dimanche 8 juin 2008

フリーマン・ダイソンの科学・宗教観


この方の名前をどこかで聞いたような気がするが、思い出さない。イギリス生まれの数学者・物理学者で、アメリカに渡り最後はプリンストンの高等研究所で研究をしていた。今回、科学と宗教について語っているビデオに出くわしたので聞いてみることにした。

  Freeman Dyson (15 décembre 1923-) ビデオ

宗教的立場を問われて、"religion without theology"と答えている。彼の世界観はagnostic に近いようだ。神の存在を求めると言うよりは、彼にとっての宗教はその文学であり、音楽であり、絵画である。つまり宗教が生み出した具体的な芸術ということになる。さらには人間関係を結ぶもの、コミュニティを支えるものと捉えている。人間はself-sufficientではない。一人では生きられない、何かに頼らなければ生きていけない存在である。生きていくためには大きな目的が必要であり、それがないところに行動は生れない。

彼は3つの心・精神を提唱している。一つはhuman mind。それからmicro (atomic, subatomic) mindとmacro mindを考えている。ミクロの方は原子などの世界で、マクロは宇宙の世界になる。これを聞いた時、すぐにパスカルの二つの無限を思い出した。例えば、量子物理の世界では原子が崩壊するか否かは予想ができない。その意味では原子(の心)に選択の自由があることになる。蛋白質の精神などということも思い出す。これはあくまでもモデルだとしているが、、

それからEdward Wilsonがその著書で科学によってすべてが解決できるとの考えを発表した時に、その書評で批判している。ダイソンが科学はあくまでも限られた領域のことにしか答えを用意していないと考えていることがわかる。先日のトルストイとメチニコフとの行き違いを思い出すエピソードでもある。

科学も宗教も神秘的なものに向かう活動である。彼は科学を取り巻く世界を語る時に、ある詩の一節を思い出すという。それは科学とは草原のようなもので、その周りには鬱蒼とした森が取り囲んでいる。世紀を経て草原が広くなろうともその森は決してなくならないというもの。科学と宗教は外に広がる宇宙を見るための2つの窓のようなもので、別の視点から同じものを見ていると考えているようだ。また彼の場合には、宗教を詩のようなものとして捉え、科学とともに大切なものに感じている様子が伝わってくる。

われわれの未来のことを問われたダイソンは、こう答えている。彼が子供時代を過ごした1930年代のイギリスでは、先がほとんど見えないhopelessな状態を経験した。それから現在を見ると、全体としてはよい方向に進んでいるようだ。神の存在はわからないが、その方向は大きな(神の)目的とは矛盾はしないだろう。現在も多くの問題を抱えているが、彼が子供時代に感じた絶望感を抱くところまで行くものではないと結んでいる。

イギリス紳士をそのまま科学者にしたような方で、その落ち着いた真摯な受け答えに好感を持った。

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Wikiに紹介されているイギリスの大学についての彼の言葉が印象に残った。

「ケンブリッジ大学に溢れる憂鬱な悲観論は、イギリスの階級制度の結果であるというのが私の見方である。イギリスにはこれまで二つの激しく対立する中流階級があった。一つはアカデミックな(大学人、学問を重視する)中流であり、他方はコマーシャルな(商業中心の)中流である。19世紀にはアカデミックな中流が権力と地位を勝ち得ていた。私はアカデミックな中流階級の子供として、コマーシャルな中流階級を嫌悪と軽蔑をもって見ることを覚えた。それからマーガレット・サッチャーが権力を得たが、これはコマーシャル中流階級の復讐でもあった。大学人はその力と威信を失い、商業人がその地位を奪い取った。大学人はサッチャーを決して許すことはなかったし、それ以来大学人は悲観的になったのである」

"My view of the prevalence of doom-and-gloom in Cambridge is that it is a result of the English class system. In England there were always two sharply opposed middle classes, the academic middle class and the commercial middle class. In the nineteenth century, the academic middle class won the battle for power and status. As a child of the academic middle class, I learned to look on the commercial middle class with loathing and contempt. Then came the triumph of Margaret Thatcher, which was also the revenge of the commercial middle class. The academics lost their power and prestige and the business people took over. The academics never forgave Thatcher and have been gloomy ever since."

この図は最近の日本の状況と重ならないだろうか。経済原理だけが優先される大学となり、そのことに疑義を唱えるどころか率先して従う今の大学人に大学に生きる自由人としての誇りや哲学はあるのだろうか。思えば、この改革が始まった時に大きな異議も行動も見られなかった。今や目の前だけを見た技術者が闊歩する一見華やかだが精神性に乏しい大学に変わりつつあるようにも見える。




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