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mercredi 9 septembre 2015

「哲学とは言葉の意味を体得することである」



2008年、癌のために亡くなったアイルランドの作家がいる

ヌアラ・オファオレイン Nuala O'Faolain
(1er mars 1940 à Dublin - 9 mai 2008 à Dublin)

彼女は脳腫瘍とその転移の治療を拒否して、68歳で逝った

癌と最後まで戦ったスーザン・ソンタグSusan Sontag, 1933-2004) とは対照的である

 亡くなる前のインタビュー記事はこちらで、肉声はこちらから聞くことができる

注意を惹いたところを以下に少しだけ紹介したい


彼女はその6週間前まで幸せな生活を送っていたという

その時、右足に異常を感じニューヨークの病院で診断を受けた

その結果は、脳に2つの腫瘍があり、他にも広がっている転移性の癌であった

不治であると告げられた時、ショックと恐怖と治療のことが頭に浮かんだ

治療をどうするのか

治療で感じるだろう自らの無力さ、恐怖、その結果得られる生の質などを考え、治療を断念する


マンハッタンで手に入れたばかりの素晴らしいアパートも全く意味のないものになった

どんな芸術作品に触れても、それまで感じたマジックは消 え失せていた

死後の世界も神も信じることもできない

すべてが全く意味のないものに変わっていた

辛いのは、この世界から拒絶されたような孤独感である

その彼女にとって人生で大切なもの、それは健康とreflectivenessだと答えている



これから先に大きな希望をもって生活していた時だったため、尚更絶望を強く感じたのだろう

彼女の言葉に 「人生で大切なものは、健康とreflectiveness」 というのがある

本質を突いた深い分析に見える

7年前のわたしは、reflectivenessを思慮深さとか熟考しようとすることと訳している

しかし、思慮深さとはどういうことを言うのか、熟考するとは何を言うのか

そのことを理解していたとは言い難い

その後の7年余りの生活で reflection という営みの意味を体得したと感じているからだ

その経験からreflectivenessを日本語に変換するとすれば、次のようになるだろう

第一に自らを振り返ること、そこから進んで自らを取り巻く世界について振り返ること

そのような状態であり、その状態を齎すことができる能力をも含めたい


それでは、振り返るという作業を何を言うのか

それは、一つのテーマについて自らの記憶、人類の記憶を動員して大きな繋がりを見つけ出すこと

そして、紡ぎ出すこと、テーマの周りに関連するものを大きな塊として作り出すことである

振り返るという作業、考えるという作業は、思い出すということを意識した営みなのである

こちらでの8年の生活の中で体得したことの一つが、このことであった

こちらに来る前には想像もしていなかった収穫である
 
このことから「哲学とは言葉の意味を体得することである」 というフォルミュールを提出しておきたい


 この視点から今の世の中を見ると、reflectivenessが著しく減弱しているように映る

本当に世の中が変わったのか、あるいは見る者の視点が変わっただけなのか

それは分からない

ただ、少なくとも今のわたしからは、この世が深みのない、何とも貧しい世界に見えるようになった

そのことだけは言えそうである


ところで、ヌアラさんについてのドキュメンタリー映画"Nuala"が2011年に発表されている

トレーラーを以下に





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jeudi 10 septembre 2015


上の記事に、今の世は深みのない貧しい世界であると書いた

それは一見豊かさを増しているかに見える物理的な世界のことを想定してのことだったのだろうか

そこに生息している人の動きも含めてそう感じたのだろうか


それではすべてを含めた世界には豊かさはないのだろうか

あるいは、豊かさに至る道はどこにあるのだろうか

そう問い直してみると、ヌアラさんが指摘したreflectivenessに行き着く

reflectivenessが齎してくれるものの中にこそ、深みや真の豊かさがあるのではないだろうか

 残念ながら、reflectivenessに至るためには、時間と訓練が必要になる

時間をかけてトレーニングをしてきたと想像される人の話には心を動かされることが多い






samedi 5 juillet 2008

治癒者に必要なもの


「治癒」に関わる重要な要素として、患者と医者の間で交わされる会話がある。医者が治癒者という立場を維持しようとする時、最初の接触から最後に至るすべての過程でどのような言葉を使うのかが問われる。言葉には治癒を決める力があることを忘れてはならない。

ここでの大きな問題として、そもそも「会話とは何か」という問いが浮かび上がるが、これからの問いとして控えておきたい。

これまでの患者として、あるいは患者の家族として医者の言葉には注意を払ってきた。患者の側は医者の言葉にどれだけ多くの影響を受けているのかを体で感じて きた。この事実に医療の側が充分な配慮をしていないと思われる場面にも遭遇している。現在の状況はよく分からないが、この視点からの教育はどの程度されて いるのだろうか。

治療の英語 therapy の語源は古代ギリシャ語のθεραπεία(therapeía)で、奉仕(service)の意味が含まれている。その意味では、科学としての医学を施すだけでは不充分で、患者への敬意を払いながら人間への実践の技術(ars)がどうしても求められる。科学を施せば十分であるという姿勢が広まる中、真の治癒者になる上では忘れてはならない点だろう。




jeudi 3 juillet 2008

病とどう向き合うのか?


