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dimanche 21 décembre 2014

マルセル・コンシュさんによる哲学、人生、真理

 Marcel Conche (1922-) 
© Dailymotion


マルセル・コンシュさんのビデオを観る

もう92歳になっているが、これは何年前のものだろうか

91歳の時にビデオが作られているので、そのボーナス映像ならば同じ時になる

 Marcel Conche : La nature d'un philosophe (Christian Girier)

コンシュさんについては最初のブログから取り上げている

おそらく、フランス語を始めるようになり、最初に知った哲学者になるだろう

最近では、今年の2月にこの場に書いている

マルセル・コンシュさんによるエピクロスの哲学 (2014-2-18)


このビデオでは、かなり重要なことが語られている

特に心を打ったのは、探究の末に絶対的な真理に到達したという言葉

そして、そこに至るには自由が決め手になるということであった

彼の語りの簡単なまとめを以下に

-------------------------------

まず、天職について

早い時期から人生を哲学に捧げることを決めており、それ以外のすべてを犠牲にしてきた

その中には愛情も入っている

結婚して妻を愛してはいたが、愛情に溢れていたわけではなかった

愛情に溢れることによる幸福を求めたが、それを一度も味わうことはなかった

しかし、そのことに後悔は全くない

その理由は、自分が味わうことができなかったその内容を知らないからである

そして、それは自分が選択した道ではなかったからでもある

愛情生活は素晴らしいが、いろいろなことを一緒にやらなければならないので時間を奪われる

そのことには24歳の時から注意していた

愛する人と共にいることと愛情生活は別である

愛情生活と思考による喜びも別物である


わたしは幸福を求めはしない

わたしに必要なものは、幸福ではなく真理に近づくこと、すなわち哲学である

 幸福とは、真理に近づくべく探究するそのことの中に表れているとも言える

 わたしの見方をニーチェが書いている

 « La vraie vie ne veut pas le bonheur. Elle se détourne du bonheur. » 

「真の生活は幸福を欲しない。真の生活は幸福から離れて行くのである」


わたしには嫉妬も羨望の感情も全くない

そこには何の利点もないだろう


この年になり真理を発見したと思うかと訊かれれば、答えは非常に簡単で、「ウィ」である

わたしがやっている形而上学で重要になるのは、証明ではなく、力強い議論である

それを決めるのは、論者の自由である

ここで言う真理は、わたしの真理と言うよりは絶対的真理である


神は文化的な存在で、個人の判断を超えた客観的な存在ではない

自然の根源的な意味について、科学はある段階までは参考になる

しかし、科学が形而上学を代替することはできない

形而上学が全体を扱うのに対して、科学はそうではないからである

ビッグバンから始まる世界がすべてだという人がいるが、それは「もの・こと」の全体ではない

エピクロスが言った無限の世界がそこにある

有限のわれわれが無限を理解することができるのか

無限とは神が与える想像の世界にだけあるのではなく、われわれが生きている自然の中にある

その意味で、スピノザは正しかった

われわれは無限の中に在ることを知り、そのことを祝福して生きることが大切である







jeudi 16 octobre 2014

「科学における知の基盤を探る」 講演会のご案内

@Collège de France


講演会のご案内をいただきました

以下の要領で行われます

興味をお持ちの方は奮ってご参加を!

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「科学における知の基盤を探る」 講演会開催のご案内 
日時: 2014年11月18日(火)13:30~17:30
会場: 日仏会館ホール
〒150-0013 東京都渋谷区恵比寿3-9-25
入場料: 無料

    演題Ⅰ 

「科学思想の源泉としてのフランス─デカルトから啓蒙思想へ─」

村上 陽一郎氏(東京大学名誉教授)

演題Ⅱ 

「モノー 『偶然と必然』: 生物の生物らしさを分子から理解しようとする思索のあゆみ」

佐藤 直樹氏(東京大学大学院総合文化研究科教授)

演題Ⅲ 

「新しい自然誌(Histoire naturelle)を求めて」

中村 桂子氏(JT生命誌研究館館長)


参加ご希望の方は、池田忠生 tdikeda@ae.auone-net.jp にお申し込みください。

定員になり次第、受付を終了させていただきます。





mercredi 2 juillet 2014

哲学者とは

Saint Bonaventure
Peter Paul Rubens (1577-1640)


 こちらに来る年の初め、御茶ノ水駅に差し掛かった時、以下のテーゼが頭に浮かび、控えた


 これは個人の生のレベルの問題である

こちらに来てからもう一つのレベルが加わっている

それは、人類の遺産の総体とともに生きるという感覚である

もちろん、その全体に迫ることは不可能だろう

しかし、意識の上では二千数百年の人類の遺産を自分の横に携えて生きようとしている


今日、アルチュセールの『非哲学者に向けた哲学入門』という本に同じような一節を発見した

より正確には、その一節を読み、過去が蘇ったのである


科学者は一度何かが分かったら、そのことは捨て去ってどんどん先に行く

しかし、哲学者は過去の哲学者をいつも読み直すという

一度読んだからといって終わることはなく、何度も何度も読み返すのが哲学者だという


こちらに来て出遭った言葉に、「哲学とは解決済みの問題についての科学である」というのがある

レオン・ブランシュヴィックの言葉で、読んですぐにピンときた

科学は解決したものに戻ることはなく、その先に何かを組み立てていくからである

一方の哲学は、いかに偉大な哲学者が挑んだ問題だとしても、その問題は依然としてそこにある

なぜか勇気が湧いてくる言葉でもあった

アルチュセールの「哲学者の人生は人類の遺産の中に生きること」という言葉がよく分かるようになっている

それは過去に生きることだが、その中にいる時には時間や歴史が消えているという逆説もある

そこに、遺産が時を超えて一つの平面に並べられているというイメージを見る

こちらでの時間の中で、この感覚もよく分かるようになった

ただ、過去の哲学者の書を読み、そして読み返すということをはっきりと意識してはいなかったように思う
 
これから先の一つの道標になりそうである




mardi 18 février 2014

ドキュメンタリー "Death by Design" を観る



1995年のドキュメンタリー "Death by Design" を観る

テーマは、タイトルから想像されるようにプログラム細胞死(programmed cell death: PCD)

