lundi 30 janvier 2012

ミシェル・オンフレさんによる哲学の二つの道


先日のリブレリーでミシェル・オンフレさん(1959-)の最新本を読む。カミュ(Albert Camus, 1913-1960)とサルトル(Jean-Paul Sartre, 1905-1980)の対立を取り上げ、サルトルに賤しめられたカミュの復権を熱く語っている。冒頭には ニーチェのこの言葉が引用されている。

J'estime un philosophe dans la mesure où il peut donner un exemple.

「わたしは一つのモデルを示すことができる人間を哲学者と見做す」


この本の中でこれまでに何度か取り上げた哲学の二つの流れについて、別の角度から説明されている。オンフレさんによると、こうなる。哲学にはデンマークとプロセインの二つ流れがある。前者はキェルケゴール (Søren Kierkegaard, 1813-1855) の生きることと関連した哲学で、後者はヘーゲル (Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770-1831) に代表される理性や体系を重んじる哲学である。キェルケゴールの流れにカミュがいて、ヘーゲルの流れにサルトルを位置付けている。オンフレさんはもちろんカミュ派である。

キェルケゴールの流れは古代哲学と同質のものを求めている。人生に意味を求めている人に対して、アイデンティティを確立し、自己を創造するために必要となることを考える。したがって、哲学を若者や専門家ではない人に伝えようとする、分かち合おうとする。読まれ、理解されるために書こうとする。明晰な言葉と簡潔なスタイルで。モンテーニュデカルトディドロオーギュスト・コントベルグソンバシュラールの系譜に当たる。

一方のヘーゲルの流れは思想の可能性や知の形式に注意が向かう。その過程で世界の多様性、生命力とその開花が抑えられる。一歩下がって現実を概念の枠の中に入れようとするからだ。でき上がった城は巨大だが、そこに人は住めないのだ。カントに始まるドイツ観念論やプロセインの大学は難解な世界を作り、易しい言葉で書かれたものを表面的だと見做した。この流れに抗して、カミュは自らを哲学者と呼ばなかったのである。サルトルの600ページに及ぶ 「存在と無」 を一体誰がすべてを読み、理解できたと言うのか、とオンフレさんは問うている。

最初のブログでも触れたショペンハウアーの 『パレルガとパラリポメナ』 にあるように、哲学教師は哲学で生きるが、哲学者は哲学を生きる。そのどちらかである。教師は他人の思想を分解し、料理し、講堂で繰り返し吐き出す。時間割に従順に従う公務員のように。哲学者はよりよく生きるために考える。行動を考え、読み、瞑想し、書く。オンフレさんはカミュこそ哲学者の名に値する作家だと言いたいようだ。

太陽のもと新しきもの・・・ RIEN DE NOUVEAU SOUS LE SOLEIL ? (2005-12-30)


この本は今年初めのル・ポワンでも12ページに亘り特集されていた。
オンフレさんはいつもセンセーションを巻き起こす方のようである。




dimanche 29 janvier 2012

科学の普及、あるいは何を伝えるためにどう話すのか


Dr. Marc Daëron (Institut Pasteur)



