mercredi 11 janvier 2012

ハイデッガーさんの 「科学は考えない」 を考える



„Die Wissenschaft denkt nicht.“

「科学は考えない」


マルティン・ハイデッガーさん(Martin Heidegger, 1889-1976)の有名な言葉だ。フランス語で読んでいるので、わたしの頭の中では « La science ne pense pas. » となっている。まず、ハイデッガーという哲学者については強烈な思い出がある。哲学などは全くの白紙の状態にあったわたしの最初の仏語版ブログ DANS LE HAMAC DE TÔKYÔ に、「あなたは現象学やフッサールやハイデッガーなどの哲学者を愛するために生れてきたのです」という御宣託が届いたからだ。それ以来気になっているが、いずれについても手付かずの状態になる。詳細は以下の記事にある。



この週末、最初が何だったのかは思い出さないが、以下のビデオに突き当たった。それを観てみると、ハイデッガーさんが語っていることがわたしの中にできつつあるイメージと近いことがわかる。彼は語る。
今日、思想が欠如している。それは存在(についての問)を忘れていることと相関している。フライブルグで「科学は考えない」と発言した時は騒動になった。その意味は、科学が哲学の次元で動いていないということである。しかし、科学は哲学と結び付いているのである。
その例として、物理学における時間、空間、運動を取り上げ、科学としてはこれらの問題について考えないとしている。生物学を例に取れば、生物学が生命については考えていない状況と同じだろう。その上で、この発言は科学を批判するためのものではなく、科学というものに内在する構造を指摘したものにしか過ぎないと断っている。それは彼が技術に対して反対の立場を取っていると誤解されていることについても釘を刺していることと重なる。そして、こう続ける。
科学は哲学が考えることに依存しているが、そこで考えることが求められていることを忘れ、無視する。それが科学の特質である。

科学者の頭の中に、ここで指摘されていることが欠落していると感じることが多くなっている。それは逆に、わたしが科学から遠ざかりつつあることを示しているに過ぎないのかもしれない。インタビュワーの「大部分の人はすべてを科学に任せている」という言葉は、おそらく当たっているのだろう。科学を打ち出の小槌として見ている限り、そうならざるを得ないからだ。

科学が生み出すものや事実はわれわれの想像を超える。しかし、それだけでは不十分だという考えがハイデッガーさんの中にあるのではないだろうか。科学が「考える」のは、特定の対象に向けてある方法を使った時のことに限定されている。そのため、しばしばそこで扱われている「もの・こと」そのものについての思索へとは向かわない。つまり、考えていないのである。科学が考えない領域について考えるのが哲学の一つの役目であり、それなしには十全な科学知は生れないと彼は考えているのではないだろうか。自然科学の力が巨大になってしまった現代だからこそ、考えない科学を取り巻く考える別の科学の関与が益々重要になるだろう。


6年前にフランスから届いた御宣託と少しだけ繋がったような気分である。

イメージ、時間、現象学 L'IMAGE, LE TEMPS, LA PHENOMENOLOGIE (2006-04-28)









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