mercredi 30 avril 2008

シンポジウム 「メチニコフの遺産・2008年」から


イリヤ・メチニコフ Elie Metchnikoff
(né le 15 mai 1845 à Ivanivka près de Kharkiv en Ukraine et décédé le 15 juillet 1916)


イリヤ・メチニコフがノーベル賞を受賞して100年を迎えたのを記念したシンポジウム(L’héritage de Metchnikoff en 2008)が2008年4月28日から30日までの予定でパスツール研究所で始ったので通っている。初日は歴史的にメチニコフの仕事を振り返るもので、アメリカ、ジョンス・ホプキンス大学のアーサー・シルヴァーシュタイン(Arthur Silverstein)教授とボストン大学アルフレッド・タウバー(Alfred Tauber)教授がそれぞれの立場から語った。

シルヴァーシュタイン氏は現在名誉教授で、もう少しで完全に引退するとのことであったが、もともとは眼科学教授でありながら医学の歴史についても研究をされ、免疫学の分野では古典と言ってもよい "A History of Immunology" (1989年)を著している。私も初版本を持っており、これまでよく読んできた。今アマゾンを見ると、お値段が¥15,485 となっている。これほど払った記憶がないので、価値が出てきているのかもしれない。

シルヴァーシュタイン氏は有名なメチニコフの写真を背景に、ゆったりとした調子で話を進めた。当時、炎症という現象が生体にとって害になると考えられていた。彼はヒトデで見出した貪食という現象を基に、炎症は宿主の受身の対応ではなく、積極的に対処している宿主にとって有益な反応で、その中心に貪食細胞があると考えた。

この考え方はドイツ学派には受け入れられず、彼が求めていたドイツでの就職は遂に成らなかった。1888年、彼が43歳の時にパスツールに呼ばれて創設されたばかりのパスツール研究所で仕事を開始し、1916年、71歳で亡くなるまで研究を続ける。

この間20世紀を跨ぐ20年に亘って、免疫は細胞によるとするメチニコフの細胞学説と免疫の主体は抗体であるとするポール・エーリッヒ(Paul Ehrlich)の液性学説とが、フランスとドイツに別れて争った。それは、不毛の争いではなく、むしろお互いが刺激し合い、新しい実験データ、新しいアイディアを生み出した実り多いものだったと結論している。その結果、エーリッヒとともに1908年にノーベル賞を手に入れる。

その後、貪食細胞には特異性がないということ、細胞の実験が非常に難しいこと、それから相手方のエーリッヒの提示した抗体産生のメカニズムを示す側鎖説の図の説得力、さらに決定打になったエミール・フォン・ベーリング(Emil von Behring)による血清療法の成功などが相まって、彼の説は次第に省みられなくなる。しかし、1世紀を経て彼の唱えた食作用、自然免疫という考え方が再び息を吹返してきている。シルヴァーシュタイン氏は最後に次のようなことを話して講演を終えた。

「1960年代から70年代にかけて細胞性免疫の研究が盛んになった時に、メチニコフのことを持ち出す人はほとんどいなかった。また、1950年代のニールス・イェルネ(Niels Jerne)やマクファーレン・バーネット(Frank Macfarlane Burnet)が自然選択説やクローン選択説を提唱した時に、エーリッヒに対する賛辞(tribute)を捧げることはなかった。歴史を忘れないということは重要なことである」



タウバー氏はもう少し若い世代のせいか、テンポ良く攻撃的に話を進めた。彼が示したメチニコフの絵はクリスティーの競売にかけられたものとのことで、見たことがないだろう、という調子であった。

メチニコフの生年1845年が重要で、1859年に発表されたダーウィンの「種の起源」の影響を同時代で受けており、進化論の信奉者になっている。彼の求めた問は、どのようにして生体はその同一性・独自性(identity)を保っているのか、というものであった。そして外界と協調関係にあるのではなく、むしろ disharmony が正常の状態で、その監視役として貪食細胞があると考えていた。当時としては全く独創的な考えであった。タウバー氏自身は、免疫学が自己・非自己の認識に終始するある意味では閉ざされたシステムとしてあるのではなく、外界の他のシステムとも交わるオープンで全的な(holistic)なシステムとして捉えるべきではないのかと考えている様子が伝わってきた。

