mercredi 30 avril 2014

フッサールさんによる哲学者に必要なもの


フッサールさんに次のような言葉ある

 「哲学に興味を持ち、時に真理の問題について省察し、継続的にそのことに当たりさえする

それだけではまだ哲学者ではない ・・・

そこで欠けているものは、究極の要求に応える意志の過激さ(急進性:radicalisme)なのである」


フッサールさんによると、そう簡単に哲学者などと呼べないことがわかる

結局のところ、アマとプロの間にある大きな溝のようなものになるのだろうか

吉本隆明氏(?)の言うように、「何事も10年やればプロですよ」 といくのかどうか

そんなに容易なことではなさそうに見える




dimanche 13 avril 2014

パリから見えるこの世界 (15) 「水の記憶」の科学者ジャック・バンヴェニストとリュック・モンタニエ



雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 「パリから見えるこの世界」 の第14回エッセイを紹介いたします

現在日本で騒がれている問題とも関連するテーマに触れています

ご一読、ご批判いただければ幸いです


« Un regard de Paris sur ce monde »

医学のあゆみ(2013.4.13) 245 (2): 203-206, 2013





jeudi 10 avril 2014

パリから見えるこの世界 (14) 森鷗外とパウル・エールリッヒを結ぶもの



雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 「パリから見えるこの世界」 の第14回エッセイを紹介いたします

« Un regard de Paris sur ce monde » 

