医学の哲学を研究している若手のための国際会議がパリで開かれた
6月20日から22日までの3日間、パンテオン・センターが会場だった
わたし自身の研究テーマとは直接の関係がないこともあり、会があることは知らなかった
その中に3つのワークショップがあり、シニアとジュニアの二人で座長をすることになっていた
そして、なぜかわたしがジュニアの座長に指名されたのである
専門ではないのでお断りしたが認められず、参加を余儀なくされた
テーマは 「医学における知識と実践」
どんなことになるのかその場で観察するといういつもの危うい考えで、「こと」に臨んだ
それ以外には方法がなかったからでもある
アメリカ、カナダ、イタリア、フランスの若手が参加した会では多くのことを学んだ
まず、大雑把な印象から
アメリカ大陸の方は皆さん声がよく通り、話すのが速い
深く留まるように考えるところはなく、流してどんどん先にいく
そして、情報量が多い
一方、フランスの若手は考えながら言葉を紡ぎ出しているのが手に取るようにわかる話振りであった
知識の量よりは、一つの問題を掘り下げて考えるところがあるように感じた
イタリアの若手は何の衒いもなく、小気味よい論理の展開でどんどん前に進み、好感を持った
少し引いて彼らの話を見直してみると、次のような考えが浮かんできた
第一に、彼らの思考様式がわれわれのもとのかけ離れているように見えること
また、思考が行われているレベルも違うように感じる
これは、抽象的概念を用いて論理的に考えることをわれわれが苦手としていることと関係がありそうである
その訓練を若い時からやっているのかどうかが、大きな違いとなって表れているのだろう
同年代の日本人の中に、彼らと同じレベルで話ができる人が一体どれだけいるだろうか
そんな疑問が頭を過った
もう一つ感じたことは、言語と思考の関係である
それは、フランスの若手が英語で言う muse しながら語っているような話振りを観ている時に浮かんできた
つまり、言葉が思索の道具として使われているのが見えるように感じたからである
言葉を発する時に単なる記号と堕しているのではなく、それが思考と密に繋がっているような関係が見えたのである
このように言葉を発する人は意外に少ないことに気付く
それは、時間をたっぷり取り、ゆっくり考えるという習慣が生み出すものではないだろうか
今、暇の只中にいる身であればこそ、そのように感じたのかもしれない
忙しく仕事をしている時には全く逆の印象を持ったのではないか、と想像されるからである
ところで、会が終わった後、オーガナイザーからワークショップのサマリーを求めるメールが届いた
会の前に言ってもらえれば、もう少ししっかりと聴いていたのに、と恨み言でも言いたくなる心境だった
しかし、ここはフランスである
こちらに来てからは苛立つことはなくなっている
乏しいメモをもとに纏めて提出したところである
当日討論された内容に興味をお持ちの方は、以下をご覧いただければ幸いです