vendredi 24 septembre 2010

リチャード・ロバーツ博士から見た科学、そしてある日本人研究者のこと



Sir Richard Roberts (born 6 September 1943)


本日のセミナーについて振り返ってみたい。演者は1993年のノーベル賞受賞者、リチャード・ロバーツさん。現在はアメリカのニュー・イングランド・バイオラボNew England Biolabs)の責任者になっている。演題が "Life before and after the Nobel prize" ということで余り期待していなかったが、興味深いお話を聞くことができた。

会場に入ってまず感じたのは、こちらではノーベル賞学者の情報量(驚きに比例する)はそれほど多くないということ。会場が溢れることもなく、紹介する方も上の写真のように若く、普通のセミナーと変わりない。こういう仰々しさのないところは気持ちがよい。お話の大半はこれまでの歩み、最後の15分程を現在の取り組みに充てていた。いつも感じるのは、特にアングロサクソンの研究者の発する言葉の明瞭さとそこからくる力強さである。それから、この広い捉えどころのない世界に向けて、自らの体と頭で働きかけている一人の人間がそこにいるという感覚だろうか。

前半では次のようなことを話していた。

まず、自分の両親は10代でドロップアウトしていて、学問とは無縁の環境で育った。今は子供に危険なことをさせないように育てる社会になっているが、子供の時こそそれをやるべき。例えば、多くのノーベル賞学者が子供の時に花火に刺激を受けている。手や目に怪我をしようがどんどん火遊びをするべきだ(冗談交じりだったが、おそらく本気だろう)。彼自身も学校が面白くなく途中で行かなくなったようだ。その代わり、プロのビリヤードの選手になろうとしてオーディションも受けている。その時に一つの教訓を得たという。それは稀に非常にラッキーなことが起こる。本当にあり得ないようなことが。その時は罪悪感を感じることなく、その次の手にそれまでの数倍の集中力で向かうこと。これは16歳くらいの時のこと。

大学はシェフィールドで化学を専攻したが、それ以上に数学が好きだったという。特に、ゲームやコンピュータのプログラミングには熱中した。そのため気が付くと朝だった、ということがよくあった。なぜプログラミングの道に入らなかったのか。それはこの調子で行くと、一生パソコンの画面を見て暮さなければならないと思ったから。博士課程は有機化学を専攻。ここで最高の先生に出会うという幸運が訪れた。その先生とは研究室にポスドクできていた日本人で、ものを覚えるのではなく、なぜそうするのかを理解することが重要であることを教えてくれた。それだけではなく、碁も教えてくれ、彼が日本に帰った後もしばらくの間は碁のやり取りをしていたという。ロバーツさんの分析によると、チェスは computation(計算?)が必要で insight(洞察、読み?)はいらないのに対し、碁はその逆で insight が重要になるという。残念ながらいずれもできないのでその賛否はわからないが。それから日本には精神をアクティブにしてくれるsudokuなどの素晴らしいパズルやゲームがいくつもあるとのお話。

大学院では博士論文の見通しが1年目でついたので、後の2年間はいろいろな分野のものを読みながら遊んでいた。その中に1962年のノーベル賞受賞者ジョン・ケンドリューJohn Kendrew, 1917-1997)の "The Thread of Life" という分子生物学の歴史を書いた本があり、完全にはまってしまった。当時、確立された分野とは言い難い分子生物学で身を立てることを決意する。

学位を取った後、ジャック・ストロミンジャーさん(Jack L. Strominger, born 1925)の研究室でポスドクをすることになる。最初はウィスコンシンに行く予定だったが、ハーバードに移ることになったので出発を3ヵ月遅らせるようにとの連絡が入る。この大学で彼は研究者のあり方、さらには人間の生き方についての二つ目の教訓を得る。この素晴らしい大学で多くの熱を持った研究者が働いている姿を見て、研究者とは情熱を持って問題に当たらなければならないことを感じ取る。そこから、この人生を幸せなものにする条件を発見する。それは地位や金ではなく、情熱を以て事に当ることができるかどうか。それ以外にはないことを体得する。

