samedi 12 novembre 2011
存在が本質に先行する L’Existence précède l’essence
存在が本質に先行する。これが実存主義の本質で、ハイデッガーにも見て取れる人間の捉え方だという。
彼の提唱する実存主義が2つの方向から非難されていて、1945年に行われたコロックで自らを弁護したのがこの書となった。一方の非難は、実存主義はヒトを絶望の淵に誘うもので、解決法がないため瞑想的哲学へ行かざるを得ない。瞑想というのは一つの贅沢なので、この考えがブルジョワ的であるとして非難するのは共産主義者。もう一方は、人間の醜い側面 (l'ignominie) を強調し、卑劣さ (le sordide)、胡散臭さ・いかがわしさ (le louche)、不品行 (le vicieux) を至るところに明らかにし、人間のよいところを見ようとしないとして非難するのはキリスト教者。
最初の方に、無神論実存主義 (l’existentialisme athée) という項目があり、その中に私の見方に近いものが言葉になっていた。これは先日、別ブログ 「フランスに揺られながら」 に漢江様から何のために外国語を学ぶのかについてのコメントがあり、その答えとして次にようなことを書いた。
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同様のことがフランス語の場合にも当てはまります。この世界に入る切っ掛けは、全く予想もできないものでしたが、とにかく始めました。これも何かのためにということはありませんでした(カテゴリ 「フランス語学習」 で少し触れています)。しかし、その後の経過を見ていると、フランス語を読むうちに、「言葉」 の意味を考えるようになりました。その結果、日本語をより深く読めるようになったと感じています。また、フランス文化に触れるうちにフランス人の頭の働きを感じるようになりますので、その視点からしか見えない世界を見ることができるようになりました。またフランス語のブログを始めるようになってからは、私のレベルの中ではありますが、フランス語圏の方ともお話ができるようになりました。これらの経験は私を促す効果があったようで、私自身の人生を見直さざるを得ないような重要な影響がありました。
以上のような私の経験から見ると、何のために外国語を学ぶのかは、学びを始めなければわからないということになります。これは私自身の事に当たる時の、まず始めてから後でその意味を探るという姿勢とも関係があるのかもしれません。
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サルトルの方には次のようにある。
L’existentialisme athée, que je représente, est plus cohérent. Il déclare que si Dieu n’existe pas, il y a au moins un être chez qui l’existence précède l’essence, un être qui existe avant de pouvoir être défini par aucun concept et que cet être c’est l’homme ou, comme dit Heidegger, la réalité-humaine. Qu’est-ce que signifie ici que l’existence précède l’essence ? Cela signifie que l’homme existe d’abord, se rencontre, surgit dans le monde, et qu’il se définit après. .... L’homme n’est rien d’autre que ce qu’il se fait.
ここでは、サルトル自身が無神論実存主義者であり、この考えが理に叶っているとして次のように書いている。もし神が存在しないとしたならば、少なくとも存在が本質に先行する存在、あらゆる概念で説明される以前に存在する存在があり、それが人間で、ハイデッガーの所謂人間的実在性というものがあると無紳論実存主義者は宣言する。それでは、存在が本質に先行するとはどういうことか?それは、まず人間が存在し、その人間同士が出会い、世界に出現する。そうした後に、自らを定義するということである。・・・人間はつくられるもの以外の何物でもない。
人間存在の捉え方、あるいはこの世の歩き方が彼らと近いことに驚いている。
(2007年7月20日)
dimanche 6 novembre 2011
更地から始める、そして目に見えないものを理解するということ
フランスのものを読むようになり、どうして何の役にも立たないようなことに (もちろん、それまで私が持っていた基準によれば、ということだが) 疑問を持つのか、しかもあらかじめ決められた目標に向かうのではなく、方角が見えないところから歩み始めるのか、という不思議を抱えることになった。それは同時に、人間の精神の中で繰り広げられている目には見えない 「もの」 を言葉にしようして人生を生きている人、あるいは人生を送り死んでいった人たちが山ほどいることを意味していた。
それではなぜ、それまで読んでいた英語の世界ではこのような疑問を感じなかったのだろうか。英語とフランス語文化の本質的な違いなのか、単に触れる順序だけの問題だったのか。英語に触れてから相当の時間が経つ。その結果、英語の世界が日常になり、英語が仕事の言葉、何かの役に立つ情報を得るための言葉になっていた可能性がある。一方のフランス語は生きるために必要な言葉ではなかった。しかも窓口になったのが哲学だったこともわたしの中での抵抗感を増幅する原因だったのかもしれない。
このようなズレを感じた背景には一体何があるのだろうか。ひとつには、更地に枠組みを作るところから始めるかに見える彼らの営みに、それまで感じたことのない自由な精神の動きを見たことが挙げられる。あらかじめ決められた目標に向かうのではなく、目標を決めるところから始める自由と困難。一つの問に一つの答えという直線的な頭の使い方ではなく、いろいろな点を繋ぎ合わせてまとまりを付けるという頭全体を使う運動の面白さ。同様の違いは、直線的な解を求める仏検と複雑系を解くようなDALFの問を実際に体験して感じることになった。
科学の発展を振り返ると、最初は目に見える物を記載したり、分類したりするところから始まる。それがある程度進むと目には見えない領域が現れる。そこでは哲学的な思考が重要だったはずである。そこで何かを言うことのできる人は飛び抜けた想像力を持つ一握りの天才なのだろう。そして、その目に見えない物を見ようとする人間の意志が技術を生み、やがてそれが見えるようになるというのが科学の歴史の一側面ではないだろうか。言い換えれば、科学は物をこの目で見ようとする人間の試みのような気がしてくる。現代においても哲学が目には見えないことについて発言し、科学に貢献することはできるのだろうか。それは並大抵のことではなさそうだ。
「科学とは、物を見ようとする試みである」
"La science, c'est un essai de voir des choses."