話の中で、メチニコフに纏わるエピソードをいくつか紹介していた。パスツール研究所での年収が1フランだったこと。紹介した研究経過でもわかるように、実際にドイツ人は彼のことを嫌っていて、研究所では両者が話もしない時期があったという。またノーベル賞授与に際して財団があげた理由がエーリッヒについては短いのだが、メチニコフについては度を越えて長いものであったという。当時、非特異的な貪食細胞についての理解が、スマートな抗体による免疫には追いついていなかったということかもしれない。




それからもう一つ興味を惹いたのは、メチニコフとトルストイとの出会いである。1909年5月30日、ヤースナヤ・ポリャーナにあるトルストイの家で2人は会う。この日は哲学的問題や社会問題について話が進み、メチニコフと彼の2度目の妻オルガにとって深い印象を残すことになる。しかし、それぞれの印象が異なっていた。神秘主義的哲学者のトルストイは言う。
 "J'ai consulté un dictionnaire, devinerez-vous combien de genres de mouches ont été classifiés par les savants? 7000! Où trouve le temps de s'occuper dans ces conditions des questions de l'âme?"

 「私は事典を引いてみた。どれだけの蠅が分類されているのか当てて御覧なさい。何と7,000もあるのだ。そんな状態で精神の(本質的な)問題について考える時間がどこにあるのだろうか」

科学精神の持ち主メチニコフはこのように考えていた。
"La science est la seule issue pour l'Humanité souffrante."

 「科学こそ、病める人類を救い出す唯一のものである」
メチニコフがトルストイに対して尊敬の念を抱いていたのに対して、トルストイは科学ですべてが解決できると考えているメチニコフを浅はかな人間として捉えていたようだ。現在にも通じる視点の対立と言えなくもない。

講演の後で、シルヴァーシュタイン氏とタウバー氏と言葉を交わすことができた。シルヴァーシュタイン氏のところには日本人(すべて眼科医)が沢山来ていたようで、その過程で囲碁に興味を持ち日本棋院に初段の認定を受けに行ったこともあると話してくれた。お二人の著書を持っていたことを思い出し、サインをもらうため会場に持参していた。シルヴァーシュタイン氏は「敬意を込めて」という言葉を添えて、またタウバー氏のサインには「われわれのクラブへようこそ」と書かれてあり、これから話していきましょうとの言葉をかけていただいた。タウバー氏の本は今年になってから手に入れた以下の2冊である。


このような形で、これまで読んできた本とこれから読むであろう本の著者に接することになるとは思ってもいなかった。非常に満たされた気分で帰路についた。



dimanche 27 avril 2008

宗教は科学にとって脅威か?



先日ネットサーフの折、ガーディアン紙のサイトにあった科学と宗教との視点の違いがよく現れている対論に出くわした。科学を代表するのが一方の極にいるダニエル・デネット氏(アメリカ、タフツ大学)なので、その違いがより鮮明に出ている。その全文は以下のサイトにあるので参照願いたい。ここではその要点を掻い摘むことにする。

Is religion a threat to rationality and science?
(The Guardian; Tuesday April 22, 2008)

対論のテーマは宗教が理性や科学にとっての脅威になるのか、という問題で、科学代表デネット氏と宗教代表ウィンストン卿(インペリアル・カレッジ・ロンドン、名誉教授)が真っ向から対立している。

まず、宗教が理性や科学の脅威にならなくて一体何がなるのか、と主張するデネット氏。

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それはアルコール、テレビ、ビデオゲームだろうか、と自答している。これらはわれわれの判断力や批判的な能力を鈍らせる圧倒的な力があるが、宗教はそれらの力を無力化するだけでなく、それを歓迎するところがある。そして人は夢の世界に、知の世界から心を避け、彼らを毒する頭の中の声に耳を傾ける人生を送る。

以前は酔払い運転をする者を、アルコールの影響があるということで大目に見る傾向があったが、今や自らを無責任な立場に置くという大きな罪として捉えている。宗教についても同様のことを考えるよい時期ではないのか。社会を破壊するようなすべての宗教に基づく行為やその宗教指導者は運転する者に酒を勧める バーテンダーや取り巻きの人などと同じように罪深いという態度を取る必要があるのではないか。われわれのモットーは、友よ、友人を宗教に基づく生活に導くなかれ、である。

今現在、アフガニスタンで宗教冒涜の罪で死刑を待っている学生がいる。考えてもみてほしい。この21世紀の解放されたアフガニスタンで宗教冒涜の罪が死刑なのである。しかし、世界のほとんどの人が一言も発しない。どこかでデモがされただろうか。それともイスラム教徒を傷つけたくないのだろうか。宗教以外のことにはすぐに反応するのに、宗教に関わることになるとその判断が自らに跳ね返るためか躊躇するのだ。

