vendredi 30 mai 2008

ピューリタニズムと科学、そして日本

Robert King Merton (4 juillet 1910 - 23 février 2003)


アメリカの社会学者で科学社会学の創始者とされるこの方の最初期の仕事 "Le puritanisme, le piétisme et la science" (1936年)を読む。その中で、17世紀イギリスを対象に社会と文化と文明の関わりを見ようとしている。特に、清教徒(ピューリタン)が掲げる価値と科学の目指すところを概観し、宗教と科学の関係を比較解析している。例を挙げての指摘から数値を使って証明する方向に向かっている。その結果、ピューリタンの倫理が科学の発展をもたらしたという結論に達している。

神の創造物である自然を理解することにより創造主を賛美し、人間に幸福をもたらすことがプロテスタントの倫理であり、それが科学の目的とも合致した。自らの興味に基づいて、などという甘い動機付けではとても叶わない大きな力を感じる。17世紀の中ごろにRoyal Society of Londonが設立されるが、その憲章にもこの二つが掲げられている。ドイツの敬虔主義でも同様の現象が見られた。科学への参加はカトリックよりはプロテスタントが優位であったようだ。さらにこれを読むと、日本の徳川に当る時代から "why question" や "how question" について議論されており、その歴史の重さには如何ともしがたいものがある。

そう感じた時、日本の現状に目が行っていた。日本には優れた科学者はいるが、科学という文化はないと言った人がいるらしい。的確な観察だとは思うが、それはヨーロッパ3000年と日本の100年か200年という歴史の長さとその質の違いから来るものだろう。アメリカの歴史も短いが、そもそもアメリカはピューリタンの国。彼らは新大陸に辿り着いて16年後の1636年にはボストンに大学を造り、当時の大学の学長はボストンに哲学協会まで創っている。国の成り立ちが日本とは全く違うのである。日本の学会では科学を何とか若い人や一般の人に浸透させようという動きがあり、それは政府のレベルでも考えられているようだ。文化としての科学を育てなければ、ということなのだろう。この手の問題に対してテクニックで解決されると考えている節があるが、そんなに簡単にできることではないことにすぐ気付くだろう。まずその文化がないと言われている科学者がその先頭に立つのである。科学の発祥を辿っていけば、批判的なものの見方や自立した考え方がなければそもそも科学が生れなかったとされている。つまり、そういう精神のないところに科学文化が生れてくるだろうかというのが素直な疑問だろう。その精神が生れるにはどうしたらよいのかを考えることが先決のような気がする。しかし、この問は科学を超えて途方もない大きさのものになる。正面を見据えた大計が必要になるのだろう。

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この話題に関連して、あれだけの科学的才能を発揮していたパスカルが科学の空しさを感じたのが、彼がジャンセニスムに改宗してからであるという史実も興味深いものがある。ジャンセニスムの教えでは、永遠の真理についての瞑想を妨げ、限られた知性の中で満足させるに過ぎない科学に対して空しい愛を抱くことを諌めているからである。

科学の発展に宗教の果たした役割が計り知れないというマートン氏の指摘。宗教が科学を脅かす可能性が懸念され論じられている現代。歴史の大きなうねりにも興味尽きないものがある。




lundi 26 mai 2008

一年を振り返って


今朝は最近の日課になっている朝のバルコンから始る。目を閉じて日の光を浴びていると、体全体が恵みを受けているように感じる。強い日差しを瞼の上に見ながら、この一年のことを振り返っていた。

こちらに来る前は科学哲学以外にもギリシャ哲学、芸術哲学、宗教哲学、現代哲学などなど哲学全体を眺めてみたいという想いを抱いていた。その想いはこちらに来てからプログラムを見ている時も続いていた。しかし、専門のクールが始り、その内容の豊富さに圧倒され、専門の領域だけでもどうなるかわからないと悟ることになり、最初の想いはどこかに飛んでいってしまった。

広く見てみたいという想いは、それまでの専門領域での生活を客観的に見ることができるようになったために生れたものだろう。専門領域を決めたのは二十代前半になるので、それ以外の分野は横目で見る程度で自らの領域が人生のすべてという生活をしてきたことになる。その中での秩序や評価、そこから生れる満足感や失望の中でそれぞれが生きているのではないだろうか。しかし、そこから外に出て世界を眺めるという視点を持つことができるようになると、広大な原野が広がっていることに気付くことになる。私の中でのイメージでは、これまで生活していた専門の世界はその原野に口を開けている穴倉のようなもので、そんな世界に繋がる口がいくつも見えるというものだ。そして、その穴倉の中もかなりの大きさなのでそれが全世界だと勘違いしてしまうほどである。

