人文系の科学も自然科学的であろうとする流れが現れた

この対談では心理学からの例が引かれている

主観的な要素を極力排除しようとして、数学的、統計学的処理へと向かう流れである

内的世界を完全に無視する行動主義などは、その代表例になるのだろうか

確かに、科学の中にいる時には、そのような切り捨てが小気味よく見えることがある

科学はそうでなければならないと考えがちになる

そして、それが科学者に熱狂をもって迎えられ、勢いある流れとなる

しかし、時が経ち、冷静が戻って来ると、多くのものが見落とされていたことに気付くのである

同様のことは、他の分野でも起こっているだろう


今回、現象学におけるエビデンスの求め方を知ることができた

それは誰もが反省することにより共通の理解に達することができる基盤のようなものと言えるだろう

わたし自身は、科学におけるエビデンスについても同様の省察が必要であると考えている

科学においてエビデンスとなる事実をそのままにしておいたのでは、その意味が見えてこないからだ

そのため、それぞれのエビデンスを関連付け、謂わば 「現象学的」 エビデンスへと高める必要があると考えている

わたしが提唱している 「科学の形而上学化」 ということは、まさにこの営みに当たるだろう

「21 世紀の科学,あるいは新しい 『知のエティック』」 医学のあゆみ(2013.2.9) 244: 572-576, 2013
神経心理学を哲学する」 神経心理学 29: 35-43, 2013

 そして、わたしが帰国の度に開いているサイファイ・カフェSHEでやろうとしていることもそのための一つの試みと言えるだろう



今回、このような省察に導いてくれた対談を紹介していただいた西教授に感謝いたします




samedi 14 septembre 2013

パリから見えるこの世界 (8) 「フランソワ・ジャコブという存在、あるいは科学は哲学に行き着くのか」



雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 「パリから見えるこの世界」 の第8回エッセイを紹介いたします

今年4月、92歳で亡くなられたジャコブ博士から広がった科学の世界について触れています

 ご一読、ご批判いただければ幸いです



医学のあゆみ(2012.9.8) 242 (10): 832-836, 2012







dimanche 25 août 2013

フランソワーズ・ダステュールさんによる現象学、哲学


新しい Philomag にフランソワーズ・ダステュール(Françoise Dastur, 1942-)という方のインタビューを見つける

 タイトルは、「わたしは哲学がポピュラーになることはないと思います」

以下に、そのお話から


 ソルボンヌで25年講師をやり、50代になってからベルギーの大学にテーズを出した

61歳で早めの退職をして、今は田舎に住んでいる

ご自身は、自分の学説を広める哲学の専門家というよりは、問いにより人を目覚めさせる哲学教師と考えている

大学の哲学はテクストの厳密な解釈に閉じ籠り、死に掛かっている

一つの問いへと開いていくことをしないのだ

今、自分の村で50人くらいの人を集めて哲学を教えているのは、新しい道を探るためである


ご本人はフランス現象学の専門家で、現象学についても語っている

現象学はプラトン主義の世界観に抗する

われわれに見えている「もの」の背後にあるものを探してはいけないという強い確信がある

 そして、すでにそこにある「もの」、現れている「もの」、前提条件が観ることを妨げる「もの」を明らかにしようとする

doxa、共通意見、先入見を排除するのだ

このようなやり方を採るのが現象学だが、それは哲学の元々の姿でもある


われわれはしばしば、周りにあるものに名前を付けるが、そのものを観ることをしない

フッサールによれば、「もの」そのもの至るには、言葉を排しなければならない

隠れている初めの経験に戻らなければならない

これは西田の「純粋経験」の世界のようでもある


死を意識できるのは人間だけである

死を意識することだけが、「いま・ここ」を生かす道を開くのである

この点が動物と違うところだと考えている


ご主人がインド人とのことで、インドの思想に興味を持っているようだ

例えば、Darśan / Darshan という概念

「視点」 とか 「ものの観方」 という意味で、「知への愛」 という哲学を語らない

これはピエール・アドー(Pierre Hadot, 1922–2010)さんやベルグソンの哲学の見方と通じるところがある

ピエール・アドー PIERRE HADOT " LA PHILOSOPHIE COMME MANIERE DE VIVRE " (2007-01-03)

西洋だけではなく、東洋の見方にも興味をお持ちのようである



lundi 19 août 2013

ハンナ・アーレントさんの政治哲学を聴く



これまでの記事を読み直したところ、Youtbeの映像がなくなっているのがいくつか見つかった

同じものの別バージョンがある場合は差し替えたが、ハンナ・アーレントさんのものはなかった

古い記事は以下に残し、新しいインタビューを貼り付けた

聞き手はギュンター・ガウス(Günter Gaus)さん

お二人とも煙草をやりながらのインタビューでなかなか味がある

今の日本では大変なことになりそうだが、アーレントさんであれば何と論駁するだろうか

 真剣勝負のインタビュー

このような緊張感のある対話を観ることも少なくなった

今回印象に残ったアーレントさんの言葉をいくつか

 
「私は政治哲学者ではない、政治理論の専門家である
哲学と政治はそもそも緊張関係にある
それぞれ静的な思考の世界と行動の世界にあるからだ」

「わたしにとって最も重要なことは理解すること、その思考過程が最も重要である
何かを言うため、影響を与えるために書くのではない、理解するために書いている
読者がそのように理解してくれるとすれば、最高の満足である」

「第二次大戦中の経験からインテリはあらゆることの解釈を捏造することを知った
そしてお互いを批判しない
インテリの中では協力するが、その外とは関係を持たない
それがインテリというものの本質であることがわかった
それ以来、インテリの世界には一切関与しないことにした」