この分野の中心人物が出ているが、皆さん本当にお若い

20年ほど前の作品になるので知識を得るというより、このテーマがどのように語られているのかに興味があった


全体が芸術的な仕上がりになっていて、好感を持った

最後の方に出てきたリータ・レーヴィ・モンタルチーニ(1909-2012)さんの話が印象に残った

最初に神経細胞の細胞死を観察したのが大戦中で、トリノの自宅寝室に作った実験室でのことだったという

ユダヤ人は大学から排斥されていたからである

その細胞死を補う物質として神経成長因子を発見し、1986年にノーベル賞を受賞している

当時は戦争中だったので、細胞死が兵士の死とも重なったようである

科学的というよりは、芸術的に仕事をしてきたようである

そして、科学と芸術で重要になるのが直観であるとも言っている

2012年末に103歳で亡くなっているが、まだ生存中にエッセイで少しだけ取り上げたことがあった

エルンスト・マイヤーとシーウォル・ライトというセンテナリアン、あるいは100歳からものを観る」 
医学のあゆみ(2012.11.10) 243 (6): 551-554, 2012

 上のリンクからご覧いただければ幸いである


もう一つ興味深かったのが、マーティン・ラフ(Martin Raff, 1938-)さんの次の観察である

イギリスでは科学は軽蔑されている

イギリス人は音楽を聴き、劇場に行き、哲学的な問題を考えたりするのが立派な人間の証であると考えている

したがって、科学に疎いだけではなく、科学を理解しようとさえしない

多くの政策決定には科学の知識が重要になるので、喫緊の問題である

この時からすでに20年が経過しているが、事態は改善しているのだろうか


他の出演者は、以下の通り

2002年にノーベル賞を貰うことになるボブ・ホロヴィッツ(Robert Horviz, 1947-)氏

danger theory の提唱者ポリー・マッツィンガー(Polly Matzinger, 1947-)氏

この場でも取り上げた細胞死の専門家ピエール・ゴルシュタイン(Pierre Golstein)氏、他

リタさんの双子の相方で芸術家のパオラさんが一緒のところを見ることができたのは幸いであった





mardi 22 octobre 2013

利根川進博士の文章を読んで


日本経済新聞に利根川進博士が履歴書を書いていることを知った

コピーを送っていただいている方がいるからである

その文章を読み、これまでに感じたことのない新鮮な驚きを覚えた

それは、簡潔で単に事実を語るだけのものだということである
 
文章の背後にほとんど何の余韻も感じないほどである

 まさに、科学の特徴を表しているように見える

そこで問題になるのは事実が重要かどうかで、その表現は二の次になる

 ジャコブモノーのように哲学的思考に進むのかどうかは、科学者の資質に掛かっているのだろう

 哲学の文章を長い間読んできたためだと思うが、驚きの発見であった




mardi 24 septembre 2013

やはり、科学は哲学に行き着くのではないか


昨日、NHK特集 「神の数式」 の2日分(第1回第2回)を見る

ミクロの世界とマクロの世界を理解するための数式を発見しようとしてきた科学者の物語である

 それを観ながら再び浮かび上がってきたのが、昨年雑誌 「医学のあゆみ」 で問い掛けた言葉だった


ミクロの世界の完全な理解が可能になり、この宇宙がどこから来たのかが明らかになったとする

その時、われわれを取り巻く世界やわれわれの存在に対する科学的な理解は得られるだろう

それがこの世界はわれわれの直観を超えたものであることを教えてくれるだろう

その成果をもとに、この世界の新しい見方を構築できるだろう

しかし、科学的理解により人間が問うべき問題に対する解は得られるだろうか

例えば、この生は生きるに値するのか 、われわれは如何に生きるべきなのかというような問いに対して

そこに至るには、科学的な理解を元にしながらも、そこから別の次元へと思索を羽ばたかせなければならなくなる

それこそが、哲学的思考と言えるのではないだろうか

それは、科学の出発点にあった哲学が、科学の行く先にもなければならないことを意味している

わたしが昨年書いた 「科学は哲学に行き着くのか」 という問い掛けは、次第に確信に変わりつつある

それは、わたしの唱える 「デカルトの 『哲学の樹』 の逆転」の世界が待たれることをも意味している




samedi 17 août 2013

文系と理系の研究、そして特殊から普遍へ


 このところ、30℃を超える日はなくなり、そよ吹く風にも涼しさを感じるようになっている

先日、文系の研究について考え直すことがあった

科学の分野にいる時、文系の方が特定の作家や哲学者について研究することに違和感を持っていた

「・・・における…の問題について」 という類いである

一人の人間の中に入って研究することが、あまりにも狭く窮屈に見えたからだろう

もっといろいろな人について考えてもよいのではないか、とぼんやり考えていたのである

その固定観念はこちらに来てからも変わらず、一つの問題を選び多方面から考えたいと思ってやってきた


ところがどうだろうか

いろいろな人について読み、その問題についての考えは深まるかもしれない

しかし、それだけでは視点が軸がしっかりしないように感じるようになっている

自分だけに頼っているためか、深度に限界があるように見えるのである

一人に絞って、その人間から見える世界について深めておくことも有効なのではないか

ある人間が、どのようなことを問題とし、それをどのように考えていたかの詳細を知っていること

それは無駄ではないどころか、一つの指標として欠かせないのではないか

問題は、そこに留まっているのではなく、そこからより広く大きな問いに向かうことができるかにあるのではないか

そんな考えが浮かんできた


 翻って、科学の領域について見直してみる

実は、そこで行われることも 「・・・における・・・の問題について」 の研究ではないのか

今ではその度合いがどんどん進んでいる気配さえある

ここでも、そこからどれだけ大きな問いに向かうことができるのかが問題になるのだろう