先日、パスツール研究所のマルク・ダエロンさんのお話を聴きに出かけた。

わたしがパリで哲学をする切っ掛けになった言葉を彼から聞いたのはもう7年前。

花粉症の時期の東京でのこと。

わたしの興味を聞いた後に、彼はジョルジュ・カンギレムという哲学者の名前を出したのである。

7年とは相当前だが、そんな感じは全くしない。

今日のお話は善玉にも悪玉にもなり得る抗体についてであった。

流れるように進み、あっという間に終わった。





お話の後、写真右のアン・マリ―・ムーランさんからコメントが出ていた。

科学の内容を一般の人に普及しようとする時、どのようにやるのが理想的なのか。

何を伝えるために、どこまでの内容を、どのような言葉使いで話すべきなのか。

難しい問題である。

研究はされているのだろうが、わたしにはよくわからない。

あくまでも自己流でやってきたというのが、偽らざるところだ。

現場の科学者もそれぞれのやり方でやっているのが現状ではないだろうか。

この辺りの問題はこれから益々大切になりそうである。

科学の現場と科学についての研究者が言葉を交わす時期に来ているのではないだろうか。


会の終了後のデジュネでは哲学一般についてのお話が出ていた。

フランスの場合、科学の学部に哲学者が所属していることが稀ではない。

物理学の哲学をやっている方は物理学科に所属しているとのこと。

フランスでも哲学をどう浸透させるのかが問題になっているようである。

深く考える時間がなくなる社会構造とその営みに価値を置かない社会の風潮。

国により程度の差はあるだろうが、この現象は世界的なものかもしれない。

この流れにどう抗するのか。

こちらも大きな問題になるだろう。



mardi 17 janvier 2012

ルソー生誕300年、あるいは自然と科学・技術


Jean-Jacques Rousseau
(28 juin 1712 à Genève - 2 juillet 1778 à Ermenonville)


今年はジャン・ジャック・ルソーの生誕300年に当たる。学生時代に 「エミール」 や 「告白」、後年 「孤独な散歩者の夢想」 や最近日本の古本屋で見つけた「言語起源論」 などに触れている。また、フランス革命の恐怖政治に影響を与えたとして、理性を重視する立場からの批判があることには気付いていた。しかし、全体としてどう捉えたらよいのかには目が行っていなかった。いずれにしても今のわたしと直接の繋がりはなさそうなので、読むにしても先になるだろうと思っていた。「悲しき熱帯」 や 「野生の思考」 のクロード・レヴィ・ストロースさん(1908-2009)がわれわれの師であり兄であると書いているジャン・ジャック。雑誌ル・ポワンでは、ルソーが年々若返っているかに見える訳を3つのカルフールで説明している。

一つ目は平等の政治だ。彼の場合、平等を理想として謳い上げるだけでは満足せず、不平等の根にある腐敗したものは消し去らねばならないと考えていた。彼が特異なのは、平等と普遍を結び付けて考えていたことである。社会の不公正、専制的な権力、欺瞞に満ちた習慣などに順応しながら見せかけの真理を説く哲学者を彼は許すことはなかった。彼にとって、このような偽物の思想家は法螺吹き、詐欺師以外の何物でもなかったからだ。大切にしていたのは、何を置いても心の誠実さであった。

二つ目のカルフールは、技術に対する警戒だった。彼こそ、自然の立場から科学・技術を批判した最初の人間ではないだろうか。理性や科学が進歩を齎し、それが人間の幸福に繋がると考えていた啓蒙時代において、大胆にも不信の声を挙げたのである。このような希望と熱狂で一色に染まる社会に対して、彼は敢然と疑念の反旗を翻したのである。ただ、彼のことを科学の敵で自然の友、高度の技術を拒否し、単純な道具は受容する人間として見ると間違うだろう。すべてのものに両面があるように、技術にも良い面と悪い面があること、盲目的な一面的思考から離れ、その都度両面を吟味しなければならないと言いたかったのではないか。ここで指摘しなければならないことは、彼が科学の進歩と道徳の進歩の乖離を見ていたことだろう。当時、科学と道徳は手に手を取って歩むと信じられていた中でのことである。知識が増えても人間的にはならず、安楽と力と健康を得ても必ずしも正義や連帯が生れる訳ではない。彼は理性と心情とが違うことを見ていたのだ。

そして、最後のカルフールが心の声である。他の哲学者が理性、意識、身体、精神などと語る時、彼は心こそ自然の声を直接聞くことができる場所であると考えていた。まず、痛みを抱えた他者に対する、考える以前に自然に生まれてくる憐みの心(la pitié)。「自然人」 (l'homme de la nature) は心が語りかける声を決して聞き間違えないが、自然から離れ変質した 「人間人」(l'homme de l'homme) だけがその声に息苦しくなり、冷酷にもエゴイズムと無関心に陥ることになる。

