mardi 28 septembre 2010

Alan Love さんによる科学と哲学の関係


Dr. Alan Love (University of Minnesota)



ミネソタ大学のアラン・ラブさんの「理論なき科学」というお話を聞きに出かける。以下に概略を。

科学の一つの見方に概念や理論を重視することがあげられる。この見方に対し、彼の大学の名誉教授 Ronald Giere さんが1999年に "Science without Laws" (法則なき科学)という本の中で、実際の科学はそのようには動いておらず、概念や理論重視の見方から離れた方が科学をよりよく理解できるのではないかという考えを表明しているという。

一つの理由は、科学が複雑になり一つの概念ですべてを語ることが難しくなっていること。理論重視から離れるとはいえ、その見方に理論がないことではない。科学の知識として理論を利用するやり方と理論が上から科学を導くとする立場を区別する必要があり、前者を否定することはできないという意味で理論は科学に内在する。ただ、後者の意味ですべての科学が理論を使っているのかが問題になる。

カール・ポッパー(1902-1994)は人間の思考の歴史を振り返り、最初は試行錯誤を繰り返すが、やがてその過程が意識的になり、最終的には科学的方法として問題解決のための理論を打ち出すようになるとしている。つまり、理論を構築することにより問題解決に当るのが科学者の仕事であると考えた。それから理論を基にして解析を進めると共存する理論間の矛盾、理論と観察の間の矛盾が出てくる。現在に至る哲学者の見方を総合すると、いずれも理論の重要性を説いているが、新たな問題も明らかになってきた。

一つは、ある問題に対する答えは一つではないということ。例えば、細胞が幹細胞から特定の機能を持つ細胞へと分化する過程とは何かという問は、問自体に多くの内容を含み、それに応じて答えは多様になる。これが現代科学の方法になっている。科学を解析する場合、このような科学の持つ構造、すなわち具体的な専門領域に入ることが新たなやり方になるのではないか。

発生生物学を例にとると、そこには受精、分化、形態形成、成長、進化、環境による制御などの時間的、空間的に関連し合う多くの問題が含まれている。さらに、いろいろな種における相違も問題になる。そこには異なる領域の科学が関わることもあり、構造上の問題から一つの統一的な理論ができ上がるというよりは、個別の領域の問題が取り上げられるようになる。1993年にフィリップ・キッチャーさんは「発生とは、という大きな問題はどうなっているのか?」と問い掛けたが、実際にはその問からは遠ざかっているのが現状である。

科学史の視点から見ると、時間とともに最初の問が変質し、ある場合には消失する一方、再生などのように世紀を超えて残る問がある、という問の安定性・持続性の問題がある。それから、過去においては理論の重要性が強調されたが、現在ではよい問を出し、それに対して答えようとすること、さらに言えばそこで答えを求めるのではなく、新たな問を出していくという繰り返しの中に現代科学の本質があるのではないか。科学の進歩とは、科学知の集積ではなく、問の出し方の専門化、緻密さの向上にあると言えるかもしれない。そこにこそ科学の豊かさが宿っているのではないか。

この話を聞いた時、シオランの言葉が浮かんでいた。
-----------------------------------------
断片的な思考は経験のすべての側面を反映している。それに対し、体系的な思考は一つの側面、点検された側面しか反映していない。それは貧しいものである。ニーチェやドストエフスキーにはあらゆる経験、可能な限りの人間のタイプが描かれている。体系の中では一人の統率者だけが話すのだ。それ故、断片的思考が自由なのに対し、すべての体系は全体主義的になる。
-----------------------------------------

最後に哲学者の役割になる。もし科学者が理論を持ち合わせず、理論が導く科学は豊かさを失わせるとすれば、科学を語る哲学者は何をすればよいのだろうか。それは、科学の領域の隠れている構造について哲学の方法を用いて明らかにすること。その方法がはっきりしないと、科学者もその構造に気付かない可能性がある。日々目の前の問題解決、次の実験に追われている科学者には目の届かないところ、科学の領域を上から下から横から中からといろいろな角度から見てその構造を解析すること、そこに哲学者の出番があるというお話であった。彼の科学観は私の経験からも穏当なもので、現場の科学者も理解しやすい認識ではないかという印象を持った。ただ、全なるものへの希求としての哲学には惹かれるところがある。