そうすると、わたしがぼんやり考えていた文系の研究と本質的に何ら変わらないことになる

一つを深め、それを広げるという作業が必要だという点において


いずれも時間のかかる大変な営みになるのだろう

「いずれも」 には文系と理系という含みと、営みの前半と後半という含みがある

前半と後半について言えば、「こと」 を後半にまで持ち込みたいものである





dimanche 4 août 2013

リチャード・ドーキンス博士の "The God Delusion" を観る




リチャード・ドーキンス(Richard Dawkins, 1941-)博士の 『神は妄想である』 を基にしたドキュメンタリーを観る

The God Delusion (2006)

このドキュメンタリーによると、宗教間の争い、信者と無神論者との争いの排他的な性質が見えてくる

宗教が精神の世界の国境のように見えてくる

人類が意識を持って以来われわれとともにあると思われる宗教

地球が一つの国になることがほとんど想像できないように、宗教の問題がなくなることも想像できそうにない




vendredi 14 juin 2013

ピエール・ゴルシュタインさんの科学研究


昨日、マルセイユの免疫学者ピエール・ゴルシュタインさんのセミナーを聴く

Pierre Golstein (Centre d'Immunologie de Marseille-Luminy)

T細胞による殺傷機構や細胞死について長い間研究されている

研究領域が違うこともあり、直接お話を聴くのは初めてになる

タマホコリカビ Dictyostelium discoideum)を使って、発生、細胞死、免疫などについて解析していた


イントロでは、研究を始めることだけではなく、研究所を創る過程についても話をされていた

マルセイユの研究所の創設に関わっただけではなく、今はインドの研究所の立ち上げにも関わっているからだろう

それから、研究のモデルを選ぶということについて話題にされた

まさに、モデルを選ぶということを哲学する、という風情であった

この地上には真核生物だけでも1000万に及ぶ種が存在しているという

それにもかかわらず、主要な研究対象は10種程度である

つまり、研究者が研究対象を選ぶ時に、考えていないという主張である

あるいは、そもそも研究モデルを選ぶという発想自体が頭にないということである

研究を始めた研究室で偶然に使われていた動植物をモデルにしているだけではないかというのである

わたしが言うとすれば、ヒラリー卿よろしく、「そこに・・・があったから」 に過ぎないことになる

研究者が意識的にモデルを選ぶとすれば独立した時であるが、モデルを変えることはほどんどない

モデルの選択ということを考えていないこともあるが、変えることには危険が伴うと直観的に感じていることもあるだろう

ご自身は、長い間マウスを使っていたが、考えて今のモデルに切り替えたという

細胞死にはアポトーシスネクローシス以外にもいろいろな型があるはずだと考えているからだろう


お話を聴きながら感じていたこと

まず、言葉を正確に使おうとしていること

それは、思考を正確にしようということである

事実を語るだけではなく、常に考えるためのクッションが置かれているとでも言うべき精神の状態を観ることができる

こちらに来た当時の身で聴いたと想像してみると、日本では見たことがない科学者だという感想を抱いただろう

「フランス的な」 科学者などと言うことには問題があるのだろうが、そう言いたくなる衝動に駆られる

哲学的だ、とは言えそうだが

上滑りなところは微塵もなく、どこまでも落ち着いている

別の言い方をすれば、大人に見えるのである

フランス、あるいはヨーロッパの科学の歴史が滲み込んでいることを感じさせる

普段は1時間半のセミナーだがこの日は3時間にも及び、流石のフランス人も終わりの時間を確認していた

研究成果そのものよりも研究や科学をどのように考えるのかについて、多くのことを考えさせられる時間となった





samedi 18 mai 2013

科学と宗教: ジョン・レノックス vs. リチャード・ドーキンスの対論を味わう





オックスフォードのクリスチャンと無神論者の対論を二つ聴く

2007年アメリカのアラバマ大学と2008年オックスフォード大学で行われたもの

数学者ジョン・レノックス(John Lennox)さんとリチャード・ドーキンス(Richard Dawkins, 1941-)さんが登壇している

いずれも言葉の正確さとどこまでも論理的であろうとするイギリス人の心、討論の醍醐味をたっぷり味わうことができる

おそらく、国の知性を代表するお二人なのだろう

日本ではなかなか経験できない時間となった


オックスフォード大学でのお二人の主張を掻い摘んで言うと、次のようになるだろうか

まず、レノックスさんのお考えから

この素晴らしい世界が何の導きもなしに生まれたとは信じられない

そこには神という創造者がいるに違いない

宗教は善悪、正義、真理、許しなどの価値を提供している

神のない世界を主張する人は、究極の正義をどこに見ているのか

還元主義的なやり方ではこの世界が益々理解できなくなるだろう

ダーウィンの言うことはわからないではないが、生命の起源や意識などは説明できていない

実体である神がそこで特別の仕事をしたはずである

 16-17世紀に近代科学が生まれたが、その原動力はキリスト教の神であった

ケプラーやガリレオは神の創造物を理性的に理解しようとし、数学でそれが可能になると考えたのである

東洋で科学が生まれなかったのは、キリスト教の存在が関係している

キリスト教は決して反科学的ではなく、科学そのものである



これに対して、ドーキンスさんは次のように主張する

この世界は何の目的もないランダムな過程から生まれたものである

自動的で、盲目的で、そこには導きもない

もちろん、今の科学で理解できていないことがあることは認める

しかし、そこに神を持ち出しても何の説明にもならない

むしろ、その神はどうしてできたのかというもう一つの複雑な問題を生むだけである

確かに、この世界には希望も正義もない

だが、それが真実なのだ

キリストが存在したのかどうかは些細な問題である(後で、存在したと認めてもよいと訂正していた)