この決断をどのような枠組みで捉えるのかにバランスを欠く点があるのだが、ウィンストン卿の場合は最悪である。彼は終りなき作業をしながら多くの問題を処理しなければならないが、その間にも一つの狂信的な行為によりわれわれが大切にしていたものが灰燼に帰すことも起こりうるのである。確かに、宗教を信じることと狂うこととは関係はないが、その一因にはなるだろう。最悪なのは、宗教的信仰は過大な自信を人びとに与えることだろう。それによって普段考えられないような非人間的な過ちを起こすかもしれないということを全く気に掛けなくなるのだ。

この理性への鈍感さが、宗教に対して最も恐れていることなのである。例えば、スポーツや芸術でも同様の非理性的な側面はあるが、社会的には隔絶されている。しかし、宗教だけはそれを神聖な義務として要求し、地上のすべての生活に関わってくるところが問題なのである。

よりよいものは最善の敵である。宗教は多くの人をよりよくする可能性はあるが、最高の状態であることを妨げるものである。その敬意、忠誠心、そして真剣な献身を、想像上の存在(神)からわれわれとわれわれの祖先が創った善き世界という実在するものに向かわすことができれば、素晴らしいのだが、、

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これに対して、ウィンストン卿はこのように反論する。

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デネット氏はパスカルの有名な賭けに応じることはないだろう。パルカルはこう言っている。「あなたが神を信じると言ったところで失うものは何もない。なぜなら、神が存在しないとしても失うものはないし、存在すれば死後の世界で恩恵を得ることができるのだから」。デネット氏は神なきものとして世界を理性的でよりよい場所とするように生きるのがよいと主張している。教会を建て、教会に通うのは資金と時間の無駄だと指摘している。

彼の進化論に基づくと思われる信仰についての見方には、信者の信仰や感情に真剣に向き合うところがないように見えるという問題がある。彼は異なる考えにも真摯に向かうと繰り返し主張しているが、彼の頭の中では人間を「優秀な者」と「信者」に分けている。つまり、あなたが優秀でなければあなたの考えには同意しかねる、なぜならあなたは知的に劣っていて、心が閉ざされ、過度に恐れているからだ、と考えるのである。

ある意味では、彼はリチャード・ドーキンスと同じ罠に嵌っている。彼は宗教について知っていると思っているが、真摯な研究をしたように見られない。例えば、ユダヤ人の態度やイスラム教の習慣など。

宗教は人間の意識に埋め込まれていて、その整合性については多くの証拠がある。有史前のわれわれの祖先の生存の話は置くとして、最近でも人知を超えた力が絶望的な状態に置かれた人間をいかに駆り立てるという例がある。ヴィクトール・フランクルは、アウシュビッツの極限状況の中で唯一生き残ったのは、必ずしも信仰というわけではないが、ある精神性を持った人たちであったという観察をしている。

デネット氏は科学は真理であると信じているように見える。優秀な私の科学者仲間の多くと同様に、科学こそ確実性を意味するという考えを広めている。彼の著書 "Breaking the Spell: Religion as a Natural Phenomenon" でミームに対する彼の見解を支持するとして Eva Joblonka を引用しているが、彼女がドーキンスの進化に関する見方には批判的なことを忘れている。"The Book of Job" を再読された方がよいだろう。

問題は、今や科学者がこの本で扱っているような問題、われわれがどこから来て、どこに向かっているのか、われわれの宇宙を超えたところには何があるのか、というような生命の謎に迫るような問題について答えることができると信じていることである。しかし、科学を用いて研究すればするほど理解できないことが増えている。現実には宗教、科学ともに人間の不確実性を表現しているのである。確実性はそれが科学であれ宗教であれ、危険なものであるという逆説であろう。デネット氏の主張する比較的穏やかな確実性には、われわれの社会に亀裂を生むという危険性がある。科学と宗教の両者が硬直した立場を取ると、確実性が理性と科学にとって最も大きな脅威になるであろう。



jeudi 24 avril 2008

健康と病気についての抜き書き


● 「健康と病気は二つの異なった世界ではなく、生きるものが普通に持つ二つの状態である」 (François-Bernard Michel, Aux risques de guérir , 1997)

