dimanche 9 mai 2010

まず科学を語り始めること、そしてどのように語るのかを考えること


Guéorgui Chichkine (1997) :
Hommage aux Ballets Russes de Diaghilev (1909-1929)
(partie)


科学の普及活動が職業研究者にも謂わば義務付けられるようになってから久しい。そこでの合言葉は、科学の成果を一般の方に理解してもらうためにできるだけわかりやすく語りかけること、だったように記憶している。おそらく、そういう方向性は必要なのかもしれない。ただ、最近ある違和感を覚えるようになっている。それが今日、ある形になって現れたのでここに記しておきたい。ここで言う科学は、生命科学の領域での個人的経験に大きな影響を受けていることを最初にお断りしたい。

パリ生活もすでに3年目が終わろうとしている。それはそのまま、科学を離れて遠くからその営みを見るようになった期間とも一致している。この間どのような変化が自らの中で起こっていたのか、今はなかなか掴み難い。しかし、確実に何かが変容しているはずである。例えば、科学をわかりやすく伝えるということに対する反応が、日本にいる時と違ってきているように感じている。それはこちらで科学の公開講座に参加しているうちに生まれた変化かもしれない。その内容が私のような専門家が聞いて丁度よいレベルのものが多く、分野が違うとほとんどわからないからである。ただ、わからないからと言ってそのお話に不満を覚えるということにはならない。そこで浮かび上がる、わかりやすく伝えようというよりは科学とはこういうものであることを坦々と伝える科学者の姿を味わうことに満足するからだろうか。参加者がどのような思いで聞いているのかはわからない。大半が科学者か元科学者なのかもしれない。いずれにしてもこのようなやり方でよいと考えているのだろう。日本で難しそうなことを説明する時に、過度なわかりやすさや面白さを求めるようになったのはいつ頃からなのだろうか。もちろん、専門的な言葉を噛み砕いて説明することは必要だろう。しかし、そのこととレベルを落とすことを混同すると科学本来の姿は伝わらないのではないだろうか。

それからもう一つ、こちらに来てから考えていることがある。それは科学の普及とも繋がりを持ってくる問題で、文理の統合という考え方である。「理」 の世界に身を置いていた自らの軌跡を振り返る時、最後にある種の不全感のようなものが襲っていた。それは一つの存在として自らの全体を見渡した時に生まれたものであった。「理」 だけでは人間全体を使い切っていないという思い、とでも言えばよいのだろうか。職業人としてある前に人間として存在していることを考えれば、文理が本来分離しているものではないはずである。このことを初めて直感したのである。

元々一緒にあったものが職業人として社会に組み込まれる過程でその一方が抑圧されてしまう。そして、そのことに気付かない内に終わりを迎えることさえあり得るだろう。文理の統合と敢えて言われる問題では、その抑圧されていた部分をどのように回復するのかが問われている。それは理系の人間が芸術作品を仕上げたり、芸術を論じたりすることでも、文系の人間が科学に関連した小説を書くことでもない。もちろん、才能ある人がそれをやるのは問題はないが、文理の統合をそのレベルで考えるのは非現実的であり、それ故にその実現の妨げにさえなるだろう。

それではこの問題をどのように考えればよいだろうか。科学者ができることは研究成果を出し、発表することである。ここでの発表はこれまでは専門家の中だけでよかったが、今では専門外にも発信しなければならなくなっている。それはむしろ科学にとって望ましいことだろう。それは以下のような繋がりからになる。

科学者は、まず科学を語るという営みを始めること。外から言われたからではなく、科学者の活動として語ること。実は、これは科学の中においてさえ充分に行われていないように見える。自らの成果を発表して事足れりとし、各自の成果も含めたその領域を見渡すような語りが行われているとは到底思えない。次に考えなければならないのが、どのように語るかということ。専門家はしばしば自らの領域に埋没し、周囲との関係が掴めないことが多い。そのため科学者のお話は、ある研究がどのように役に立つのかというところで終わることがしばしばである。それは逆に自らが自らの営みを狭い範囲に閉じ込める結果に導いていることに気付くべきだろう。

唐突に聞こえるかもしれないが、そこから抜け出す視点を提供するのが哲学である。それは哲学研究などではなく、アリストテレスが語っている全体への視点という意味での哲学である。科学の研究成果を取り出し、その意味するところを歴史・哲学・文学・音楽などの多様な視点から考え、それを表現すること。この過程をどのようなものにするのかに思いを致すこと。ここに文系の素養が求められるだろう。この過程がなければ、科学がわれわれの知の中に組み込まれることはなく、不完全なままの状態に置かれる。科学者がやらなければならない、しかも実現可能な文理の統合の一つの道がここにあり、科学をより完全な姿にする重要な営みになると感じている。

多くの科学者が科学の言葉を離れた語りをするようになる時、「文」の方もその場に加わることができるようになるだろう。その意味では、「文」の側からの文理の統合に大きく寄与することになる。このような視点から科学を語るという営みを見直すこと、それこそが科学の普及を実りあるものにし、科学の未来を開くことに繋がるのではないだろうか。


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