先日、われわれの脳は汲めども尽きぬ泉ではないかと思ったが、ルソーはわれわれの心にある感情こそが汲めども尽きぬ力の源泉であると主張しているかのようだ。上の三つのカルフールから現在の状況を見渡してみると、モーティエで石もて追われたルソーが極めて現代的な思想家に見えてくる。



彼が生れたジュネーヴでは、この機会に催し物を用意している。

2012 Rousseau pour tous


lundi 16 janvier 2012

第2回 「科学から人間を考える」 試みのお知らせ (2)



「科学から人間を考える」 試みを以下の要領で行います。

興味をお持ちの方の参加をお待ちしています。

案内パンフレット
********** ********** **********


第2回 「科学から人間を考える」 試み

The Second Gathering SHE (Science & Human Existence)
テーマ:
「科学の決定論と人間の自由」


この世界で起こる現象はランダムなのか。あるいは、アインシュタインが神はサイコロを振らないと言ったように、ある規則に従って動いているのだろうか。今回は科学における決定論を取り上げ、人間の自由、自由意志の存在、道徳的責任についても併せて考えます。講師がこの問題について40分ほど話した後、約1時間に亘って意見交換をする予定です。前回同様、同じ内容の会を2回開きます。

日 時: 2012年4月17日(火)、18日(水) (同じ内容です)


午後6時20分~8時


会 場: Carrefour カルフール会議室 (定員: 約15名)
東京都渋谷区恵比寿4-6-1
恵比寿MFビルB1


参加費
一般の方 1,500円(コーヒー/紅茶が付きます)
高校生・大学生 (無料;飲み物代は別になります)

終了後、懇親会を予定しています。


参加を希望される方は、希望日懇親会参加の有無を添えて

hide.yakura@orange.fr までお知らせください。


よろしくお願いいたします。




vendredi 13 janvier 2012

クロディーヌ・ティエルスランさんの目指す科学的形而上学




昨年、コレージュ・ド・フランスの哲学教授にクロディーヌ・ティエルスランさんが選ばれた。彼女についてはル・モンドの記事で知り、すでに別ブログで触れたことがある。フランス哲学からは離れて見える領域を専門とする彼女が選ばれたことで問題視する声が上がっていること、それから彼女の掲げる 「科学的実在論的形而上学」 なるものの意味するところにわたしが興味を持ったことなどを書いた。



今回、雑誌ル・ポワンの特集号にインタビュー記事が出ていて、彼女の営みがこのように紹介されている。
現実は物質だけなのか。精神の性質とは何か。これらの形而上学的問についてフランス哲学は沈黙したままである。その沈黙を破ろうとしているのがクロディーヌ・ティエルスランさんである。彼女は正義、道徳、論理だけではなく、ニューロン、原子などという形而上学にとっては新しいテーマを取り上げ、知の間にある障壁を取り除こうとしている。すべての現実について哲学は厳密さを以って探求する義務があると彼女は主張している。

力強い紹介である。以下、彼女の発言を聞いてみたい。
わたしの講座を「知の形而上学と哲学」と名付けました。コレージュ・ド・フランスに「形而上学」という名前が入ったのは初めてです。それがなかったのは、これまでの哲学者がそれを自然にやっていたからではないでしょうか。エミール・メイヤーソン(Émile Meyerson, 1859-1933 )が言ったように、われわれは「あたかも呼吸するように」形而上学をやっています。形而上学とは存在するものについての解析、つまり存在一般についての科学です。例えば、ものの性質、時間、空間、精神と身体の関係などの。