ポスドクが終わり、イギリス人である彼は母国に帰りたかった。エジンバラ大学で講師の職があるとのことで書類を出したが、全く音沙汰なし。そのうち、ハーバードとコールド・スプリング・ハーバー研究所からオファーがあり、ジム・ワトソンJames Watson, born April 6, 1928)が所長をしていたコールド・スプリング・ハーバーに行くことに決める。

ここで興味深いエピソードを話していた。いろいろな人がジム・ワトソンについて酷いことを言っていたが、金を集めるのがうまく、最高の研究環境を作ることに優れていた。ロバーツさんはそこでノーベル賞に繋がる研究をすることになる。ワトソンさんの研究のやり方は重要な発見が出そうな研究者が群がっている領域に出て行って張り合うというもの。科学を競争と捉えていて、それが好きだったという。これに対してロバーツさんはこのようにして科学をやると何かを最初に発見した人はいいが、それ以外の人は辛い状況に陥る。科学を競争ではなく、コミュニティの活動として捉えたいようであった。あるコミュニティにいる研究者の中から一緒にやれそうな人を探し、何かを共同で見つけていく、というようなイメージを描いているようであった。

科学をどう捉えるのかという点に関して、もうひとつ指摘していた。最近、ヒトに応用可能な研究に莫大な研究費が出され、ヒトを対象に研究しなければ意味はないという意見が優勢になりつつあるかに見える。彼はこの現象を少し離れて見ている。まず、ヒトはそんなに単純ではない。信じられないくらい優秀だったフランシス・クリックFrancis Crick, 8 June 1916 – 28 July 2004)はジム・ワトソンとDNAの構造を明らかにした後、複雑な脳研究に入って行ったが結局何も生み出すことができなかった。自然は豊かで、実に多くの生物がいる。どのような生物を扱おうが、基本的なメカニズムは共通するところがあり、どのような人にも科学に貢献できるような発見のチャンスはあるはずだ。

彼はDNAのすべてが蛋白になるのではなく、イントロンと呼ばれる蛋白になる前の段階で切り取られる部分があることを1977年に発表。最初はワトソンさんも含め、多くの有力な研究者は信じなかったという。ワトソンさんとロバーツさんのお二人、必ずしもうまく行っていなかったようで、ワトソンさんはなかなかノーベル財団へ推薦状を書いてくれなかった。しかし、1989年にやっと書いてくれたので、翌年には絶対ストックホルムから電話がかかってくると思い、受賞演説の原稿からマスコミ用のコメントまですべて準備していた。しかし、電話は鳴らなかった。その時の落ち込みようは説明できないくらいだったという。それから毎年裏切られ、忘れていた1993年の朝6時、論文を書いている時に電話が鳴った。その後のストックホルムは素晴らしく、すべての人に薦めたいと話していた。

彼の研究にはDNAの特定の配列のところを切断する制限酵素が重要な役割を担っている。彼の研究室にはそれが揃っていて、世界中の研究者が訪ねてきたり、提供したりしていた。彼はこの制限酵素がビジネスになると考え、コールド・スプリング・ハーバー研究所のブランドで売り出してはどうかとワトソンさんに提案。しかし、ワトソンさんは儲けにはならないことと研究に商売という汚いものを持ち込むのには反対との理由で彼の考えは実現しなかった。それを自前で始めたのが今の会社。大きな成功を収めている。その目的は金儲けではなく、あくまでも研究を発展させるための手段というのが彼の哲学。政府がお金を出さないような研究領域を支援しているという。