医学のあゆみ(2013.3.9) 244 (10): 944-947, 2013


 ご一読、ご批判いただければ幸いです

mardi 8 avril 2014

小林秀雄の 『学生との対話』 が、カフェ SHE や PAWL と繋がる


今回の日本出発前、本屋さんに積まれていた小林秀雄の 『学生との対話』 を手に入れ、道中読んできた

まず、彼の話していることが以前とは比べものにならないほどよく分かるようになっている

彼の作品をそれほど読んでいるわけではないのだが、、、、 

そのことに驚く

 こちらでの時間が影響していることは間違いないだろう


それから、この中に出てくる話が今回のカフェ(懇親会も含め)で話題になったことと重なるものが多いことだ

そのことにも驚く

その感覚は次のようなものだろうか

金曜にカフェフィロPAWLでディオゲネスが描かれているラファエロの「アテナイの学堂」 を示した

すると、その週末のシャヴァンヌを取り上げたNHK日曜美術館でその絵が現れるのである

それを見て覚える驚きのようなものに近い感覚である


わたしがこのようなカフェを始めた背景には、科学だけではこの世界を理解できないという思いがあった

それだけではなく、科学は科学そのものの営みさえ理解できないということである

小林さんも科学のこの特徴をよく見ていて、若い人に注意を促している
 
科学の中に入ってしまうとその虜になり、そのことにさえ気付かなくなる危険性についても指摘している

これに関連した話も懇親会で出ていた


瞑想のような営みをしていると、日頃気付かない自分の奥にある記憶に触れることができることを話した

隠れている自分を発見することができるのである

それは、ここで言うところの 「自分の中を覗き込む」 という運動に近い

テレビなどを観る生活ではそこに達しない

意識の表層に留まり、中に入ることが阻害されるからだ

それは日本に帰る度にわたしが経験していることである

この本のなかでも、ベルグソンを引きながら無意識の世界について論じている

日常生活では必要になる記憶しか引き出さない

それ以外の記憶は邪魔になるからだ

それを繰り返していくうちに、自分を特徴付けているはずの記憶の全体には触れずじまいで終わるのである


今回、われわれの思考の中に科学では排除されている主体を取り戻す必要があると感じ、PAWLを始めた

それによって初めてわれわれの脳が全的に働くと考えたからでもある

小林さんも対象を自らの外に置いて解析する研究の不十分さを指摘している

「歴史は常に主観的です。主観的でなければ客観的にはならないのです」 という言葉もある

 カフェにおいても歴史は重要な要素になっている

小林さんの観察は、今の歴史は出来事を正しく調べることで終わっているというもの

つまり、科学的であれば良しとする風潮を批判しているのである

そうではなく、歴史とは上手に 「思い出す」 ことであると言っている

そのためには、人間の精神や思想にまで入り込まなければならない

どの程度できているのかはわからないが、これはわたしの目指しているところでもある

このようなことが他にもたくさん出てくる


最後に一つ、「考える」 ということについて本居宣長の考えを紹介している

「本居さん」 と呼んでいることも注意を引いた

「考える」 の古い形は 「かむかふ」 だという

「か」 には特別な意味はない

「む」 は 「み」 で、自分の身を指している

「かふ」 は 「交わる」 ということ

なので、考えるとは、自分の身を以って相手と交わることになる

つまり、対象と自分が親密な関係に入ることを意味している

そのためには、相手の身になって考えること、共感、想像力を必要とする

どこか、ジョン・キーツの "negative capability" を想起させる

そう考えると、SHEとPAWLのカフェは、実はわたし自身が考える場にもなっていることが見えてくる

さらに言えば、今回の日本滞在そのものが考えることだったことがわかる

 以前から気付いてはいたが、今回小林さんの言葉により、そのことがはっきりと意識されるようになってきた

道中の貴重な収穫である






lundi 7 avril 2014

第7回サイファイ・カフェ SHE 「遺伝子を哲学する」 の二日目のまとめ


第7回サイファイ・カフェSHEの二日目も多くの方に参加していただいた

年度初めのお忙しいところ参加された皆様には改めて感謝したい

会の方は前日同様、講師が話し過ぎ、討論の時間が少なくなった

しかし、穏やかだが充実した議論が進んでいたように思う

ウィルヘルム・ヨハンセン(1857-1927)というデンマークの植物学者がいる

彼が 「遺伝子」 という言葉を1909年に初めて使った

ヨハンセンはまた、「遺伝子型」 と 「表現型」 を識別した

外に表れている特徴とそれを生み出している元のものは別物であること

さらに、遺伝子型はメンデルの因子(=所謂遺伝子)には還元されないこと

つまり、表現型を生み出すために必要な他の要素も含めて遺伝子型と考えていた

現代でもタンパクを作るDNA断片を遺伝子と定義し、それがすべてを決めていると考えがちである

しかし、この見方は表現型を生み出す他の要素を視野の外に押しやる危険性がある

遺伝子型をホーリスティックに捉えていた 20世紀初頭のヨハンセンの見方は、極めて現代的である


この日、会が始まる数時間前にパソコンがフリーズするという事故があった

パワーポイントのデータはその中しかなかったので、開催ができなくなるのではないかと一瞬慌てた

人生は本当に何が起こるかわからない、などとのんびり構える

すると、初日のスライドPDFを参加者に送っていたことを思い出す

真面目に「こと」を進めておくものである

もしメールを出していなければ、と思うとゾッとする

幸いメールからPDFを取り出すことができた

使うパソコンも近くに見つかったレンタルパソコン会社から借り、何とか間に合わせることができた