コレージュ・ド・フランスの教授に選ばれた時に巻き起こった抗議について聞かれて、こう答えている。
あなたの話を聞いていると、群衆がわたしの当選に怒りの声を上げるために街に繰り出したように聞こえますが、ご安心ください。モーティエのルソー(1712-1778)のように小石を雨あられのように投げられてはいません。イギリスのデイヴィッド・ヒューム(1711-1776)邸に亡命しなければならないという状態ではありませんでした。コレージュ・ド・フランスの選考は一般大衆の希望に必ずしも一致するものではありません。それはむしろ健全な状態です。アンリ・ベルグソン(1859-1941)もエティエンヌ・ジルソン(1884-1978)も選ばれた時には大衆に良く知られていたようにはわたしには見えません。

コレージュ・ド・フランスには時代の好みに逆らうという役割もあるのです。フランソワ1世がコレージュ・ド・フランスを創設したのは、ソルボンヌの保守主義に対抗するためだったのではないでしょうか。わたしはフーコー(1926-1984)、デリダ(1930-2004)、ドゥルーズ(1925-1995)に連なるフランス思想の典型的な代表者を選ばなかった教授会に感謝しています。もちろん、わたしはイギリスの哲学を近くに感じています。しかし、あまり良く知られていませんが、フランスの哲学にも合理主義の素晴らしい伝統があるのです。わたしが霊感を得るのはむしろそちらの方です。



中世の哲学者に興味を持つ理由について
中世への興味を強調したのは私が最初ではありません。1989年にパリ第一大学に来てアベラールPierre Abélard, 1079-1142)やドゥンス・スコトゥスJean Duns Scot, John Duns Scotus, 1266-1308)の講義を行った時、少しだけ孤独を感じたものです。フランス語訳ではなく、ラテン語やドイツ語訳のテクストにしばしば当たらなければなりませんでした。しかしそれ以来、中世哲学の研究は爆発的に発展しました。フランス語圏には、アラン・ド・リベラ(Alain de Libera, 1948- )、クロード・パナッキオ(Claude Panaccio, 1946- )、シリル・ミション(Cyrille Michon)というような才能あふれる人がいて、幸いなことにすべてが研究専門の職を選ばず、大学で教えています。中世がわたしにとってのモデルであるのは、厳密さの技術、反論と反応によって進む議論の対立が形成されたからです。

彼等がよく議論していた「普遍」の問題を例にとりましょう。普遍とは何か。いろいろなことについて言えます。例えば、机や布が白いなどと言う場合の白色。問題は、この白色、あるいは正義、美などが一体どのような性質であるかを知ることです。この普遍性が個別のものに実際に存在するというのが実在論(réalisme)の立場で、わたしの立場でもあります。もう一方は、概念、言葉、言語の約束事にしか過ぎないとするのが唯名論(nominalisme)の立場です。

中世には、例えばドゥンス・スコトゥスのように実在論に近い非常に緻密な議論があります。普遍の問題には言葉、概念、「もの」の三角関係があり、最近の知の理論と形而上学の中心課題です。わたしは、論理学、物理学、形而上学のレベルにおける現実(実在)と言えるものが何なのかという問題に再度挑んでいます。

イギリスの哲学とフランス哲学との乖離について
17世紀からイギリス思想と所謂大陸の思想との間に断絶があります。それはジョン・ロック(1632-1704)や経験主義者まで遡ることができます。しかし、この断絶は実質的なものというよりは見掛け上のものでしょう。ヒュームルソーを読み、フランス人はロックを読んでいました。状況が変わったのはハイデッガー(1889-1976)がフランス人のモデルになった時ではないかとわたしは考えています。

哲学のやり方について
哲学は知に関わるすべての営みと同じように、科学的になり得るし、そうでなければならないと考えています。科学は物理学者や生物学者のためだけのものではありません。哲学においても(科学的)探究の精神状態のなかで、誤りに注意し、方法を選びながら仕事ができます。その上で、わたしは科学が「もの」の実在が何から成っているのかについて発言する時、科学が最上位に来ると考えている科学主義者(scientiste)には反対します。もちろん、科学知や現代の発見については知っていなければなりません。だからと言って、科学に騙されていてはいけないのです。