質疑応答の中で次のようなことが出ていた。科学の哲学の中には科学全体を見るものから、個別の科学についての哲学があり、これらの間で十分な交流があるとは言えない。生物学の哲学に関しても、これまでは進化の哲学が大きな領域であったが、今では実験生物学、細胞生物学、免疫学など個別の哲学が出てきている。これからの発展が期待される領域ではないだろうか。


samedi 25 septembre 2010

リチャード・ファインマンが考えた「科学時代」



日本で手に入れたリチャード・ファインマンさん(1918 - 1988)のこの本を、先日こちらで読む。

  R.P. ファインマン「科学は不確かだ!」(岩波現代文庫、2007年)

1963年の三夜に亘る講演から起こしたもので、訳もこなれていて読みやすい。科学が持っている特徴についてダイナミックに語っている。臨場感があり、楽しい読みになった。特に目新しいことはなかったが、一ヶ所だけ印象に残るところがあった。

---------------------------------------------------

 過去二〇〇年ばかりのあいだに科学は急速な発展を遂げ、そのスピードはいまや最高潮に達したと言えるでしょう。ことに生物科学はもっとも驚くべき発見の寸前にあります。それが何かは僕には言えないけれども、わからないからこそ胸が躍るのです。一個また一個とひっくり返しては、その下に新しいものを発見する興奮は、もう何百年ものあいだつづいてきましたが、それが今ますます高まりつつある、その意味では現在はたかしかに科学的時代です。ふつう誰も知らないことですが、科学者はそれを、「英雄の時代」とまで呼んでいます。

 この時代を後で歴史の一環として振り返ってみたとしたらどうでしょう。ほとんど何も知らなかったところから一変して、以前に知られていたよりはるかに多くのことを知るようになったのですから、もっとも劇的な驚異の時代だということは一目瞭然です。ただし科学が芸術や文学、人間の精神的姿勢や理解などに大きな役割を果たしていないという点では、僕は現代を科学的時代だとは思いません。ギリシャの英雄時代には、戦士の英雄を謳った詩がありました。また中世の宗教的時代には、芸術は宗教と直接つながっており、人々の人生観は宗教的見解と密接に結びついていたものです。それはまさしく「宗教時代」でした。そういう見地に立てば、今は決して科学時代とは言えません。

---------------------------------------------------

この観察は私のものとよく重なる。ここでは一つだけ問いかけてみたい。日常生活の中で科学的に考えようという観点からわれわれの営みを振り返ることがどれだけあるだろうか。身の周りで起こっていることを少しだけ醒めた目で見れば、答えは一目瞭然だろう。これは科学的な良心という問題にも繋がるもので、それは本来科学者だけに適応されるものではないはずだ(科学が日常に真に組み込まれているとすればだが)。このように一般の人と科学の間の溝は、想像以上に深くて広い。

この問題を考える時、現状では科学の側から動き出さなければ状態は変わらないだろう。ここでも触れているが、科学者の役割として、単に新しい発見を目指したり、科学の最新の成果を分かりやすく伝えるだけでは足りないのではないだろうか。科学が本来持っている精神(それはわれわれの営みを豊かにすることが多かったのではないかと思うが)を科学の外にいる人に知らせることこそ、最も求められるのではないだろうか。科学の知識を教え込まれても、科学の外にいればどこか別世界の出来事で、その場限りに終わってしまう。それをいくら続けても科学が社会に根付くとは思えない。どのような人の日常にも大切なものとしての科学、それは科学的なものの見方ではないかと思う。それを広めなければファインマンさんの言う真の「科学時代」は訪れないだろう。