私の場合、その穴倉から出てこの広い世界がどうなっているのかを知りたいと思ったことと、より現実的にはその領域を続けていくといずれ物理的制限が出てくることが予想されるので、早めにその制限がない一人でもできるところに転換しようということだった。しかし、その転換を決意した時には一線を越えるとかルビコンを渡るという表現がぴったりする自らの精神の動きをはっきりと意識した。今まさに何かを飛び越えたな、という感じである。そんなことがあり今一年を終えようとしているが、ある意味ではまた新たな穴倉に首をつ込み始めたということになるのかもしれない。ただ今のイメージは、この広い原野に樹齢数千年にも及ぼうかという大樹がぽつんぽつんと見渡せるというもので、その中の新しい大樹に登ってみようということになるだろう。したがって、今までのように横の世界が目に入らない、あるいは目に入れないというところから、横の世界も見晴らすことができるという明るいイメージになっている。

この一年間、全くの新しい分野についていろいろな人の話を聴きながら、その外にいては人びとの記憶にものぼらないだろう膨大な仕事を成し遂げた多くの先人の存在を知り感動したのは言うまでもないが、自らの考え方の癖もわかってきた。それは自分の考え方が唯一無二のものということになりがちなことを意識させてくれる大きな効果をももたらしてくれた。心を開く効果と言ってよいのだろうか。これは異文化の中で異領域に触れるという状況の中で増幅されたようにも感じる。

定年とは、努力しないでルビコンの河を渡ることができる時と言い換えることができるかもしれない。その先には仕事という専門の中に身を沈めていたそれぞれが、人間本来の(あるいは、それまで忘れていた)姿に戻るための茫洋たる原野が広がっているように思える。



mercredi 14 mai 2008

ジョルジュ・カンギレムによる哲学本来の使命 


ジョルジュ・カンギレムがテレビ討論会で語ったという 「哲学本来の仕事」 ("la tâche propre de la philosophie") の中身について、ドミニク・ルクールさんが紹介している。以下に、その抜粋と要約を。

La valeur de vérité « n'est pas celle qui convient à la philosophie ». Cette valeur s'attache à la science. Mais ce n'est pas, on l'aura compris, pour inciter à quelque culte scientiste du savoir scientifique. C'est pour mieux libérer la philosophie de toute prétention à être elle-même une science. La philosophie, pour sa part, parce qu'elle présume l'existence d'une totalité --- c'est-à-dire d'une unité --- des valeurs humaines, est le lieu inévitablement tumultueux où la vérité de de la science se confronte aux autres valeurs.

Mais, cette totalité n'est jamais donnée, elle est toujours à refaire, du fait même, au premier chef, que la science se présente comme une activité qui ne progresse qu'en disqualifiant ou en dépréciant son propre passé. Et voilà pourquoi la philosophie dans son mouvement propre ne peut pas, ne doit pas, rester une affaire de spécialiste. Parce qu'elle touche à toutes nos valeurs, il y a en elle « quelque chose de fondamentalement naïf et même de "populaire" ».

"Canguilhem: histoire des sciences et politique du vivant" p.42-43


真理の価値は「哲学が答えるに相応しい価値ではない」。その価値は科学と結びついている。しかし、この考えは科学者を尊敬に導くためではなく、哲学が自らを科学の一分野と捉える考えから解放するためのものである。哲学は人間的価値の統一された全体性を前提としているので、必然的に科学の価値が他の価値とぶつかり合う騒々し い場所となる。  

しかし、その全体性は決して与えられるものではない。まず第一に、科学が自らの過去の評価を下げることによってしか発展 しないという事実があるように、哲学は常にやり直すべきものである。哲学が専門家の仕事に留まっていることもできないし、そうあってはならない理由がここにある。哲学はすべてのわれわれの価値を扱うので、そこには 「本質的に無邪気で庶民的なものさえ」 ある。




jeudi 8 mai 2008

異文化を見る目


これまで読んだ日本人によるフランス文化、さらに広めれば西欧文化に対する批評にはどこか特徴があるように見える。それは肩ひじを張り、自らの考えを押し通 すために対象を意識的に下位に置こうとする姿勢とでも形容すればよいものだろうか。その考えを国際的な場での評価に晒そうという開かれた意識はなく、あく までも国内で通そうとするためにやっているように見えたのである。すぐ横にいる人間について話しているという自然さが見られないのである。その背後には西 欧文化の蓄積がないというコンプレックスのようなものがあるのかもしれない。そのような状態なので、紹介されているこちらの方もとっつきにくい印象しか残 らなかった。

それが変わったの は、こちらに来てこれまで紹介されていた対象をこの目で見、彼らの言葉で読むようになってからである。それは、対象を物のように扱うのではなく、隣にいる 人間に対するような心で接することができるようになり始めていることと関係がありそうである。このような姿勢をこれからも続けていけるとすれば、何かが大 きく変わるのではないだろうか。