jeudi 24 mai 2012

世界を記述する新しい言葉、そして自然と文化を結ぶ橋

 Ninguen (2000)
Tominaga Atsuya / 冨長敦也 (1961-)


午前中曇っていたが、午後から晴れ渡ってくれた
この朝はデンマークの方とやり取りしたり、日本からのメールに対応したり
資料を読まなければならないので、結構時間がかかる

それとは別に、以前にいただいたメールを読み直している時、発見をする
この世界に大きな変化は起こっていないだろうなどという思い込みがあると、見過ごすことになる
これは結構大きなことだったので周辺を調べる
わたしが知らなかっただけの話なのだが、、

ただ、そう言ってしまうと、すべてがそうなる
わたしとは別に、すべてはそこにあるのだから
あるいは、わたしが気付かないものは存在しないのか
そうかもしれないが、その立場を今は採っていない


午後から近くのカフェでスローターダイクさん(Peter Sloterdijk, 1947-)を読む
調べてみると、もう3年近い時間が経っている
巡り巡ってという印象だ
その本はハイデルベルグの免疫学者ブルーノ・キュースキさん(Bruno Kyewski)に紹介されたもの
丁度、パリにセミナーに来られた時のことである
その日の経過は以下の記事にある


本の原題は、Du mußt dein Leben ändern (2009)
昨年出た仏訳は、Tu dois changer ta vie (2011)
日本ではまだ訳されていないようだ


この世界を変えるのではなく、あなた自身の生活、人生を変えなければならないと言っている
世界の改良ではなく、自己改良を目指しなさいということだろう
今日はイントロを読んだが、彼の中の世界、頭の使い方、言い回しがなかなか馴染まない
30ページほどを3時間かかって読む
印象に残ったところを少しだけ



Ninguen (1999)
Tominaga Atsuya / 冨長敦也 (1961-)


最早太陽のもとには新しいものなどないように見える
しかし、認識の面からいうとあるのだという
つまり、見方を変えるということ、新しい見方を獲得すること
それは、分かっているように見えることに纏わり付いた衣を剥ぐことができるか否か、
これまでと異なる言葉で 「こと」 を記述できるかどうかにかかってくる
精神性とか道徳とか倫理などと言われるものに、全く新しい言葉を与えることができるのか

それを彼は "explicitation" という言葉で説明している
折り畳まれるようにされている "implicite" な状態に対して風呂敷を広げるようにするこの行為
「こと」 を明白にするという営みを表現するのには適切な選択に見える 
この過程がうまく行くと、意表突くような、しかし無視できないような効果が出ると言っている
そして、それこそが太陽のもとの新しいものになるのだろう


それからオーガニズム、社会、文化を包括する知として免疫学の成果を挙げている
おそらく、これがキュースキさんが私にこの本を薦めた理由になるのだろう
スローターダイクさんは免疫システムが世界をよく説明するのだと言いたいようだ
生物学的世界、文化的・社会的・軍事的世界、精神運動の過程

そして、これまで何度も取り上げられている生物学的世界と文化的世界の乖離を指摘している
自然と行動、自然科学と人文科学
この間には直接の移行はない
そこに橋を架ける必要があるのだ
橋の中央を繋ぐためには、教育、訓練、運動が欠かせない
この橋の建設なしに人間になることはできない
この運動を常にし続けなければならないのが、われわれの存在の本質なのかもしれない


この中で 「人間の園」 (le jardin de l'humain) という言葉が紹介されている
物理学者のカール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカーさん(C F. von Weizsäcker, 1912-2007)の言葉だという
そこでは植物(自然)と芸術が出会い、上に挙げた対立が昇華される
そこに入ると、内的・外的な運動が最高のレベルに達する
Le jardin と聞くと、すぐにエピクロスの園を思い出す
それらが新しい文化を創造する空間、人間に近づく空間であるとすれば、
その建設はすべての人に求められているのかもしれない



mardi 8 mai 2012

クロディーヌ・ティエルスランさん再び、「哲学は科学的でなければなりません」

Pr. Claudine Tiercelin (Collège de France)


今年初めにコレージュ・ド・フランスの 「知の形而上学と哲学」 教授クロディーヌ・ティエルスランさんのインタビュー記事 (Le Point) を紹介した。
クロディーヌ・ティエルスランさんの目指す科学的形而上学 (2012-1-12) 

昨日の散策で入ったプレスで手に取った科学雑誌 La Recherche の5月号に彼女のインタビュー記事が載っていたので早速カフェで読んでみた。前回と重複しない範囲で紹介してみたい。

彼女の言う科学的とは、自然科学の研究者や実験者が持っている精神で研究を進めるもので、誤りに注意しながら実証可能な命題を提出することだという。その過程で科学の声を聴くことが重要だと考えている。

このインタビューでも科学と哲学のどちらが知における優位性を持っているのかは重要ではないと繰り返している。両者は明らかに対象も方法も異なっているからだ。哲学の仕事は言語を用いてできるだけ実体に近い概念を作ることである。そこでは、言語と概念と実体の三者関係に常に注意しながら進めることが不可欠になる。実体に至るためには、物理的な実験だけではなく、非物理的な認知科学の領域の実験をも含めている。さらに、想像できるものと可能性のあるもの、可能性のあるものと実際にあるもの、言葉の違いと概念の違い、概念の違いと実体の違いを混同しないようにすることも強調している。

科学哲学と知の哲学(philosophie de la connaissance)との違いを次のように説明している。科学哲学は、科学の方法、理論と観察との関係、特定の科学の変遷などを扱うのに対して、知の哲学は対象を科学知に限らず、知の概念そのものやその基盤、論理、推論、証明の本質、信じることとが知とされる条件などの問題にも興味を示す。

形而上学をどう定義するのかと聞かれて、彼女はこう答えている。形而上学とは実在についての科学で、存在、自由、時間、心身問題、法則の本質、物理的・心理的因果関係などの問題を扱うものである。つまり、実在の最も深い構造について研究する科学になる。同様に、世界の成り立ちの深い構造を研究する物理学との違いは、物理学者の存在論は必然的に物理主義になるのに対して、形而上学者はこの世界を理解するためにはそれだけでは不十分だと考え、生物学、心理学、社会科学などの多様な学問から存在論を研究する。その背後に、自然は物質からできているのか、あるいは関係やプロセスなのか、アイデンティティを構成する条件とは何か、というような科学者の範囲を超える重要な問題が控えている。

形而上学とは知に関する論理的な営みであり、科学と同じ原理に基づいている。世界の最も根源的な要素を求めている点で、科学と同じ目的を持っている。形而上学者はよく議論すると言われるが、それは学問の基準がないからではなく、見かけに囚われたり、錯覚に陥ることを避けることや目の前のものを虚心坦懐に観ることが難しいからである。この議論も科学精神の下で行わなければならず、科学がすべてを説明すると主張する科学主義や形而上学者が最終決定するという体系に囚われたドグマから自由でなければならない。。形而上学者は実験室には行かずオフィスに留まっているが、椅子に座っているだけではない。ある意味で数学者に近い存在である。






dimanche 6 mai 2012

第3回 「科学から人間を考える」 試みのお知らせ (1)



9月に東京で予定している第3回 「科学から人間を考える」 試みのテーマを 「正常と病理」 とすることにいたしました。

 われわれの人生において避けて通ることのできない病気と関連するテーマになります。

日程、場所などの詳細が決まり次第、この場の他、専用サイト、「パリの哲学的生活」 などに発表する予定です。

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。

よろしくお願いいたします。