by Stephen Hawking & Leonard Mlodinow
先日、ル・モンドで紹介されているのを読み興味を持ったスティーヴン・ホーキングさんの新刊が予想通り面白い。これまでこの領域にそれほど興味を持っていたとも思えないのだが、こちらで学ぶ中でその受容体が活動してきたのだろうか。小さな穴から垂直に進んでいたエネルギーが水平方向に拡散しているということかもしれない。特に印象に残ったところを振り返ってみたい。
本のサブタイトルは "New Answers to the Ultimate Questions of Life"(生命の究極の問への新しい解答)となっている。彼は究極の問として以下のものをあげている。これらの問は彼自身の発明ではなく、長い人類の歩みの中で発せられてきたもので、すべての人が知りたいと思うものでもあるだろう。興味深いのは、それらすべてに科学が答えることのできないはずの「なぜ」が入っていることである。
「なぜ何もないのではなく何かがあるのか?」
「なぜわれわれは存在しているのか?」
「なぜこのような法則であって他のものではないのか?」
宇宙を深く理解するためには、その「なぜ」に入っていかなければならないと考えているようだ。そして、これらの問の答えがいつ現れるのか、そんなワクワク感を持って読み始めた。
まず感じたのは言葉が厳選されていること。できるだけ正確に、しかも短い文章で説明しようとしているので、読んでいてその集中力が乗り移ってくる。前半では哲学と科学の歴史が紹介されている。人類の精神活動の歩みを大きく眺めるのは、やはり壮観である。これらの章を初めてとして、至るところに哲学との絡みが見られる。この領域が初めての方には参考になることが多いのではないだろうか。
それから現実(実存感)とは何か、目の前に見えていると思っているものは何なのか、という問題が扱われる。その導入部が面白い。数年前のこと、イタリアのモンツァ市(Monza)が金魚を丸い金魚鉢に入れて飼うことを禁止したというのだ。その理由は金魚鉢に入った金魚が歪んだ世界を見ることになるので残酷であるというもの。しかし、人間がまともな現実を見ていると誰が言えるのかという問い掛けがなされ、我に返る。ここでの結論は理論に基づかない現実はないというもの。すなわち、われわれはいつもある枠組みの中でものを見ており、意識するかしないかには別にして、理論がないところではものを見ることができないと言っている。
われわれの見ている現実は本当のところどうなっているのだろうか。ニュートン力学に代表される古典的な物理学では目の前にあるものは確固たる存在だとする立場がある。それを見ている人がいようがいまいがそこにある。あるものの初期条件が決まると、その後の動きは予測できる。これに対して、観察者がそれを見ている間だけそのものは存在するという考え方もある。部屋の中にある机はその部屋を出た途端に消え、戻ると再び現れるというものだが、日常の感覚ではなかなか信じられない。しかし、20世紀に現れた目には見えない世界を扱う量子論はそれを後押しする科学的な理論になるのだろう。量子論の世界では粒子の位置と速度の両方を決めることができないという。
光の本態についてニュートンは粒子であると答えたが、波動として捉えないと説明できない干渉と呼ばれる現象(例えばニュートン自身が見つけたニュートン・リングなど)が現れる。しかし20世紀に入り、アインシュタインは光が粒子と波動の両方の性質を持っていないと理解できないことを明らかにした。このことは、ある現象にはいろいろな面があり、一つの理論だけでは説明できない可能性を示唆している。
ここで原子や素粒子の世界で起こっている現象を、われわれの日常感覚で理解するためにサッカーボールを例に説明している。二つの隙間を作った壁を前にしてボールを蹴ると、左のようにキッカーと隙間の延長線上にボールが集まるのがわれわれの世界、ニュートン物理学の世界である。ところが、ミクロの世界では右のようにいくつかの塊を作るようにボールが集まるというのだ。光の干渉と同じように。これがリチャード・ファインマンさんが「おそらく誰も理解できないだろう」と言った量子論の世界になる。この場合、ボールは特定のコースを通らずにゴールに向かうという説明がされるが、ファインマンさんはそうではなく、ボールはあらゆる可能な経路を同時に取ると考えたのである。ゴールを現在とすれば、ボールの過去は一つではなく、しかもそれを確率の上でしか知ることができないことを意味している。量子論の世界から宇宙を見ると、その過去は一つではなく、そこにはいろいろな可能性が埋め込まれており、その歴史は何を観察するかに依存することになる。これは、歴史がわれわれを作っているのではなく、われわれが観察によって歴史を作り出していることを意味している。マクロの世界に生きている者には到底理解できない説明になる。
量子論の世界の大きな特徴として、1926年にヴェルナー・ハイゼンベルクが唱えた不確定性原理がある。上でも触れたように、どれほど測定能力を向上させても物理現象の結果を確実に予測できない。それだけではなく、複数の異なる結果がある確率のもとに起こることを許容する。つまり、古典的な世界のように法則によって自然現象が決定されるのではなく、法則はあくまでも過去に起こったこと、未来に起こることの確率を決定していることになる。「神はダイスを振らない」と言ったアインシュタインが量子論を嫌う理由がここにある。
この本では、自然界を動かすものとしてアリストテレスが信じたデザインと言えるような宇宙の存在についての統一的な理論の可能性を探っている。その中で、いくつかの理論をまとめたM理論がすべての現象をよく説明するというところに行きつく(この名前の由来は誰も知らないらしいが、master、miracle、mystery のMではないか、とはホーキングさん)。この世界は空間が10次元、時間が1次元からなり、空間の7次元は折りたたまれているため、われわれには3次元としか捉えられない。われわれの感覚で捉えられない世界が確かに存在しているのではないかと思わせてくれる語り口であった。この統一理論がどのようにして生まれたのかについて興味を持って読み進んだが、残念ながら私の求めていたヒントは得られなかった。
この本に紹介されている、古典的な物理学やわれわれの日常では観察者が測定しようがしまいがそこにものがあるのに対し、量子論では観察することがその存在を決めることになるというお話。これを改めて読みながら、量子論による視点の大転換をわれわれ自身の存在に当てはめてみるとどうなるだろうか。量子論的に考えると、われわれの存在が客観的にそこにあるのではなく、観察することによって初めて存在となり、観察がその存在を変えることになる。ある対象を日々観察することにより、その歴史が作られ、その対象が存在に変わる。「観察なくして存在なし」、これが量子論的存在論とでも言うべきものの本質になるのだろうか。そう考えると、ブログでの観察は存在を生み出すための一つの歩みなのかもしれない。日本にいる時にやっていたブログ「フランスに揺られながら」の銘が ”J’observe donc je suis” 「我観察す、故に我あり」だったことが蘇ってくる。
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