一方、科学との比較で文系の領域を眺めると、最後まで目には見えない 「もの」 (概念など) を言語化することによりわかったような気分になるところがある。そこには言語の持つ限界があり、特に外から入ってきた者にとって、その理解には大変な困難が伴う。こちらに来て受けた講義で困ったのが、まさにこの点だった。翻って、目に見えないものを理解することが本当にできるのだろうかという疑問が湧いてくる。科学者はポンチ絵を頻繁に用いる。その絵を見ることにより、理解したような気になるのだ。この状況は文系の学問にも当て嵌まるのではないだろうか。つまり、言語化された 「もの」 を自らの頭の中で視覚化できないと理解したと感じないのではないか、ということだ。未だ想像の域を出ないが、科学の領域から入ってきて数年の者にはそう見える。"La science, c'est un essai de voir des choses."
「理解するとは、ものを視覚化することである」
"Comprendre, c'est visualiser des choses."
samedi 5 novembre 2011
東洋のフランシス・ベーコン、徐光啓
中国最高のルネサンスマン Polymath で、東西の科学交流を最初にやった明朝末期の科学者である徐光啓の業績を振り返る行事が2007年10月上海で開かれた。
1562年に生れた徐は官吏になるように育てられたが、1600年に運命の時 (a watershed moment) が訪れる。中国に最初に居住が許された最初の西洋人にしてイエズス会のイタリア人学者マテオ・リッチ Matteo Ricci (1552-1610) に会い、その虜になったのである。それから2人の交流が始る。それは2人の個人の交流でもあるが、同時に東西文化の交流にもなった。彼はリッチの助けを借り て、自身が 「幾何」 の名前を付けたユークリッド幾何学を訳している (上の写真)。リッチも同様に孔子をラテン語に訳している。これらの経験から、徐は西洋の考え方に学ぶことの大切さ、さらに突き詰めると科学的にものを見ることの重要性に気付き、それを説くようになる。
1604年に学位をとった後は順調に出世している。彼の興味の中心は農業の改善で、中国を飢饉から救い、ダムや灌漑、食料政策の改善に努めた。それだけではなく、中国暦をより正確なものした。正式にその成果が取り入れられてのは彼の死後、1633年のことであった。このように幅広い領域に興味を示したためレオナルド・ダビンチや近代科学の父フランシス・ベーコンと比肩される。
リッチに対する感謝の気持ちからなのか、彼は1603年にローマ・カトリックに改宗し、Paul Xu Guangqi として洗礼を受けている。このことについて中国政府は全く触れていない。敬虔なクリスチャンではあったが、同時に孔子の思想にも心酔していたと言われている。
jeudi 3 novembre 2011
ジュール・ボルデの言葉
« On dit souvent que la vie est belle : elle l'est pour ceux qui en jouissent, elle l'est davantage encore pour ceux qui cherchent à la comprendre. » (Jules Bordet)
「人生は美しいとよく言われる。人生を堪能している人にとってはその通りである。さらにそれを理解しようとしている人にとっては尚更である。」 (ジュール・ボルデ)
ベルギーに生れた彼は、1892年にブリュッセル自由大学 (Université Libre de Bruxelles) で医学を修める。1894年からはパリのパスツール研究所、イリヤ・メチニコフ Ilya Metchnikov (1908年、免疫研究によりノーベル賞受賞) の研究室で研究した後、ブリュッセルにパスツール研究所を設立。1906年には百日咳菌を発見。学名を Bordetella pertussis と言い、彼の名前が付けられている。補体結合反応という免疫反応の原理も発見。免疫研究の功績により1919年にノーベル賞受賞。パスツール研究所の免疫研究棟 (メチニコフ・ビル) のセミナー室に彼の写真が飾られていたように記憶しているが、、。
mardi 1 novembre 2011
哲学者とは
講義を受けていると言葉の定義が常に問題になる。それがわからないと話についていけない。「・・・とは」 という問である。しかし、これを始めるととんでもないことに気付く。何一つまともに答えられるものがないのである。しかも、単純な言葉になればなるほど難しくなる。それを理解するためにはあらゆるところに目をやらなければならないのと、あらゆるところに関わってくるからだろう。普通は、鴎外の 「かのように」 ではないが、そのほとんどをわかったようなつもりで生きている。そうしないと生きてゆけない。例えば、「時間とは」、「空間とは」 などと問い始めたら、それぞれ一生かかっても終らない問題になる。おそらく、哲学者とはそれをやる人間なのだろう。普通の人が何気なくやり過ごしていることの前で立ち止まり、それを問い直すという作業に人生を賭ける人種のような気がしてきた。そのような人種が如何に少ないかは、これまで何度か触れてきた。この年代になると、これこそが生きることなのだと実感できるようになるのだが、、。
ハンモックでも触れたが、今年の正月のテレビで各界の人の人生を10分程度にまとめたものを見ながら、一人の人間は一つの問題に答えを出すためにこの世に現れたのではないか、という感慨を持っていた。その意味では、一人ひとりが広い意味で哲学をやりながら生きているのかもしれない。前回も触れたように、その結論が最後の最後にならなければ出ないような、そんな人生を歩んでみたいものである。
(2007年11月7日)
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