では、この問題をどのように進めるのか。名案は浮かばないが、まず教育になるのだろうか。科学精神と言った場合、哲学精神とも重なるところがある。そうであれば、子供の時から一人ひとりが自由に疑問を発し、意見を交わす環境が用意されていなければならないはずである。ところが、それとは逆のことが行われているという話を先日の日本で何人かの方から伺った。これは文化の問題になるので、長期的な視点に立って見直さなければ根本的には何も変わらないようにも見える。科学が芸術、文学の芯に影響を与えるようになるのはその先の話ではないだろうか。


vendredi 24 septembre 2010

リチャード・ロバーツ博士から見た科学、そしてある日本人研究者のこと



Sir Richard Roberts (born 6 September 1943)


本日のセミナーについて振り返ってみたい。演者は1993年のノーベル賞受賞者、リチャード・ロバーツさん。現在はアメリカのニュー・イングランド・バイオラボNew England Biolabs)の責任者になっている。演題が "Life before and after the Nobel prize" ということで余り期待していなかったが、興味深いお話を聞くことができた。

会場に入ってまず感じたのは、こちらではノーベル賞学者の情報量(驚きに比例する)はそれほど多くないということ。会場が溢れることもなく、紹介する方も上の写真のように若く、普通のセミナーと変わりない。こういう仰々しさのないところは気持ちがよい。お話の大半はこれまでの歩み、最後の15分程を現在の取り組みに充てていた。いつも感じるのは、特にアングロサクソンの研究者の発する言葉の明瞭さとそこからくる力強さである。それから、この広い捉えどころのない世界に向けて、自らの体と頭で働きかけている一人の人間がそこにいるという感覚だろうか。

前半では次のようなことを話していた。

まず、自分の両親は10代でドロップアウトしていて、学問とは無縁の環境で育った。今は子供に危険なことをさせないように育てる社会になっているが、子供の時こそそれをやるべき。例えば、多くのノーベル賞学者が子供の時に花火に刺激を受けている。手や目に怪我をしようがどんどん火遊びをするべきだ(冗談交じりだったが、おそらく本気だろう)。彼自身も学校が面白くなく途中で行かなくなったようだ。その代わり、プロのビリヤードの選手になろうとしてオーディションも受けている。その時に一つの教訓を得たという。それは稀に非常にラッキーなことが起こる。本当にあり得ないようなことが。その時は罪悪感を感じることなく、その次の手にそれまでの数倍の集中力で向かうこと。これは16歳くらいの時のこと。

大学はシェフィールドで化学を専攻したが、それ以上に数学が好きだったという。特に、ゲームやコンピュータのプログラミングには熱中した。そのため気が付くと朝だった、ということがよくあった。なぜプログラミングの道に入らなかったのか。それはこの調子で行くと、一生パソコンの画面を見て暮さなければならないと思ったから。博士課程は有機化学を専攻。ここで最高の先生に出会うという幸運が訪れた。その先生とは研究室にポスドクできていた日本人で、ものを覚えるのではなく、なぜそうするのかを理解することが重要であることを教えてくれた。それだけではなく、碁も教えてくれ、彼が日本に帰った後もしばらくの間は碁のやり取りをしていたという。ロバーツさんの分析によると、チェスは computation(計算?)が必要で insight(洞察、読み?)はいらないのに対し、碁はその逆で insight が重要になるという。残念ながらいずれもできないのでその賛否はわからないが。それから日本には精神をアクティブにしてくれるsudokuなどの素晴らしいパズルやゲームがいくつもあるとのお話。

大学院では博士論文の見通しが1年目でついたので、後の2年間はいろいろな分野のものを読みながら遊んでいた。その中に1962年のノーベル賞受賞者ジョン・ケンドリューJohn Kendrew, 1917-1997)の "The Thread of Life" という分子生物学の歴史を書いた本があり、完全にはまってしまった。当時、確立された分野とは言い難い分子生物学で身を立てることを決意する。

