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dimanche 27 décembre 2015

人生の時間割に関する哲学



以前、人生の時間についてのエッセイを書いたことがある

今の状況では大学、大学院まで行けば、教育に20年ほど費やす

それから60歳定年とすれば、35年ほど働くことになる

平均寿命が80歳だとすれば、それから20年ほどの時間が残っている

 その時間をどう過ごすのかが、問題になり始めている

これからさらに寿命が延びるとすれば、その時間の過ごし方については今以上に問題になるだろう


わたしは想定する必要がないだろうが、仮に寿命が120歳まで延びたとする

そして、これも仮に70歳まで仕事をすることになったとする

その場合、半世紀の時間が残されることになる

その時間をどう過ごすのかという問題である

仕事人間にとっては、この時間が視野に入っていないことが多い

 世界的に見ても、人生の時間割に関する哲学は弱いようである


今日なぜこの問題が浮かんできたのか

それは、期せずして第二の教育期間になったほぼ10年に区切りを付ける時が来ているからだろう 

妙に真面目になっているようである

大袈裟に言えば、教育を受けた者の責任のようなものをどこかに感じ始めているからではないか

もし教育の区切りを付けずにいたとしたならば、このような問いが浮かんできたかどうか分からない

今よりはずっと自由な感覚で居られた可能性もある

今年に入ってから、何かに縛られるような感覚が付いて回っているのである


平均寿命は分かっても、自分の寿命は分からない

しかし、ここでは仮に120歳までの時間が与えられているとする

その残りの時間をどう使うのかについて考えてみたい

いろいろなオプションが浮かんでくる


一つは、最初のサイクルと同じように、教育の後の時間を社会的な活動に使ってみること

今のところ、最初のサイクルと同じような活動の幅は社会に用意されていない

人それぞれが活動の様態を考える必要があるだろう

 活動の期間も人それぞれだろうが、これを続けるとすれば半世紀にもなる

学びに興味のある人は、適当なところで第三の教育に向かっても良いだろう

 つまり、教育と社会的活動、あるいは静的生活と動的生活を周期的に繰り返すのである

周期の長さにより、多様なライフスタイルが生まれるだろう


第二には、仕事や社会活動の後、静的な生活に入ることが考えられる

この時間の使い方も人それぞれになるだろう

 ただ、半世紀を退屈せずに過ごすには、それ相当の工夫が求められるだろう

第三、第四の可能性もあり得るだろう

しかし、社会に定型を提供するだけの哲学がない現状では、次のようなことしか言えないだろう

人生は、仕事が終わってからも続く

死ぬまで続く

死ぬまでの人生のプログラムをどうするのか

それは、結局のところ、それぞれの創造性に委ねられているのではないか

つまり、それぞれが自らの哲学を生み出す必要があるということである





mercredi 6 novembre 2013

記念切手になったアレクサンドル・イェルサン博士



先日、切手を買うためにポストに寄った

綺麗な切手もありますがどうしますか、と聞かれたので、お願いしますと答える

出す前に、係の方はそれほど綺麗ではないのですが、と言って手渡してくれたものを見て、驚き、声を上げた

ペスト菌を発見したアレクサンドル・イェルサン(Alexandre Yersin, 1863-1943)博士の顔がそこにあったからだ

おそらく、ほとんどのフランス人は知らないだろう

もちろん、係の方も知らなかった

実は、スイス出身のこのフランス人微生物学者のことを最近のエッセイで取り上げたところだった

「パリから見えるこの世界」 第18回
 医学のあゆみ (2013.7.13) 246 (2): 201-205, 2013 
「ペスト菌発見者アレクサンドル・イェルサンという人生と北里柴三郎」

 どのような人生を歩んだ人間だったのか、お読みいただければ幸いである


調べてみると、この切手は今年の9月23日に出たもの

 同時に、晩年のイェルサン博士が描かれた0,63€の切手も発行されているようだ

上の写真は若い時に研究をしていたパスツール研究所の様子が背景にある

一方、こちらの背景は後半生を過ごしたベトナムが景色になっている

二つの切手が彼の二つの人生を描いている


孔子はこの人生には二つの生があると言ったという

 そして、二つ目の生はこの人生は一つだけであることを悟った時に始まると付け加えた

イェルサン博士はまさに二つ目の生を遠く離れたベトナムで過ごすことになった

博士は一体何を悟ったのだろうか

そんな興味を改めて掻き立てる嬉しい新切手であった





mardi 26 juin 2012

ルソー著 「孤独な散歩者の夢想」 を味わい直す


 Jean-Jacques Rousseau méditant dans le parc de La Rochecordon (1770)
Alexandre-Hyacinthe Dunouy (1757–1841)


手元には10年ほど前に仕入れたワイド版岩波文庫 「孤独な散歩者の夢想」 がある
先日のオランダ旅行から戻り、ルソーさんのこの本を手にしてみた
以前に読んだ時と全く違う印象で驚く

その理由は、おそらく彼がやっていること、考えていることが今のわたしのそれと重なるからだろう
どこかの誰かがやっていることを客観的に眺めているというのではない
自分が今やっていることをそこに見る思いがするのだ
ルソーさんが他人に見えなくなるのだ
 その意味では、能動的で理想的な読みになっている
  今野一雄訳で味わい直してみたい