そんなことは気にせず、人生を楽しみなさいと言いたい(後で、人生を十全に生きなさいと訂正)

この宇宙には価値はない

決定論の世界であり、理性的で理解可能な世界である

理解不能な世界に生きることを想像できますか

ダーウィン以前は、すべて魔法か神の力で片付けられてきた

科学がすべてを説明できていないし、結局説明できないかもしれない

しかし、神に逃げ込まず、諦めないことが重要である



この問題の入門としては、この対論に問題のエッセンスは尽きているようにも見える

対論を聞いた現時点でのわたしの結論は、次のようになるだろうか

科学はあくまでも科学の中で理解できるように歩みを最後まで続けて行く

しかし、科学では如何ともしがたい価値の問題がこの世界にはある

それを宗教に求めるのかどうかは別にして、人間として考えなければならない点である

科学者の枠を超えなければならないと考えている 

確かに、神が科学を進めるモーターになることもあっただろう

しかし、それを科学の中に持ち込むことは避けなければならない

少なくともわれわれが生きている間に科学がすべてを解決するとは考えられない

であれば、科学に任せてしまうのではなく、常に科学を超えた視点を持っておく必要があるのではないか











vendredi 18 janvier 2013

Stephen Hawking: The Power of Ideas




ホーキングさんは、人間は話すこと、聞くことが大切だと言っているという

コミュニケートすること

そこに人類の未来がかかっているということだろうか





lundi 5 novembre 2012

日本免疫学会ニュースレターのエッセイ

Pr. Alain Prochiantz
Collège de France)


本日、日本免疫学会から新しいニューズレターが届いた

その中に、以下の小さなエッセイを書いている


JSI Newsletter 21(1): 32, 2012

 お暇の折にでもご一読いただき、ご批判をいただければ幸いです




dimanche 14 octobre 2012

アラン・バディウさんによる哲学を聴く



アラン・バディウさん(Alain Badiou, 1937-)のお話を聴く

哲学と実証主義(positivism)とニヒリズムの関係について

以下に、聴いたままのポイントを

------------------

哲学は知識か

科学はそうだろうが、哲学はおそらく違うだろう

知識には対象があり、対象との間に距離がある

哲学は対象と知識という関係を持っていない

哲学は知識でも、対象でもない

哲学自体が疑問なのである

ソクラテスの言葉、「わたしの知っていることは、わたしが何も知らないことである」

否定から始まっている

何も存在しないことを知り得るのか

存在しないものについての知識はない

哲学が知識でない理由がここにもある

"to be" と "to exist" の間にある距離

これこそが哲学的問題である

哲学は対象と知識には還元できない

実証主義は対象、知識だけを扱う

それは分析的な視点であり、科学である

実証主義はすべてに客観的であることを求め、哲学に対しても例外ではない

すべての科学に共通する科学の本質を問うという視点は科学にはない

それは "being" の問題で、個々の科学の中の問題ではない

分析的視点に立つと、否定から始まるものには向かわない

"existing" にしか向かわない



オントロジー (存在論)とは

"to be" と "to exist" の間にある距離を問題にするもの

知識でないとすれば、継続はない

知識は現状を伝達していく

反復であり、継続であり、蓄積である

知識には対象があるからである


哲学は継続できない、常に始まるのである

すべての哲学者は始める

どのように始めるのか

過去の哲学者の蓄積を示し、そこから続けるように始めるのではない

過去の新しい解釈から始めるのである

否定から、無から始める

対象から、知識からは始められないからである

何も知らないとは、無とはどういうことか

それは全くの主観的な経験である

原始的な負の経験である

対象(客観性)のない主観性

デカルトの場合は、絶対的懐疑であった

それは主観的な世界の破壊

理性的なものではなく、実存的な経験であった

 キェルケゴール(Søren Kierkegaard, 1813-1855)もハイデッガー((Martin Heidegger, 1889-1976)も同じ

 ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646-1716)の「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」も同じ問いである

デカルトは絶対的懐疑から経験そのものに至った

対象としての主体(自己)に至った

無から存在の肯定に至ったこの過程こそ哲学の勝利であった


ここで勝利できなければ、ニヒリズムに陥る

主観的な経験から出発するものの無から抜け出すことができない

あるいは、あるがままの世界を否定して無に留まる

そして、知識には意味がないとする

ニヒリズムは哲学の敵であり、実証主義の敵でもある

もう一つの哲学の敵は実証主義である

すべての重要なものは知識であるとする

哲学をナンセンスであり、夢想であると揶揄する

哲学は実証主義でもなければニヒリズムでもない

ただ、初めはある意味ではニヒリズムである

負の経験があるから哲学は真剣なのである

問題は、最初の経験を超えられるかどうかである

そこを超えることができると、最終的には知識に還元されることになる

そこには決意が求められる

哲学は実証主義ともニヒリズムとも戦わなければならないのである



哲学は音楽の調性、音質 (tonalité) を聴くように読むこと

偉大な哲学にはニヒリズムや実証主義の要素が混じっているからである

それを聴き分けること


 
負の経験から出発して肯定にいたる運動

0 → 1

これがバディウさんの哲学であった







dimanche 29 janvier 2012

科学の普及、あるいは何を伝えるためにどう話すのか


Dr. Marc Daëron (Institut Pasteur)