彼は2004年に蛋白の機能を多くの人が参加して(コミュニティとして)明らかにしようという呼びかけをしている。細菌の遺伝子の1/4程度はその機能がまだわからないという。他の種の遺伝子とコンピュータで比較して機能を推定するが、この過程が信頼できないらしい。単純に遺伝子の配列に頼るのではなく、最終的な予想は生化学的な実験をして確かめる必要がある。そのためには多くの人手とお金が必要になる。この過程に高校生などの若い人が参加することにより、研究が進むだけではなく、教育の素晴らしい機会が生まれることにもなる。夏休みの活動の一つに入れてもよいかもしれない。彼の今の希望は、死ぬまでに少なくとも細菌がどのように動いているのかを知ること。それも可能かどうか分からない、況やヒトをや、とでも言いたいのだろうか。

最後に、ノーベル賞の後どのようなことに気を付けているかとの質問が出ていた。ノーベル賞学者の役割をどう見ているかと換言できるだろうか。彼の答えは、人に霊感を与え、人を奮い立たせること。それから大義とでも言うべき人間としてやらなければならないことに目を向けること。具体的な例として、リビアの子供をHIV感染させたとして銃殺刑が宣告されたブルガリア人看護師とパレスチナ人医師の解放に関わったことをあげていた。この一件は今年の2月にアメリカで聞いたアグレ博士の話の中にも出てきていた。


話を聞きながら、彼が研究を始めた時に大きな影響を与えた日本人研究者のことが気になり、帰ってから調べてみた。ウィキには記載がなかったが、ノーベル財団のページに Kazu Kurosawa の名前が確認できた。さらに調べてみると、ご本人による以下の文章が見つかったので間違いないだろう。熊本大学の黒澤和教授。この領域では自明のお話だったかもしれない。今、大学のページに行ってみたが見つからないので、すでに退官されているかもしれない。思わぬところから大きな旅をさせていただいたようで、清々しい気分である。


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Newsletter of the British Council Japan Association
No.6, September 30, 1996
p. 8

Dr. Roberts
黒澤 和

 私は英国では1964~1967年の3年間をポストドックとしてSheffield 大学で、また、1982年10~11月を共同研究の目的でBristol大学で過ごした。Sheffield大学では大学から給料を頂いたが、2度目のはBritish Councilから往復の旅費を頂いた。以下は1度目のときの話である。

 Richard John Roberts 博士は1993年度のノーベル医学、生理学賞受賞者である。1965年9月、当時英国Sheffield大学化学科でポストドックをしていた私の実験室にボスのOllis教授が来られ、「今度、大学院に入学したRoberts君だ。実験の指導をしてやって欲しい。」と言って紹介されたのが彼との初めての出会いであった。彼は英国南部の Bath市の出身だが、6月にSheffie ld大学の化学科を卒業し、引き続いて進学したものであった。研究テーマは私と同系統のブラジル産レグミノザエ(豆科)の植物成分の分離、構造決定で、全部で5人が研究していて、一応私がリーダー格で仕事を進めていた。

 これらの植物からはイソフラバン、ネオフラバン類が数多く分離され、彼の場合も分離できたものは、ほとんどことごとく新種であったものだから、Ollis 先生の覚えもめでたく、本人も乗りに乗って、実検に精励していた。これらの化合物の構造解析はプロトン核磁気共鳴や赤外線吸収スペクトルを使う、いわゆる分光学的な方法であって、液体、結晶の区別なく、しかも多少不純な物質にも適用できるものである。もちろん彼はこの方法は初めてなので、ほとんど私が解析してあげたが、要領の良い人であったのでので、すぐ自分でもできるようになった。

 次の年だったと思うが、Sheffield大学で"芳香族性"についてのシンポジウムがあってProfessor WoodwardやProfessor Dewar などのそうそうたるメンバーが集まって講演をしたが、その懇親会で、今でもフラボン類の研究をしているアイルランドのDublin大学のProfessor Donnelly とDick (Richardの意)と私の3人で話をしたが、彼が自分の研究の成果を滔々とまくし立てたものだら、彼女(Professor Donnelly)は黙り込んでしまい、少々気の毒な感じがした。 1年余りが過ぎて、「もう1人で研究できるだろう。」と判断したのか、Ollis教授は彼を別の実験室に移し、その後はお互いに実検成果を知らせあって、研究を深めていった。