この問いにどう答えるのか。大前提として、われわれは死すべき存在であるという認識に達することができるかどうかという問題がある。さらに、この生には病が 付いて回ること、われわれは病とともにあることを前提とできるかどうかに掛かってくるだろう。健康の時にはなかなか難しいことだが、これができると新しい 道に入ることができるのではないだろうか。

われわれが無意識のうちに持っている健康こそ第一で、病は退けるべきもの という考えを見直すことができるかどうか。病に罹ると社会との断絶が起こり、それまで考えていた人生からの脱落のように感じることは想像に難くない。それ も病についての考えを改め難い一つの要因だろう。

しかし、人生をもっと大きく捉え直した場合はどうだろうか。例え ば、このような自問はできないだろうか。社会の中での仕事をしている時には、この自分という存在のどれだけの部分を使っていただろうか。病を得ることによ り、全存在の中でそれまで使われていなかった部分が活力を持ってくることはないだろうか。それは、この存在を新しく生かすことに繋がっているのではないか。




jeudi 24 avril 2008

健康と病気についての抜き書き


● 「健康と病気は二つの異なった世界ではなく、生きるものが普通に持つ二つの状態である」 (François-Bernard Michel, Aux risques de guérir , 1997)

● 健康と病気について、ニーチェはこう言っている。
「稜線近くの二つの位置のようなもので、個人がその線を越える危険を冒してもう一方を探索することを可能にしている」
● 患者を意味する patient は、「わたしは苦しんでいる」 を意味するラテン語の patior に由来する。患者は patience (忍耐)が求められることにもつながる。

ルネ・ラエンネック(1781-1826) は、言葉、患者に触れる手、態度、署名などのすべてが治癒効果を持っていると考えていた。つまり、芸術と同様に、医療においてもその人間から発せられるすべてが重要になると考えていた。

● ヒポクラテスは、人間をその全体として診る態度があるかどうかで藪医者を区別していた。プラセボで治すことができるかどうか、つまり医者の人間力を重視していたのである。

● 「医者無き医学」が生まれるか。患者を診ることも触ることもなく、診断して治療薬を出すテクノロジーが生まれるだろうか。

● 「全体性 (Ganzheit; totalité ; wholenss) という概念は、19世紀にはなかった。専門化が進むに伴い、その対抗概念として生まれた」(ハンス・ゲオルク・ガダマー, 1900-2002)

● 病気を意味するフランス語は maladie しかない。英語には disease、illness、sickness の少なくとも3種類ある。disease は医学で明らかにされた状態で、sickness は自覚的・主観的な状態 (I am sick.) であるのに対し、illness はそれらに伴う社会的な状況を意味するようである。




jeudi 10 avril 2008

カンギレムから病気、治癒を考える


カ ンギレムを読む。病気や治癒の考え方がわたしのこれまでの経験から得た考え方と近いものがある。病気や健康の定義、概念についての議論はいろいろ人から出 ているが、どこか思考実験的なところがあり、臨床にどれだけ貢献できるのかについては疑問が多い。確かに、臨床に近い人は定義など必要がないという考えに 見られるように、より現実的な思考をすることが多い印象がある。

病気になった後、完全に元に戻ることはない。それは人間がこの生を歩むことと同じである。病気はわれわれの生とともにある。そして、病気が終わった後には、 それ以前にあった規範とは異なる規範が表れる。あるいは、そのように治癒を捉える必要がある。 元に戻ることを望むのではなく、新しい生を積極的に受け入れるという姿勢が必要になるということである。このような考えには強く共振する。もう少し詳し く、この問題を考えてみてはどうか。

病んでいる方にとってもこの考えは有効な思想になるのではないだろうか。医療の側も、機能的に元に戻すことを目指しながらも、新しい規範に対応する必要があることを伝えるべきだろう。病める側のこの体を元に戻してほしいという言い方を聞く時、このことを想起する。

病気はなぜなくならないのか。さらに言えば、人間はなぜ死を運命づけられているのか。哲学者はこれらの問題についても解を出すことができるのだろうか。医学 はそれぞれの病気についての対応策を持っていることが多い。しかし、個々の病気についての知ではなく、病気に罹り、治り、あるいは死に至る過程に対する見 方、精神的な支えになるような思想を生み出すことは医学の埒外にある。哲学の使命は、そのあたりになるのだろうか。少し考えただけでも、大きな使命であ る。

これらの問題を考える 時、現状から始めないこと、「いま・そこ」にある問題を解決するためにどうするかという思考をしないこと。そこから始めると、大きなところには行きつかな いのではないかという感触があるからである。より本質的な問題を探りながら、そこを突き詰めることを先にやるべきだろう。応用に至る道はその後から開ける のではないかと考えているからだ。あまりにもナイーブな見方だろうか。