先日、パスツール研究所のマルク・ダエロンさんのお話を聴きに出かけた。

わたしがパリで哲学をする切っ掛けになった言葉を彼から聞いたのはもう7年前。

花粉症の時期の東京でのこと。

わたしの興味を聞いた後に、彼はジョルジュ・カンギレムという哲学者の名前を出したのである。

7年とは相当前だが、そんな感じは全くしない。

今日のお話は善玉にも悪玉にもなり得る抗体についてであった。

流れるように進み、あっという間に終わった。





お話の後、写真右のアン・マリ―・ムーランさんからコメントが出ていた。

科学の内容を一般の人に普及しようとする時、どのようにやるのが理想的なのか。

何を伝えるために、どこまでの内容を、どのような言葉使いで話すべきなのか。

難しい問題である。

研究はされているのだろうが、わたしにはよくわからない。

あくまでも自己流でやってきたというのが、偽らざるところだ。

現場の科学者もそれぞれのやり方でやっているのが現状ではないだろうか。

この辺りの問題はこれから益々大切になりそうである。

科学の現場と科学についての研究者が言葉を交わす時期に来ているのではないだろうか。


会の終了後のデジュネでは哲学一般についてのお話が出ていた。

フランスの場合、科学の学部に哲学者が所属していることが稀ではない。

物理学の哲学をやっている方は物理学科に所属しているとのこと。

フランスでも哲学をどう浸透させるのかが問題になっているようである。

深く考える時間がなくなる社会構造とその営みに価値を置かない社会の風潮。

国により程度の差はあるだろうが、この現象は世界的なものかもしれない。

この流れにどう抗するのか。

こちらも大きな問題になるだろう。



mardi 17 janvier 2012

ルソー生誕300年、あるいは自然と科学・技術


Jean-Jacques Rousseau
(28 juin 1712 à Genève - 2 juillet 1778 à Ermenonville)


今年はジャン・ジャック・ルソーの生誕300年に当たる。学生時代に 「エミール」 や 「告白」、後年 「孤独な散歩者の夢想」 や最近日本の古本屋で見つけた「言語起源論」 などに触れている。また、フランス革命の恐怖政治に影響を与えたとして、理性を重視する立場からの批判があることには気付いていた。しかし、全体としてどう捉えたらよいのかには目が行っていなかった。いずれにしても今のわたしと直接の繋がりはなさそうなので、読むにしても先になるだろうと思っていた。「悲しき熱帯」 や 「野生の思考」 のクロード・レヴィ・ストロースさん(1908-2009)がわれわれの師であり兄であると書いているジャン・ジャック。雑誌ル・ポワンでは、ルソーが年々若返っているかに見える訳を3つのカルフールで説明している。

一つ目は平等の政治だ。彼の場合、平等を理想として謳い上げるだけでは満足せず、不平等の根にある腐敗したものは消し去らねばならないと考えていた。彼が特異なのは、平等と普遍を結び付けて考えていたことである。社会の不公正、専制的な権力、欺瞞に満ちた習慣などに順応しながら見せかけの真理を説く哲学者を彼は許すことはなかった。彼にとって、このような偽物の思想家は法螺吹き、詐欺師以外の何物でもなかったからだ。大切にしていたのは、何を置いても心の誠実さであった。

二つ目のカルフールは、技術に対する警戒だった。彼こそ、自然の立場から科学・技術を批判した最初の人間ではないだろうか。理性や科学が進歩を齎し、それが人間の幸福に繋がると考えていた啓蒙時代において、大胆にも不信の声を挙げたのである。このような希望と熱狂で一色に染まる社会に対して、彼は敢然と疑念の反旗を翻したのである。ただ、彼のことを科学の敵で自然の友、高度の技術を拒否し、単純な道具は受容する人間として見ると間違うだろう。すべてのものに両面があるように、技術にも良い面と悪い面があること、盲目的な一面的思考から離れ、その都度両面を吟味しなければならないと言いたかったのではないか。ここで指摘しなければならないことは、彼が科学の進歩と道徳の進歩の乖離を見ていたことだろう。当時、科学と道徳は手に手を取って歩むと信じられていた中でのことである。知識が増えても人間的にはならず、安楽と力と健康を得ても必ずしも正義や連帯が生れる訳ではない。彼は理性と心情とが違うことを見ていたのだ。

そして、最後のカルフールが心の声である。他の哲学者が理性、意識、身体、精神などと語る時、彼は心こそ自然の声を直接聞くことができる場所であると考えていた。まず、痛みを抱えた他者に対する、考える以前に自然に生まれてくる憐みの心(la pitié)。「自然人」 (l'homme de la nature) は心が語りかける声を決して聞き間違えないが、自然から離れ変質した 「人間人」(l'homme de l'homme) だけがその声に息苦しくなり、冷酷にもエゴイズムと無関心に陥ることになる。

先日、われわれの脳は汲めども尽きぬ泉ではないかと思ったが、ルソーはわれわれの心にある感情こそが汲めども尽きぬ力の源泉であると主張しているかのようだ。上の三つのカルフールから現在の状況を見渡してみると、モーティエで石もて追われたルソーが極めて現代的な思想家に見えてくる。