 彼はチェスやクロスワードパズルが大好きで、私もチェスの手ほどきを受けた。日本の将棋や碁にも興味を持っていて、小さい碁盤と碁石をプレゼントしたときは大変喜んで、早速碁のやり方を勉強していた。解説書なども持っていたようである。2 年半たって妻の幸子がSheffieldに来て、英会話ができないのでDickを通して奥さんのElizabethに頼んだら快く引き受けてくれて、長女のAlisonが生まれたばかりだったが、何回かフラット(アパート)にお邪魔していた。

 別の実験室に移ってからしばらくして、彼の友達から「彼が実験をあまりしないので、Ollis先生から叱られた。」と言うような話も聞いたが、こちらの出る幕ではないから、そのままにしておいた。渡英以来3年が過ぎて、その半年前から熊本大学に奉職することが決まっていたので、その間の研究成果を12編の論文原稿にまとめ、帰国した。Dickと別れるときに、今後は手紙でチェスをしようということになり、勿論1回に1手しか進まない訳だが、しばらく続いて、彼がBostonに移った後、こちらも忙しくなり、面倒になったので止めてしまったが、今考えれば残念である。

 彼は博士の学位を取得後、Harvard大学の生化学でポストドックをした後、New YorkのCold Spring Harbor 研究所へ移り、そこで今回受賞の対象になったアデノヴィールスのタンパク質を作りだす遺伝子(DNA)がいくつかに分断された形で存在していることを発見した。現在はNew England Biolabsの研究所長をしている。受賞のお祝いの手紙を送ったところ、丁寧な返事をくれて、Sheffield 時代に私が彼を指導したことについて、なにやら過分な評価を頂いた。昨今日本の学生気質も変り、従前の指導方法だけでは学生諸君が興味を示すことが少なくなり、私も少々自分の教育方法に自信が持てなくなった感じがなくもなかったが、彼の手紙によって、私の指導方法もそれほど的外れでなっかたことが分かり、安心した。

(KUROSAWA Kazu, 熊本大学理学部, Bristol University, 1982, kurosawa@aster.kumamoto-u.ac.jp)


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(mardi 28 septembre 2010)

このお話には以下のような後日談があった。

記事を書き終えた後、お話の中に出てきた日本人研究者のエピソードに感じるところがあり、ご当人の黒澤和先生にもこの出来事をお伝えしたくなった。エッセイにあったアドレスに連絡したが送信不能とのメッセージ。大学のサイトに行くと、お名前はないが後任の教授(西野宏先生)が黒澤先生のお弟子さんに当るようなので、西野先生にメールの転送をお願いしたところ、本日黒澤先生からご丁寧なお便りをいただいた。

大学の方は8年ほど前に退官されていて、現在は悠々自適の生活を送られているとのこと。そのお便りの中に先生がロバーツさんに伝えた研究に対する姿勢についての解説が書かれてあったので紹介したい。それは、頭脳明晰な人にありがちな、実験をする前からある結果を予想してその実験はやる価値がないという姿勢ではなく、実験というものは常にいろいろな答えを提供してくれるもので、しばしば予想もしないような副次的な結果を齎してくれることを認める態度が重要であるというもの。実験の目的にはある理論を実証することがある。その他に、実験が生み出す予想しなかった副次的反応に注目し、実験条件を変えるとその副次的反応が主反応に変わり、新たな発見に結びつくこともある。実験をする場合にはどんな些細な結果も大切にするという考え方を話していたとのことである。そして、お二人の合言葉が "Let's try and see what happens" であったと添えられていた。この言葉、人生のどんな場面でも当て嵌りそうである。


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