● 健康と病気について、ニーチェはこう言っている。
「稜線近くの二つの位置のようなもので、個人がその線を越える危険を冒してもう一方を探索することを可能にしている」
● 患者を意味する patient は、「わたしは苦しんでいる」 を意味するラテン語の patior に由来する。患者は patience (忍耐)が求められることにもつながる。

ルネ・ラエンネック(1781-1826) は、言葉、患者に触れる手、態度、署名などのすべてが治癒効果を持っていると考えていた。つまり、芸術と同様に、医療においてもその人間から発せられるすべてが重要になると考えていた。

● ヒポクラテスは、人間をその全体として診る態度があるかどうかで藪医者を区別していた。プラセボで治すことができるかどうか、つまり医者の人間力を重視していたのである。

● 「医者無き医学」が生まれるか。患者を診ることも触ることもなく、診断して治療薬を出すテクノロジーが生まれるだろうか。

● 「全体性 (Ganzheit; totalité ; wholenss) という概念は、19世紀にはなかった。専門化が進むに伴い、その対抗概念として生まれた」(ハンス・ゲオルク・ガダマー, 1900-2002)

● 病気を意味するフランス語は maladie しかない。英語には disease、illness、sickness の少なくとも3種類ある。disease は医学で明らかにされた状態で、sickness は自覚的・主観的な状態 (I am sick.) であるのに対し、illness はそれらに伴う社会的な状況を意味するようである。




lundi 21 avril 2008

リュック・モンタニエ氏語る



エイズ・ウイルスの発見者であるリュック・モンタニエ Luc Montagnier氏のインタビュー記事を読んでみることにした。出ていた雑誌は Enjeux-les-Echosで、以下のタイトルのもとにこれまでの研究から固まってきた彼の考えを語っている。

" La médecine du XXe siècle a épuisé ses ressources"
「20世紀の医学はその蓄えを使い果たした」

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われわれの平均寿命は、まだ毎年3ヶ月の伸びを見せている。しかし、ガン、白血病、心血管系、神経系の原因不明の病に侵されている。老化にしても同様である。今日、長生きする人は増えているが、骨や関節の問題、ガン、アルツハイマー病、パーキンソン病などで老後が必ずしも豊かなものにならない場合がある。入院期間が延び、効果のない高価な治療を続けることになり、健康保険も赤字に陥っている。

なぜ慢性の病気をなくすことができないのか。一つには、その原因が単一ではなく複数絡み合っているからだろう。それから一つのもの、例えば酸化ストレスと呼ばれる現象はDNAに変異を起こし、脂質や蛋白を変化させ、われわれの免疫系を弱めるという複数の効果を持つ。またある種の病原体は免疫系と折り合いをつけ、われわれの中の留まり続けるということも起こっている。

私は、エイズは老化が急速に起こるようなもので、老化はエイズがゆっくり進行するようなものであると言っている。老化に伴い免疫系をコントロールしている胸腺はほとんどなくなるが、エイズの場合はそれが急速に起こる。胸腺の退化は生物学的にプログラムされている。それは食料が限られていた太古に老人が退場することが種の保存に必須だったという厳しい自然選択の結果である。しかし、その後の文明、文化の発達に伴い、今やそれは存在理由がなくなっている。

医学もその自然選択に抗する役割を果たしてきた。それは本来早く亡くなるべき人たちを救っているからである。そのことにより、遺伝的欠陥を後世に引き継ぐことになるだろう。これは事実で、これから遺伝病が増えるという事を考慮に入れて、われわれはこの新たな状況に対処しなければならない。

したがって、遺伝子治療に関しては賛成である。ただし、自然がわれわれの体に生殖細胞と体細胞を分けて与えていることの意味を考えなければならないだろう。体細胞の遺伝子を操作することには問題を感じないが、われわれの遺伝子構成を変えることになるような操作には相当の慎重さが求められるだろう。幹細胞ですべてが解決するという立場にも私は慎重である。

私はずっと理性的であるが、偏見も持たない。植物エキスを治療に使ったわれわれの祖先の智慧をまだ科学的に検討できていないのだ。分子生物学は多くの成果を上げたが、ほぼ限界に来ていて、すべてを説明することにはなっていない。ホメオパシーはまだ謎のままである。