彼が生れたジュネーヴでは、この機会に催し物を用意している。

2012 Rousseau pour tous


lundi 16 janvier 2012

第2回 「科学から人間を考える」 試みのお知らせ (2)



「科学から人間を考える」 試みを以下の要領で行います。

興味をお持ちの方の参加をお待ちしています。

案内パンフレット
********** ********** **********


第2回 「科学から人間を考える」 試み

The Second Gathering SHE (Science & Human Existence)
テーマ:
「科学の決定論と人間の自由」


この世界で起こる現象はランダムなのか。あるいは、アインシュタインが神はサイコロを振らないと言ったように、ある規則に従って動いているのだろうか。今回は科学における決定論を取り上げ、人間の自由、自由意志の存在、道徳的責任についても併せて考えます。講師がこの問題について40分ほど話した後、約1時間に亘って意見交換をする予定です。前回同様、同じ内容の会を2回開きます。

日 時: 2012年4月17日(火)、18日(水) (同じ内容です)


午後6時20分~8時


会 場: Carrefour カルフール会議室 (定員: 約15名)
東京都渋谷区恵比寿4-6-1
恵比寿MFビルB1


参加費
一般の方 1,500円(コーヒー/紅茶が付きます)
高校生・大学生 (無料;飲み物代は別になります)

終了後、懇親会を予定しています。


参加を希望される方は、希望日懇親会参加の有無を添えて

hide.yakura@orange.fr までお知らせください。


よろしくお願いいたします。




vendredi 13 janvier 2012

クロディーヌ・ティエルスランさんの目指す科学的形而上学




昨年、コレージュ・ド・フランスの哲学教授にクロディーヌ・ティエルスランさんが選ばれた。彼女についてはル・モンドの記事で知り、すでに別ブログで触れたことがある。フランス哲学からは離れて見える領域を専門とする彼女が選ばれたことで問題視する声が上がっていること、それから彼女の掲げる 「科学的実在論的形而上学」 なるものの意味するところにわたしが興味を持ったことなどを書いた。



今回、雑誌ル・ポワンの特集号にインタビュー記事が出ていて、彼女の営みがこのように紹介されている。
現実は物質だけなのか。精神の性質とは何か。これらの形而上学的問についてフランス哲学は沈黙したままである。その沈黙を破ろうとしているのがクロディーヌ・ティエルスランさんである。彼女は正義、道徳、論理だけではなく、ニューロン、原子などという形而上学にとっては新しいテーマを取り上げ、知の間にある障壁を取り除こうとしている。すべての現実について哲学は厳密さを以って探求する義務があると彼女は主張している。

力強い紹介である。以下、彼女の発言を聞いてみたい。
わたしの講座を「知の形而上学と哲学」と名付けました。コレージュ・ド・フランスに「形而上学」という名前が入ったのは初めてです。それがなかったのは、これまでの哲学者がそれを自然にやっていたからではないでしょうか。エミール・メイヤーソン(Émile Meyerson, 1859-1933 )が言ったように、われわれは「あたかも呼吸するように」形而上学をやっています。形而上学とは存在するものについての解析、つまり存在一般についての科学です。例えば、ものの性質、時間、空間、精神と身体の関係などの。

コレージュ・ド・フランスの教授に選ばれた時に巻き起こった抗議について聞かれて、こう答えている。
あなたの話を聞いていると、群衆がわたしの当選に怒りの声を上げるために街に繰り出したように聞こえますが、ご安心ください。モーティエのルソー(1712-1778)のように小石を雨あられのように投げられてはいません。イギリスのデイヴィッド・ヒューム(1711-1776)邸に亡命しなければならないという状態ではありませんでした。コレージュ・ド・フランスの選考は一般大衆の希望に必ずしも一致するものではありません。それはむしろ健全な状態です。アンリ・ベルグソン(1859-1941)もエティエンヌ・ジルソン(1884-1978)も選ばれた時には大衆に良く知られていたようにはわたしには見えません。

コレージュ・ド・フランスには時代の好みに逆らうという役割もあるのです。フランソワ1世がコレージュ・ド・フランスを創設したのは、ソルボンヌの保守主義に対抗するためだったのではないでしょうか。わたしはフーコー(1926-1984)、デリダ(1930-2004)、ドゥルーズ(1925-1995)に連なるフランス思想の典型的な代表者を選ばなかった教授会に感謝しています。もちろん、わたしはイギリスの哲学を近くに感じています。しかし、あまり良く知られていませんが、フランスの哲学にも合理主義の素晴らしい伝統があるのです。わたしが霊感を得るのはむしろそちらの方です。



中世の哲学者に興味を持つ理由について
中世への興味を強調したのは私が最初ではありません。1989年にパリ第一大学に来てアベラールPierre Abélard, 1079-1142)やドゥンス・スコトゥスJean Duns Scot, John Duns Scotus, 1266-1308)の講義を行った時、少しだけ孤独を感じたものです。フランス語訳ではなく、ラテン語やドイツ語訳のテクストにしばしば当たらなければなりませんでした。しかしそれ以来、中世哲学の研究は爆発的に発展しました。フランス語圏には、アラン・ド・リベラ(Alain de Libera, 1948- )、クロード・パナッキオ(Claude Panaccio, 1946- )、シリル・ミション(Cyrille Michon)というような才能あふれる人がいて、幸いなことにすべてが研究専門の職を選ばず、大学で教えています。中世がわたしにとってのモデルであるのは、厳密さの技術、反論と反応によって進む議論の対立が形成されたからです。