学位を取った後、ジャック・ストロミンジャーさん(Jack L. Strominger, born 1925)の研究室でポスドクをすることになる。最初はウィスコンシンに行く予定だったが、ハーバードに移ることになったので出発を3ヵ月遅らせるようにとの連絡が入る。この大学で彼は研究者のあり方、さらには人間の生き方についての二つ目の教訓を得る。この素晴らしい大学で多くの熱を持った研究者が働いている姿を見て、研究者とは情熱を持って問題に当たらなければならないことを感じ取る。そこから、この人生を幸せなものにする条件を発見する。それは地位や金ではなく、情熱を以て事に当ることができるかどうか。それ以外にはないことを体得する。

ポスドクが終わり、イギリス人である彼は母国に帰りたかった。エジンバラ大学で講師の職があるとのことで書類を出したが、全く音沙汰なし。そのうち、ハーバードとコールド・スプリング・ハーバー研究所からオファーがあり、ジム・ワトソンJames Watson, born April 6, 1928)が所長をしていたコールド・スプリング・ハーバーに行くことに決める。

ここで興味深いエピソードを話していた。いろいろな人がジム・ワトソンについて酷いことを言っていたが、金を集めるのがうまく、最高の研究環境を作ることに優れていた。ロバーツさんはそこでノーベル賞に繋がる研究をすることになる。ワトソンさんの研究のやり方は重要な発見が出そうな研究者が群がっている領域に出て行って張り合うというもの。科学を競争と捉えていて、それが好きだったという。これに対してロバーツさんはこのようにして科学をやると何かを最初に発見した人はいいが、それ以外の人は辛い状況に陥る。科学を競争ではなく、コミュニティの活動として捉えたいようであった。あるコミュニティにいる研究者の中から一緒にやれそうな人を探し、何かを共同で見つけていく、というようなイメージを描いているようであった。

科学をどう捉えるのかという点に関して、もうひとつ指摘していた。最近、ヒトに応用可能な研究に莫大な研究費が出され、ヒトを対象に研究しなければ意味はないという意見が優勢になりつつあるかに見える。彼はこの現象を少し離れて見ている。まず、ヒトはそんなに単純ではない。信じられないくらい優秀だったフランシス・クリックFrancis Crick, 8 June 1916 – 28 July 2004)はジム・ワトソンとDNAの構造を明らかにした後、複雑な脳研究に入って行ったが結局何も生み出すことができなかった。自然は豊かで、実に多くの生物がいる。どのような生物を扱おうが、基本的なメカニズムは共通するところがあり、どのような人にも科学に貢献できるような発見のチャンスはあるはずだ。

彼はDNAのすべてが蛋白になるのではなく、イントロンと呼ばれる蛋白になる前の段階で切り取られる部分があることを1977年に発表。最初はワトソンさんも含め、多くの有力な研究者は信じなかったという。ワトソンさんとロバーツさんのお二人、必ずしもうまく行っていなかったようで、ワトソンさんはなかなかノーベル財団へ推薦状を書いてくれなかった。しかし、1989年にやっと書いてくれたので、翌年には絶対ストックホルムから電話がかかってくると思い、受賞演説の原稿からマスコミ用のコメントまですべて準備していた。しかし、電話は鳴らなかった。その時の落ち込みようは説明できないくらいだったという。それから毎年裏切られ、忘れていた1993年の朝6時、論文を書いている時に電話が鳴った。その後のストックホルムは素晴らしく、すべての人に薦めたいと話していた。

彼の研究にはDNAの特定の配列のところを切断する制限酵素が重要な役割を担っている。彼の研究室にはそれが揃っていて、世界中の研究者が訪ねてきたり、提供したりしていた。彼はこの制限酵素がビジネスになると考え、コールド・スプリング・ハーバー研究所のブランドで売り出してはどうかとワトソンさんに提案。しかし、ワトソンさんは儲けにはならないことと研究に商売という汚いものを持ち込むのには反対との理由で彼の考えは実現しなかった。それを自前で始めたのが今の会社。大きな成功を収めている。その目的は金儲けではなく、あくまでも研究を発展させるための手段というのが彼の哲学。政府がお金を出さないような研究領域を支援しているという。