懇親会は初日より多くの方が参加され、議論が盛り上がっていたようだ

初日に匹敵する長時間の意見交換となった

この会もすでに7回を終えたことになる

次第にリラックスした雰囲気が醸し出されるようになっている

そのためだろうが、発言がこれまでよりは自然に出ているように感じるのは気のせいだろうか




この日もPAWLの経験を活かし、動画を撮影してみた

相変わらずのローキーだが、会の雰囲気は伝わるのではないかということで Youtube にアップした

ご批判をいただければ幸いである



次回は、今のところPAWLとともに11月開催を予定しています

詳細が決まり次第、この場でも紹介する予定です

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております

 これからもご理解、ご協力のほど、よろしくお願いいたします





第7回サイファイ・カフェ SHE 「遺伝子を哲学する」」の初日のまとめ


7回目になるサイファイ・カフェSHEを2014年4月3日(木)と4日(金)に亘って開いた

初日は天候が良くなかったためか、お二人の欠席があった

遠くからの参加もあり、皆様には感謝したい

今回のテーマも 「遺伝子」 という大きなものにしたため、どのように提示するのか寸前まで考えていた

最終的には、19世紀からの歴史を辿りながら、科学者の採った考え方を検討するというやり方にした

壮大な歴史があるため、大きな出来事を中心にせざるを得なかった

短い時間では致し方ないのだろうか

遺伝の中における遺伝子という視点に立てば、昔の絶対的立場は揺らぎつつあるように見える

最近の科学の成果はわれわれに希望を与えているようにも感じる

われわれは手を出せないと思っていた自身の未来に少しは関わることができるのではないかという意味において


後半のディスカッションでも活発な議論が進行していた

先週のPAWLのテーマの一つが率直に語ること、社会的ヒエラルキーを超えて語ることであった

 それがなければ、「こと」 の本質が見えてこないからであり、「こと」 が動かないからでもある

今日のやり取りで何が問題になっているのかが以前よりよく見えてきた

真剣に意見を交えることによってしか見えてこないものがあるのだろう

このような積極的な議論、意見のぶつかり合いをこれからも期待したいものである

今日の懇親会はなぜか時間のない方が多く、少人数であった

そのためではないだろうが、普段より1時間ほど長い意見交換となった

日本の現状に対するそれぞれの分析やこれからに向けての具体的なサジェスチョンも出たりしていた

過去への視点だけではなく、未来も視野に入れながら体を動かすことも考えてはどうか

そんな気にさせてくれる時間となった





第1回カフェフィロ PAWL 「ディオゲネスという生き方」 のまとめ


サイファイ研初の試みになる 「生き方としての哲学カフェ PAWL」 を2014年3月28日(金)に開いた

まず、年度末のお忙しい時に参加いただいた皆様に感謝したい

初回のテーマとして、古代ギリシャの哲学者ディオゲネスを取り上げた

現代の枠組みの中にいると、その生き様は常軌を逸しているように見える

しかし、本当にそうなのだろうか

実はわれわれの方が多くのものに囚われ、自由が奪われた状態にあることに気付いていないのではないか

 文明の中にいるわれわれは多様に絡み合った枠組みの中にいる

最初から枠組みの中にいると、そこで進行していることの本当の姿が見えてこない

社会の流れを外から観るという視点がなければ、大きな流れに異議申し立てをすることもできない

これは哲学の持つ大きな機能であるはずだ

そのことを教えてくれる哲学者である


それから彼は社会的秩序を超えて自由にものを言うこと(parrhesia)を実践した人間でもある

この営みは思想と行動の一致を要求する

そのため、その人間を危険に陥れることになる

日本に帰ってきていつも感じるのは、自由にものを言うということが抑制されているということである

言論空間が澄み切っていない、突き抜けていないように感じるのだ

そこでは 「もの・こと」 の核心に至るのが難しい

そのため、本当の姿を見ないままどんどん先に進むのである

カフェの名前であるPAWLは生き方としての哲学(Philosophy As a Way of Life)の頭文字である

しかし、この言葉には別の意味もある

それは、一方向に進むための装置であるラチェットのツメという意味である

歯止めの役割を担っている

より広く解釈し直すと、正の方向に進むことに対するフィードバックという含みも見えてくる

さらに、社会の大きな流れに抗する機能を持っているとも言える

上でも述べたように、これこそ哲学がやるべきことである

その意味でも、含蓄のある名前になったと考えている


なぜ初回に辺縁の哲学者とも言えるディオゲネスを選んだのかという質問が出た

これまでに書いたことが一つの回答になるだろう

それから、この会のテーマとしてディオゲネスを選んだ後にこういうエピソードがあった

驚きの大発見、それは今年二度目の出来事か (2013-12-11)、

彼の哲学を見直してみると、自分の中に多くのディオゲネス的なものがあるのではないか

その実践は若い時には難しかったが、囚われのなくなった今、それがよく見えるようになっている

それが、彼を初回の主役に選ばせたのではないか

無意識のうちに



今回、初の試みとして、このところ気に入っているカメラの動画機能を使ってみた

どうなるかわからなかったが、15分間ちゃんと写っていた

丁度、イントロ部分をカバーする内容であった

講師の話がローキーで驚いたが、折角なので参考のためにYoutubeにアップした

ご批判をいただければ幸いである




これからも刺激的な哲学者を選び、そのエッセンスを現代に引き付けて考える予定にしている

ご理解とご支援をよろしくお願いいたします