この発言が一つのポイントだろう。彼女が「科学的」と敢えて銘打った形而上学の行く先が示されているように見える。さらに、哲学と科学がそれぞれの優位性を争うのではなく、お互いが同じ平面に乗って、この世界の現実について語ることが大切になるだろう。ただ、そのためにはお互いが相当努力をしなければならないことも、また確かである。それぞれの枠の中で満足してはいられないからである。


社会的、道徳的問題、さらに昔の哲学者のテーマだった「幸福」の問題について
わたしの仕事において倫理的、社会的次元は中心的な位置を占めていないかもしれませんが、常にそこにあります。われわれの行動をよりよい方向に導くことのない思想に時間を割く意味はないでしょう。コレージュ・ド・フランスの最初の講義は「知の価値」を取り上げ、知の社会的価値について検討して終わりました。次回のテーマは、可能性として「もの」に備わっている性質(dispositions)と情緒の関係についてです。

現在、快楽と苦痛の関係についても研究しています。幸福に対する哲学的研究は膨大なものがあります。しかし、ここでも現代科学、特に神経科学の成果には注意深くなければなりません。幸福というようなテーマでよく起こることは、ナンセンスなことをたっぷりと話したり、当たり前のことを敢えて説明しようとすることです。そこで満足することはできません。

思想と行動との結び付きという点も大切になる。哲学が内に含む大きな要素ではないかとも思う。倫理とは行動の哲学である、と言い換えた時、抵抗なく倫理という言葉がわたしの中に入ってきた。こちらに来てからの話である。科学的に哲学を進めながら、そのベースに社会的、倫理的な視点を保っておくことが欠かせないのかもしれない。




彼女の考えている先はぼんやりと見えてくる。しかし、その輪郭を掴むためには、以前に読み始めて頓挫している Le Ciment des choeses : Petit traité de métaphysique scientifique réaliste をさらに読み進めなければならないだろう。すぐにその時間が取れるとは思えないのが残念である。





mercredi 11 janvier 2012

ハイデッガーさんの 「科学は考えない」 を考える



„Die Wissenschaft denkt nicht.“

「科学は考えない」


マルティン・ハイデッガーさん(Martin Heidegger, 1889-1976)の有名な言葉だ。フランス語で読んでいるので、わたしの頭の中では « La science ne pense pas. » となっている。まず、ハイデッガーという哲学者については強烈な思い出がある。哲学などは全くの白紙の状態にあったわたしの最初の仏語版ブログ DANS LE HAMAC DE TÔKYÔ に、「あなたは現象学やフッサールやハイデッガーなどの哲学者を愛するために生れてきたのです」という御宣託が届いたからだ。それ以来気になっているが、いずれについても手付かずの状態になる。詳細は以下の記事にある。



この週末、最初が何だったのかは思い出さないが、以下のビデオに突き当たった。それを観てみると、ハイデッガーさんが語っていることがわたしの中にできつつあるイメージと近いことがわかる。彼は語る。
今日、思想が欠如している。それは存在(についての問)を忘れていることと相関している。フライブルグで「科学は考えない」と発言した時は騒動になった。その意味は、科学が哲学の次元で動いていないということである。しかし、科学は哲学と結び付いているのである。
その例として、物理学における時間、空間、運動を取り上げ、科学としてはこれらの問題について考えないとしている。生物学を例に取れば、生物学が生命については考えていない状況と同じだろう。その上で、この発言は科学を批判するためのものではなく、科学というものに内在する構造を指摘したものにしか過ぎないと断っている。それは彼が技術に対して反対の立場を取っていると誤解されていることについても釘を刺していることと重なる。そして、こう続ける。
科学は哲学が考えることに依存しているが、そこで考えることが求められていることを忘れ、無視する。それが科学の特質である。

