パリでの広く考える生活も3年目に入ろうとしている。こちらに来てから考えていることの一つに、哲学と科学の関わりがある。この問題を整理する上で参考になるのが、17世紀フランスを代表する哲学者ルネ・デカルト(1596-1650)の「哲学の樹」だろう。彼はこのように説明している。
「このようにすべての哲学は一本の樹のようなもので、その根が形而上学、幹が物理学、そこから出る枝が他のすべての科学になり、医学、工学、道徳という三つの原理に還元される。わたしは、他のすべての科学を知り尽くしたという前提で、最も高く完全な道徳が最終的な智であると理解している」「哲学原理」フランス語版序 (1647)
当時すべての科学を含んでいた哲学を表したこの図をどう見るかは人それぞれだろうが、この図を単に哲学の現状だけではなく、学問の系統発生として、さらにはわれわれ一人ひとりの頭の中の状態と見ることができる。また、この図の上下を変えてみると、すべての科学を上から照らすものとして哲学があることにも気付 く。このような視点からすべてを見直してみると、現代人がいかに限られた範囲でしかものを見、考えていないことが明らかになる。そして、現代の多くの問題がまさにこのことに由来するのではないかとの疑念も生まれてくる。このエッセイでは、この問題を中心に考えてみたい。
今年の夏、帰省の折に大学の若い研究者に現在のわたしの考えを話す機会を与えられた。分子病理分野のK教授に声をかけていただき、15年振りくらいだろうか、学生時代を送った研究室を訪問した。最近改装されたばかりとのことで昔の面影はなかったが、そこで過ごした3年ほどの圧縮された時間が蘇る瞬間もあった。セミナーの演題は「科学における哲学とは」とし、自らの科学者としての時間を振り返りながら、フランスに来てから学んだことも含めて考えてきたことを中心に話させていただいた。具体的には、科学という人間の営みをどのようにみるべきか、その過程において哲学がどのような役割を果たしてきたのか、科学と哲学の関係はこれか らどうあるべきかなどの古くて新しい問題についてであった。その底流にあるテーマは、哲学が科学や医学ともにあった時代を見直し、2世紀余りの間引き離されていた両者の関係を再び取り戻す時期に来ているのではないか、そうすることにより科学が豊かになり、医学が本来持っている病める人を癒すという使命を蘇らせることができるのではないか、という想いであった。
実はこのテーマだけで話すのはこの時が初めてであった。そのため、どのような反応があるのか不安と期待の入り混じった状態で話を始めた。その中で、われわれの日常において、「今・ここ」という近視眼的なアプローチだけではなく、そこから離れて少し大きな枠組みに入れ直す作業をすること、わたしが言うところの「全的に見る」姿勢を取り入れることの大切さを強調した。話終えた後、しばらくの沈黙はあったが、率直な質問が出始めるとその後に続く人がいて、結局1時間近いやりとりになった。科学の成果について行ったセミナーではこのようなことを経験したことがない。これから成熟した研究者になる段階の方が多かったせいか、単に研究のテーマについてだけではなく、科学という営みや研究者としての道について考えている様子が伝わってきて、わたしにとっても貴重な経験になった。
哲学との乖離は、科学だけではなく医学においてより深刻な問題を齎しているというのがわたしのこれまでの印象である。科学以上に「全体」を見るという哲学的態度が要求される医療であるが、現場の医療関係者との接触を重ねる度にその欠如を感じることが多くなっている。医学が科学として身を立てる道を選ぶ過程で「全体」が「部分」に還元され、その修復の技術的な面が強調されるようになった。そして、本来忘れてはならない根の部分、「全体」としての人間への眼差しが医学の視界から消え去ったかに見える。この視点のないところに医学は成り立たないだろう。医学では個々の病気については詳しく学ぶが、病気とは何かについて深く考えることはない。その問題は医学から除外され、哲学の中に閉じ込められているかに見える。しかし、このような状況を改められなければ、病める人を真に癒すことはできないだろう。今こそ医学ならびに医学教育において、哲学や人文科学との対話を通して「全体」に対する眼差しを取り戻さなければならないだろう。
アメリカの心臓外科医デントン・クーリー博士(1920-)は「健康と病気の概念」という本(1981年)の巻頭言で、医学の現状を省みて次のような言葉を残している。30年ほど前の状況がそのまま現在にも当て嵌ることに驚かざるを得ない。
「医科学の中心をなす概念について哲学的に考え抜いて得られた知識や経験がない限り、より良い結論や政策には辿り着けないだろう」
「医学教育に携わる者が現代社会における医師に求めるのは、純粋科学以外の領域に触れること、それはまさに哲学教育に匹敵する広い人間教育である。歴史、哲学、倫理などに精通した医師こそ人間を取り巻く種々の問題について判断を下す資格を持つだろう。これからの医師は単なる医学や科学の徒であるだけではなく、教養と智慧を備えた学徒でなければならない」
哲学と言うと、過去の偉大な哲学者の深遠な考えを学ぶという印象が強く、特に忙しく 「今・ここ」を追っている現代人には無縁のものとして避けて通ることが多いだろう。しかし、哲学をものの見方として捉え直す時、これほど重要なものはないことに気付く。自らの専門を離れて、その場を高みから見ようとする態度を教える哲学こそ、医学を本来の場所に取り戻す力を与えるだけではなく、われわれの日常に新たな光を当てる力を持っている。哲学者の役割は、そのことを医学や科学に関わっている方だけではなく、ごく普通の生活をしている現場の方々に伝え、新たな視点を提供することではないだろうか。そうすることにより霊感を与えることができれば、それはそのまま哲学者の悦びに繋がってくるような気がする。これからも今回のような接触を積極的に持ちながら、この問題について思索を重ねていきたいものである。
最後に、科学を広く見直す上で参考になり、わたし自身をも励ましてくれるリチャード・ドーキンス博士(1941年-)の言葉を紹介して筆を置きたい。
「科学者ができるもっとも重要な貢献は、新しい学説を提唱したり、新しい事実を発掘したりすることよりも、古い学説や事実を見る新しい見方を発見することにある場合が多い。・・・見方の転換は、うまくいけば、学説よりずっと高遠なものを成し遂げることができる。それは思考全体の中で先導的な役割を果たし、そこで多くの刺激的かつ検証可能な説が生まれ、それまで思ってもみなかった事実が明るみに出てくる」
「わたしは科学とその『普及』とを明確に分離しないほうがよいと思っている。これまでは専門的な文献の中にしかでてこなかったアイディアを、くわしく解説するのは、むずかしい仕事である。それには洞察にあふれた新しいことばのひねりとか、啓示に富んだたとえを必要とする。もし、ことばやたとえの新奇さを十分に追求するならば、ついには新しい見方に到達するだろう。そして、新しい見方というものは、わたしが今さっき論じたように、それ自体として科学に対する独創的な貢献となりうる」
「利己的な遺伝子」1989年版へのまえがき