mardi 22 septembre 2015

フリーマン・ダイソンさんの大学観からサイファイ研へ



最近、日本では国立大学の文系学部の廃止が話題になっていると聞く。激しい批判の矢面に立たされた文科省は、「廃止」という強い言葉を使ったのは真意ではなかったという言い訳をしているようだが、方向性には変わりはないのだろう。すべての出来事には原因がある。このような状況になったのは、大学文系の方にも問題があるという指摘には一理ある。科学から文系に入り最初に気付いたことは、誤解を恐れずに言えば、「こと」が日本国内のヒエラルキーの下に動いているように見え、論文も外国語で書かれることは少なく、学問が持っている普遍的な判断の下に自らを置いていないのではないかということであった。以前、哲学科の先生が自らの存在意義を問われ、答えに窮する場面を見たことがある。今のような状況では、それも当然なのではないかという思いも湧いてくる。

知性や教養に対する蔑視が言われて久しい。これも常に指摘されているが、テレビなども惨憺たる有様で、刺激に反応するだけの空間が展開していて、思考が誘発 されることは稀である。なぜそうなったのか。もう7年前になるが、参考になると思った一つの見方をウィキに見つけた。その主はイギリス生まれのアメリカ人 理論物理学者フリーマン・ダイソンさん(1923- )で、イギリスの大学について次のような見方を表明している。
「ケンブリッジ大学に溢れる憂鬱な悲観論は、イギリスの階級制度の結果であるというのがわたしの見方である。イギリスにはこれまで二つの激しく対立する中流階級があった。一つはアカデミックな(大学人、学問を重視する)中流であり、他方はコマーシャルな(商業中心の)中流である。19世紀にはアカデミックな中流が権力と地位を勝ち得ていた。わたしはアカデミックな中流階級の子供として、コマーシャルな中流階級を嫌悪と軽蔑をもって見ることを覚えた。それからマーガレット・サッチャーが権力を得たが、これはコマーシャル中流階級の復讐でもあった。大学人はその力と威信を失い、商業人がその地位を奪い取った。大学人はサッチャーを決して許すことはなかったし、それ以来大学人は悲観的になったのである」

同様のことが日本でも起こり、大学が経済に敗れたと言えそうである。最早、その根は深いところまで張っている。大学法人化が行われようとした時、大学人の反応は極めて鈍かった。何かの出来事が起こった時、そこに忠実に向き合い、その本質を明らかにしようとして論じ合うという態度にわれわれは乏しい。これからはそのシステムで育った人間が多数を占めるようになる。そうなれば、さらなる先鋭化の道を選択する可能性もある。今回の動きも多くの人はそれほどの違和感を持たずに受け止めているのかもしれない。本来は自由人であるべき大学人が事務官のような頭の使い方しかできなくなっているとすれば、多くを期待できないだろう。

ただ、人文知がなくなるわけではない。それはいつでも手に入るところにある。もし大学にその場がなくなるのであれば、われわれが自らやればよいだけの話である。サイファイ研の活動をそのような枠組みで捉えると、結構面白いものになりそうである。




mardi 15 septembre 2015

パリから見えるこの世界 (32) 国境の町リールで、「科学の形而上学化」について再考する



雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 『パリから見えるこの世界』 第32回エッセイを紹介いたします

« Un regard de Paris sur ce monde »


医学のあゆみ (2014.9.13) 250(11): 1063-1068, 2014

ご一読いただければ幸いです





mercredi 9 septembre 2015

「哲学とは言葉の意味を体得することである」



2008年、癌のために亡くなったアイルランドの作家がいる

ヌアラ・オファオレイン Nuala O'Faolain
(1er mars 1940 à Dublin - 9 mai 2008 à Dublin)

彼女は脳腫瘍とその転移の治療を拒否して、68歳で逝った

癌と最後まで戦ったスーザン・ソンタグSusan Sontag, 1933-2004) とは対照的である

 亡くなる前のインタビュー記事はこちらで、肉声はこちらから聞くことができる

注意を惹いたところを以下に少しだけ紹介したい


彼女はその6週間前まで幸せな生活を送っていたという

その時、右足に異常を感じニューヨークの病院で診断を受けた

その結果は、脳に2つの腫瘍があり、他にも広がっている転移性の癌であった

不治であると告げられた時、ショックと恐怖と治療のことが頭に浮かんだ

治療をどうするのか

治療で感じるだろう自らの無力さ、恐怖、その結果得られる生の質などを考え、治療を断念する


マンハッタンで手に入れたばかりの素晴らしいアパートも全く意味のないものになった

どんな芸術作品に触れても、それまで感じたマジックは消 え失せていた

死後の世界も神も信じることもできない

すべてが全く意味のないものに変わっていた

辛いのは、この世界から拒絶されたような孤独感である

その彼女にとって人生で大切なもの、それは健康とreflectivenessだと答えている



これから先に大きな希望をもって生活していた時だったため、尚更絶望を強く感じたのだろう

彼女の言葉に 「人生で大切なものは、健康とreflectiveness」 というのがある

本質を突いた深い分析に見える

7年前のわたしは、reflectivenessを思慮深さとか熟考しようとすることと訳している

しかし、思慮深さとはどういうことを言うのか、熟考するとは何を言うのか

そのことを理解していたとは言い難い

その後の7年余りの生活で reflection という営みの意味を体得したと感じているからだ

その経験からreflectivenessを日本語に変換するとすれば、次のようになるだろう

第一に自らを振り返ること、そこから進んで自らを取り巻く世界について振り返ること

そのような状態であり、その状態を齎すことができる能力をも含めたい


それでは、振り返るという作業を何を言うのか

それは、一つのテーマについて自らの記憶、人類の記憶を動員して大きな繋がりを見つけ出すこと

そして、紡ぎ出すこと、テーマの周りに関連するものを大きな塊として作り出すことである

振り返るという作業、考えるという作業は、思い出すということを意識した営みなのである

こちらでの8年の生活の中で体得したことの一つが、このことであった

こちらに来る前には想像もしていなかった収穫である
 
このことから「哲学とは言葉の意味を体得することである」 というフォルミュールを提出しておきたい


 この視点から今の世の中を見ると、reflectivenessが著しく減弱しているように映る

本当に世の中が変わったのか、あるいは見る者の視点が変わっただけなのか

それは分からない

ただ、少なくとも今のわたしからは、この世が深みのない、何とも貧しい世界に見えるようになった

そのことだけは言えそうである


ところで、ヌアラさんについてのドキュメンタリー映画"Nuala"が2011年に発表されている

トレーラーを以下に





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jeudi 10 septembre 2015


上の記事に、今の世は深みのない貧しい世界であると書いた

それは一見豊かさを増しているかに見える物理的な世界のことを想定してのことだったのだろうか

そこに生息している人の動きも含めてそう感じたのだろうか


それではすべてを含めた世界には豊かさはないのだろうか

あるいは、豊かさに至る道はどこにあるのだろうか

そう問い直してみると、ヌアラさんが指摘したreflectivenessに行き着く

reflectivenessが齎してくれるものの中にこそ、深みや真の豊かさがあるのではないだろうか

 残念ながら、reflectivenessに至るためには、時間と訓練が必要になる

時間をかけてトレーニングをしてきたと想像される人の話には心を動かされることが多い