科学者の頭の中に、ここで指摘されていることが欠落していると感じることが多くなっている。それは逆に、わたしが科学から遠ざかりつつあることを示しているに過ぎないのかもしれない。インタビュワーの「大部分の人はすべてを科学に任せている」という言葉は、おそらく当たっているのだろう。科学を打ち出の小槌として見ている限り、そうならざるを得ないからだ。

科学が生み出すものや事実はわれわれの想像を超える。しかし、それだけでは不十分だという考えがハイデッガーさんの中にあるのではないだろうか。科学が「考える」のは、特定の対象に向けてある方法を使った時のことに限定されている。そのため、しばしばそこで扱われている「もの・こと」そのものについての思索へとは向かわない。つまり、考えていないのである。科学が考えない領域について考えるのが哲学の一つの役目であり、それなしには十全な科学知は生れないと彼は考えているのではないだろうか。自然科学の力が巨大になってしまった現代だからこそ、考えない科学を取り巻く考える別の科学の関与が益々重要になるだろう。


6年前にフランスから届いた御宣託と少しだけ繋がったような気分である。

イメージ、時間、現象学 L'IMAGE, LE TEMPS, LA PHENOMENOLOGIE (2006-04-28)









samedi 7 janvier 2012

哲学者ジュリアン・アサンジ、あるいは情報とは




新年、ルクセンブルグからパリに戻る車内で読んでいた雑誌にウィキリークスジュリアン・アサンジさんJulian Assange, 1971-)とプリンストン大学の倫理学者ピーター・シンガーさんPeter Singer, 1946-)という二人のオーストラリア人の対論が出ていた。ウィキリークスとジュリアン・アサンジという名前は知っていたが、どのような人物なのかまでは知らなかった。わたしに頻繁に起こっている状態である。ざーっと目を通して印象に残ったところを少しだけ書き出してみたい。

------------------------------

シンガーさんがこう口火を切っている。哲学者として、この世界をよりよいものにしようとする試みには興味を持っている。情報の透明性と最大限の拡散を目指すウィキリークスもその中に入るだろう。この試みがよりよい政府を生み出し得ること。その一方で、通報者の生命を危険にさらしたり、現在進行中の政治・外交の障害になる可能性がある。このことは、国家に対する国民の信頼を危いものにすると同時に、情報の安全をさらに強固なものにするための出費へと導くだろう。

これに対して、アサンジさんはそこに入る前の大前提から考え始める。その問は、一体どういう世界にあなたは住みたいのか。今よりもよい世界とはどのようなものなのか、である。彼はまずこの世界がどのように動いているのかを理解しようとした。そのために、最大限の情報を集めようとする。この情報に対する渇きが若き日にハッカーになった理由だと言っている。そこから彼は二つの結論を導き出す。ひとつは、資金のない状態で、重要で将来インパクトのあることをしようとすると、情報の流れに乗って行動しなければならないこと。もう一つは、行動に至る決断は自分が持っている情報に依存していることであった。

情報がどのように世界を形作っているのか。その解に至るためには、自らの周りを観察し、その結果をまとめて概念化し、そしてその概念に基づいて行動すること。これが難しいのは、現在の世界を構成する要素が以前のように直線で結び付くような関係にはなく、複雑で予測不能な相互作用によって成り立っているからだ。情報に基づいて行動すること、それは取りも直さず世界に対して働きかけることである。それによって、世界のバランスが変わり、新しい世界が現れる。政治・経済のエリートに対抗して民主主義を機能させるためには選挙だけでは不十分で、情報の流れを見ることが不可欠になる。ウィキリークスの目的は、行動の基になるこの世界についての情報を最大限に用意すること、それだけである。

« Pour changer le monde, il faut circuler l'information. »