彼等がよく議論していた「普遍」の問題を例にとりましょう。普遍とは何か。いろいろなことについて言えます。例えば、机や布が白いなどと言う場合の白色。問題は、この白色、あるいは正義、美などが一体どのような性質であるかを知ることです。この普遍性が個別のものに実際に存在するというのが実在論(réalisme)の立場で、わたしの立場でもあります。もう一方は、概念、言葉、言語の約束事にしか過ぎないとするのが唯名論(nominalisme)の立場です。

中世には、例えばドゥンス・スコトゥスのように実在論に近い非常に緻密な議論があります。普遍の問題には言葉、概念、「もの」の三角関係があり、最近の知の理論と形而上学の中心課題です。わたしは、論理学、物理学、形而上学のレベルにおける現実(実在)と言えるものが何なのかという問題に再度挑んでいます。

イギリスの哲学とフランス哲学との乖離について
17世紀からイギリス思想と所謂大陸の思想との間に断絶があります。それはジョン・ロック(1632-1704)や経験主義者まで遡ることができます。しかし、この断絶は実質的なものというよりは見掛け上のものでしょう。ヒュームルソーを読み、フランス人はロックを読んでいました。状況が変わったのはハイデッガー(1889-1976)がフランス人のモデルになった時ではないかとわたしは考えています。

哲学のやり方について
哲学は知に関わるすべての営みと同じように、科学的になり得るし、そうでなければならないと考えています。科学は物理学者や生物学者のためだけのものではありません。哲学においても(科学的)探究の精神状態のなかで、誤りに注意し、方法を選びながら仕事ができます。その上で、わたしは科学が「もの」の実在が何から成っているのかについて発言する時、科学が最上位に来ると考えている科学主義者(scientiste)には反対します。もちろん、科学知や現代の発見については知っていなければなりません。だからと言って、科学に騙されていてはいけないのです。

この発言が一つのポイントだろう。彼女が「科学的」と敢えて銘打った形而上学の行く先が示されているように見える。さらに、哲学と科学がそれぞれの優位性を争うのではなく、お互いが同じ平面に乗って、この世界の現実について語ることが大切になるだろう。ただ、そのためにはお互いが相当努力をしなければならないことも、また確かである。それぞれの枠の中で満足してはいられないからである。


社会的、道徳的問題、さらに昔の哲学者のテーマだった「幸福」の問題について
わたしの仕事において倫理的、社会的次元は中心的な位置を占めていないかもしれませんが、常にそこにあります。われわれの行動をよりよい方向に導くことのない思想に時間を割く意味はないでしょう。コレージュ・ド・フランスの最初の講義は「知の価値」を取り上げ、知の社会的価値について検討して終わりました。次回のテーマは、可能性として「もの」に備わっている性質(dispositions)と情緒の関係についてです。

現在、快楽と苦痛の関係についても研究しています。幸福に対する哲学的研究は膨大なものがあります。しかし、ここでも現代科学、特に神経科学の成果には注意深くなければなりません。幸福というようなテーマでよく起こることは、ナンセンスなことをたっぷりと話したり、当たり前のことを敢えて説明しようとすることです。そこで満足することはできません。

思想と行動との結び付きという点も大切になる。哲学が内に含む大きな要素ではないかとも思う。倫理とは行動の哲学である、と言い換えた時、抵抗なく倫理という言葉がわたしの中に入ってきた。こちらに来てからの話である。科学的に哲学を進めながら、そのベースに社会的、倫理的な視点を保っておくことが欠かせないのかもしれない。




彼女の考えている先はぼんやりと見えてくる。しかし、その輪郭を掴むためには、以前に読み始めて頓挫している Le Ciment des choeses : Petit traité de métaphysique scientifique réaliste をさらに読み進めなければならないだろう。すぐにその時間が取れるとは思えないのが残念である。





mercredi 11 janvier 2012

ハイデッガーさんの 「科学は考えない」 を考える



„Die Wissenschaft denkt nicht.“

「科学は考えない」


マルティン・ハイデッガーさん(Martin Heidegger, 1889-1976)の有名な言葉だ。フランス語で読んでいるので、わたしの頭の中では « La science ne pense pas. » となっている。まず、ハイデッガーという哲学者については強烈な思い出がある。哲学などは全くの白紙の状態にあったわたしの最初の仏語版ブログ DANS LE HAMAC DE TÔKYÔ に、「あなたは現象学やフッサールやハイデッガーなどの哲学者を愛するために生れてきたのです」という御宣託が届いたからだ。それ以来気になっているが、いずれについても手付かずの状態になる。詳細は以下の記事にある。



この週末、最初が何だったのかは思い出さないが、以下のビデオに突き当たった。それを観てみると、ハイデッガーさんが語っていることがわたしの中にできつつあるイメージと近いことがわかる。彼は語る。
今日、思想が欠如している。それは存在(についての問)を忘れていることと相関している。フライブルグで「科学は考えない」と発言した時は騒動になった。その意味は、科学が哲学の次元で動いていないということである。しかし、科学は哲学と結び付いているのである。
その例として、物理学における時間、空間、運動を取り上げ、科学としてはこれらの問題について考えないとしている。生物学を例に取れば、生物学が生命については考えていない状況と同じだろう。その上で、この発言は科学を批判するためのものではなく、科学というものに内在する構造を指摘したものにしか過ぎないと断っている。それは彼が技術に対して反対の立場を取っていると誤解されていることについても釘を刺していることと重なる。そして、こう続ける。
科学は哲学が考えることに依存しているが、そこで考えることが求められていることを忘れ、無視する。それが科学の特質である。

科学者の頭の中に、ここで指摘されていることが欠落していると感じることが多くなっている。それは逆に、わたしが科学から遠ざかりつつあることを示しているに過ぎないのかもしれない。インタビュワーの「大部分の人はすべてを科学に任せている」という言葉は、おそらく当たっているのだろう。科学を打ち出の小槌として見ている限り、そうならざるを得ないからだ。