パスツールは微生物には何の意味もなく、その場がすべてだと言っている。われわれの体は常に細菌と接触している。免疫系が働いていれば、微生物の増殖は抑えることができる。ある種の植物エキスは酸化ストレスへの効果で免疫系を活性化する。エイズウイルスに感染している人の5%は発症しない。細菌やウイルスがガンに関与しているとすれば、例えば、弱い化学療法と抗生物質による治療の併用などのアプローチを取ることができるだろう。免疫系の賦活化による治療が発展することを願っている。人間は120歳まで生きるようにプログラムされているのだから。

酸化ストレスが老化などに関与している。植物に由来する薬剤の有効性を試すのがこれからの目標である。祖先の経験を拒否するのではなく、現代医学と結びつける試みが大切だろう。

フランスの研究は、第二次大戦と占領でイギリスやアメリカの科学と隔絶してしまった。ドゴール大統領はこのことに気づき、若い研究者をアメリカやイギリスに送り出した。それは、特に分子生物学において重要な役割を果たした。しかしそれ以来、その方法と概念を用いることに満足してしまった。エイズウイルスの発見は、すでに知られていた手法を単に用いた基礎研究によるものであった。その後多くの優秀な研究者が研究を進めているが、大きな技術革新を生み出すには至っていない。国による研究システムの整備が全くされていない。それからソ連崩壊後に優秀な研究者を呼び寄せることに失敗した。彼らはアメリカに流れてしまった。

さらに研究費も不十分である。日本は国内総生産の3%を研究に当てている。それから中国やインドも続いている。このままの状態でいると、世界におけるわれわれの占める位置は縮小していくだろう。この状況を抜け出すためには、突破口となる技術革新と概念の転換が必須になるだろう。フランスの経済的な発展と国民の安寧は偏にこの点にかかっている。


lundi 14 avril 2008

「水の記憶」の科学者たち



この週末、久しぶりにゆっくりしたのか、第三者の目で部屋を眺めると、足の踏み場もないくらい本や資料が散らばっていることに気付く。横に寝ていた本を縦に立てることでかなりのスペースができたので、少しすっきりした。こちらに来てから仕入れたそれらの本の数をざっと数えてみたところ、何と200冊程になっている。もちろん、目を通している方が少ないのだが、どうしてこんなに手に入れていたのかわからない。おそらく、どうしてよいのかわからないために、とにかく何でもよいから読んでおきたいとでも思っていたようである。日本ではこんなことはなかったので驚いている。バルテュスの「わたしは常に格闘してきました。それはどうすればよいのかわからなかったからです」という言葉を一瞬思い出していた。

ところで、その中にあった本を読んでいる時に以前から不思議に思っていた疑問に一つの答えが与えられたような気がするところに出くわした。その疑問とは、「記憶する水」 (2007-07-14) と題して取り上げたことのある現象を見出すに至った精神の運動についてである。簡単に振り返ってみたい。

ジャック・ベンベニスト
Jacques Benveniste (12 mars 1935 - 3 octobre 2004)

このフランスの免疫学者は次のような実験をした。アレルギーを起こす元になる抗体 (IgE) を含む血清をどんどん薄めていき、その中に抗体の一分子も含まないところまでもっていく。その上でこの希釈された血清を用いてアレルギー反応が起こるかどうか調べたところ、彼の手によると反応が見られたとして、1988年に雑誌 Nature に発表した。マスコミは、この現象を水には記憶する力があるとしてセンセーションを巻き起こしたが、その後の公開実験などで再現性は見られず、ベンベニスト事件として記憶に留められている。

この話をパスツール研究所の友人MDから聞いた時に、うまく説明できないが不思議な気分が私を襲っていた。こういう実験は偶然驚くべき事実を見つけたというよりは、最初に水には記憶があるはずだという想定のもとにこのような実験をやったとしか考えられなかったからだ。つまり、彼がなぜそのような考えを抱くに至ったのかに強い興味が湧いていたのである。

今回、医学思想史の本(Maurice Tubiana "Histoire de la pensée médicale")を読んでいる時に、18世紀に新しい考えを実践したドイツ人医師に関する記述が出てきて、思わず膝を叩いた。
  
Samuel Hahnemann
(10 avril 1755 à Meissen, Allemagne - 1843 à Paris)