「世界を変えるためには情報を広めなければならない」

アサンジさんはこんな指摘もしている。インターネットはほとんど資金なしに表現できる開かれた場で、誰でも雑誌の編集者になれる。それはよい点である。しかし同時に忘れてはならないのは、これまでにないほど高度な監視の目が光っているということだ。監視装置とデータを集める企業が秘かにこの場を浸食しているのである。





道徳について、アサンジさんはこんな考えを語っている。

われわれの中にある道徳的な本能とでも言うべきものは、われわれの祖先が小さな集落でお互いに見張り合いながら暮らしていた時の記憶から生れている。見られていることを意識すると、人はより正直に、より道徳的になるだろう。インターネットでも確かに見られている。シンガーさんが指摘されるように、その環境では例外はあるものの、より道徳的な世界ができ上がる可能性はあるかもしれない。しかし上で述べたように、この場は透明性と同時に監視の場でもあるということだ。これはこの文明にとって致命的な結果を齎すかもしれない。われわれの行動を分析し、操作しようとしている権力が背後にあるからである。

小さな町で育った経験から、全員が知り合いであるという環境はしばしば抑圧的なものであると考えている。その社会の規範に矛盾しなければ全く問題ない。しかし、異なる規範に従う場合、その社会のコンセンサスに反旗を翻す場合、居心地の悪い難しい状態に陥るだろう。全員が受け入れる道徳的規範を危険だと思う理由がそこにある。

道徳はわたしがいつも考えていることではない。人に向かって、あなたはこうすべき、などと自分の世界観に合う行動を押し付けることなどできない。それぞれが自らの信念に基づいて最後まで行くしかない。その結果を充分に考え、責任を取るという前提で。





大西洋を跨ぐ対論は、現在保釈中の身であるアサンジさんが身を寄せるイギリスはノーフォークの小さな町ディス(Diss)にあるこの館でSkypeにより行われた。素晴らしい環境にある。ここを訪れたフランス人記者がアサンジさんを見て驚いたことは、大変な嵐の中にいることを露ほども感じない穏やかさと落ち着き、そして、この男は考えている、としか言いようのない姿であったという。



jeudi 5 janvier 2012

第2回 「科学から人間を考える」 試みのお知らせ (1)



昨年、「科学から人間を考える」 試みという会を始めた。お蔭様で、予想を上回る参加者を得て、無事に船出することができた (第1回まとめ)。第2回を今年の4月に予定していたが、日程などの概略が決まったのでお知らせしたい。詳細は追ってお知らせする予定である。


--------------------------------


第2回 「科学から人間を考える」 試み

The Second Gathering SHE (Science & Human Existence)



日時: 2012年4月17日(火)、18日(水)、18:20-20:00 (両日とも同じ内容です)

場所: 恵比寿カルフール Carrefour (前回と同じ)

テーマ: 正式のお知らせの時(今月末まで)に発表します。


--------------------------------


前回の経験を考慮に入れた変更は以下の通りです。

(1) 開始時間を午後6時20分に早め、わたしが40分程度話した後に、残りの時間を意見交換に使う予定です。

(2) 一般の会費を1,500円として、飲み物代はその中から支払う予定です。なお、飲み物は紅茶かコーヒーから選ぶことにいたします。

(3) 集まりの終了後、参加者の懇親を兼ねた会を別の場所で開く予定です。


会の趣旨をご理解をいただき、積極的に参加していただければ幸いです。

よろしくお願いいたします。



mardi 3 janvier 2012

今年はこの場を蘇らせることができるか



新しい年、2012年が明けた。

これまで半分眠っていたようなこの場を少し蘇らせてはどうだろうか。

そんな気分が湧いてくる新年である。

大学の論文執筆や医学雑誌でのエッセイ執筆が始まる今年。

まさに医学や科学についての思索の断片を記していくには適当な場所になるだろう。

機動的にこの場を活用していきたいものだ。

新年の抱負はどのような運命を辿るのだろうか。

最後まで見守っていきたい。