第一の散歩
「慰めも、希望も、平和も自分の内部にしかみいだされないのだから、わたしは余生をひとりで暮らし、もう自分以外のことは考えるべきではないし、考えたく もない。わたしはこうした状態において、かつてわたしの 『告白』 と呼んだきびしい誠実な検討のつづきにとりかかる。わたしは自分というものの研究に晩年を捧げ、遠からず出さなければならない報告をいまから準備する。自 分の魂と語り合う楽しみに浸りきろうではないか。この楽しみこそ人々がわたしから奪い去ることのできない唯一の楽しみなのだから。自分の内面的傾向につい て反省を重ねることによって、それをさらによいほうに向け、なお残っているかもしれぬ悪を改めることができるなら、わたしの省察は全然無益なことにならな いし、もう地上にあってはなんの役にもたたないにせよ、わたしは晩年をまったくむだにすごしたということにはならないだろう」
「わたしはモンテーニュと同一の計画を立てているのだが、その目的はかれのとは全然逆である。というのは、かれはその 『随想録』 をもっぱら他人のために書いたのだが、わたしはひたすら自分のためにわたしの夢想をしるすのだ。わたしがもっと年をとり、この世を去る時が近づいて、いま そう願っているように、そのときも現在と同じ心境にあるならば、これを読むことは書くときに味わった楽しさを思い起こさせ、過ぎ去った時代を胸によみがえ らせ、いわばわたしの存在を二重にしてくれるだろう。人々にはお気の毒だが、わたしはなお魅力ある交遊を楽しむことができ、老いはてたわたしは、別の年ご ろの自分とともに暮らすことになるだろう。自分ほど年をとっていない友人とともに暮らすように」

第三の散歩
「わたしはわたしよりもはるかに学者らしく哲学する人にはたくさん出会ったことがあるけれども、その人たちの哲学はいわばかれらにとって無縁のものであっ た。他人より物知りになろうとするかれらは、そこらにみられるなにか器械のようなものを研究するのと同じく、たんなる好奇心をもって宇宙を研究し、どんな ふうにそれが組み立てられているのかを知ろうとしていた。かれらが人間性を研究するのはそれについて学者らしい話をするためで、自分を知るためではない。 かれらが勉強するのは他人を教えるためで、自分の内部を明らかにするためではない。かれらのうちの多くの者は、書物を書くことだけを考え、どんな書物であ ろうと、ただ世に迎えられさえすればいいのである。書物を書きあげて出版してしまうと、もうその内容にはいっこうに関心をもたない。ただそれを他人に受け 入れさせることが、またそれが攻撃される場合には、弁護することが問題となるにすぎない」
 「結局、わたしは自分にこう言った。達者にしゃべる連中の詭弁にいつまでも翻弄されているのか?かれらがお説教する思想、あれほど熱心に他人に押しつけ ようとしている思想は、ほんとうにかれら自身の思想であるかどうか、それさえはっきりしないのだ。・・・ かれらの哲学は他人のための哲学だ。わたしは自分のための哲学を必要とするのだ。これからの生涯にたいする確乎たる行動の規準をみいだすために、時機をう しなわないうちに全力をつくしてそれを探求しよう。自分はいま成熟して、悟性がもっとも発達した年齢にある。自分はもう人生の下り坂にかかっている。これ 以上待っていたのでは、熟慮の時ではなくなるし、自分のあらゆる能力を使用することもできなくなる。わたしの知能は活動力をうしなって、今日ならばあたえ られた最善をもってなしうることをそのときにはもうできなくなる。この有利な時機を捕えようではないか」

第五の散歩
「これまでにわたしが住んだすべての場所 (それにはすばらしいところもあったのだが) のなかでビエーヌ湖のまんなかにあるサン・ピエール島のように、ほんとうにわたしを幸福にしてくれたところ、深い愛惜の念を心に残したところはほかにな い。・・・  ビエーヌ湖の湖畔はジュネーヴ湖の湖畔にくらべるといっそう野性的でロマンチックである。それは巖や森が水ぎわまで迫っているからだ。けれども景色はや はり明るく美しい。高地やぶどう畑は少なく、聚落や人家はまばらでも、そこには自然のままの草原や、牧場や、木立の陰の休息の場所がたくさんあって、起伏 と濃淡に富んでいる。湖畔には幸いにも車馬の往来に便利な街道もないので、この地方を訪れる旅行者は少ないが、そこは孤独な瞑想者、思いのままに自然の魅 力に酔いしれ、静寂のうちに心を落ちつけて、その静寂を破るものはただ鷲の叫び声、時折りきこえてくるなにかしらぬ鳥のさえずり、そして山から落ちてくる 奔流の響き――こういう境地を愛する者にとっては興味あるところだ」
「しかし魂が十分に強固な地盤をみいだして、そこにすっかり安住し、そこに自らの全存在を集中して、過去を呼び起こす必要もなく未来を思いわずらう必要も ないような状態、時間は魂にとってなんの意義ももたないような状態、いつまでも現在がつづき、しかもその持続を感じさせず、継起のあとかたもなく、欠乏や 享有の、快楽や苦痛の、願望や恐怖のいかなる感情もなく、ただわたしたちが現存するという感情だけがあって、この感情だけで魂の全体を満たすことができ る、こういう状態があるとするならば、この状態がつづくかぎり、そこにある人は幸福な人と呼ぶことができよう。・・・ こうした状態こそわたしがサン・ピエール島において、あるいは水のまにまにただよわせておく舟のなかに身をよこたえて、あるいは波立ちさわぐ湖の岸べにす わって、またはほかの美しい川のほとりや砂礫の上をさらさらと流れる細流のかたわらで、孤独な夢想にふけりながら、しばしば経験した状態なのである」
「あのような生活をもういちどよみがえらせることはできないものか?あのなつかしい島に行って、ふたたびそこを離れることなく、対岸の住人にはだれにも会わないで、わたしの一生を終えることはできないものか?」