lundi 2 novembre 2015

フランソワーズ・バレ・シヌシ博士のインタビューで科学について考える

Dr. Françoise Barré-Sinoussi, Prix Nobel 2008


もう7年前になる。
フランソワーズ・バレ・シヌシ博士のインタビューを目の前で聴くという幸運に巡り合った。
その時に書いた二つの記事と7年後の感想を書いてみたい。

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2008年10月29日

ノマドが巡り会う道行きの神の仕業だろうか。二日続けての嬉しい出会いとなった。

今日も午後からパスツール研究所に出かける。しばらくするとビブリオテクの人が数人を連れて現れた。お連れの方に聞いてみると、ノーベル財団の仕事で受賞者のインタビューを制作しているアメリカの3人組。1時間後に私の目の前で今年のノーベル賞を受賞したバレ・シヌシさんのインタビューが始まるという。彼らの仕事振りを見ていると、熟達の人たちという印象で気持ちがよい。貴重な経験なので今日も予定を変更せざるを得なくなった。

インタビューが始まる前、バレ・シヌシさんはまだ新人なので "very nervous" であると言っていた。インタビューで出ていた質問は次のようなことである。

● ウイルスとは何か
● レトロウイルスとは何か
● ウィルス学を定義するとどうなるか
● ウイルスの研究のどこが面白いのか
● 30年の研究生活は楽しいものだったのか
● どのようなきっかけでエイズの研究に入ることになったのか
● これがエイズの原因だとわかった時の興奮とはどんなものだったのか
● 当初世界的に感染が広がると予想していたか
● エイズウイルス発見から20年以上経つがまだ有効なワクチンも開発されていないが何が問題なのか
● アフリカやカンボジア、ベトナムではどのようなことをされているのか
● モンタニエ博士との共同研究はどのようなものだったのか
● ノーベル賞受賞はどのような状況で聞いたのか
● あなたの研究は基礎から臨床へと進んでいった点で満たされるものがあるのではないか
● 人を助けていることの喜びとはどのようなものなのか

彼女がエイズにレトロウイルスが関係していることを明らかにした時の状態は、興奮というより如何にして世界を納得させるのかが問題だったので、やることが山のようにあったとのこと。彼女の研究はどこにでもある(ルティーンの)手法で行われたものであること、それから多くの専門の異なる人たちの智慧の結集であること、したがって今回の受賞も二人だけのものではないということを強調していた。

彼女は以前からアフリカやカンボジア、ベトナムで共同研究や研究指導などを行っている。受賞の知らせを聞いたのは、そのカンボジアでのミーティングで発表している時。フランスのラジオ局の人からの電話で知ったそうだが、全く信じられなかったとのこと。エイズウイルスの研究がノーベル賞を貰うとしても自分がその中に入るとは思っていなかったようである。その後カンボジアの病院を訪ねた時に、若い女性のエイズ患者が彼女にキスをしてこう言ったという。「あなたは本当に素晴らしいことをしてくれました、あなたのお陰で私はこのように治療を受けていますが、まだその恩恵に与っていない人がたくさんいます」。そして、お互い抱き合いながら泣いたらしいが、素晴らしい瞬間だったと数週間前の出来事を語っていた。これは常に病める人のいるところに出かけて行って研究を考えるというパスツールの基本姿勢を実践していることになるのだろう。こういうところにもパスツールの伝統が息づいているという印象を強く持った。


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jeudi 29 octobre 2015

このような場面に単独で出会うことができるということは、日本では想像ができない。
 
先日のアンジェ美術館でもすべてを独り占めにするという経験をした。
 
美術館での同様の経験は、こちらでは稀ではない。
 
対象との垣根の低さを感じる経験と言っても良いのだろうが、有難いことである。






2008年10月30日

昨日のインタビューは調べ物をしながら本を読んでいる人が周りにいる中で行われた。この様子を見ながら、日本ではノーベル賞受賞者のインタビューをこのような状況ではしないだろうという思いでいた。大仰にならず、何気なく事を進めてしまう彼らのやり方や事に対する感じ方はやはりよい。

ところでフランソワーズ・バレ・シヌシさんの話を聞きながら、余り感動しなくなっている自分を確認していた。確かに一つの病気の原因に迫る研究成果は素晴らしいものがある。しかし、体全体が震えないのだ。現役の研究者から確実に退きつつあることを感じていた。そして、インタビューの受け答えを聞きながら、この感覚はおそらく彼女も共有しているのではないかという印象を持った。確かに賞を貰い、一つの満足は得られたかもしれないが、それで死んでもよいというほどのものではないだろう。今の私から見ると20-30年というのはそれほど前には感じないのだが、彼女にとってはかなり昔のような話し振りで、当時の感触(感激)を今のものとすることが難しくなっているように感じた。さらにエイズの問題は全く解決していないということもあるだろう。彼女の場合には患者さんのもとに下りて社会とのつながりを意識したような研究や社会的活動により深い満足を求めようとしているのではないかと想像していた。結局、人は人間全体を使うようなところでしか満たされないのではないだろうか。そして科学は一つの大きな入り口ではあるだろうが、人間活動のほんの一部にしかなりえないような印象がある。ただ、科学の世界がすべてだと思える人は幸せなのかもしれないという思いでもいた。


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vendredi 30 octobre 2015


この記事では、かなり本質的な指摘がされている。
 

それは現在のわたしの認識にも近いものがある。
 

当時の観察が7年の間に確信に近いものに変容してきたとも言えるだろう。

それは、科学だけで人はどれだけ満足を得られるのか、という問題である。
 

ノーベル賞と言えども一つの賞にしか過ぎない。
 

それで人類の問題を解決することなど不可能だろう。
 

一見解決したかに見える発見でもその後に新たな問題を生み出している。
 

例えば、ペニシリンの発見などはその中に入るだろう。
 

エイズウイルスの発見にしても入口に立ったにしか過ぎないことが明らかになっている。
 

同様の例がいくつも浮かんでくる。

 

それでは何が人間に幸福を与えるのか。
 

その解はあるのだろうか。
 

今は分からない。
 

ただ、科学だけで人間が幸福になるとは考え難いという感触だけは確かなものになりつつある。





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