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dimanche 23 novembre 2014

第2回 PAWL のまとめ


11月21日(金)、第2回の PAWL を開催した

この会では、生き方の哲学を考え、その哲学を生きた哲学者を取り上げ、語り合うことにしている

今回取り上げた哲学者は、古代ギリシャの幸福の哲学者とも言われるエピクロス

エピキュリアンという言葉は若い方には馴染みがないかもしれない

 しかし、われわれの世代では今でも使われているのではないだろうか

少なくとも、わたしは若い頃からお前はエピキュリアンではないかと言われた記憶がある

また、フランス語を始めてからも、フランス人に名指しされたことがある

彼らが、どのような意味で言ったのかはわからない

本来のエピキュリアンは一般に浸透している快楽主義者でない

今回、その誤解が解けたという方もおられた

最近では、本来の意味でわたしはエピキュリアンではないかと思うようになっているのだが、、、
  

ディスカッションはこれまでになくリラックスした雰囲気の中で行われた印象がある

懇親会でも実り多い話が進んでいたようである

今日は急遽欠席になった方が数名おられた

年末のお忙しいところを参加していただいた皆様には改めて感謝いたします

次回は来年の夏以降を予定しております

これからもご理解のほど、よろしくお願いいたします



 第2回 PAWL のまとめ
今回は古代ギリシャの幸福の哲学者と謂われるエピクロスを取り上げた。なぜこの哲学者を選んだのかを振り返ってみると、わたし自身と直接関係する記憶が蘇っ てくる。若き日にエピキュリアンだと言われ、フランス語を始めてからも知り合いになったフランス人と話す中で、あなたはエピキュリアンだと指摘されたこと がある。エピキュリアンと聞くと、酒池肉林を思わせる快楽主義者という漠然としたイメージしか持っていなかったので若干違和感を覚えたが、エピクロスとい う哲学者の考えに当たるところまでは行かなかった。その後、フランスで哲学することになり、エピクロスを源とするエピキュリアンの思想を調べる機会ができ た。そして、45年前にソルボンヌのフランス文明講座に通っていた時には、この哲学者について発表したことも蘇ってきた。
エピクロスは快楽を分析し、自然なものと無益なもの、さらに自然なものを必須なものと不必要なものに分けた。その上で、人生の目的を幸福に繋がる快楽、すな わち自然で必須な快楽の追及に置いた。彼の求める快楽だが、この言葉を聞いて想像するプラスの快ではなく、マイナス(不快)のない状態であった。具体的には、心の悩みや心配事のない状態(ataraxia)、体の苦痛のない状態(aponia) を指し、ある意味では凪の状態とも言える。その状態の中にいると、快にあることに気付き難い。そこからの逸脱があった時にそれ以前が幸福だったと分かると いうことになる。プラスの快は長続きせず、そこから離れると不快が待っている。マイナス(不快)の状態にいて幸福を感じる人は、稀な例外を除いていないだ ろう。同じように快楽の追求を主張する人たち(ヘドニスト)がいる。しかし、彼等がプラスの快を最大にしようとすること、さらに幸福追求という視点が弱い 点でエピキュリアンと異なっている。エピクロスの快楽追求が抑制的で静的なものに見える。ただ、エピキュリアンもプラスの快をすべて拒否するわけではない が、それは必須のことではなく、幸福への条件でもないと考えている。
エピクロスの世界観はデモクリトス(c. 460 BC-370 BC) の影響を受けた唯物論で、存在するすべては原子と空虚から成っており、何物にも支配されることなく原子が空の中を動いていると考えていた。彼の宇宙は無限で目的はなく、その宇宙には無限の世界が存在する。彼は精神も神も物質であるとし、この世界の事象に神は直接関わることのないとする理神論に近い立場を採った。したがって、神は恐れるに足る存在ではないと説いた。また、死は永遠の眠りのようなもので、感覚のない状態であるので恐れるに足りないとした。これらはマイナスの快を取り除く処方箋にもなったのである。
古代ギリシャの主流の哲学者は、人間を政治的動物と捉え、政治に参加してポリスに貢献することを求めた。しかし、エピクロスは家庭を持つことや伝統的な政治に参加することを勧めない。しかし、それは非政治的な考えではなく、友情を基にしたコミュニティを構築し、その中で生活を共有して自らを啓いていくことを勧めている。アリストテレス、プラトン、ソクラテスから何ら霊感を受けることなく、autodidacte を自称していた彼は、35歳の時にアテナイに楽園を作り、そこで考えを共にする人たちと72歳で亡くなるまでの時を過ごすことになる。
『メノイケウス宛ての手紙』 には有名な次の一節がある。
 「若いからと言って哲学することを後回しにしたり、年老いているからと言って哲学することに飽く者が一人もいないことを願う。なぜなら、誰であれ精神の健康を 守るのに早すぎたり遅すぎたりすることはないからだ。そして、哲学する時はまだ訪れていないと言ったり、その時は過ぎ去ったと言う者は、幸福についてその時がまだ来ないとか、最早ここにはないと言う者に似ている」
哲学するのは今だ!として、すべての人を哲学へ誘っている。古代ギリシャの哲学者が「魂の医者」としての役割を強く自覚していたことが分かる。わたし自身は最早「体の医者」になる機会はないが、エピクロスに触れると「魂の医者」を目指し研鑚せよと促されているようにも感じる。魂の癒しは体の癒しにも繋がるだろう。医学(medicine)の語源が「癒しの技術」を意味するラテン語のmedicinaであることを考えれば、その営みは長い科学での生活の後に医学本来の道に入ることを意味しているのかもしれない。