科学が生み出すものや事実はわれわれの想像を超える。しかし、それだけでは不十分だという考えがハイデッガーさんの中にあるのではないだろうか。科学が「考える」のは、特定の対象に向けてある方法を使った時のことに限定されている。そのため、しばしばそこで扱われている「もの・こと」そのものについての思索へとは向かわない。つまり、考えていないのである。科学が考えない領域について考えるのが哲学の一つの役目であり、それなしには十全な科学知は生れないと彼は考えているのではないだろうか。自然科学の力が巨大になってしまった現代だからこそ、考えない科学を取り巻く考える別の科学の関与が益々重要になるだろう。


6年前にフランスから届いた御宣託と少しだけ繋がったような気分である。

イメージ、時間、現象学 L'IMAGE, LE TEMPS, LA PHENOMENOLOGIE (2006-04-28)









jeudi 5 janvier 2012

第2回 「科学から人間を考える」 試みのお知らせ (1)



昨年、「科学から人間を考える」 試みという会を始めた。お蔭様で、予想を上回る参加者を得て、無事に船出することができた (第1回まとめ)。第2回を今年の4月に予定していたが、日程などの概略が決まったのでお知らせしたい。詳細は追ってお知らせする予定である。


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第2回 「科学から人間を考える」 試み

The Second Gathering SHE (Science & Human Existence)



日時: 2012年4月17日(火)、18日(水)、18:20-20:00 (両日とも同じ内容です)

場所: 恵比寿カルフール Carrefour (前回と同じ)

テーマ: 正式のお知らせの時(今月末まで)に発表します。


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前回の経験を考慮に入れた変更は以下の通りです。

(1) 開始時間を午後6時20分に早め、わたしが40分程度話した後に、残りの時間を意見交換に使う予定です。

(2) 一般の会費を1,500円として、飲み物代はその中から支払う予定です。なお、飲み物は紅茶かコーヒーから選ぶことにいたします。

(3) 集まりの終了後、参加者の懇親を兼ねた会を別の場所で開く予定です。


会の趣旨をご理解をいただき、積極的に参加していただければ幸いです。

よろしくお願いいたします。



dimanche 6 novembre 2011

更地から始める、そして目に見えないものを理解するということ



フランスのものを読むようになり、どうして何の役にも立たないようなことに (もちろん、それまで私が持っていた基準によれば、ということだが) 疑問を持つのか、しかもあらかじめ決められた目標に向かうのではなく、方角が見えないところから歩み始めるのか、という不思議を抱えることになった。それは同時に、人間の精神の中で繰り広げられている目には見えない 「もの」 を言葉にしようして人生を生きている人、あるいは人生を送り死んでいった人たちが山ほどいることを意味していた。

それではなぜ、それまで読んでいた英語の世界ではこのような疑問を感じなかったのだろうか。英語とフランス語文化の本質的な違いなのか、単に触れる順序だけの問題だったのか。英語に触れてから相当の時間が経つ。その結果、英語の世界が日常になり、英語が仕事の言葉、何かの役に立つ情報を得るための言葉になっていた可能性がある。一方のフランス語は生きるために必要な言葉ではなかった。しかも窓口になったのが哲学だったこともわたしの中での抵抗感を増幅する原因だったのかもしれない。

このようなズレを感じた背景には一体何があるのだろうか。ひとつには、更地に枠組みを作るところから始めるかに見える彼らの営みに、それまで感じたことのない自由な精神の動きを見たことが挙げられる。あらかじめ決められた目標に向かうのではなく、目標を決めるところから始める自由と困難。一つの問に一つの答えという直線的な頭の使い方ではなく、いろいろな点を繋ぎ合わせてまとまりを付けるという頭全体を使う運動の面白さ。同様の違いは、直線的な解を求める仏検と複雑系を解くようなDALFの問を実際に体験して感じることになった。




科学の発展を振り返ると、最初は目に見える物を記載したり、分類したりするところから始まる。それがある程度進むと目には見えない領域が現れる。そこでは哲学的な思考が重要だったはずである。そこで何かを言うことのできる人は飛び抜けた想像力を持つ一握りの天才なのだろう。そして、その目に見えない物を見ようとする人間の意志が技術を生み、やがてそれが見えるようになるというのが科学の歴史の一側面ではないだろうか。言い換えれば、科学は物をこの目で見ようとする人間の試みのような気がしてくる。現代においても哲学が目には見えないことについて発言し、科学に貢献することはできるのだろうか。それは並大抵のことではなさそうだ。

「科学とは、物を見ようとする試みである」
"La science, c'est un essai de voir des choses."


一方、科学との比較で文系の領域を眺めると、最後まで目には見えない 「もの」 (概念など) を言語化することによりわかったような気分になるところがある。そこには言語の持つ限界があり、特に外から入ってきた者にとって、その理解には大変な困難が伴う。こちらに来て受けた講義で困ったのが、まさにこの点だった。翻って、目に見えないものを理解することが本当にできるのだろうかという疑問が湧いてくる。科学者はポンチ絵を頻繁に用いる。その絵を見ることにより、理解したような気になるのだ。この状況は文系の学問にも当て嵌まるのではないだろうか。つまり、言語化された 「もの」 を自らの頭の中で視覚化できないと理解したと感じないのではないか、ということだ。未だ想像の域を出ないが、科学の領域から入ってきて数年の者にはそう見える。

「理解するとは、ものを視覚化することである」
"Comprendre, c'est visualiser des choses."