すでにご存知の方も多い領域だとは思うが、私はこれまでよく考えることもなく避けてきたところである。陶器の名産地で絵付師の息子として生れたサミュエル・ハーネマンが考えたホメオパシーという療法。一般の治療がアロパシーと言われ、ある症状を抑えるにはそれに抗するもので対処する(熱を下げるには解熱剤など)のに対して、ホメオパシーは"loi de similitude"という考え方を用いる。つまり、健康な人に症状を起こす物質こそ病気を治すのに使えるというものであるが、その毒とも言える物質の濃度を極端に薄め、出来上がった液体の中に毒が1分子も含まれないという条件のもとに・・・という件を読んだ時、これはまさにベンベニストがやったことと同じだとわかる。彼のアイディアはヨーロッパに根付いているハーネマンの思想に基づいていたのではないかと思わせるに充分である。ホメオパシーがどの程度の科学的根拠を持っているのかわからないが、本屋さんに行きその方向に足を伸ばしてみると関連の本で溢れている。信奉者が多いのかもしれない。

この話はそこで終らなかった。先日、近くの図書館に行き新聞・雑誌の切り抜きファイルを何気なく捲っていた時のこと、エイズ・ウイルスの発見者として有名なリュック・モンタニエLuc Montagnier氏のインタビュー記事が目に入ったので早速読んでみた。その中で、彼がベンベニストの「水の記憶」の仕事を再検討しようとしていることを知る。最近彼は「水の記憶」の仮説だけが説明できる現象を見つけたとして、この現象を否定するところから入っていくと何も起こらないだろう、むしろその存在を厳密に確かめる態度が必要なのではないかと語っている。病を持つ人がいる時に、現在説明ができないからといってそれを退けてしまってよいのか、という態度だろうか。さらに、細菌やウイルスの間でも「水の記憶」と同様に電磁波による情報交換が行われているのではないかと推測している。この生物学と物理学の交差するところに新しい分野があるのではないかと考えている。そして、この点に焦点を合わせた新しい概念に基づく研究所の設立を考えていて、中国やイタリアは興味を示しているがフランスは未だのようだ。

彼の新著”Les combats de la vie”(生命の戦い)の中では、この話をカール・セーガンのこの言葉で締めくくっている。

“Absence of evidence is not evidence of absence” (Carl Sagan)


この話を読んで、晩年にビタミンCによるがん治療を唱えて正統派の科学者としては晩節を汚したと見られているライナス・ポーリングを思い出したが、彼の場合はどのようなことになるのだろうか。この研究の行方を見守りたい。

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(14 avril 2008)

モンタニエ氏によると、フランスでは5人に一人がこの療法の信奉者(adepte)で、ホメオパシーの医師(médecin homéopathe)が1万8千人もいるとのこと。日本との違いを思い知らされる。


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(16 octobre 2010)

モンタニエ氏のグループが細菌のDNAを介する電磁波の発生に関する論文を発表していることをある方から教えられる。

Electromagnetic signals are produced by aqueous nanostructures derived from bacterial DNA sequences. Interdiscip Sci Comput Life Sci 1: 81–90, 2009

この内容については別ブログで紹介した。

「水の記憶」その後、モンタニエさんの試み(16 octobre 2010)




dimanche 13 avril 2008

ダーウィンの言葉からリチャード・ドーキンスへ


ダーウィンのこの言葉に出会った。
"I sometimes think that general and popular Treatises are almost as important for the progress of science as original work."
Charles Darwin in a 1865 letter to Thomas Henry Huxley
 (Edited by F. Burkhardt, et al., The Correspondence of Charles Darwin: Vol. 13, 1865, Cambridge UP)

この言葉はリチャード・ドーキンス(1941-)博士の次の言葉と完全に重なり、今、科学の外にいる者にとって大きな意味を以って迫ってくる。

「私は科学とその 『普及』とを明確に分離しないほうがよいと思っている。これまでは専門的な文献の中にしかでてこなかったアイディアを、くわしく解説するのは、むずかしい 仕事である。それには洞察にあふれた新しいことばのひねりとか、啓示に富んだたとえを必要とする。もし、ことばやたとえの新奇さを十分に追求するならば、 ついには新しい見方に到達するだろう。そして、新しい見方というものは、私が今さっき論じたように、それ自体として科学に対する独創的な貢献となりう る」 
リチャード・ドーキンス 「利己的な遺伝子」  1989年版へのまえがき




jeudi 10 avril 2008

カンギレムから病気、治癒を考える


カ ンギレムを読む。病気や治癒の考え方がわたしのこれまでの経験から得た考え方と近いものがある。病気や健康の定義、概念についての議論はいろいろ人から出 ているが、どこか思考実験的なところがあり、臨床にどれだけ貢献できるのかについては疑問が多い。確かに、臨床に近い人は定義など必要がないという考えに 見られるように、より現実的な思考をすることが多い印象がある。