彼は2004年に蛋白の機能を多くの人が参加して(コミュニティとして)明らかにしようという呼びかけをしている。細菌の遺伝子の1/4程度はその機能がまだわからないという。他の種の遺伝子とコンピュータで比較して機能を推定するが、この過程が信頼できないらしい。単純に遺伝子の配列に頼るのではなく、最終的な予想は生化学的な実験をして確かめる必要がある。そのためには多くの人手とお金が必要になる。この過程に高校生などの若い人が参加することにより、研究が進むだけではなく、教育の素晴らしい機会が生まれることにもなる。夏休みの活動の一つに入れてもよいかもしれない。彼の今の希望は、死ぬまでに少なくとも細菌がどのように動いているのかを知ること。それも可能かどうか分からない、況やヒトをや、とでも言いたいのだろうか。

最後に、ノーベル賞の後どのようなことに気を付けているかとの質問が出ていた。ノーベル賞学者の役割をどう見ているかと換言できるだろうか。彼の答えは、人に霊感を与え、人を奮い立たせること。それから大義とでも言うべき人間としてやらなければならないことに目を向けること。具体的な例として、リビアの子供をHIV感染させたとして銃殺刑が宣告されたブルガリア人看護師とパレスチナ人医師の解放に関わったことをあげていた。この一件は今年の2月にアメリカで聞いたアグレ博士の話の中にも出てきていた。


話を聞きながら、彼が研究を始めた時に大きな影響を与えた日本人研究者のことが気になり、帰ってから調べてみた。ウィキには記載がなかったが、ノーベル財団のページに Kazu Kurosawa の名前が確認できた。さらに調べてみると、ご本人による以下の文章が見つかったので間違いないだろう。熊本大学の黒澤和教授。この領域では自明のお話だったかもしれない。今、大学のページに行ってみたが見つからないので、すでに退官されているかもしれない。思わぬところから大きな旅をさせていただいたようで、清々しい気分である。


----------------------------------------------------------------
Newsletter of the British Council Japan Association
No.6, September 30, 1996
p. 8

Dr. Roberts
黒澤 和

 私は英国では1964~1967年の3年間をポストドックとしてSheffield 大学で、また、1982年10~11月を共同研究の目的でBristol大学で過ごした。Sheffield大学では大学から給料を頂いたが、2度目のはBritish Councilから往復の旅費を頂いた。以下は1度目のときの話である。

 Richard John Roberts 博士は1993年度のノーベル医学、生理学賞受賞者である。1965年9月、当時英国Sheffield大学化学科でポストドックをしていた私の実験室にボスのOllis教授が来られ、「今度、大学院に入学したRoberts君だ。実験の指導をしてやって欲しい。」と言って紹介されたのが彼との初めての出会いであった。彼は英国南部の Bath市の出身だが、6月にSheffie ld大学の化学科を卒業し、引き続いて進学したものであった。研究テーマは私と同系統のブラジル産レグミノザエ(豆科)の植物成分の分離、構造決定で、全部で5人が研究していて、一応私がリーダー格で仕事を進めていた。

 これらの植物からはイソフラバン、ネオフラバン類が数多く分離され、彼の場合も分離できたものは、ほとんどことごとく新種であったものだから、Ollis 先生の覚えもめでたく、本人も乗りに乗って、実検に精励していた。これらの化合物の構造解析はプロトン核磁気共鳴や赤外線吸収スペクトルを使う、いわゆる分光学的な方法であって、液体、結晶の区別なく、しかも多少不純な物質にも適用できるものである。もちろん彼はこの方法は初めてなので、ほとんど私が解析してあげたが、要領の良い人であったのでので、すぐ自分でもできるようになった。

