最近、日本では国立大学の文系学部の廃止が話題になっていると聞く。激しい批判の矢面に立たされた文科省は、「廃止」という強い言葉を使ったのは真意ではなかったという言い訳をしているようだが、方向性には変わりはないのだろう。すべての出来事には原因がある。このような状況になったのは、大学文系の方にも問題があるという指摘には一理ある。科学から文系に入り最初に気付いたことは、誤解を恐れずに言えば、「こと」が日本国内のヒエラルキーの下に動いているように見え、論文も外国語で書かれることは少なく、学問が持っている普遍的な判断の下に自らを置いていないのではないかということであった。以前、哲学科の先生が自らの存在意義を問われ、答えに窮する場面を見たことがある。今のような状況では、それも当然なのではないかという思いも湧いてくる。
知性や教養に対する蔑視が言われて久しい。これも常に指摘されているが、テレビなども惨憺たる有様で、刺激に反応するだけの空間が展開していて、思考が誘発
されることは稀である。なぜそうなったのか。もう7年前になるが、参考になると思った一つの見方をウィキに見つけた。その主はイギリス生まれのアメリカ人
理論物理学者フリーマン・ダイソンさん(1923- )で、イギリスの大学について次のような見方を表明している。
「ケンブリッジ大学に溢れる憂鬱な悲観論は、イギリスの階級制度の結果であるというのがわたしの見方である。イギリスにはこれまで二つの激しく対立する中流階級があった。一つはアカデミックな(大学人、学問を重視する)中流であり、他方はコマーシャルな(商業中心の)中流である。19世紀にはアカデミックな中流が権力と地位を勝ち得ていた。わたしはアカデミックな中流階級の子供として、コマーシャルな中流階級を嫌悪と軽蔑をもって見ることを覚えた。それからマーガレット・サッチャーが権力を得たが、これはコマーシャル中流階級の復讐でもあった。大学人はその力と威信を失い、商業人がその地位を奪い取った。大学人はサッチャーを決して許すことはなかったし、それ以来大学人は悲観的になったのである」
同様のことが日本でも起こり、大学が経済に敗れたと言えそうである。最早、その根は深いところまで張っている。大学法人化が行われようとした時、大学人の反応は極めて鈍かった。何かの出来事が起こった時、そこに忠実に向き合い、その本質を明らかにしようとして論じ合うという態度にわれわれは乏しい。これからはそのシステムで育った人間が多数を占めるようになる。そうなれば、さらなる先鋭化の道を選択する可能性もある。今回の動きも多くの人はそれほどの違和感を持たずに受け止めているのかもしれない。本来は自由人であるべき大学人が事務官のような頭の使い方しかできなくなっているとすれば、多くを期待できないだろう。
ただ、人文知がなくなるわけではない。それはいつでも手に入るところにある。もし大学にその場がなくなるのであれば、われわれが自らやればよいだけの話である。サイファイ研の活動をそのような枠組みで捉えると、結構面白いものになりそうである。