病気になった後、完全に元に戻ることはない。それは人間がこの生を歩むことと同じである。病気はわれわれの生とともにある。そして、病気が終わった後には、 それ以前にあった規範とは異なる規範が表れる。あるいは、そのように治癒を捉える必要がある。 元に戻ることを望むのではなく、新しい生を積極的に受け入れるという姿勢が必要になるということである。このような考えには強く共振する。もう少し詳し く、この問題を考えてみてはどうか。

病んでいる方にとってもこの考えは有効な思想になるのではないだろうか。医療の側も、機能的に元に戻すことを目指しながらも、新しい規範に対応する必要があることを伝えるべきだろう。病める側のこの体を元に戻してほしいという言い方を聞く時、このことを想起する。

病気はなぜなくならないのか。さらに言えば、人間はなぜ死を運命づけられているのか。哲学者はこれらの問題についても解を出すことができるのだろうか。医学 はそれぞれの病気についての対応策を持っていることが多い。しかし、個々の病気についての知ではなく、病気に罹り、治り、あるいは死に至る過程に対する見 方、精神的な支えになるような思想を生み出すことは医学の埒外にある。哲学の使命は、そのあたりになるのだろうか。少し考えただけでも、大きな使命であ る。

これらの問題を考える 時、現状から始めないこと、「いま・そこ」にある問題を解決するためにどうするかという思考をしないこと。そこから始めると、大きなところには行きつかな いのではないかという感触があるからである。より本質的な問題を探りながら、そこを突き詰めることを先にやるべきだろう。応用に至る道はその後から開ける のではないかと考えているからだ。あまりにもナイーブな見方だろうか。




mardi 8 avril 2008

ピエール・アドーとゲーテ


研究所の帰り、散策をしてみたくなり、散策の後にはカフェに足を伸ばしたくなっていた。束の間の開放感が確かにそこにある。その後、本屋を覗く。新しいものなど今は読む気もしないのに。しかし中に入ると何かないかと探している目があるのを確認する。そこに飛び込んできたのがこの本であった。


御年86、ピエール・アドーさんの「生きること忘れるなかれ」である。副題にゲーテがあったので、今はそれどころではないとは思いつつ手に取っていた。実は2006年の暮れ、こちらに様子を見に来た時に彼の本 "La Philosophie comme manière de vivre" 「生き方としての哲学」に触れ、その中にある次のような言葉に心が震えたことがあるからだ。

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「古代人にとって、哲学とは体系の確立ではなく、生きる選択であり、変化の必要性である。・・・私はいつも哲学を世界の捉え方の変容と考えてきた。」 (ピエール・アドー)

「哲学とは体系の確立ではなく、自分自身の内、自分を取り巻く世界を何ものにもとらわれることなく観ることを一度決意することである。」 (ベルクソン:アドーによる引用)

「現在に生きること、それはこの世界を最後であるものとしてのみならず初めてのものとして見るように生きることである。世界をあたかも初めて見るように努めること、それは型にはまった見方を排すること、現実を在るがままに見る、とらわれることない視点を取り戻すこと、日頃見逃している世界の素晴らしさに気付くことである。」 (ピエール・アドー)

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今度の新著のもう一つのキーワードは、"exercice spirituel" という言葉。霊性を伴った精神の活動とか働かせ方というニュアンスだろうか。これは私がフランスの哲学者などが書く文章を読みながら浮かんだ言葉、「思考 運動」とも通じるものがあり興味を持ったということもあるのだろう。この言葉は、Louis Gernet (1882-1962)、Georges Friedmann (1902–1977)、昨年94歳で亡くなった Jean-Pierre Vernant らがすでに使っているという。

この言葉には宗教的な含みはなく、知性、想像、意志による活動で、それによって世界の見方の変更を迫り自らを変えることになるもの。つまり、知を得るためのものではなく、自らを築き上げる活動を意味している。この "s'informer" と "se former" の間の大きな違いに彼との最初の出会いで気付き、それをはっきりと理解できたことがその後につながる大きな理由になっている。その意味では彼には借りがあるということになるだろう。この精神のあり方が古代には生き生きとしてあり、それがゲーテの中にも見られるというのだ。そのあり方はこう言い換えることもできるだろう。

