samedi 5 novembre 2011
東洋のフランシス・ベーコン、徐光啓
中国最高のルネサンスマン Polymath で、東西の科学交流を最初にやった明朝末期の科学者である徐光啓の業績を振り返る行事が2007年10月上海で開かれた。
1562年に生れた徐は官吏になるように育てられたが、1600年に運命の時 (a watershed moment) が訪れる。中国に最初に居住が許された最初の西洋人にしてイエズス会のイタリア人学者マテオ・リッチ Matteo Ricci (1552-1610) に会い、その虜になったのである。それから2人の交流が始る。それは2人の個人の交流でもあるが、同時に東西文化の交流にもなった。彼はリッチの助けを借り て、自身が 「幾何」 の名前を付けたユークリッド幾何学を訳している (上の写真)。リッチも同様に孔子をラテン語に訳している。これらの経験から、徐は西洋の考え方に学ぶことの大切さ、さらに突き詰めると科学的にものを見ることの重要性に気付き、それを説くようになる。
1604年に学位をとった後は順調に出世している。彼の興味の中心は農業の改善で、中国を飢饉から救い、ダムや灌漑、食料政策の改善に努めた。それだけではなく、中国暦をより正確なものした。正式にその成果が取り入れられてのは彼の死後、1633年のことであった。このように幅広い領域に興味を示したためレオナルド・ダビンチや近代科学の父フランシス・ベーコンと比肩される。
リッチに対する感謝の気持ちからなのか、彼は1603年にローマ・カトリックに改宗し、Paul Xu Guangqi として洗礼を受けている。このことについて中国政府は全く触れていない。敬虔なクリスチャンではあったが、同時に孔子の思想にも心酔していたと言われている。
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