 次の年だったと思うが、Sheffield大学で"芳香族性"についてのシンポジウムがあってProfessor WoodwardやProfessor Dewar などのそうそうたるメンバーが集まって講演をしたが、その懇親会で、今でもフラボン類の研究をしているアイルランドのDublin大学のProfessor Donnelly とDick (Richardの意)と私の3人で話をしたが、彼が自分の研究の成果を滔々とまくし立てたものだら、彼女(Professor Donnelly)は黙り込んでしまい、少々気の毒な感じがした。 1年余りが過ぎて、「もう1人で研究できるだろう。」と判断したのか、Ollis教授は彼を別の実験室に移し、その後はお互いに実検成果を知らせあって、研究を深めていった。

 彼はチェスやクロスワードパズルが大好きで、私もチェスの手ほどきを受けた。日本の将棋や碁にも興味を持っていて、小さい碁盤と碁石をプレゼントしたときは大変喜んで、早速碁のやり方を勉強していた。解説書なども持っていたようである。2 年半たって妻の幸子がSheffieldに来て、英会話ができないのでDickを通して奥さんのElizabethに頼んだら快く引き受けてくれて、長女のAlisonが生まれたばかりだったが、何回かフラット(アパート)にお邪魔していた。

 別の実験室に移ってからしばらくして、彼の友達から「彼が実験をあまりしないので、Ollis先生から叱られた。」と言うような話も聞いたが、こちらの出る幕ではないから、そのままにしておいた。渡英以来3年が過ぎて、その半年前から熊本大学に奉職することが決まっていたので、その間の研究成果を12編の論文原稿にまとめ、帰国した。Dickと別れるときに、今後は手紙でチェスをしようということになり、勿論1回に1手しか進まない訳だが、しばらく続いて、彼がBostonに移った後、こちらも忙しくなり、面倒になったので止めてしまったが、今考えれば残念である。

 彼は博士の学位を取得後、Harvard大学の生化学でポストドックをした後、New YorkのCold Spring Harbor 研究所へ移り、そこで今回受賞の対象になったアデノヴィールスのタンパク質を作りだす遺伝子(DNA)がいくつかに分断された形で存在していることを発見した。現在はNew England Biolabsの研究所長をしている。受賞のお祝いの手紙を送ったところ、丁寧な返事をくれて、Sheffield 時代に私が彼を指導したことについて、なにやら過分な評価を頂いた。昨今日本の学生気質も変り、従前の指導方法だけでは学生諸君が興味を示すことが少なくなり、私も少々自分の教育方法に自信が持てなくなった感じがなくもなかったが、彼の手紙によって、私の指導方法もそれほど的外れでなっかたことが分かり、安心した。

(KUROSAWA Kazu, 熊本大学理学部, Bristol University, 1982, kurosawa@aster.kumamoto-u.ac.jp)


-----------------------------------------------------
(mardi 28 septembre 2010)

このお話には以下のような後日談があった。

記事を書き終えた後、お話の中に出てきた日本人研究者のエピソードに感じるところがあり、ご当人の黒澤和先生にもこの出来事をお伝えしたくなった。エッセイにあったアドレスに連絡したが送信不能とのメッセージ。大学のサイトに行くと、お名前はないが後任の教授(西野宏先生)が黒澤先生のお弟子さんに当るようなので、西野先生にメールの転送をお願いしたところ、本日黒澤先生からご丁寧なお便りをいただいた。

大学の方は8年ほど前に退官されていて、現在は悠々自適の生活を送られているとのこと。そのお便りの中に先生がロバーツさんに伝えた研究に対する姿勢についての解説が書かれてあったので紹介したい。それは、頭脳明晰な人にありがちな、実験をする前からある結果を予想してその実験はやる価値がないという姿勢ではなく、実験というものは常にいろいろな答えを提供してくれるもので、しばしば予想もしないような副次的な結果を齎してくれることを認める態度が重要であるというもの。実験の目的にはある理論を実証することがある。その他に、実験が生み出す予想しなかった副次的反応に注目し、実験条件を変えるとその副次的反応が主反応に変わり、新たな発見に結びつくこともある。実験をする場合にはどんな些細な結果も大切にするという考え方を話していたとのことである。そして、お二人の合言葉が "Let's try and see what happens" であったと添えられていた。この言葉、人生のどんな場面でも当て嵌りそうである。