mardi 18 février 2014

マルセル・コンシュさんによるエピクロスの哲学



哲学雑誌に、マルセル・コンシュ(Marcel Conche, 1922-)さんのインタビューが出ていた

もうすぐ92歳になるところである

わたしがフランス語を始めておそらく初めて触れた哲学者で、印象深いものがある

最初のブログに84歳のコンシュさんの記事がある

マルセル・コンシュ(I) (2006-09-25)


コンシュさんの母親は彼が生まれた時に亡くなっている

祖母とまだ未婚だった二人の叔母に引き取られる

母と呼ぶべき人がいないこの経験が大きな傷として残った

子供時代は自然との触れ合いの中で育つ

しかし、当時はそこに価値があることに気付かなかった

彼の父親は農民だった

省察の生活とは正反対の土を相手にした仕事をしていた

モットーは「土は常に人間を育む」であった

父親の唯一の野心は、家族に食事を与え、無事に育てることであった


コンシュさん ご自身は土との仕事の中で、理性と哲学に目覚める

キリスト教の中で育ったが、悲惨な目に遭っている子供たちを見て、神の存在に疑いを持つ

1956年のことであった

そして、1963年にモンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne, 1533-1592)を発見する

これが哲学人生において重要だったのは、自然な哲学と人工的な哲学との違いに気付いたことだという

 そして、神を中心に回る近代の人工的な哲学ではなく、古代ギリシャの自然な哲学に回帰することを決意する

モンテーニュがルクレティウスエピクロスピュロン、そしてヘラクレイトスへと導いてくれたようだ



エピクロスにとっての自然は、われわれの目に触れるものを超えた世界の全体を意味していた

エピクロスの物理学は、自然は原子と空虚からなるとする

分割不能な原子が無限の空間を飛び回っている

そして、原子が突然その軌跡を変え、それによって新しい世界が生まれるのである

後に、ルクレティウスが clinamen と名付けた原理である

この世界には、創造主も、インテリジェント・デザインも、必然性も、神の摂理も存在しない

エピクロスの世界観である


善く生きるには、衣食住のための自然で必然的な欲求を満たすだけでよい、とエピクロスは言う

食はパンと水だけで良いとも言う

隠遁や禁欲を薦めるものではないが、過度の欲を求める快楽主義とも違う

食べることではなく、食べたことを愉しむという立場になる

この微妙に見える差は、よく考えると途方もなく大きい

それにより、体の苦痛がなくなり(aponie)、精神の安定(アタラクシアataraxie)が生まれるとする

さらに、精神だけに関わる喜びがあるとエピクロスは主張する

それは哲学することで、人間の自然で必然的な欲求に分類されている


現代の大きな問題は、自然を忘れ、すべてを計りに掛けることと関係している

そこから、自然でも必然でもない欲求が生まれているからである

金、物質的な快適さ、名誉や栄光の追及

都会では出世主義者(arriviste)が富や権力を求める

それをエピクロスは常軌を逸したことと呼ぶ

それに挑戦し、そこから離れるのがエピキュリアンである

ストア派と違い、政治への参加も拒否する

しかし、友情は大切にする

世界と断絶しているわけではなく、パーティに誘われれば参加する

しかし、ダンスに興じることはない

重要になるのは苦痛の除去、それが幸福の規準となる


エピクロスの愛についての考えには教えられるところがあるという

愛、肉欲は、自然な欲求だが必然ではないとされる

それがなくとも、散歩したり、走ったり、、、、他の活動で遣り過ごせる、と考える

ただし、憑りつかれたら節度を以って当たること

愛は人生の多くの時間を奪い、重要なことから遠ざけるからだ

  コンシュさんの人生にとって重要なことは、哲学することだという


パソコンについても触れている

目をやられ、人生を複雑にするだけなのでもう止めたという

これには同意したい今日この頃である