「過去の重みや未来の幻影に惑わされることなく、現在という瞬間に集中し、その一瞬一瞬を激しく生きること」

さらに私の状態を説明するのに日頃使っている表現 "le regard d'en haut" (上からの視点)が出てくる。それは今そこにあるものや出来事から距離をとり、より広い立場から見ようと自らに迫ることである。さらにである。ゲーテが変わることなく持ち続けたという "l'émerveillement devant la vie et l'existence" (人生や存在を前にして感嘆する心)。そこにはゲーテの人生への深い愛があり、"Memento mori" (N'oublie pas le mourir) ではなく、スピノザに 霊感を得た "Memento vivere" (Gedenke zu leben / N'oublie pas de vivre) を見るという。畳み掛けるようにこのような言葉が入ってきて、気が付いた時には出たばかりのその本を手に入れていた。こういうつながりでゲーテにも大きな興味が湧くことになる。この世には汲み尽くせぬものがあるということだろう。アドーさんにはまた借りが増えることになるのかもしれない。

lundi 7 avril 2008

今感じる現代哲学の問題


哲学に外から入ってきた者の目に映ること。こちらに来てから感じ続けていること。それは、哲学に入る切っ掛けになった動機と関係がある。知識の所有から始ま り、それで満足する哲学、あるいはそこから体系の確立に至る哲学。もし哲学がそういうものであれば、全く魅力を感じなかった。そうではなく、自らの生き方 に直接絡んでくるような哲学。世に溢れる安易な人生論ではなく、知の所有でもない哲学。知への欲求を持ち続け、それを自らの中に映し出しながら生きる姿を 変えていくという哲学。そういう形があることを知ったからこの道に入ったのだが、そういう哲学に大学での講義で出会うことはない。

その原因は、哲学が学問になってしまったことと深く関係があるのではないだろうか。あるいは、他の科学と同じように哲学を捉えている間は、わたしを満足させ る哲学は生まれないのではないか。大学の講義を聴いていて感じるのは、このことである。ただ、大学で行われている学問的な哲学を否定しているわけではな い。それは一つの極として重要であるが、それだけでは不充分ではないかということである。

哲学の復権を語るとすれば、哲学に関係のないところにいる者が興味を持つような提示が必要であり、それはわたしが感じたような要素を含むものでなければなら ないのではないかという感触がある。そのためには、そのような営みが日常的に実際に行われていなければならない。それができないようなシステムになっているところに大きな問題を見る。哲学ほど人間として生きる上で、社会の中で生きる上で有用なものはないという感想を持っている者として、残念なことである。 あるいは、哲学とはそのような星の下に生まれた営みなのだろうか。




mardi 1 avril 2008

フーコー、あるいはわかろうとすること、使おうとすること



ミシェル・フーコーがイタリアでのインタビューで語り、しばしば引用される個所がある。その言葉に力づけられる思いがする。それは彼の作品が誰に向けて書いているのかと問われて、フーコーが答えた次の言葉である。
「私はコミュニケーションのために言葉を使う術を知らない。その上、芸術作品に仕上げる才能も天才も持ち合わせていない。私は道具や家庭用品や武器を作っ ていることになる。私の本は各自の領域に利用できる道具を掘り出すことができる材料箱のようなものであることを願っている。・・・・『言葉と物』はよく読 まれたが、理解されたとはいえない本である。この本は科学史家や科学者に向けて書かれたので、2000人のための本であった。残念ながら、それ以上の人に 読まれたことになる。しかし、ノーベル賞受賞のジャコブのような科学者の役には立った。彼が書いた 『生命の論理』には生物学の歴史、言説、行為に関する章があるが、そこで私の本を利用したと語ってくれた。私は広い層に向かって書いてはいない。読者では なく利用者のために書くのである」

Dits et Ecrits, 1974
« Prisons et asiles dans le mécanisme du pouvoir. » Entretien en Italie
(Dits et Ecrits I, 1954-1975. p.1391-1392, Gallimard, 2001)

こ の言葉を聞くと彼の作品が非常に近くに感じられてくる。彼の作品の解釈に追われているだけでは彼の心に反するかのようだ。自分のわかる範囲で彼の言葉を自 らの思索の材料とし、自らの仕事に使い、自らの生きる糧にしなければ意味がないと言ってくれている。この態度は彼の作品に限らず、すべての場合に当ては まりそうである。わかろうとするだけではなく、使おうとすること。この二つの心の状態の違いは少し考えただけでも、途方もなく大きく見えてくる。

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Photo Source: Visages de la philosophie / Foucault (Louis Monier, 17-05-2001)