「英語もフランス語もやるが、ドイツ語は何物にも代えがたい
豊かな仕事は母国語からしか出てこない」

ヤスパースが話し始めると、すべてが明快になる
彼ほど話すことに信頼を置いている人間を見たことがない
彼は理性と繋がる自由を理解していた
 それが実践されている現場に居合わせることができたのである」


 いつものように迫力のあるインタビューであった


---------------------------------------------

26 avril 2013

1974年放送のハンナ・アーレントHannah Arendt, 1906-1975)さんのインタビューを観る

彼女の政治哲学を聴く

別ブログで何度か彼女について取り上げたことがある

 ハンナ・アーレント 「精神の生活」 La Vie de l'esprit - Hannah Arendt (2008-12-07)
 ハンナ・アーレントの墓 La Tombe d'Hannah Arendt (2010-02-15)
瞑想生活のある社会 La société avec la vie contemplative (2011-01-14)


この中に、わたしがフランス語を始めて反応した言葉の一つ Réfléchir について語っているところがある

彼女の規準はこうだ

この運動をする時には、常に批判的な視線がなければならない

厳密な規則、確信に照らして考えなければならない

思考の過程で起こることは、批判的検証に従うことである

つまり、思考自体が危険な営みだという意味で、危険な思考というものは存在しない

考えないことはそれ以上に危険だと言っている




dimanche 18 août 2013

中野幹三著 『統合失調症の精神分析』 を読んで


ひょんなことから手にする本がある

普通はその中に何か通じるものを読み取り、さらに読み進むというものが多い

だが、この本との付き合いはこれまで避けていた義務的な要素が強いものとなった

専門外のお話に長い時間耐えたためだろうか、それ以前には見えなかった景色が今拡がっている

最初に、なぜ義務的な読書になったのかがわかる著者との遭遇について触れてみたい

このエピソードは、これまでもどこかに書いているはずである


2006年春、わたしはあるレストランのカウンターで偶然に隣り合わせた方と言葉を交わすことになった

その方から 「タンパク質に精神があると思いますか?」 という問いを投げかけられたのである

それまで物理還元主義を金科玉条の御旗としていた免疫学の研究者にとって、それは形容し難い衝撃であった

と同時に、このような問いが成立し得る世界に強い興味を覚えたのである

さらに、現代科学における頭の使い方、問いの出し方には大きな制約が加わっていることにも気付くことになった

翌年には退職することになっていたわたしは、残りの時間のすべてを考え、振り返ることに使おうと考え始めていた

これまで先送りにしてきた問題や人類の遺産の中を自由に散策したいという欲求を感じていたのである

もしこの時期でなければ、このような問いに対しては冷淡な態度をとっていたのではないかと想像される

そして、今年の春に帰国した折、再びそのレストランを訪れた

そこで何と7年ぶりにその方と再会することになったのである

精神科の医師、中野幹三氏であった

これからは医療の現場を離れ隠居されること、そしてこれまでの成果を本に纏められたことを知らされた

統合失調症の精神分析―心的装置の「無底」と 根源的アイデンティティ―』 (金剛出版、2013)


症例がふんだんに取り上げられているこの本を読み始めてまず驚いたことは、患者さんの発する言葉であった

常人の想像を超える奔放さで言葉が氾濫しているという印象であった
 
そこに見られる詩的で、時に哲学的な響きのある遠慮の無さにも驚くことになった

わたしの感想について、中野先生からのお便りには次の言葉があった

「傷ついたものだけに与えられた特別な感受性があるように思われます

それが自然の神秘を、我々凡人に教えてくれているように感じています」


われわれは日常に生きるために思考せずに済むようルチーン化された中に身を置いている

われわれの精神の動きは、この社会に生きるためにその迸りを抑制されているのではないか

そして、その日常にこのような精神が侵入した時、社会はどの程度許容できるのだろうか

普通は異質なもの、日常を妨げるものとして容易に排除されることになりそうである

 

さらに驚いたことは、胎児と母親との間の関係が、その後の精神の状態に影響を与える可能性

患者さんが胎児期のことを雄弁に語っていることであった

以前は視野になかった意識のないところでの影響も、今では想像できなくもない

しかし、普通は証明が難しそうに見えることは捨象しまいやすい
 
やはり、病気になることにより、普段は向かわない意識の深いところに入って行けるということなのか


フロイトの言うエスが最も深い 「無底」 と言われるところにあり、そこから自我が生まれてくるという


その過程に断絶が起こると統合失調症になるという考え

エスの中で起こるリビドー備給とそれに対抗する機転があるとする仮定

そのバランスにより生命の発露であるエロスが花開いたり、抑制されたりするという見方

実に興味深い


意識されていない自らの根のようなところに生命の根源があり、そこで普通はゆったりできる

しかしその場所から引き離され、居場所がなくなることが統合失調症の原因になりそうだとの結論

つまり、深いレベルでのアイデンティティに絡む病気であることになる

わたしの中では、物理化学的な視点でのアイデンティティしか頭になかった

しかし、精神の奥深いところにアイデンティティを決めるものがあり、それをこの病気の本質と捉える見方

この本を読む前にははっきりしなかったこの病気のイメージが、ぼんやりと顔を出してきたという印象がある


その他にも原母と原父という概念や日本の神話の分析から得られた異界とエス、霊魂とエロスとの対応など

興味深い解析がされていた

残念ながら、これらの背景に関する知識が不足していて十分な理解には至らなかった

ただ、これからこの方面のものを読んでいくための一つの指標になりそうである